読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

ラベル ヒューマン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ヒューマン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

三浦しをん『船を編む』感想(本)


大手出版社の玄武書房、辞書編集部を率いる荒木は、定年間近となり最後の大仕事に傾注していた。その大仕事とは、次代の辞書編集部を担う優秀な人材を探して引き抜くことだった。
辞書を作る仕事は特殊で、監修の松本先生曰く
「気長で、細かい作業を厭わず、言葉に耽溺し、しかし溺れきらず広い視野をも併せ持つ」
者でなければ務まらない。
今の時代にそのような若者が、はたしているのだろうか。
人材探しは難航し、社内の隅々を訪ね歩き若い部下の話も聞いた末、ようやく巡り合ったのが真面目――ではなく馬締(まじめ)光也。
院卒の二十七歳、築数十年の下宿先で本に埋もれて暮らしている変人だった。身だしなみに気を遣わず、恋人なし、会話も下手で営業部ではお荷物扱いされていた不器用な青年は、言葉にかける知識とセンスでは並外れていた。
かくして逸材馬締を得た辞書編集部は、新たな時代の言葉の海を渡る新辞書、『大渡海』の編集に乗り出す。……

先に映画を見て、今の時代には巡り合うことが難しい良質な物語に感動し、いつか原作を読みたいと思っていた。
最近、思い出してようやく読む。
これだけ映画と小説のイメージが大差ない物語もめずらしい。誠実に作られた映画だったのだなと知った。

映画も穏やかだったが小説はさらに繊細で温かい世界観だ。
登場人物も魅力的。恐ろしく美人なのに馬締と同じ変わり者、下宿先の大家タケさんの孫で、板前修業をしている香具矢。
辞書編集部に合わないお調子者ながら、根は優しく誠実な同僚、西岡。
戸惑いつつ入った辞書編集部の仕事に魅力を感じていく新人、岸辺。等々。
いわゆる「キャラが立っている」。マンガ化もされているらしいと知って、なるほどと思う。登場人物同士の会話文、関係が魅力的でマンガにも合っている。
映画を見た時はもっと硬い文体で書かれた小説をイメージしていたが、意外と軽さがあって読みやすい。「ライトノベルか?」と思う人もいそう。文学を期待して読む人には肩透かしかもしれない。
馬締の恋愛ストーリーも描かれていて、こういうところが若い女子人気を集めているのだろうと思った。
恋愛部分の話は苦手な人もいるはず。ただ、馬締の純粋な恋には心をつかまれる。気付けば馬締と一緒に落胆したり驚いたりしている自分がいて、懐かしい想いを味わった。
恋愛は冒険。意外とこれが現実に近いのだ(あの恋文はないが。でも、何かしら痛いことを必ずやっている)。一見普通の人でも、誰もが若い頃に心臓が止まるような恋の冒険をして家族を築いていくのだよな、と思い出す。

辞書作りの描写は地味ではあるが緊迫感がある。
馬締たちの辞書作りへ懸ける情熱、辞書作りという仕事の大変さが細かく描写されていて感動、驚嘆してばかり。私にはハードボイルドの小説より緊迫感があるように思えた。
たとえずっと室内の描写が続いても、言葉の説明ばかり並ぶ地味なページが続いても、志の高い大事業の話ほど緊迫感のあるものはない。
そう、こういう誠実な仕事の話が読みたかった。
お互いがお互いを思いやり、協力し合いながら優しく時が流れていき、日々の仕事へ真剣に向き合っていくうちやがて大事業を成し遂げる。
最後に来た道を振り返る馬締たちの場面に、「やはりこれはライトノベルでは無理だな」と思った。
軽く始まりながら、気付けば人生の重みを味わっている。
ページ数は多くないのに記憶へ刻み込まれる、素晴らしい小説だと思う。

