読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

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伊藤計劃『虐殺器官』感想。同時代に生き、虐殺を眺めた者としてのシンパシィ

しばらく前に読んだ本。
読んだ本をいちいち他人に報告しなくなって久しいが、これは公開で感想を書きたくなった。年が明ける前に書いておく。

(まとめず思うまま書きました。長いです)

作家の敬称略。

伊藤計劃、『虐殺器官』という伝説


『虐殺器官』は2007年に発表された伊藤計劃の小説。

伊藤計劃は2009年に34歳で早世した。
病床で10日間で書き上げたというこの小説は彼のデビュー作。SFの枠を超えた傑作であり、彼の死後も伝説として語り継がれている。

「ベストSF2007」国内篇第1位。「ゼロ年代SFベスト」国内篇第1位。(ウィキペディアより)
最近アニメ化され再び話題となった。Project Itoh


(リンク先は楽天の電子書籍)



ストーリー


2000年代半ばの近未来。
9.11以降、世界の混乱はやまず、サラエボを始まりとして幾つもの都市が核で消失した。もはや「ヒロシマ」「ナガサキ」という地名は被爆地としての特殊性を持たなくなった。
しかし相変わらず先進国の人々は安定した社会を保ち、ドミノ・ピザをバドワイザーで胃に流し込む生活を送っている。死体の積み重なる光景よりも恐怖かもしれない、変わらない生活。

反対側の世界も変わらなかった。
発展途上国で女子供を巻き込む大虐殺が減るきざしはいっこうに見えない、それどころか2000年代半ばに益々増えていく。
ある時期から、それまで平和を保っていた小国の指導者が唐突に狂い、ジェノサイドを始めるという奇妙な内乱がいくつも起きるようになった。
アメリカ合衆国は虐殺を指導しているトップを暗殺することで途上国の平和を保とうとした。
合衆国特殊部隊員クラヴィスは、指導者暗殺の任務を帯びてある国へ潜入。軍人のトラウマを防止する心理操作技術によって、躊躇なく任務を遂行してきたクラヴィスだったが、ターゲットが死ぬ直前に吐き出した言葉を耳にして混乱する。
「わたしはなぜ殺してきた――たのむ、教えてくれ。なんで殺してきた」

軍部は途上国の唐突な虐殺全てに「ジョン・ポール」という名のアメリカ人が関与していることを突き止めていた。
長期の特殊任務でジョン・ポールを追跡したクラヴィスは、ついに彼と遭遇する。そして「虐殺の王(ロード・オブ・ジェノサイド)」たる本人から秘密を明かされる。


小説としての感想


ストーリーは面白い。先を知りたくなり読み続けることができる。SF好きに限らず、純粋エンタテイメントとして読むことも可能だと思う。
ただし設定は暗く描写は残酷、読む人を選ぶ小説ではある。冒頭から残酷描写があるので苦手な人は避けたほうがいい。

それでも、いわゆる「イマドキの小説」として想像するような、命の価値が過剰に低い世界観ではない。
むしろ淡々と描かれる殺戮描写が、声も上げずに消えていく命が、圧倒のインパクトをもって命の重みを押し付けてくる。

悲しみは言葉にされないことでさらに深い悲しみとなる。
悪と正義は示されないまま反転し、希望と絶望も反転する。

ある意味、現実そのままを写し取ったかのような小説である。
思想もある。もちろんその思想は「これが正義だ」といったような押しつけがましいものではないのだが。
内省的な主人公の淡々とした心理描写が現代現実の深層を抉り出す。時にその抉り出された深みが、目を逸らしたくなるほど痛々しく重い。

現代小説で久しぶりに遭遇した思想のある小説だった。
生々しく吐き出された文章に誠実さと、稀有な才能を感じる。


余計なことかもしれないが、才能称賛

まずこの小説を10日で書いたことに驚嘆する。
緻密でよく練られた設定であるうえに知識も深い。同時代の日本人であることが信じられない。
さらに商業目的に流れず、恥ずかし気もなく嘲笑されることも恐れずに、本気の内面描写で思想を描いている。
“文学からの逃避”を続ける同時代、同世代の作家では奇跡とも言える文学だと思った。

ストーリー性が高くエンタテイメントとしても純粋に面白い。だけど、それだけではない。血肉の通った人間の、考える臓器の詰まった濃厚な小説だ。
これが小説としての完全体だろう。
ようやく小説が内臓を取り戻した。
ようやく、これからだったのに。
日本の小説からこの人が失われたことは、つくづく残念だ。

個人的に感じていたこと


この小説を読みながら私は懐かしいと感じた。
懐かしい、と言うのは違うのかもしれないが、馴染みのある世界観に浸っていた。

夜中、テレビ画面の前で一人、死体野原の光景に釘付けとなった十代の日を思い出す。
白黒の映像に浮かぶ死体野原は静けさに満ちていた。
衝撃などの感情はなく、悲しみも怒りも表現されないまま、静かな涙だけが流れた。

死体野原へ馴染みを感じたのは古い記憶のせいなのか。
それとも今の人生で見せつけられた虐殺の光景があまりにも多く、脳に刷り込まれただけなのか?
今となっても分からないのだけど、これだけは確かに言えるのは、同世代の人たちで私の気持ちを理解した人が一人もいなかったということだった。

