読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

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『ガラス玉演戯』より、神様の言葉





『ガラス玉演戯』ヘッセ著、高橋健二訳。復刊ドットコム版より。

久しぶりのヘッセで、まだ冒頭ながら衝撃を受けた箇所。

「ああ、ものごとがわかるようになればいいんですが!」とクネヒトは叫んだ。「何か信じられるような教えがあればいいんですが! 何もかもが互いに矛盾し、互いにかけちがい、どこにも確実さがありません。すべてがこうも解釈できれば、また逆にも解釈できます。世界史全体を発展として、進歩として説明することもでき、同様に世界史の中に衰退と不合理だけを見ることもできます。いったい、真理はないのでしょうか。真に価値ある教えはないのでしょうか」
彼がそんなにはげしく話すのを、名人はまだ聞いたことがなかった。名人は少し歩いてから言った。「真理はあるよ、君。だが、君の求める『教え』、完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え、そんなものはない。君も完全な教えにあこがれてはならない。友よ、それより、君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない。戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる」
P66

全く同感だ。クネヒトの気持ちも分かるし、名人の言葉こそ本当(真実)だと思う。

>それより、君自身の完成にあこがれなさい

これはまるで神(先輩方)からのメッセージのよう。
仰る通り、我々は誰もが個々に、自ずから完成を目指さなければならない。
先を歩く者は道案内の手助けはできるが、ショートカットの救いを与えることはできない。
教本教義、宗教のテキストなどを知識として詰め込めばゴールへ飛べるわけでもなく、まして地上の金で贖えるものは何一つない。

>戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる

この言葉、涙が出て来るな……。
何故だろうな。
自分も今、戦いに臨む気持ちでいるのだろうか。

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ヘッセという硬派な作家

 ヘッセと言えば、『車輪の下』。
学校の課題図書で『車輪の下』を無理やり読まされ、「競争主義の教育は良くないと思いましたぁ」などという教科書のコピーのような読書感想文を書いて表彰された人もいるだろう。

またヘッセは美辞麗句で取り繕ったお上品なだけの詩人、との認識もよく耳にする。
「ヘッセが好き」
と告白すると
「あなたは美しいものが好きなんですね。お上品な方なんですね」
となんとなく引き気味でお世辞を言われることがかなりの高確率である。

繊細で、上品で、美しさだけを追求したナルシストな作家というイメージ。
思想は学校の教師のように単純で説教臭く、ただ「子供たちに競争教育を押し付けてはいけません。みんなで仲良く勉強しましょう」という平和な主張のみ。(平等教育論者と誤解されることさえある)
そんな作家の小説を好んで読む人間も同じ烙印を押されることは、日本では避けられない。

しかしヘルマン・ヘッセという作家に対するこのような認識、ある意味で差別的な意識を持つのは日本人だけらしい。
海外においては『車輪の下』はあまり有名な作品とは言えず、それよりも『デミアン』や『荒野のおおかみ』など日本ではあまり知られていない作品が絶大な支持を受けているという。

では何故、日本人にとっては聞いたこともないような小説が世界中で多くのファンを獲得しているのか。
それはこれらの作品が彼自身の戦いの軌跡であり、易きに流れる社会への宣戦布告であり、一人きりの戦いを強いられている全ての孤独者にとっての支え手であるからだ。

*
たとえば、『デミアン』という作品がある。
第一次世界大戦後、壮絶な精神の苦悩を経て書かれたこの小説は始め偽名で出版されたという。
戦争に突き進んだ祖国へ対する批判が含まれていたためだ。

祖国から疎外され、孤独となりながらも我が道を行く。自己の信じるものへ突き進む。
「自己として生きるためには一度死に、新しく生まれ直す覚悟が必要」。
「自分らしく生きられないなら(詩人として生きられないなら)、死を選ぶ」。
抑え付ける者に徹底して抗い、自己を追求するため戦い続ける彼の姿勢は十代の頃から変わらなかった。
たとえ圧力が襲ってきて精神が破壊する寸前まで叩きのめされても、戦い抜いて自己を貫いた。
さらに第二次大戦に至っては当時祖国で絶大な支持を受けていたヒトラーに対し批判の声を上げ、戦争に反対し続けた。(参照:『ヘッセからの手紙』)

この多分に反骨的な性質が日本で知られざるヘルマン・ヘッセという人物かつ作品だ。
根が無頼、硬派である。
よく読めば初期の作品にも硬派な精神は表れているし、『車輪の下』にも十代の頃の過激過ぎる反骨性が投影されているのだが、順序としてそちらを先に読むと分かりづらいかもしれない。
“作風が変わった”とされる『デミアン』以降の少しダークな作品を読めば、よほどのバカでない限り彼の目的が「美しさ」のみを追い求めることではなかったと気付くはずだ。

*
コリン・ウィルソンによって≪アウトサイダー≫の名を与えられたヘッセは、本質において社会に馴染まない人間と言える。

詩情あふれる描写からも垣間見えるように、繊細で過敏過ぎる本質を持つことは否めない。
繊細で過敏だったために社会から外れ壮絶な精神の戦いへ放り込まれた。(みずから突き進んだ)
そして戦いを経、強靭な精神を獲得した。

もし彼の作品が美しく見えるのなら、それは戦いを超えた地点の静けさ故だろう。
苦悩で磨き上げられたヘッセの言葉は熱く強い。
ストーリー性のみ求める人はこのような文学をはなからバカにするだろうし、現代の小説技巧の観点から見て確かにほころびが多いと言えるかもしれない。
だが技巧だけの張りぼて小説とは比べものにならない現実の救済力を持つ。
何故なら、ヘッセ自身が言うことと行いを伴にしていた「生きた作品」だからだ。
世界中の若者たちを救済してきたヘッセの言葉は今でも同等の力を持つと信じられる。

たった今、社会から疎外され孤独にあえいでいる若い人がいたら、ぜひ『車輪の下』を置いて他の硬派な作品に触れて欲しい。
その後にまた『車輪の下』へ戻れば、美しく繊細なだけに見えた作品からも生きる糧となる強いメッセージを受け取ることが出来るはず。


個人的な話。

私がヘルマン・ヘッセに痺れたのは『デミアン』が最初でした。

それまでは子供時代に学校の課題図書で読まされた『車輪の下』しか知らず、他の多くの人々と同じようなイメージを抱きあまり興味を持つことは出来なかったものです。
『デミアン』を読み衝撃に打たれ、一行一行を涙なくしては読めなかった時、心から“しまった”と思いました。
この導き手を知らずに長い孤独な時を過ごしてしまったこと。
浅薄で偏った文学教育を鵜呑みにし、彼を誤解してしまったこと等をつくづく悔いました。

ヘッセが日本において『車輪の下』の作家というイメージしか持たれずに誤解されていることは、長年ヘッセファンたちが嘆いているところです。
文学そのものに対する誤解、差別意識が日本では根強いことも相まってますますヘッセは敬遠される傾向にあるようです。
“知る人ぞ知る”でも良いから一人でも多くの人がヘッセからの手紙を受け取って欲しいと願い、このページを書きました。
個々の作品の紹介はまた整理して追々載せていきますので、良かったら読んでみてください。

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