個人的には、言葉の説明の箇所に心躍った。
さいぎょう【西行】 不死身の意味あり。西行が旅の途中で富士山を見ている姿が、絵の題材として好まれた時期があった。『富士見をしている西行さん』から、『西行=不死身』になった。
 等々の話は楽しい。まだ知らないことだらけだ。
それから馬締の住む築数十年の下宿、建物のほとんどを書庫として借り、本に埋もれる生活は「た……たまらない」と悶えた。羨ましい。ああいう部屋に住みたい。(さすがにうちは狭いし床が抜けるので、物理的に「本に埋もれて暮らす」ことはできない)
辞書マニアはもちろん、本好きにもたまらない一冊。

最後のこの箇所には共鳴し、感動した。日頃、分かりやすさを狙って軽い言葉を使ったり、注目を集めようとして刺激的な言葉を使ってしまう自分を反省。もっと言葉を大切にしなければならない。
 けれど、と馬締は思う。先生のすべてが失われたわけではない。言葉があるからこそ、一番大切なものが俺たちのなかに残った。
生命活動が終わっても、肉体が灰となっても、物理的な死を超えてなお、魂は生きつづけることがあるのだと証すもの――、先生の思い出が。
先生のたたずまい、先生の言動。それらを語りあい、記憶をわけあい伝えていくためには、絶対に言葉が必要だ。
馬締はふと、触れたことのないはずの先生の手の感触を、己れの掌に感じた。先生と最後に会った日、病室でついに握ることができなかった。ひんやりと乾いてなめらかだったろう先生の手を。
死者とつながり、まだ生まれ来ぬものたちとつながるために、ひとは言葉を生みだした。
……
俺たちは船を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく船を。



Share:

サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 感想と紹介

 十代の頃の自分の背中を見た。反抗などとは呼べない、ただ壊れそうなだけの背中。



『ライ麦畑でつかまえて』は子供の頃から何度もトライし続けたのだが、ほとんど最初の辺りで挫折してしまっていた。
だから自分にはこの小説が理解出来ないのだ、永久に縁がないのだと思っていた。

だが新訳で読んだら縁がないどころか、がんがん響いた。
かつての自分がここに描き出されているのを知って痛々しくも懐かしかった。

旧訳がいけないというのではない。
ただ自分の育った時代において、あの時代の人々の喋り口調はほとんど外国語に等しいものであったということだ。
それに日本がいちばん元気だった時代の口調はどうもこの小説の主人公に合わない。

どうしても高度経済成長期を連想してしまう会話文からは、あっけらかんと明るく、無秩序だけれども力強く前向きだった時代の人々しか私はイメージ出来ないのだ。そのイメージがあまりに強いものだから、主人公の繊細さを感じ取るまでに至らず挫折してしまったわけだ。

たぶん当時の日本においては『ライ麦畑』は新しい時代の象徴として読まれていたのだろう。それ故に絶大な支持を得たのだろうと想像する。ただ作品内の背景を日本に置き換えれば、この主人公の生きている時代は高度経済成長期よりむしろ80年代から90年代以降に近いのでは、と感じる。
社会全体が上昇気流に乗り、善も悪も混じり合いながら力強く脈動していた時代なのではなく、文化経済が頂点に極まり衰退の陰が見え始めた時代。

十代の若者たちは目標とすべきものを見失い、反抗する対象すら失った。
どこへ行けばいいのか。
何に対して戦えばいいのか。
もやもやと不満は湧いて来るのに、ぶつける壁すら存在しない。

世の中は何もない、空っぽなのだ。
いくら反抗心をぶつけてみても虚空へ吸い込まれるだけ。逃避してもどこにも逃げられない。
ただ痛いだけの季節が絶望として横たわっている。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で描かれているのはそういう十代にとっての危機的な状況、まさに村上春樹が描いてきたところの失われた世界観に近いと思う。
ずっとこの小説は「反抗の旗印」という地位に置かれていたが、実は主人公は反抗など出来てはおらずただ周囲から浮いているだけ。
反抗の衝動も逃避への憧れも、全てが空回り。
それで向かうところを失った不満を棘として全身から出してみるも、その棘はサクサクと自分の心に突き刺さるだけなのだ。

