読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

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反グローバリズムの本流『グローバリズムが世界を滅ぼす』(中野剛志、エマニュエル・トッド他)

トランプ米前大統領の登場により多くの人が感化された反グローバリズム。

その遥か以前にグローバリズムへの懸念を唱えていた学者たちによる、国際シンポジウムでの対談を収録したのが本書。

2014年第一刷。「トランプ前」の古い本だからこそ有用と思う。

陰謀論ではない反グローバリズムの主張”を学ぶためにとても分かりやすい一般書だった。“新自由主義”って何だったのか? など、ここ二十年の政治経済の疑問に答える入門書としても良いと思う。

 

本の紹介(Amazonより):

国内外の気鋭の論者が徹底討論

世界的なデフレ不況下での自由貿易と規制緩和は、解決策となるどころか、経済危機をさらに悪化させるだけであることを明らかにする!

長びく世界的不況を前にして、各国では「規制緩和」「改革」「自由貿易」といった経済のグローバリズムが、解決策として唱えられています。「雇用を守り、産業を保護するのは間違いで、規制撤廃こそ唯一の成長戦略であり、経済のグローバル化は歴史の必然だ」。しかし本当にそうでしょうか。グローバリズムこそ、世界的な需要不足(供給過剰)を引き起こし、世界的不況の「原因」となっているのではないか。「打開策」であるどころか、各国に、経済危機、格差拡大、社会崩壊をもたらしているのではないか――これが本書の執筆者たちの共通認識です。もしこれが正しければ、グローバリズムのさらなる推進は、愚策でしかありません。さらなる経済危機、格差拡大、社会崩壊をもたらし、世界の現状をさらに悪化させるだけだからです。にもかかわらず、政界、官界、財界、そしてジャーナリズムやアカデミズムの世界でも、「グローバリズムは正しく、また必然である」といまだ根強く信じられています。それはなぜなのか。グローバリズムによる世界の破滅を防ぐには、「政策」を実行する以前に、エリート層の強固なグローバリズム「信仰」を破壊しなければなりません。本書では、歴史人口学者、エマニュエル・トッド氏、経済学者のハジュン・チャン氏を始めとする国内外を代表する六人の識者が、それぞれの視点から、グローバリズム信仰の誤謬を明らかにし、こうした信仰の原因にまで切り込みます。


 「反グロ」はもともと左翼の主張

良い機会だからここで自分が近年眺めてきたグローバリズムの流れをメモしておく。

 

まず基本から振り返ると、本来「反グローバリズム」とは左翼すなわち共産主義者たちの主張だった。

2000年代~2015年頃までは国際的な会議場の前で左翼集団が「反グロ」を叫ぶデモをし、暴れていたことを記憶しているだろう。

たとえばこの対談で主要な意見を述べているフランスの学者エマニュエル・トッド氏も元“極左”。 

(ゆえに、トッド氏は歴史学者でありながら共産主義勢力について注意深く触れないように話をしている。現代の左翼は共産主義者が歴史上存在しなかったかのように話をしたがる。隠れて事を成すべきとの方針なのだろう)

 

左翼が反グローバリズムを掲げてきたのは共産主義の表向きの構造上当然のことだ。自由経済と個人主義は共産主義の目標、「共産党による私財吸い上げ・絶対的な独裁統治による再分配」に対立するのだから。

反ナチス=アンティファにせよ、反ユダヤ(陰謀論)および反アングロサクソンにせよ、反資本主義にせよ、何らかの大きな権力に世界が支配されているという妄想を起点として「反」を掲げるのが左翼というもの。

馬渕睦夫氏などもおそらくその界隈の旗手だから、彼のユダヤ陰謀論を鵜呑みにしてはいけない。虚7割・実3割くらい(たいてい導入部だけ事実を述べ後半で大きな嘘へ誘導するパターン)として聞き流すように。

 

保守が「反グロ」を叫ぶ捻じれ現象…

この流れが逆転し、保守が反グロを叫んで左翼がグロ礼賛を叫ぶという捻じれ現象が見え始めたのが2016年のこと。

トランプ氏という保守党から出馬し当選した大統領が、反グローバリズムの旗を掲げたためだ。

以降、トランプ氏を熱狂的に支持する米国の保守派が一気に反グロ主義者へと転向した。そして対立する左翼は平然と宗旨替えしてグローバリストになった。

 