ニュース映像で浴びるように虐殺の光景を見せられてきた我々だが、誰も死体野原を「馴染みある」とは言わないし、あの静かな悲しみを感じていると思える人もいない。

それなのに伊藤計劃は同じ光景を、同じ気持ちで眺めていたようで驚いた。

冒頭文引用。
※残酷描写が苦手な人は避けてください
 泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っこんでいるのが見えた。

まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している。
美しい冒頭文だと思った。
残酷な場面なので「美しい」と言うのは語弊あるのかもしれないが、これが冒頭にあることの完璧さが美しい。

赤と泥、色のコントラスト。現実と乖離した直喩。その後に現実が見えてきて、読者はこの小説がどんな物語なのかを察する。

小説の導入としての完璧さに驚いたが、それ以上に私が驚いたのは、この人は現実の虐殺現場をありのまま描いているということだ。
もう少し細かく視覚を描いていく。
――最初、それが何であるのか分からない。
何故あんな小さな女の子が泥へ顔を突っこんでいるのだという不思議さで視線を止める。
歩いて行く。対象が近付いて来る。
心の奥で警戒信号が鳴っているのだが、目を逸らすことができず、視点を止めたまま近付いて見る。
紅い花が鮮烈に目に飛び込み、焼き付く。
やがて状況を理解して現実のままの光景が目に映る。心が静止する。
辺りを見渡す。次々と凄惨な光景が目に入って来る。この時はもう遅い、目を逸らすことはできない。
熱い怒りや悲しみも、ショックさえなく、ただありのままを受け入れるしかないという静かな状況……。

この人は、現実に自分の足で死体野原を歩いたことがあるのだろうか?
それともアメリカ映画で観た光景や、第二次大戦の映像を思い出して描写しているのだろうか?
いずれにしても驚いたのは、彼が私と同じ気持ちで虐殺後の世界を眺めていたことだった。
その後、小説を読み進めるにつれ理解した。
彼もまた、あの画面から目を離せなくなった一人なのだということ。

同じ時代を生き。
同じ宅配ピザの届く安定した平和を味わい。
テレビ画面から流れてくる虐殺映像を、同じ気持ちで眺めていた人がいたことを不思議だと感じる。
決して「嬉しい」とか「ありがたい」などとは思わないことがまた自分でも不思議で。
ただ似た視点で似た世界の場所を眺めていた人が地上から失われたことだけ、残念に思う。

それと似た目で世界を眺めておきながら、ずっと
「言ってもどうせ理解されない」
「こういう分野の話は誰にも受け入れられない」
「戦争モノ、殺戮を描いているだけで有害指定される」
などと言い訳し、このジャンルの話を書いて来なかった自分の怠慢を呪う。
そもそも「小説家になるつもりなど微塵もない」と思っていて、夢など見ないことが真っ当なのだとさえ言い、書くことに背を向け訓練も怠ってきたことは猛烈に反省する。

こんなにも正直に自分の見ている世界を世に提供した人がいるではないか。
(私は一度だけ『我傍に立つ』では露骨なまでに正直になったのだが、以降は気持ちも労力もセーブしてきた。あれ以降、正直にただ好きなものを好きなだけ書くという行いができたことはない)
正直になることを恥ずかしいとずっと思っていた自分の卑小さが今は辛い。だらだらと生きて浪費した時間が申し訳ない。反省しなければならない。

人は生きて何を残せるか、限られた時間で挑まなければならないけど、伊藤計劃という人は残すことができたと言える。もっと残したかっただろうが一つでも残せたら幸運だ。
今、私が何を感じているかと言うと、「羨ましい」ということだ。
生まれて初めて他人へ嫉妬した。(嫉妬とは有難い感情だ)


ジョン・ポールの発見を未来への提案として考えてみる


以下は小説感想から離れ、現実として設定を考えてみます。
ここから下にはネタバレがあります。未読の方は読まないように。




この小説はSFなのだけど、ジョン・ポールが発見した
「言語テキストの中に潜ませる虐殺を起こす構文」
は、かなりリアリティのある話。

現実にも、たとえば社会主義関連の思想書にはジョン・ポールの「虐殺構文」に近い魔力がある。
社会主義、K産主義は何故か100%人を暴力的にし狂わせる。社会主義に侵されて虐殺が起きなかった国・集団はない。
100%、という確率は驚異だ。
まさにジョン・ポールの技巧。
ポルポトはきっと呟いただろう、「わたしはなぜ人を殺したのだ?」
(スターリンは曹操と同じくサイコパスであり、いわば「虐殺の天才」。彼らのように元から壊れてしまっているサイコパスは生まれ持った本能に従うだけなのだが、社会主義思想が虐殺の後押しをして拡大させたのは間違いない)
これだけの実効力を持つ思想書が人類に与えられたのは不幸としか言えない。

しかし今後はもっと完璧で分かりづらい技術で人は操作されることになるだろう。

もしかしたら今でもAIを使えば可能かもしれない。
先日見つけた診断テスト、『テキスト文でAIが性格診断~Personality Insights 』ではすでに表層の言葉によらず、純粋な文の癖やパターンで性格タイプを見抜くという技術が示されている。
これはまだ研究段階で、今のところ選ぶ単語そのものも考慮されているから純粋なパターンとは言えない。
ただ、この研究が進んでもっと正確性を増せば、逆の展開をさせ
「ある一定の効果をもたらす文章」
というものも簡単に作り上げることができてしまうはずだ。