仕方がないことに時代による違いというものはやはりある。
この小説が反抗の旗印として何やら具体的な社会活動に利用された時代は終わり、社会が成熟し衰退しきった今、ようやく個人の思い出に語り掛け始めている。
そしてそうなって初めて小説は不朽なるものになる。

Share:

『ドクター・ヘリオットの猫物語』感想

 クリスマスに小さな包みをいただいた。
何だろうと思って開けてみたら、可愛い文庫本が出てきた。

ちょっと驚いて、歓喜した。
まずプレゼントとして本をいただくことほど嬉しいものはない。
今まで私に小説本を贈ってくれたのは家族だけ。つまり私が芯から本好きであることを知っている人たちだけだった。
今回、初めて友人から小説本をいただいて驚いたし、嬉しかった。本当に私が何を喜ぶか考えてくださった、その思いやりに感動してしまった。
しかも本の内容はクリスマスに合った心温まる物語だった。



内容:イギリスの獣医師、ドクター・ヘリオットが優しい目で綴った猫たちの短編物語、十編。
菓子店の威厳ある猫、決してなつかないと思っていた山猫たちとの感動の交流、何度も死の淵から蘇る猫等々…生き生きと描かれる猫たち。ラストはクリスマスの夜、悲しくも最高の贈り物。

ドクター・ヘリオットが獣医として奮闘するシリーズはイギリスではドラマ化もされたお馴染みの物語らしいが、私は存じ上げず今回初めて読んだ。
登場人物名は変えられているものの、動物についてはおそらく全て著者の実体験に基づく話。
だからこそ、ほのぼのした動物とのふれあい日記に終わらない迫真のストーリーとなっている。
表紙のイラスト絵の可愛らしさに気を抜いていると不意打ちでハラハラさせられ、一気に読まされてしまう。
主人公は獣医なのだから、読者としてもやはり傷付いた猫たちと対面しなければならないし、悲しい出来事もある。手に汗握って読んでいて、良かったなと息をつくこともあれば願いが叶わないこともあるのだ。
猫好きはそれを覚悟して読まなければならない。本物の猫と付き合うのと同じように。

私はこの本を読みながら、自分の猫たちのことも思い出して泣かずにいられなかった。
生まれた頃から猫と一緒だった私には、たくさんの猫との思い出と後悔がある。
いつも思い出すのは忠実だった猫たちと、その見返りに何もしてやれず最期は後悔ばかりだったこと。
猫たちの姿を思い出すと同時にどっと後悔の波に襲われるので、辛くてもう二度と猫は飼わないと誓っているほどだ。
(もうあれ以上に愛せないというほど愛した猫がいたせいもある)

でもヘリオット先生の『猫物語』を読んで、後悔だけではなく、彼ら・彼女らの理知的なところも思い出した。
家中を駆け巡りぐちゃぐちゃにするヤンチャさや、人の予想を裏切り笑いを誘う行動の数々も。

ヘリオット先生の言葉で嬉しかったのはこの言葉、
 私はまた多くのひとが猫について抱いていた奇妙な見方を思い出す。猫は自分勝手な生きもので、自分に都合のいい時しか愛情を示さないとか、犬が見せるいちずな愛は望めないとか、自分だけの興味にかまけていて、まったく打ち解けないなどという見方だ。なんとばかげた見方だろうか!
 イギリスでもこのような猫に対する偏見があるのだと知って驚いたが、名獣医の言葉には勇気づけられる。

私は毎日自分を迎えに来る忠実な猫と暮らしていたし、「家」ではなく私についてきてくれた猫も知っている。
猫ほど相手を見て、一途な忠誠心を発揮する生き物はいない。

彼らのそんな態度を思い出すと、ダメな人間ばかり見て絶望した心が温まり蘇るのを感じる。
私もいつか彼らの物語を書きたいと思うようになった。

2014年12月28日筆


Share:

Translate