こうして2000年代までの

 

右派=自由主義・個人主義・多様性尊重・グローバリズムに賛同

左翼=共産主義・全体主義・多様性否定・反グローバリズム


という構図が捻じれ破壊されてしまい、それぞれ

 

右派=反個人主義・反多様性・反グローバリズム・ナショナリズム

左翼=自由主義(偽装)・多様性尊重(偽装)・グローバリズム


を標ぼうする流れができた。

なお左翼は「偽装」であること注意。あくまでも反トランプのために(そして反キリスト教の工作のために)自由主義や多様性という嘘の看板を掲げているだけだ。ただし後で書くようにグローバリズムだけは、深層の本性を現したことになる。


おそらくこの辺りから多くの一般人は右往左往して訳ワカメになっていることだろう。

特に日本で、過激なナショナリストというイメージだけでトランプ氏に憧れ熱狂しただけの自称“保守”などは、訳が分からなくなり過ぎて左翼に誘導され、ユダヤ・ロスチャイルド陰謀論に走った。

(以下、強権者のイメージに熱狂しがちな日本人は恥ずかしい…という話は別件なのでカット)

 

保守が保護主義を掲げるのは、実は正常化

ともかくもトランプ氏の登場時期から、日本人だけではなく世界の保守が「自由主義」という共通目標を失い空中分解したのは確か。

トランプ氏を批判する人々のうち、左翼ではない識者たちはこの点を責めているのだと思われる。

(トランプ氏を嫌っていた2018年までの私もそう。また彼の民族ヘイト発言は生理的に嫌悪した)

このようにトランプ氏が保守を混乱させ、足並みを崩させた責任は重いと言える。


ただし思えば保守がナショナリズム、保護主義を掲げるのは本来当然のこと。国を守る意識がある故にこそ“保守”なのだから。

これまでの保守は反共の都合から自由主義経済を掲げてきた側面があることを否定できないだろう。

つまりトランプ氏のイデオロギーは、単に保守が正しい位置へ戻ることを手助けしたに過ぎないとも言える。

 

いっぽうの左翼側にしても、グローバリズムによって実現される「一つの世界・一つの価値観」は彼らの本性が求めるユートピアだと言える。

共産主義(社会主義)は表面的には財産分配をするための平等思想を装うが、深層の構造においては世界人類を一つの思想に従わせることを目的とした全体主義プログラム

であるのだから、本質的な意味で共産主義はグローバリズムとしか言えない。プログラムの原型であるキリスト教がそうであったように。

これまでは保守が推進してきた自由主義経済へのアンチテーゼのため、やむなく「反グロ」を掲げてきた共産主義者たちであった。だがここへ来てようやく本来の位置に戻ることができ「グローバリズムばんざい」を叫ぶことができるようになったのでは?


まとめると、右派は本来の伝統保守ナショナリストへ戻り、左翼はいよいよ全体主義グローバリストの本性を顕した

これが「トランプ後」の状況。


本書の感想と引用

まだこんな未来が訪れるようには見えなかった2013年に、本書収録の対談が行われたことが興味深い。

特に面白いのは、エマニュエル・トッド氏ではなく日本人の官僚などが保守的な発想からグローバリズムを批判していたことだ。

これはしごくまっとうな話。

 

さらに本書の中心となる主張、グローバリズムの本質は全体主義であり民主主義を衰退させ、国家を破壊し、世界平和を招くどころか戦争を起こす元凶となる――これは多くの人の常識を覆す発想だろう。

あくまでも直感的・体感的な話なのではあるが、私はこれを正論と思う。

 

特に瞠目した主張を引用しておく。

 

 お金で何もかも片を付けようとする社会では、民主主義の力が弱まります。国家の価値、家族の価値が溶けていき、文化や伝統、美徳や倫理が蒸発していくのです。結果として文明の低俗化が進んでいくのは物の道理です。

P32 本書中、藤井聡『トータリズム(全体主義)としてのグローバリズム』


 では、一%(支配者)の「外部(全体主義に抗って崩壊させる者)」はどこかというと、九九%です。九九%の弱者たち、ならびにエリートの中でも「体制外」 にいる心ある人たちです。その九九%の人たちは、グローバル化全体主義の存在を知った上で何をすればいいのでしょうか。

