中学の頃から「この人の薦めてくれる本にハズレはない」と思い、尊敬している読書好きの友人が
「私、村上春樹だけは何が良いのか理解出来ないんだけど。ぜんぜん意味分かんない」
と言っていた。
ああ、やっぱりこの人は真実本好きの正直者だと知って嬉しかった。
“裸の王様”が裸だと指差して言える人は稀有だ。
村上春樹を「裸の王様」と言っているわけではないですよ。
ただ誰でも好き嫌いはあるはずなのに、春樹だけはどうして日本中の誰もが手放しで「面白い」「大好き」と絶賛するのか。少し不思議に思いまして。
それって本心なんですか?
あなたは、ほんとうに心から村上春樹を「面白い」と思っていますか。
*
『海辺のカフカ』は自殺小説ではないかと思っていた。
「自分の小説は空っぽ!」
とカミングアウトして筆を絶つ作家の。
けれどそうはならなかった。
中身を公表しない小説が、204万部(2009年)という大ベストセラーを達成した世間の狂乱を見て、村上春樹の真の狙いを知った。
この人は小説と心中するつもりでいる。
作家の名だけで「小説」という箱が売れるとはどういうことか。
もう、誰も小説を読んでいないということだ。
小説は要らないということだ。
小説そのものが滅んでいるということだ。
この現実を行動で示して見せたことで、村上春樹は小説を処刑した。
それは当然、自身の作家としての自殺行為でもある。
作家として創作家として、「名前だけで売れる・中身なんか本当には誰も見ていない」という扱いは最高に屈辱的。並みの作家なら生きてなどいられない。
この屈辱的な自らの状況を逆手に取り、屈辱を“小説そのもの”になすりつけることで小説を処刑しようとしている。
“空っぽ”な小説に釣られた“空っぽ”たちが、続々と彼の後をついて行く。
そして他のあまたの小説たちを巻き添えにして、海の底に沈んで行こうとしている……、
ハーメルンの笛吹きかね。
風の歌を聴け、
「ほうらね。小説なんて、どうでもいいでしょ。空っぽに人は食いつくんだよ。しょせんみんな、頭の中は空っぽだもんね。だから死ね、死ね死ね小説」
※以上、私の個人的な空想
*
小森陽一氏は『村上春樹論』で、『海辺のカフカ』を処刑小説だと言っている。
村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

小森氏は東大教授、漱石などの論文を書いている文学研究者。
長年にわたり「小説」と向き合うことで培われた信念から、村上春樹の小説を
「人類への裏切り」 と断言する。
村上春樹は小説を書きながら小説を否定し、「言葉」そのものを全否定している。
つまり、処刑しようとしている。
これが
「言葉を獲得して以来、人類が模索し続けた」
自らの傷を語り、自らの頭で考えようとする人類の努力を無きものにしようとする裏切りであり、犯罪的行為でもあると言う。
引用、
その通りだと思う。
何故に極端かというと、村上春樹自身はここまでの罪を自分が犯していることを自覚していないだろうからだ。
つまり、村上春樹は確信犯ではない。(小森先生が訴追する罪において)
小森氏の指摘は、「村上春樹の小説が及ぼす影響」として非常に的確であり正しいと思う。 私も同意・共感する。
村上春樹の小説を読みモヤモヤしていた腹立たしさを、よくここまで明解に示してくださったと感謝している。批判しようとしてもここまでの頭脳がないことが悔しい。
が、小森氏の指摘はあくまでも結果を見てのものと言える。
結果としてとんでもない化学反応を起こさせた物質の責任が、その物質を生み出した者にあるかと言えば疑問だ。
その者は結果を予想していなかっただろうからだ。
村上春樹が「確信犯」であるのは、ハーメルンの笛吹きを気取った時点までのことだろうと思う。
村上氏の狙いはただひたすら、「小説(文学)の死」であり、「表現として言葉を選ぶことの否定」だけだったのではないか。
たとえばレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』を村上氏は繰り返し読み、「小説はこうであるべきだ」と思ったという。
「こうであるべきだ」と彼が言うのは、チャンドラーのやった情景描写の少ない簡素な表現だったり、感情を抑えた乾いた表現だったりのこと。
これを模倣したかった。