いや、今の段階でさえ。
「リーダーシップを持つ・人の心に訴えかける文」
という程度なら、AIが作成することは既に充分に可能なのだ。

この技術を悪意ある者が使ったらどうなるか?
ヒトラーのプロパガンダなど目ではない。
マルクスによる地獄の聖書も超える、“言語的転回”での虐殺指令書が完璧な形で現実化する。

既に第二次世界大戦以降、資本主義国のメディアはヒトラーのプロパガンダ技術をパクり、商業目的で使ってきた歴史はある。
誰も公では言わないが、ある程度のメディアによる洗脳はあると皆分かっている。
だから警戒心の強い人は政治的なスピーチを耳に入れないようにしているし、宗教団体にも近付かないようにしている。そうすれば大手メディアの洗脳はあっても、少なくとも極端な行いをする団体からは逃れることができると思える。
(それなのに悪意ある集団へ自ら近付いて教義を鵜呑みにし、騙されている愚かな鴨は大勢いるが)

だけど表層の言葉に関わらず、無害に思われるテキスト文にまで「虐殺構文」が潜むようになったらどう逃れたら良いのか。
「耳に蓋をすることはできない」。
人々が、自覚もないまま虐殺の狂乱に陥る、想像を絶するディストピアが実現する。


私は長年思ってきたけど、これと逆のことはできないのだろうか?
人を100%狂わせ虐殺に向かわせる地獄の聖書があるのなら、それと真逆に、100%穏やかな気持ちにさせて虐殺を抑えさせる構文が。

「虐殺器官」ではなく
「平和器官」や「生存器官」を発動させる構文。

残念ながら本物の『聖書』は虐殺構文に近い。
仏教は「平和器官」を発動させる可能性が最も高いが(ある紛争地域に仏教がもたらされたら殺戮がやみ、平和になったという実際の歴史がある)、先日のミャンマーの事例を見ると100%の効力とまでは言えない。

実は自分がいつか、その構文を書けたらいいなと思っていた。
素人のくせに大仰な夢だ。

当たり前のことだが、私のような素人よりも、言語学の研究者が調べたほうが遥かに早いと思う。
研究者の皆さん。どうか「平和構文」「生存構文」を研究されてください。

12/24続き。やはり魔術で平和を求めるのは駄目だという話。>>「平和構文」でも、やはり私は洗脳なしでいきたいです



メモ。

この本からの引用

伊藤計劃が亡くなる直前まで更新したブログ
伊藤計劃:第弐位相
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恋愛小説として読む夏目漱石 おすすめ作品

 休日に日本文学に親しむのは、いかがですか?

「文学なんて難しい」と思うかもしれませんが、意外に夏目漱石などは現代人にも馴染みやすい恋愛小説を遺しています。
いつの時代も人を悩ませ、惹きつけるのは恋愛の苦悩なのですね。
苦い思い出のある大人はもちろん、これから恋をする若い人たちへお奨めの漱石作品をご紹介します。


☆下記「漱石作品」リストは画像を表示するため楽天リンクをお借りしていますが、電子書籍なら無料本があります。
※画像の下のほうにKindle無料版へのリンクしておきます

三四郎



【Kindle無料版】三四郎
熊本の高等学校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物の総てが目新しい世界の中で、自由気侭な都会の女性里見美禰子に出会い、彼女に強く惹かれてゆく…。青春の一時期において誰もが経験する、学問、友情、恋愛への不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から失恋に至る過程の中に描いて「それから」「門」に続く三部作の序曲をなす作品である。
漱石の小説は、『猫』よりも『坊ちゃん』よりも、『三四郎』から入ったほうが良いのではないかと私は思います。恋愛小説こそ漱石の真髄だと思うからです。

 「田舎の青年が東京へ出て来て都会の女に恋をする」。
一言で『三四郎』のあらすじを言えばそうなりますか。現代ならありふれた恋愛小説なのですが、漱石の筆は描写の巧みさ的確さで登場人物の人生を疑似体験させてくれます。
みずみずしい青春を生きていた三四郎が、恋の苦さを知って少しずつ心に深みを持っていく。明るい『坊ちゃん』には共感できなくても、悩む三四郎には共鳴する人が多いのでは。
王道の恋愛小説、傑作です。


それから



【Kindle無料版】それから
長井代助は三十にもなって定職も持たず、父からの援助で毎日をぶらぶらと暮している。実生活に根を持たない思索家の代助は、かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく……。破局を予想しながらもそれにむかわなければいられない愛を通して明治知識人の悲劇を描く、『三四郎』に続く三部作の第二作。
アマゾンより
『三四郎』は若者の恋愛でしたが、『それから』は文字通りもう少し大人の恋愛です。十代・二十代前半より、もう少し上の年齢となってから読むのをお奨めします。(そう言う筆者もかなり若い頃に読んでしまったので、いずれ再読するつもりです)

現代では安い昼ドラになってしまいそうな設定でも、漱石の的確な筆で描かれると人物の心理を体験する実験に参加させられているようで、一緒に苦悩せずにはいられません。言わば高等な人生VRです。
陰鬱とした文章であるため好みは分かれるでしょうが、日本における最高峰の恋愛小説をぜひ一度ご堪能あれ。