 ここでは結論だけ述べますが、九九%の人々の足元にある地域の文化、あるいは家族の構造、こういうものをしっかり見据えた上でコミュニティを大事にしていかねばならない。

 そして、コミュニティの一番大きなサイズはネーション(国家)ですから、ナショナリズムを重視する必要があります。また冒頭でグローバリズムとインターナショナリズムは一見似てはいるが全く違うものだと述べましたが、ナショナリズムが互いに協力し合うインターナショナリズムを重視しなければなりません。

 P68 同上


引用箇所の感想…

P32について。

これは共産主義が目指し行っている、文化伝統破壊と同じ。人の文化と倫理観を破壊し思考を奪うことで抵抗力を奪い、家畜化する。

共産主義もグローバル資本主義も、本質構造が同じという証だろう。

なお、藤井聡氏は右派、保守論客とされる。自民党のグローバリズム政策に呆れ反自民ではある。

 

P68、激しく同意。

 

一点この本のなかで個人主義を「アトム化」と決めつけ否定しているのはいかがなものかと思った。核家族化や共通文化を失ったことによる孤立感はかえって全体主義を招く、ということは確かにあるが。

個人性を否定すればやはり全体主義ディストピアとなる。個人が独立した考えを持ち、他者と絆で結び付き合うのが健全な社会だろう。

個人も国と同じ。各国が独立国家として健全なナショナリズムを持ち、文化伝統を保護しながら他国と協調し合う世界を構築していかなければならない。

これこそ個と個が自由意志を保って友情を結び合う、“水瓶座時代”らしい未来と言えるのではないだろうか。


 

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『よみがえる古代思想』プラトンの目指した政治術とは

 

『よみがえる古代思想』佐々木毅著(講談社)より引用。感想は記事下。
 

引用文

 アテナイの有名な政治家のペリクレス、ペルシャ戦争の英雄テミストクレスなどは、プラトンによれば、どうにもならない迎合屋になります。アテナイのもっとも誇りとする政治家たちを、プラトンはそれこそぼろくそに批判するわけです。彼らは人々に一時的な快楽を与えることや、欲望を一時的に満足させることにこれ努めて、本当の政治とは何をなすべきかをまったく知らなかったというのが、プラトンの見方です。なぜかというと、彼らは哲学をしなかったからである。単純化していえば、ソクラテス流の哲学をしなかったという点をプラトンは指摘します。

 それでは、本当の政治家とは何か。人々の魂を正しい方向へ導くのが政治家というものだというわけです。確かに船をつくったり、橋をつくったり、道をつくったりしても、魂

――P80

 

を正しい方向へ導かないだろうということは想像がつくわけで、これは戦後の日本においては広く知られた真理になっています。

 プラトンは、政治術という言葉を使っています。政治は技術であるというのが彼の信念です。民主制のように、だれもがみんな平等に政治に参加するが、だれも決定的な術(アート)をマスターしておらず、平等な中でいろいろと討論しながら政治をするという議論に対して、彼は技術(テクネー)というカテゴリーで対決するわけです。政治も技術である、と。

 彼が好んで用いるのは医者との対比で、医術は非常に専門的な術ですが、政治にも専門的な術があるというわけです。その専門的な術としての政治術の核心こそ、ソクラテス流にいえば「人間の魂に配慮する」こと、つまり人間の魂をよりよくするということを目標にした活動であるわけです。先ほどの言葉でいえば、人間の魂の中にある神聖なる要素を養い育てて、人間が本来あるべき姿になるようにする術ということになります。

―― P81

 しかしながら、プラトンは、ちょうど医術が人間の身体を正しい状態に持っていくように、人間の魂を正しい状態に持っていくのが政治術だとし、医術と政治術とを並列的に考えている。片方は肉体、片方は魂が対象というふうに考えており、これが政治を考えるときの彼の議論の基本となっています。

 ペリクレスその他がだめだったのは、…(略)…哲学的にいえば、一種の仮象の世界、真理の世界とは異なる見せかけの世界に人々をまどろませておいて、人々の支持を獲得するということです。それは政治の世界ではよく行われることであって、だから迎合してはいけないという話がすぐ出てくるわけです。