どちらの作家も村上氏が青少年時代に深く傾倒していたはずで、何度も読んでいたはずなのだから、この発言には心底驚いてしまった。チャンドラーの小説を一読すれば、もうその始めの時点で、フィッツジェラルドへの愛が(うっとおしいほど)匂い立っていることに気付くだろうに。
言わばその小説に対する不感症なところが、村上氏の小説信念を形成し、「表現を逸らす」等の独特の小説スタイルを作り上げていったのでは、と私は勝手に推測している。
たとえば諏訪哲史『アサッテの人』などは村上春樹になぞらえて読むとはまる。

ではこのアサッテの人、村上春樹はどういう流れから産まれたのだろう。
かつて文学は
「面白くあってはならないもの」だった。
ストーリーがあってはならない、落ち(伏線解消)すらあってはならない。
小説とは「落ちなし」の「読者にとって不可解な」ものだけが崇められるべきではない。
今、太宰や三島の系譜はアニメ・コミックの世界で花開いている、と思う。
太宰や三島の死後、彼らの小説は「華美な表現に走った」下等な俗物、とただ蔑む傾向が強まった。
村上春樹の思惑は実現し、文学は死んだ。
代わりに本はもっとマニアックな文化になっていくのではないかと期待する。
真性の本好きなんか物好きの変態だ。本コレクションは一部のマニアの悪趣味であるはずだ。
「私、村上春樹だけは何が良いのか理解出来ないんだけど。ぜんぜん意味分かんない」
と言っていた。
ああ、やっぱりこの人は真実本好きの正直者だと知って嬉しかった。
“裸の王様”が裸だと指差して言える人は稀有だ。
村上春樹を「裸の王様」と言っているわけではないですよ。
ただ誰でも好き嫌いはあるはずなのに、春樹だけはどうして日本中の誰もが手放しで「面白い」「大好き」と絶賛するのか。少し不思議に思いまして。
それって本心なんですか?
あなたは、ほんとうに心から村上春樹を「面白い」と思っていますか。
*
『海辺のカフカ』は自殺小説ではないかと思っていた。
「自分の小説は空っぽ!」
とカミングアウトして筆を絶つ作家の。
けれどそうはならなかった。
中身を公表しない小説が、204万部(2009年)という大ベストセラーを達成した世間の狂乱を見て、村上春樹の真の狙いを知った。
この人は小説と心中するつもりでいる。
作家の名だけで「小説」という箱が売れるとはどういうことか。
もう、誰も小説を読んでいないということだ。
小説は要らないということだ。
小説そのものが滅んでいるということだ。
この現実を行動で示して見せたことで、村上春樹は小説を処刑した。
それは当然、自身の作家としての自殺行為でもある。
作家として創作家として、「名前だけで売れる・中身なんか本当には誰も見ていない」という扱いは最高に屈辱的。並みの作家なら生きてなどいられない。
この屈辱的な自らの状況を逆手に取り、屈辱を“小説そのもの”になすりつけることで小説を処刑しようとしている。
“空っぽ”な小説に釣られた“空っぽ”たちが、続々と彼の後をついて行く。
そして他のあまたの小説たちを巻き添えにして、海の底に沈んで行こうとしている……、
ハーメルンの笛吹きかね。
風の歌を聴け、
「ほうらね。小説なんて、どうでもいいでしょ。空っぽに人は食いつくんだよ。しょせんみんな、頭の中は空っぽだもんね。だから死ね、死ね死ね小説」
※以上、私の個人的な空想
*
小森陽一氏は『村上春樹論』で、『海辺のカフカ』を処刑小説だと言っている。
村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

小森氏は東大教授、漱石などの論文を書いている文学研究者。
長年にわたり「小説」と向き合うことで培われた信念から、村上春樹の小説を
「人類への裏切り」 と断言する。
村上春樹は小説を書きながら小説を否定し、「言葉」そのものを全否定している。
つまり、処刑しようとしている。
これが
「言葉を獲得して以来、人類が模索し続けた」
自らの傷を語り、自らの頭で考えようとする人類の努力を無きものにしようとする裏切りであり、犯罪的行為でもあると言う。
引用、
しかし、「カラス」と呼ばれる少年」の批判は、なぜ近代国民国家によって遂行される組織的暴力と「姉なるものを犯」すことが無媒介的に結合されてしまうかについての批判はなされておらず、むしろ「戦いというのは一種の完全生物」という言い方によって、<いたしかたのないこと>であるという印象を強化する役割を担っているのです。