【Kindle無料版】門
親友の安井を裏切り、その妻であった御米と結ばれた宗助は、その負い目から、父の遺産相続を叔父の意にまかせ、今また、叔父の死により、弟・小六の学費を打ち切られても積極的解決に乗り出すこともなく、社会の罪人として諦めのなかに暮らしている。そんな彼が、思いがけず耳にした安井の消息に心を乱し、救いを求めて禅寺の門をくぐるのだが。『三四郎』『それから』に続く三部作。
「恋愛小説」としては少々苦過ぎる、もう老境に入った夫婦の話。
若者が思い描く恋とはかなりかけ離れていますが、これもまた恋の行方の一つではあります。

人生の陰を鬱々と描き込む筆に、私はどうしても『こころ』の描写と重ねてしまうのですが、『こころ』のように派手な(衝撃的な)展開はありません。
ストーリーの展開だけを求める人にはお奨めできない小説と言えます。ただ『それから』を味わうことができた読書人には、『門』も読み応えのある一級品と感じられるでしょう。


虞美人草



【Kindle無料版】虞美人草
大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風でもの静かな恩師の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさからぬけ出すために、いったんは小夜子との縁談を断わるが……。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業的作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品。
文章表現が漢文から口語へ移り変わる時代、絶妙なバランスを取りながら両者の表現を混在させる漱石の文。この表現が恋愛小説に向く。二つの表現の間を巧みに行き来する筆致が、揺れながら恋を謳歌しようとする心に似ているからか?

漱石が流行小説家として生きることを決めた直後に書かれた作品だけあって、ストーリーは大衆向けなのかもしれません。やはり漱石の文章でなければ安い昼ドラの脚本に堕ちていたでしょう。
この話を一流の恋愛小説に仕立てているのは、超絶に巧い文章表現です。話の筋はともかく私は『虞美人草』が好きです。文体そのものに色っぽさを覚える、稀有な恋愛小説と言えます。

薤露行(かいろこう)


JohnAtkinsonGrimshaw.jpg ※画像はジョン・アトキン・グリムショー『シャーロットの乙女』

【Kindle無料版】薤露行

 『こころ』『行人』『彼岸過迄』等々、愛の苦悩を描いた名作は数多くあるのですが、重過ぎるのでまた別枠でご紹介します。
代わりに漱石作品の中ではあまり有名ではない短編小説、『薤露行』をここに置いておきます。

漱石だけではなく日本文学全体でもめずらしい、西洋を舞台とする小説。題材はなんとあの『アーサー王』です。
アーサー王の家臣ランスロットは、王の妃と不義の関係にあります。この西洋では有名な三角関係を漱石流の解釈で描いたのが『薤露行』。王妃とランスロットの報われない愛、ランスロットの妻の切ない想い、死に行く美しい乙女……等々に『三四郎』からの三部作や『虞美人草』を想起して眩暈を覚えます。
なお、「薤露行」とは「人生は薤の葉の上の露がすぐに乾くように、あっという間に過ぎ去ってしまう」という意味の歌。古代中国(漢代)、貴族の葬送歌です。漱石は報われない乙女たちの恋へ「薤露行」を捧げたのでしょう。このセンスだけでも惚れ惚れします。



――ああ、書いていてむしょうに漱石を読み返したくなりました。
ご紹介しておいて何ですが、筆者にはしばらく漱石文学を貪る時間がありません。
またいつか漱石に溺れるほどの暇が得られることを夢見ます。

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三浦しをん『船を編む』感想(本)


大手出版社の玄武書房、辞書編集部を率いる荒木は、定年間近となり最後の大仕事に傾注していた。その大仕事とは、次代の辞書編集部を担う優秀な人材を探して引き抜くことだった。
辞書を作る仕事は特殊で、監修の松本先生曰く
「気長で、細かい作業を厭わず、言葉に耽溺し、しかし溺れきらず広い視野をも併せ持つ」
者でなければ務まらない。
今の時代にそのような若者が、はたしているのだろうか。
人材探しは難航し、社内の隅々を訪ね歩き若い部下の話も聞いた末、ようやく巡り合ったのが真面目――ではなく馬締(まじめ)光也。
院卒の二十七歳、築数十年の下宿先で本に埋もれて暮らしている変人だった。身だしなみに気を遣わず、恋人なし、会話も下手で営業部ではお荷物扱いされていた不器用な青年は、言葉にかける知識とセンスでは並外れていた。
かくして逸材馬締を得た辞書編集部は、新たな時代の言葉の海を渡る新辞書、『大渡海』の編集に乗り出す。……

先に映画を見て、今の時代には巡り合うことが難しい良質な物語に感動し、いつか原作を読みたいと思っていた。
最近、思い出してようやく読む。
これだけ映画と小説のイメージが大差ない物語もめずらしい。誠実に作られた映画だったのだなと知った。

映画も穏やかだったが小説はさらに繊細で温かい世界観だ。
登場人物も魅力的。恐ろしく美人なのに馬締と同じ変わり者、下宿先の大家タケさんの孫で、板前修業をしている香具矢。
辞書編集部に合わないお調子者ながら、根は優しく誠実な同僚、西岡。
戸惑いつつ入った辞書編集部の仕事に魅力を感じていく新人、岸辺。等々。
いわゆる「キャラが立っている」。マンガ化もされているらしいと知って、なるほどと思う。登場人物同士の会話文、関係が魅力的でマンガにも合っている。
映画を見た時はもっと硬い文体で書かれた小説をイメージしていたが、意外と軽さがあって読みやすい。「ライトノベルか?」と思う人もいそう。文学を期待して読む人には肩透かしかもしれない。
馬締の恋愛ストーリーも描かれていて、こういうところが若い女子人気を集めているのだろうと思った。
恋愛部分の話は苦手な人もいるはず。ただ、馬締の純粋な恋には心をつかまれる。気付けば馬締と一緒に落胆したり驚いたりしている自分がいて、懐かしい想いを味わった。
恋愛は冒険。意外とこれが現実に近いのだ(あの恋文はないが。でも、何かしら痛いことを必ずやっている)。一見普通の人でも、誰もが若い頃に心臓が止まるような恋の冒険をして家族を築いていくのだよな、と思い出す。