 人間の肉体や金銭、名誉といった価値に人々が関心を向けて、そこに快楽を見出すような世界から、本来ある魂に人間の価値を転倒させていくのが政治の仕事であるといっても

―― P82

いいわけで、これはソクラテスが既にいったことを新しい形で翻訳したものです。ですから、その意味で、放埓ではなく秩序ある魂の持ち主へと人間を導いていくのが、政治活動の重要なキーポイントということになります。これを除いては政治という活動は考えられない。大衆の欲望に召使のように奉仕することがあってはならないし、ましてや、人を傷つけることをもって誇りとするような専制君主などの魂は最悪の状態にあり、もっとも堕落している。そういう専制君主の更生の道は、まず人によって処罰されることであるといっています。ですから、処罰というか、一種の権力による統制、規制は、人間の魂を正しい方向へ導いていくための重要な手段になっていくとも考えられるわけです。 

――P83

ただ、彼にとってポリスは決して不滅ではなくて、不滅なのは人間の魂だけなのだという点は決定的に重要です。ポリスに魂はないわけです。確かに個人は国家によっていろいろと規制は受けるだろうけれども、国家が不滅であって、個人はあたかもそれに対してか弱い虫のようなものだという議論ではない。ここに二十世紀におけるプラトン理解の基本的な問題があった。その意味ではプラトンを国家主義者や民族至上主義者に仕立て上げたり、そういう前提で彼を批判するのは基本的に間違っているのです。

―― P94


 ブログ筆者の感想

やはりプラトン思想は東洋で言うところの儒家+法家という感じ。

哲人王≒徳王。(ただし東洋の徳王は教育さえあれば誰でもなれるものではなく資質こそ重要となるが)

 

プラトンの目指した“政治術”は東洋にあった。

私もおそらくそれ故に東洋思想に共鳴したのだと思う。無意識では、「探していた術がここにあった」と感じていたようだ。

プラトンが医術と政治術を同等に考えていたという解釈も面白い。共鳴する。ただし私はプラトン先生より、もう少し人々の本来備わった自然治癒力を信じるが。 治療は最小限、手術のあとは生活習慣を改善するアドバイス程度で良いと考える。それでもプロの医術を完全否定し、民間療法だけを正義と唱える極端な人たちとは対立するのかもしれない。

 

人々のため、誰もが幸せに生きていける社会体制とはどのようなものか考え続けたプラトン。

それなのにキリスト教徒や近現代の反哲学者など、権力欲の塊である悪魔たちによって捻じ曲げられ全体主義の教科書として悪用されたのは不幸極まる。

悪い者たちに名を利用されたのはプラトンが西欧において圧倒の人気があったからなのだろうが。

「だから思想は書いてはならないのだ」とソクラテスが苦笑いしていそう。

ところが、書かずに行動だけで示そうと考えた諸葛亮はこれだけ悪用されている。書かなければ誤解されたまま、未来の賢い人たちにも本心が届かず「実際はどうだったのだろう?」と首を傾げられて終わり。…もちろん最もレベルの高いマニアは本心を見抜いている(だから「見ている人はいる」と言える)のだが、本人の書いた文で裏付ける手段がないのは気の毒なことだと思う。

書いても書かなくても悪魔たちは自分の欲望のために思想を捻じ曲げ、悪用するのだ。

だとすればせめて賢い人たちの推測が裏付けられるように、本心を文として残しておくべきではないだろうか。

今ここでプラトン本心の推測を私が裏付けられるのも、彼が文を残してくれたからだ。

(上の引用文は佐々木毅氏の解釈であって本人の言葉ではないけれども。個人的にはかなり正解に近いと思う。裏付けはプラトン著書原典/後世キリスト教徒による改変と思われる箇所を除く)


 

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『権利のための闘争』 冒頭メモ


 権利=法(レヒト)の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならない限り――世界が滅びるまでその必要はなくならないのだが――権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
 世界中のすべての権利=法は戦い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。…


イェーリング『権利のための闘争』(村上淳一訳/岩波文庫)、力強く惹き込まれる冒頭文。
平和のための闘争※が必要だという宣言に我々は衝撃を受ける。

※〔2023/1/8追記〕なお、この矛盾した表現が後に「革命」を言い訳とした暴力主義者たちの蛮行を正当化し、「暴力ふるったけど非暴力」「僕たちは人を殺すのが大好きだけど平和主義者」と平気で言える狂気のカルト信者(アカ)を生んだことは付け加えておく。イェーリングの頃は現実に抑圧があり、闘争で法=権利を勝ち取るしかなかったのではあろうが。