私は繰り返し「無媒介的結合」を批判してきました。なぜでしょうか。それは論理的かつ合理的な原因と結果をめぐる思考を停止させる働きがあるからです。つまり『海辺のカフカ』という小説は、小説テクストを読み進める読者を思考停止させる機能を持っており、因果論的思考そのものを処刑する企てなのです。そして、原因と結果の関係を考える人間の思考能力が、言葉を操る生きものである人間の根幹にかかわるからこそ批判しているのです。
P160-161
「平安女流文学」における「生き霊」の物語機能は、なによりも、その女性の抑圧された「精神」を言語化してつきつけるところにあります…(略)… 夢幻能における死霊の言葉もやはり生きているときに口にすることのできなかった、あるいは不条理な死を強いられたことに対する恨みと告発の言葉を運んできます。
けれども『海辺のカフカ』における佐伯さんの「生き霊」は、一切言葉を発しません。カフカ少年が「佐伯さん」と三度呼びかけても答えることはありません。そして言葉を交わすことをしないで、…(略、何だか分からないまま恋に堕ちる)…
このカフカ少年の「恋」の在り方そのものが佐伯さんという「女を風景の一部に還元」していくプロセスなのです。
P142-143
私たち生き延びた者たちには、この呼びかけと問いかけへの応答責任があります。精神的外傷を<解離>によってなかったことにする記憶の消去は、死者に対する応答責任の放棄でしかありません。言葉を操る生きものとしての人間は、神話、伝承、昔話、物語、そして小説によって、死者との応答をしてきたのです。『海辺のカフカ』は、その歴史全体に対する裏切りなのです。「文学」に対する情熱を感じる点で素晴らしい文なので、長くなってしまったが引用させていただきました。
逆に、言葉を操る生きものとして、他者への共感を創り出していきたいと思うのなら、私たちは怯えることなく、精神的外傷と繰り返し向かい合いながら、死者たちとの対話を持続していくべきでしょう。死者と十分に対話してきた者であれば、生きている他者と向かい合って交わすことのできる、豊かな言葉を持ちうるはずです。豊かな言葉は、死者と対話しつづけてきた記憶の総体から産まれ出てくるのです。漢字文化圏における「文学」という二字熟語は、漢字で書かれた死者たちの言葉すべてについての学問のことです。二一世紀こそ、「文学」の時代として開いていくべきなのだと思います。
P276-7
最後の引用箇所など涙が出て来る。
「他者への共感を創り出していきたいと思うのなら、私たちは怯えることなく、精神的外傷と繰り返し向かい合いながら、死者たちとの対話を持続していくべきでしょう」その通りだと思う。
地上の片隅の片隅で、この先生の願いを受け継ぐ小さな一人でありたい。
ただ“村上春樹の罪”の指摘に関しては、極端だなという印象を否めなかった。何故に極端かというと、村上春樹自身はここまでの罪を自分が犯していることを自覚していないだろうからだ。
つまり、村上春樹は確信犯ではない。(小森先生が訴追する罪において)
小森氏の指摘は、「村上春樹の小説が及ぼす影響」として非常に的確であり正しいと思う。 私も同意・共感する。
村上春樹の小説を読みモヤモヤしていた腹立たしさを、よくここまで明解に示してくださったと感謝している。批判しようとしてもここまでの頭脳がないことが悔しい。
が、小森氏の指摘はあくまでも結果を見てのものと言える。
結果としてとんでもない化学反応を起こさせた物質の責任が、その物質を生み出した者にあるかと言えば疑問だ。
その者は結果を予想していなかっただろうからだ。
村上春樹が「確信犯」であるのは、ハーメルンの笛吹きを気取った時点までのことだろうと思う。
村上氏の狙いはただひたすら、「小説(文学)の死」であり、「表現として言葉を選ぶことの否定」だけだったのではないか。
たとえばレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』を村上氏は繰り返し読み、「小説はこうであるべきだ」と思ったという。
「こうであるべきだ」と彼が言うのは、チャンドラーのやった情景描写の少ない簡素な表現だったり、感情を抑えた乾いた表現だったりのこと。
これを模倣したかった。
模倣することで、ウェットで華美な日本文学(たとえば太宰や三島)を否定して滅ぼしたかったのでは?