辞書作りの描写は地味ではあるが緊迫感がある。
馬締たちの辞書作りへ懸ける情熱、辞書作りという仕事の大変さが細かく描写されていて感動、驚嘆してばかり。私にはハードボイルドの小説より緊迫感があるように思えた。
たとえずっと室内の描写が続いても、言葉の説明ばかり並ぶ地味なページが続いても、志の高い大事業の話ほど緊迫感のあるものはない。
そう、こういう誠実な仕事の話が読みたかった。
お互いがお互いを思いやり、協力し合いながら優しく時が流れていき、日々の仕事へ真剣に向き合っていくうちやがて大事業を成し遂げる。
最後に来た道を振り返る馬締たちの場面に、「やはりこれはライトノベルでは無理だな」と思った。
軽く始まりながら、気付けば人生の重みを味わっている。
ページ数は多くないのに記憶へ刻み込まれる、素晴らしい小説だと思う。

個人的には、言葉の説明の箇所に心躍った。
さいぎょう【西行】 不死身の意味あり。西行が旅の途中で富士山を見ている姿が、絵の題材として好まれた時期があった。『富士見をしている西行さん』から、『西行=不死身』になった。
 等々の話は楽しい。まだ知らないことだらけだ。
それから馬締の住む築数十年の下宿、建物のほとんどを書庫として借り、本に埋もれる生活は「た……たまらない」と悶えた。羨ましい。ああいう部屋に住みたい。(さすがにうちは狭いし床が抜けるので、物理的に「本に埋もれて暮らす」ことはできない)
辞書マニアはもちろん、本好きにもたまらない一冊。

最後のこの箇所には共鳴し、感動した。日頃、分かりやすさを狙って軽い言葉を使ったり、注目を集めようとして刺激的な言葉を使ってしまう自分を反省。もっと言葉を大切にしなければならない。
 けれど、と馬締は思う。先生のすべてが失われたわけではない。言葉があるからこそ、一番大切なものが俺たちのなかに残った。
生命活動が終わっても、肉体が灰となっても、物理的な死を超えてなお、魂は生きつづけることがあるのだと証すもの――、先生の思い出が。
先生のたたずまい、先生の言動。それらを語りあい、記憶をわけあい伝えていくためには、絶対に言葉が必要だ。
馬締はふと、触れたことのないはずの先生の手の感触を、己れの掌に感じた。先生と最後に会った日、病室でついに握ることができなかった。ひんやりと乾いてなめらかだったろう先生の手を。
死者とつながり、まだ生まれ来ぬものたちとつながるために、ひとは言葉を生みだした。
……
俺たちは船を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく船を。



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春江一也『プラハの春』感想(本)

 2000年刊行の本。積読から引き出して読んだ。
 2016年読んだなかで最もはまった小説。

内容:
若き日本国大使館員の堀江亮介は、プラハ郊外で車が故障して困っていた女性を助ける。美しい女性に魅了された亮介だったが、会話の中で彼女が東ドイツ人であり「関わってはならない」ことを知る。しかし頭では分かっていながら運命に抗えず彼女へ惹かれていく。
1968年「プラハの春」の下で翻弄される愛を描いた小説。

著者は本物の外交官で、1968年にチェコスロバキアで起きた民主運動「プラハの春」を現場で経験されている。そのためプラハの街並みや人々の生活描写は細かく、地図と照らし合わせながら読むと実際に当時のプラハを歩いているかのように感じられる。
何より感動するのはその時その場にしか無かった時代の空気が生々しく描かれていることだ。
抑圧され人間らしい生き方を奪われた人々の暗く沈んだ生活。
ドゥプチェク政権となり、彼の語る自由路線が真実であると確信した人々が、花が開くように一気に希望を噴出させる様子。
その結果当然に惹き起こされる悲劇……、絶望。
これら歴史上現実に起きた事件の経緯が、一人の日本人の視点から細かく描写されており、当時の人々の情熱や絶望を追体験することが出来る。

体験記として出版することも可能だったろう。
でも個人的に私は、小説として描いてくれたことを有り難いと思う。
「空気感」は細かな風景描写、音や匂いの描写、人の内面の感情描写がなければ感じ取ることが難しい。だがそれらの描写は現実的な体験記では最小限に抑えられてしまう。
小説だけが、ふんだんな描写を可能にする。
だから小説はある一瞬に存在した「空気感」を缶詰にする最良のツールと言える。

著者の体験が小説として出版されたおかげで、読者の私は「プラハの春」を生きた人々とともに自由の風を嗅ぎ、凍り付く嵐に踏み躙られて泣くという経験をすることが出来た。
言論の自由が有ることの有難み、「ペンは剣より強し」の本当の意味を痛烈に感じることが出来たし、言葉の力を信じるチェコの人々への崇敬を抱くことになった。
また歴史の映像でしか見かけることがなく、よく知らなかったドゥプチェクについて人柄を知る機会を得た。
あの冷酷なファシズム※の下でさえ、自由のために孤独な戦いを挑んだ人がいたことに痺れるほど感動する。
ドゥプチェクは個人として戦いに敗れたのかもしれないが、結果として時代は彼に応え、大いなる勝利を得たのだと思える。