 
この権利感覚、“法治”とはどういう意味なのか――法的精神が東洋人には確かに理解し難いものだったようだ。

東洋には市民が闘争して自由・権利を獲得した歴史が無い。
正しく法を用いた法家の為政者を除き、ほとんどの時代で法は権力者が民を虐げるための鎖として用いられたようだ。
このため東洋で自由を目指す者は全ての法を憎む。決して、自らが正しい法を得ようなどとは考えない。法の全否定。
法が権力であり憎き敵である限り、「法に殺されるか。それとも法を殺して自分が権力を得るか」の二択しかない。だから革命が終わらず永久に正しい法治国家が打ち立てられない。

法は権力者のためにある道具ではない。
法が権力を縛る鎖ともなることを、(本来の法とは権力からも盗賊からも善良な民を守るためのものであることを)東洋人はそろそろ理解しなければならない。


追記

東洋でもほんとうの大昔、たとえば『史記』の時代から漢代までは“法治”が現代と同じ意味で用いられたことがあった。不法行為から民を保護するための法、権力を縛るための法として。それがいつしか忘れられてしまったのは、“民のための政治”という概念が失われてしまったからか。免疫となる文化思想が失われたのだ。

私は必ずしも一般民という弱者が権力者と戦って権利=法を得なければならないとは思わない。血はそこまで大量に流されなくても良い。
 “民による民のための完全自由な愚民政治”が近現代のような地獄を招くことがあるのだから、我が侭のために法を倒していいと誤解しないようにしたい。

東洋人がもっと権利感覚と法への理解を深めるべきことは確か。東洋には東洋のやり方があるのではないだろうか。それにはかつて存在した「民のための法治」を蘇らせること、最強の文化教養の免疫システムを再起動させることだ。


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サン=テグジュペリ『星の王子さま』池澤夏樹訳 感想



池澤夏樹の新訳『星の王子さま』を文庫で手に入れた。
我ながら信じられないことに泣いてしまった。
初めて『星の王子さま』の物語が理解できた。この物語が長く読み継がれている理由も。

子供のころ一度だけ『星の王子さま』に挑戦したことがあったが、説教臭い子供騙しのファンタジーとしか思えず、すぐに放り出してしまった。(自分が子供だから、子供向けに意識された内容がよけいに嫌だったのだと思う)
今になってようやく『星の王子さま』を理解できたのは、訳がどうのというよりも、自分が大人になったからだ。

花の我がままに疲れて逃げ出したことのある大人。
逃げ出しておきながら、ほんとうは弱い花をいつまでも思い続けている大人。
他の何千とある同じ種類の花ではなく、たった一つの花でなければならない大人。
“飼いならされる”ということが身にしみて分かっている――飼いならされたあとにその相手を、失う痛みを知っている大人。

『星の王子さま』とは、そういう大人が書いた物語。
そして、そういう大人だけが深々と理解できる物語。

果たしてこれは童話なのか。
確かに大人が自分の人生から得た教訓を子供に伝えるためのものだと思う。
だけど、この物語は子供には分からない。分かりにくい。
分かりにくいからこそ、あえて未来に彼らが経験するだろうことを伝えるために、その時は誤まらないよう伝えるために書いたのかもしれないけど。
それにしても難しい。

この物語を
「子供の目から見た、汚い大人に対する批判」
と理解するのは残念ながら子供ゆえなのだな。
無傷なときには理解できず、過ちを経験した後にようやく理解できる。
つまり『星の王子さま』は、童話としては矛盾している。
また王子さまはイエス・キリストがモデルで、このストーリーは聖書の教えを伝えるためとの見方もあるけど、きっとそうではない。聖書はストーリーを考える時のモチーフに過ぎなかったと思う。
これすべてグジュペリが実際に生きて得たエッセンスを絞り出したもの。
だから同じ気持ちを持つ者が、切なくて何度も涙を流す。

インデストラクティビリティ。破壊しえない一つのもの。
童話としては矛盾しているけれど、『星の王子さま』はこれからもたくさんの涙を受け止め続けるだろう不朽の名作だ。

追記:訳文について。
池澤夏樹の文は、もともと私はとても好きなので文句なし。
このようなシンプルな物語を伝えるためには、シンプルな彼の文がとても合っていると感じた。
池澤夏樹は“静謐な文”と言われていて、日本の作家にありがちなくどさがなく、村上春樹のようなユーモア(嫌味っぽさ)もない。このため人によっては情緒がないと感じられるかもしれないが、『星の王子さま』にはこのように静かな文が向いている。いや、むしろこうでなければと思う。