……しかしこの前提に大きな誤解があって、村上氏はチャンドラーの小説を本当に「表現を逸らす小説」・「感情のない乾いた世界」と受け取ったのだろうが、実際のチャンドラーは猛然たる激しい感情のもとに小説を書いていたはずである。激し過ぎるからこそ逆に抑制をきかせるしかなかったという、熱いマグマが小説の向こうに垣間見える。“空っぽ”どころか、“中身が詰まり過ぎて溢れ出てしまっている”小説。それはもう露骨なほどに。むしろチャンドラーはウェットな人だと思う、ウェット過剰過ぎて「ウザイ」と中学生に言われそうなフィッツジェラルドに匹敵するくらい。
誤解があった証拠に、村上氏は「チャンドラーの小説にフィッツジェラルドへの敬慕があったことに長年気付かなかった」
と仰っていた。どちらの作家も村上氏が青少年時代に深く傾倒していたはずで、何度も読んでいたはずなのだから、この発言には心底驚いてしまった。チャンドラーの小説を一読すれば、もうその始めの時点で、フィッツジェラルドへの愛が(うっとおしいほど)匂い立っていることに気付くだろうに。
言わばその小説に対する不感症なところが、村上氏の小説信念を形成し、「表現を逸らす」等の独特の小説スタイルを作り上げていったのでは、と私は勝手に推測している。
たとえば諏訪哲史『アサッテの人』などは村上春樹になぞらえて読むとはまる。

“アサッテ”、つまり逸らした表現だけに囚われてしまった人の姿を描いた小説。
まさに村上春樹はこの「アサッテの人」だと思った。やりたいことはわかるのだが、滑稽で、妙に哀切がある。ではこのアサッテの人、村上春樹はどういう流れから産まれたのだろう。
かつて文学は
「面白くあってはならないもの」だった。
ストーリーがあってはならない、落ち(伏線解消)すらあってはならない。
そんなストーリーなし・落ちなしの文学に挑む姿勢を見せたのが、太宰治や三島由紀夫だったと思う。
彼らのウェットで華美な表現は、読者に対する「分かりやすさ」を追求したもの。言ってみれば“俗っぽい”、お涙ちょうだいの大衆文芸スレスレのところで表現し、なおかつ文学に踏みとどまったのは「文学」に対する戦いを試みたからだ。小説とは「落ちなし」の「読者にとって不可解な」ものだけが崇められるべきではない。
逆に「ストーリーだけで自分なし」の小説であってもならない。
その中間に誇り高く居座る小説があっていいではないか、と。今、太宰や三島の系譜はアニメ・コミックの世界で花開いている、と思う。
分かりやすさと面白さを追求しつつ、自らの想いも篭める……という現代漫画を書いている人たちは、「文学」に挑んだ作家たちの正統な後継者と言える。
しかし、小説の世界では事情が違った。太宰や三島の死後、彼らの小説は「華美な表現に走った」下等な俗物、とただ蔑む傾向が強まった。
そして表現の部分だけ見据えて、彼らの華美を否定するためだけに「表現そのものの否定」・「言葉の否定」が行われた。
その流れが産んだ作家がまさに村上春樹、ではないかと私は考えるのだが。 〔ついでに。文学とは逆方向の、極端なストーリー主義に陥ったエンターテイメント信奉者もいて、この宗教の信者たちは自らの想いや情熱を創作に篭めることを徹底的に禁じた。で、無味乾燥なあらすじだけの、ケータイ小説みたいなエンターテイメントが大量生産されていく結果に。……どっちにしろ極端なことで。どうして漫画やアニメみたいに“どっちもアリじゃん”てなれないんだ?〕
村上春樹の思惑は実現し、文学は死んだ。
「空っぽ」の小説だけがベストセラー、というこの現実は出版界の死そのもの。
これでもう出版は滅ぶだろう。ポピュラーな文化としては。代わりに本はもっとマニアックな文化になっていくのではないかと期待する。
たとえば爬虫類マニアや廃墟マニアみたいに、限定された物好きだけが手に取るみたいな。
それが本来の趣味だと思うんですがね。真性の本好きなんか物好きの変態だ。本コレクションは一部のマニアの悪趣味であるはずだ。
それなのにこんなに、どいつもこいつも「本を読め・本を読め」と読書を礼賛している状態が異常では。
ただ「頭よさげに見られたくて」本を読むなんて人が存在すること自体、終わっていたんですこのジャンル。 ともかく小説なんかに興味ないのに、村上春樹だけは流行に乗って買うという「空っぽ」な人たちは、ぜひハーメルンの笛に連れられてどこかへ消えて欲しい。(←こういう人たちは本当の村上春樹ファンにも迷惑だっただろう。もしかしたら村上氏自身も迷惑がっていて、今回のパフォーマンスでこの人たちを世間に露見したかっただけかもしれない)
“終りは始まり”。 今までの小説が滅んだ後こそ真の本好きの時代。になるといいんですが。