これはもちろん小説なので、大衆向けの恋愛ストーリーが軸となっていて安っぽく感じられる部分もあるが(もう少し描写を抑えれてくれたら文学的評価を得られたはずなのに残念)、小説として利益を回収するためには仕方なかったか。
それにフィクションとは言え、恋愛の部分もこの小説からは切り離せない要素に違いない。
恋愛も含めて、人と人との交流が歴史的事件を生きた人たちの「リアル」であるのだから。
我々は感情のない機械ではない。一人の青年が外国の街で生きていれば、恋愛や友情を経験せずにはいられなかったはず。事実そのものを書かなくとも、小説に昇華された経験のエッセンスはニュース映像以上の「リアル」を伝えてくれる。

この小説を読んで良かった。書いてくださった著者に感謝したい。


※ファシズム: ここでは広義、「暴力的な全体主義」「独裁政権」などの意味。『プラハの春』の中でカテリーナが社会主義国家を「ファシズム」と呼ぶ。

2016年11月18日筆


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羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』感想(本)



内容:
二十代の頑健な体を持つ主人公は、仕事を失い、目下ニート生活中で体力を持て余している。
対照的に「体のあちこちが痛い」と言い、歩くこともおぼつかない(ように見える)老齢の祖父が主人公の家に同居している。
毎日「早く死にたい」と訴える祖父に同情した主人公は、祖父の願いを叶えるため「体力を衰えさせ死期を早めさせる」という作戦を実行することにした……。

あらすじを書くと何か陰惨な事件につながる展開を想像するが、そんな暗い文学ではないのでご安心を。
少々ブラックながら思わず「くすり」と笑ってしまう仕掛けが施されている。
主人公の考えが正しいのか間違っているのか分からないが、意図せずに「優しさ全開」の展開となっているところ、古典ユーモア劇のようで見事だなと思った。
これはもしかしたら、なかなかに高度な「笑い」なのではないか?
最初に羽田氏をテレビ番組で見かけた時から感じていたけど、彼は並みのお笑い芸人よりも笑いのセンスがあるかもしれない。

小説としても良い作品と思う。
介護という重くなりがちな題材を選びながら心が温かくなるのは、ユーモアだけではなく根底に優しさがあるからだろう。
その「優しさ」とは大げさなものではなく、身近な人が苦しんでいたら手を差し伸べずにいられない感性のこと。
つまり、普通の人が持つべき当たり前の人間性。
だからこの小説には心を揺さぶる激しい感動はないが、日常に寄り添う安らぎがあるのだと思う。
この「当たり前の人間性」が最近は少なくなっていると感じる。
特に、文学では「人間性」が欠落しているものばかりもてはやされる。
だから現代でこんな小説に出会えるとほっとする。
それでいて芥川賞作品として模範的な条件を備えているのはさすがプロと思った。
人間性やストーリー性を残しつつ芥川賞っぽい小説を書くのは離れ業ではないだろうか。

今回、初めて芥川賞作品を読んだ人たちはamazonレビューなどで
「なにこれ、退屈!」
「落ちが無いじゃん!」
とクレームを書き込んでいるのだが、そもそも落ちや露骨な起承転結は芥川賞的な文学でタブーだからね。(笑)
私は個人的に、今まで読んだ芥川賞作品の中で唯一素直に「面白かった。良かった」と言える作品だったと思う。
『スクラップ・アンド・ビルド』は様々な面で優等な小説。もっと評価されていいのでは?

2016年11月17日筆

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芥川龍之介『杜子春』を読み直す

 先日、片頭痛の話『歯車』にて芥川龍之介について書いたらむしょうに芥川を読み直したくなって、kindleで芥川ばかり読んでいる。

読み直して改めて感動の落雷に打たれているのは、『杜子春』。

ラストのこの一節は、大人になった今になって触れると涙が出るではないか。

「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇(すがめ)の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反(かへ)つて嬉しい気がするのです。」
――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
以上、『杜子春』より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/170_15144.html

深く共鳴する。
この「人間らしい正直な暮らし」というものの、なんという得難さ……。仙人になるより遥かに難しい。
それを身に染みて知っていた芥川だからこそ絞り出されたこの台詞。
そう思うとたまらず涙が出てくる。


ところで『杜子春』には中国古典の同じタイトルの原作があるが、この際読み比べてみたくなり、取り寄せてみた。





芥川よりグロテスクだの利己主義だの、「意味ワカラン」だのと評判の悪い原作。

芥川との違いをまとめるとこうなる。
(完全ネタバレなのでこれから読みたいと思う人は読まないように注意してください)