2005年筆
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佐々木毅『プラトンの呪縛~二十世紀の哲学と政治』感想



数か月前に読んだ本だが、「哲学科を出たわけでもない人間には感想を述べる資格もない」と言われそうで何も書けずにいた。
素人なりのバカな感想を述べれば、この本は心の底から面白かった。
文芸賞を受けている本に対して今さら言うことではないが、名著中の名著と思う。
門外漢の私のような人間でも近代哲学が概観できることは奇跡の書と言える。

文章は一般的に表現されており非常に分かりやすく、哲学を専攻した者でなくても読むことが可能。
だからと言って初心者向けの哲学入門書なのではない。一人の哲学専門家が、その人生をかけて読み込んできた膨大なテクスト解釈を、これだけ薄い本の中に凝縮してくださっている。それ故、読後に圧倒の充実感を得られる濃厚さがある。

また広く膨大な資料を扱っているのだが、「プラトンという古代哲学者が二十世紀の政治にどのように利用されたか」、という一つのテーマを軸として概観しているために全体が奇跡のまとまりを見せている。
この軸から視野を広げ二十世紀を眺めることで、歴史も人類も見えてくる。
何よりも今が見える。
これを文庫に収まる量で執筆された著者は天才としか言いようがない。(と、元東大総長に対して偉そうだが素人だからこそ思う。素人にも分かりやすく書くことは東大教授にはむしろ難しいことだろう)
もしこの本を読んで得られる感覚を原テクストから得ようとするなら、いったい何年かかることか。
この本に出て来るテクストのどれもが直前の誰かの論文に拠ってわずかな新解釈を加えたものに過ぎず、概観するためには全てのテクストを辿って読んでいかねばならない。もちろんそれが本来の読書の仕方で、そうするのが望ましいのだが、既に他の仕事を持ち・研究以外の生活をしている我々には物理的に不可能……。
この本を水先案内人とし、何を読むべきか知ることが出来た。私には有り難い「導きの書」だった。

個人的には、近現代の政治・戦争は最も興味のあるジャンルだから、それを背景としてプラトンを眺めることが出来たのでとても興奮した。
政治哲学については色々と考えることが多過ぎた。
そのジャンルに関する雑感はここに書く種類の話ではないと思うので、他で書く。
とにかく読書好きな人には絶大にお薦めの本です。
こんな本には一生に一度出会えるかどうか。(薦めるつもりはなかったろうが)教えてくださった人に感謝したい。


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プラトン『ソクラテスの弁明』感想と紹介

法とは何か、民主主義の行く末は? 2016年末の旬なテーマに二千年以上前の古典が応えてくれる。今こそ読むべき「人類の教科書」。





法律の初学者に与えられる小論文の課題に代表的なものが二つある。
一つは、「ソクラテスが自ら死刑を受け入れたことについて理由を述べよ」というもの。
現代の法学が西洋由来のものである以上、西における法的問題の原点とも言えるこの事件を避けて通ることは出来ない。従って初学者へ課題として出されるのは当然だろう。
もう一つは、「諸葛亮(孔明)が泣いて馬謖を斬ったことについて是非を述べよ」。こちらは少し違和感がある。
上に書いた通り現代の法学は西洋由来のものであるから、東洋の事件が課題として扱われること自体が不自然と言えるはずだ。だいいち世界的に見れば上と並べるほどの大事件でもあるまいに。しかし私は現にこの二つのうちどちらかを選択せよという課題を出しているテキストを目撃したことがあり、少なからず驚いた。確かに視点を引いて眺めてみればこの無名な東洋の事件も不思議と西洋的な法学論で読み解ける。

この二つのうち小論文として書きやすいのは後者のほうではないだろうか。
何故なら判決と処分については現代の西洋的な法律感覚から見れば答えは明白であり(刑罰は既にある法に基づき公平に処されねばならない/裁きの女神は目隠しで剣を振るう)、是か非かが問題になるのは「身近な者が裁いて良いのか」という問題(現代裁判に置き換えれば手続上の瑕疵)のみであるからだ。
これが百年前の東洋なら判決についても大議論が巻き起こるのだから不思議である。証拠に歴史学の世界では未だに批判論も多い。それだけ西洋と東洋の法律感覚は違うということだ。