・物語の舞台は洛陽ではなく長安。
・「仙人」である鉄冠子は、「道士」。
・杜子春は人間に絶望して仙人になりたいと望むわけではない。お金をくれた道士へ報いるため言うことをきく。
・鉄冠子が起こす超能力(地中に金が埋まっている、空を飛ぶ)などの派手な描写はない。
・杜子春の親ではなく妻が責め苦に遭い、杜子春へ救いを求める。が、杜子春は妻には冷たく無言を貫く。妻は切り刻まれる。
・次に杜子春が地獄へ落とされ全ての拷問を受ける。地獄の責め苦でも声を出さなかった杜子春は罰として女に生まれ変わる。
・女に生まれ変わった杜子春が、夫に我が子を殺され初めて「ああ!」と声を出してしまう。
・褒めた鉄冠子と違って、道士は声を出した杜子春を激しく罵倒。
・杜子春は仕方なく人間の生活へ戻る。
・未練が残り、かつて道士がいた場所へ行ってみたりするがそこに道士はいない。
杜子春は声を出した自分を恥じて後悔して生きていく。


細かい違いも興味深い。
芥川が、長安ではなく洛陽に変えたり、道士を鉄冠子に変えたりしたのは単にそのほうが日本の読者に馴染みがあると思ったからか? (鉄冠子は『三国志』に登場する左慈のこと、洛陽はその左慈が同作品中で出没する都市。当時の日本人にも馴染みがあった。芥川自身も『三国志』の愛読者だったらしい)
原作の杜子春が妻には冷たく、妻が切り刻まれるのを見ても無視するのに、女として生まれ変わった時に子が殺されて初めて声を上げるのにはツッコミたくなる。唐人には女性の我が子に対する愛情しか「愛情」というものがなかったのか?(唐の男は平気で妻子を殺せたのか?) これが芥川版の杜子春なら、親であれ子であれ妻であれ、自分以外の親しい人が責め苦に遭ったら声を上げてしまうはずと思うのだが。

ラストの道士の態度と杜子春の心持は芥川版と真逆と言えるだろう。
この結末がやはり最も大きな違い。

評判は悪いが、私は原作は原作で筋の通った物語だと思う。
そもそもこれは釈迦の輪廻伝説と似た系統の宗教説法と考えられる。
目を差し出して潰され憤慨した前世の釈迦が、輪廻から解脱する卒業試験に落ちたように、「全ての人間としての感情を捨てなければレベルアップして人間以上の者になることは無理」という当然のことを教えている。※もっと正確に言えばこの世は全て幻であり、幻に心を動かしているようでは人間レベルを脱することは不可能ということ
その代わり原作では声を出してしまった杜子春を否定も肯定もしていない(道士の罵倒は決して人間の否定ではない)。ただ「杜子春は人間レベルである」という事実認定だけ。この点、公平な説教と言える。

いっぽうの芥川版『杜子春』は人間肯定の物語だ。
芥川の『杜子春』が、芥川の独自作品として強い輝きを放っているのは、最後の一言(上の引用部分太字)に芥川自身の心の叫びが乗っているから。

「桃の花の咲く畑のある一軒家」はまさに人として生きていく幸福の頂点にある。
ラストの描写でその究極の桃源郷が鮮やかに脳裏に浮かぶ瞬間、あまりの幸福な光景に涙が滲む。

あの景色を描いた芥川は、なんという真っ当な人なんだろうか。
上でもなく下でもなく真ん中を望んだ。健全健康な精神の持ち主。
しかしその健全な人がついに桃源郷に留まることが出来なかった。

遠く、桃の咲く一軒家が明るい陽射しに照らされて見える時、そこへ憧れた人の切ない嘆きの声が私には聴こえる。


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谷崎潤一郎『春琴抄』紹介と感想


物語は二つの墓の描写から始まる。
「鵙屋(もずや)」という名家一族の墓から少し離れた空き地に建つ、通称春琴(しゅんきん)の墓。
その隣にひっそりと寄り添うように建つ小さな墓には「門人」と刻まれている。
小さなほうは「温井佐助(ぬくいさすけ)検校」の墓だった。検校(けんぎょう)とは尊敬される高位の音曲家のことだが、その地位にも関わらず何故に小さな墓であるのか。何故に「門人」と刻まれているのか。

語り手は、
此の墓が春琴の墓にくらべて小さく且(かつ)その墓石に門人である旨を記して死後にも師弟の礼を守っているところに検校の意志がある。
と説く。
さらに
奇しき因縁に纏われた二人の師弟は夕闇の底に大ビルディングが数知れず屹立する東洋一の工業都市(大阪)を見下しながら、永久に此処に眠っているのである。それにしても今日の大阪は検校が在りし日の俤(おもかげ)をとどめぬ迄に変ってしまったが此の二つの墓石のみは今も浅からぬ師弟の契りを語り合っているように見える。
と描写される。
美しくミステリアスな描写で始まる師弟の物語は、二人の出会いへ遡り紐解かれていく。
裕福な商家に生まれ、類まれな音曲の才能と美貌に恵まれた春琴は不幸にも九歳の時に眼の病で視力を失った。
盲目となった彼女の世話をしていた丁稚(でっち)の少年が佐助だった。佐助は彼女の付き添いで琴や三味線の稽古へ通ううち、彼自身も音曲に魅了され、夜中に押入れに隠れて三味線の稽古をするようになる。
やがて佐助も音曲の稽古を許されて春琴の弟子となる。ここから春琴とは主従だけではなく師弟ともなり、絶対的な上下関係のもとサディスティックな愛の日々が始まる。

どれほど折檻を受けても我がままを言われても、甲斐甲斐しく春琴に仕え続ける佐助。
佐助はひたすらに春琴の美貌を崇め平伏すばかりだ。 
結婚もしないまま二人の関係は続いていくが、ある日再びの不幸が春琴を襲う。
その時、佐助がとった行動は衝撃的なものだった――。