しかし前者について書くのは遥かに難しい。
何故なら判決そのものが不当であると考えられるからだ。それにも関わらずソクラテスが死を受け入れたのは何故なのか、と問う。
陪審員裁判の本質的な欠陥を考えさせられ、果ては民主主義という政治体制そのものが孕む問題点も考えさせられる。
プラトンが「衆愚政治」と罵倒した政治システムの欠陥はまさに現代に通じる問題であり、この問題を考えずに今を過ごすことはあまりに危険と言える。課題として選ぶなら私はこちらをお薦めする。

ちなみに諸葛亮がもしソクラテスを裁いたならば、ソクラテスは間違いなく無罪である。
(何故なら訴追された罪とソクラテスの言動との因果関係は明白ではないので。諸葛亮は過ちの責任を無関係な当人の家族や友人にまで負わせることはなかった)
そのようにシンプルな判決が出ていたとしたら法学的な混乱は生まれなかっただろうし、哲学も現在の形では存在しなかっただろう。


西洋哲学の歴史を大きく変え、法律を学ぶ人々の悩みの種を作り出したこの大事件の発端は紀元前400年に遡る。
ペロポネソス戦争においてスパルタに敗れたアテナイの市民たちは、敗北の責任を「青年を堕落させた」とするソクラテスに押し付け裁判で吊るし上げたのだ。

ソクラテスは法廷にて自分が無罪であると言葉を尽くして弁明するけれども、彼の巧みな弁舌なしでも客観的に見て罪は無かったのである。
仮に青年等を誘導して積極的に暴動を引き起こしたとするなら扇動罪が適用されることもあるのだろう。しかし「堕落させた」というだけで(そのことも事実ではないが仮に事実だったとしても)罪が生じることはあり得ない。
ただ敗戦を招くなどしてアテナイ市民に憎まれていた政治家たちがソクラテスにかつて教えを受けたことがあるというだけだった。そんなことで死刑になるなら、世界中の犯罪者の教師たちはみな死刑にならなければならない。
ところが“愚民”たる民衆はソクラテスを憎み、陪審員たちは多数決でソクラテスを有罪とし告発者の望み通り死刑とした。

不当判決に怒り狂ったのはソクラテスの弟子たちだった。当然だ。
弟子たちはソクラテスを救うべく獄中に乗り込む。
しかしソクラテスは逃亡を断固拒否する。
曰く、
「自分は国家の法律に従わねばならない。何故ならこの国で生まれこの国に養われたのだから」。
そして彼は翌日、刑を受け入れて毒をあおる。……

ソクラテスが死をもって教えたこととは何であるのか。
法への忠誠か(法的安定性のため)、国家への報恩か。
それともよく言われるように愚民たちに自分たちの愚かさを悟らせるための懲罰だったのか?

歴史上、多くの人がソクラテスの教えを読み解き理解しようと試みて来たが、何一つ完全に腑に落ちるものはないはずだ。
こんなことを書くのは恥ずかしいが、私自身未だにこの結末に納得出来ていない。
無罪の人が有罪となるのはやはり絶対に間違っている、とシンプルに言うべきだろう。
(何故そう言うべきか。感情として正義を通したいからだけではない。判決の正当性が保たれなければ現実社会においてひずみが生じ、国家と国民を守る技術たる法律は運営していかれないからだ。正当ではない判決は確実・迅速に国家崩壊を招く。現にアテナイがそうであったように)


現代の我々が遠く眺めても納得出来ないのだから、ソクラテスの直弟子たちは決して納得出来なかっただろう。
彼らの怒りはどれほどのものだったか。察するに余りある。

『ソクラテスの弁明』はソクラテスが法廷で語った言葉とされているが、書いたのは弟子のプラトンだ。
ここにはプラトンによるソクラテスへの愛情、彼の死に対する怒りと悲しみが溢れ迸っている。
そのため全体に少し詩情の気配もあると私は感じる。

もしかしたらこの記録には、
“ソクラテスに法廷で言わせたかった”
というプラトン自身によるソクラテス弁護が多分に含まれているのではないか。
本当は何もかもプラトンの願いでしかなかったのかもしれないという想像さえしてしまう。


「私は知らないことを知っている。故に私は智慧者と言える」
法廷でソクラテスが言ったとされるこの名言も、神秘的で詩的な響きによって少々誤解されている。
ここだけ引用すればいかにも哲学的で禅問答のよう。
けれど真の意味は、ソフィスト(詭弁家)たちが
「知らないことも知っているかのように嘘をついてごまかし、人生にとって本当に大切なものが何であるか分からなくさせている」
という現実的な批判をベースにした表現に過ぎない。
大雑把に言ってしまえば、「あの知ったか野郎たちに比べれば、私は知ったかしないで知ろうとしているのでまだ知恵者に近い」というほどのこと。
当たり前だが大切で現実に役立つ教えと言える。
嘘つきの言葉にだけ飛びついてしまう現代人も少しはソクラテスに学んだほうがいい。

この
「嘘の知識でごまかされるな。本当を見ろ」
とはソクラテスが普段から繰り返し説いていた教えだった。
つまり何が言いたいのかと言うと、この言葉を本に書かれている通り彼が最後の法廷で言ったのかどうかも疑わしい。
『ソクラテスの弁明』は事実の記録なのではなく、ソクラテスの教えの究極版アルバムと見れば妥当かもしれない。


いずれにしろこの名著にはソクラテスが生きた証だけでなく、弟子による師に対する愛情が篭められていると言える。
あまりにも真っ直ぐな愛情は二千年以上を経た現代の我々にも直接届き突き刺さる。

法学的、哲学的な書物として読むのは当然ながら、弟子たちの情熱を胸に響かせて読むのも間違ってはいないだろう。

(後にプラトンの著作とされるもので「詩を排除しろ」という主張があるが、私はこれをプラトンその人が語ったとはちょっと信じられない。仮に『ソクラテスの弁明』がプラトンの筆によるものなら、彼は真に詩人だ)


※このページは大学等において哲学の教育を正式に受けたことのない者が書いています。哲学的には誤解があるかもしれませんのでご注意ください。

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広瀬 隆 『クラウゼヴィッツの暗号文』感想

広瀬 隆 『クラウゼヴィッツの暗号文』

「戦争をなくすために戦争を学ぶ」という発想は私も同じだった。が、「どうしたら戦争がなくなるのか」を知るために「人は何故戦争をするのか」から考えることは絶望に繋がる。人間の本性に悪を発見するからだ。そしてその完治出来ない悪を延々と責め続け、結果、永久に目の前の戦争をなくすことは出来ない。
“うーん。熱い。同感だ。…でも偏ってる”
この本はずっと昔に読んだので内容の詳細は忘れてしまった。上は当時の読後の感想。
延々と、戦争の悪と人間の悪を嘆き続ける内容だったように記憶している。(今読めばまた違った印象を持つのかもしれない)
とにかく現実の戦争という“非常事態”を解決するには、実務力しかないと私は思う。
根本的な人間の戦争癖を矯正できたらそれに越したことはないが、人の本質を嘆いているうちに目の前の人たちは次々と死んでいってしまう。
現実に対処するためには、決して「悪」をターゲットにしてはならない。正義を振りかざしてはならない。人道を説くより先に、より多くの命を救うためあらゆる手段を駆使したい。

この本で特に引っかかったのは、クラウゼヴィッツを現代戦争の「悪」を生み出した魔王であるかのように描いていることだった。たかが軍事の実態をメモしただけの人に、全ての「悪」を背負わせるのはいかがなものか。
クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長だ」と書いたのであって、「延長として必ず戦争をしなければならない」と言ったわけではない。むしろ現実の戦闘の前に政治があること、戦闘は戦争の一部に過ぎない(つまり必ずしも現実戦闘をする必要はない)ことを、実務のままにメモしただけ。「敵戦闘力の撃滅」という言い方は確かに絨毯爆撃の論拠となったが、国家全体が力であると書くのは単なる真実でしかない。結論、孫子と同じことを書いているはずだが、孫子に比べて足りなかったのは「目的さえ達成すれば戦闘は要らない」と説かなかったことだ。本人が言っているように『戦争論』は実務メモに過ぎないのであり、後進の者のための指南書ではないからだろう。
実務の半端なメモをヒトラーみたいな単純な素人が手にすれば読み間違えてしまうのは、当然といえば当然かもしれない。悪いのは読み間違えて暴走した素人、そして誰でも手に届く場所にこの本を置いた人々。
今となって嘆いても仕方がないが、軍事本は兵器と同じと見て危険物扱いにしたほうが良い。


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