美しい者に支配され尽くしきる者だけが到達する「悦び」。
佐助は、虐げられ振り回されることで燃えるマゾヒストの標本のような人だ。ただし尽くす主人は美しくなければならないと仰る、笑い。実は最高の我がままさんだ。

この小説のストーリーを大真面目に受け取り、
「究極の純愛!」
「素晴らしい! これこそが愛!」
と本気で思える人は中学二年生と同じくらい純情と言える。
普通の大人は、
「はいはい。そういうの、お好きなんですね」
と苦笑して受け流す。
あるいは、好きな側の人なら大歓迎してこのシチュエーションを受け取るだろう。

おふざけに怒ってはいけない。作者も「分かっている」年代の「分かっている」人向けに書いているのだ。
「好きな人はどうぞ、はまってください。こういうの苦手な人は、お互い大人なのだから笑って許してね」
とニヤつきながら書いている姿が目に浮かんで愉しい。

しかしそんなマニアックな趣味を、大衆受けする下品な表現ではなく超絶に優れた文章技法で描いていることに痺れる。
「耽美小説」
と呼ばれるのだが、真に耽美なのは内容ではなくて文章そのものだ。
「官能」
も、エロティックな物語の設定ではなく文章にこそある。

これは性表現によらず、純然たる文章技術で「官能」を提供できるという遥か高みのお手本と言える。
「官能」は「感応」だ。
この文章によって刺激された脳のどこかが確かに反応する。精神を愛撫する究極のエロスである。
繊細な菓子を口に含んだ時に似ているか。さほどの栄養はないのだが、仄かな舌触りと香りは記憶に残り永く精神を刺激し続ける。
句読点や段落を省いた実験的な文章であるのも、文章そのものに感じてもらいたかったからだろう。
もしかしたら設定からエロティックさを抜いて、ストーリーとは無縁の「文章官能」を創られていれば学者に正しく伝わったかもしれない。
でもそれでは小説として「耽美」や「官能」の看板が立てられない。事実、ただの実験小説になってしまって、一般読者を得ることは難しかったのだろう。

それに計算かどうか分からないが、実は設定も入れ子構造で「感応」となっている。
佐助は春琴を眺め崇拝しているうちに春琴そのものになりたいと願う。春琴との一体化を夢見ている。
文章と読者の関係と同じく、佐助も春琴に「感応」しているのだ。

また作者自身がこのような趣味をお持ちだった、ということも事実らしい。
私生活で彼は美しい名家のお嬢様と
「春琴ごっこ」(厳しい女師匠に仕える下僕ごっこ)
を愉しんでいて、後に彼女と結婚している。
要するに自分の趣味全開で設定を愉しみながら書いたのか。だから読んでいて佐助が幸せそうにも感じられるのだな。
「ご馳走様」
と言いたくなる。

他の耽美小説は後味の悪さが残るのに、谷崎の小説には爽やかさすら感じる。それは作者の私生活にほのぼのした愛があったからだろう。
一歩引いたところから眺める冷静な語り手の視点には、「ごっこ」を「ごっこ」として愉しんだ、作者の大人な人格が感じられる。
耽美に溺れているだけのお子様小説とは違う高等な大人の「耽美小説」である。

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万城目学 おすすめ

純文ばかり読んでいるわけではないんですよ。
と言うわけで、肩の力を抜いて読めた万城目本のおススメ二冊をご紹介します。

■鴨川ホルモー


【内容情報】(「BOOK」データベースより)
このごろ都にはやるもの、勧誘、貧乏、一目ぼれ。葵祭の帰り道、ふと渡されたビラ一枚。腹を空かせた新入生、文句に誘われノコノコと、出向いた先で見たものは、世にも華麗な女(鼻)でした。このごろ都にはやるもの、協定、合戦、片思い。祇園祭の宵山に、待ち構えるは、いざ「ホルモー」。「ホルモン」ではない、是れ「ホルモー」。戦いのときは訪れて、大路小路にときの声。恋に、戦に、チョンマゲに、若者たちは闊歩して、魑魅魍魎は跋扈する。京都の街に巻き起こる、疾風怒涛の狂乱絵巻。都大路に鳴り響く、伝説誕生のファンファーレ。前代未聞の娯楽大作、碁盤の目をした夢芝居。「鴨川ホルモー」ここにあり。

ホルモー同士を操り戦わせるという戦略ゲームサークル、バカバカしい設定に登場人物たちが大真面目というところが面白い。あちこちツボに入りまくりで、始めから終わりまで笑っていた小説はこれが初めて。
『三国志』など古典戦争の喩えが随所に出てくるので、お好きな方はそういうところでも楽しめるはず。
しかし個人的にツボだったのは、京大生の主人公が大学生にして初めて『三国志』を読み“中国モノと知らんかった。我が国の物語だと思っていた…”と驚愕する場面。
おお、京大生と自分、一緒じゃないか。というところが嬉しい。(私も17歳まで同様だった、笑)
現代の「平均」を描いていて共感できる。

■プリンセス・トヨトミ


このことは誰も知らないー四百年の長きにわたる歴史の封印を解いたのは、東京から来た会計検査院の調査官三人と大阪下町育ちの少年少女だった。秘密の扉が開くとき、大阪が全停止する!?万城目ワールド真骨頂、驚天動地のエンターテインメント、ついに始動。特別エッセイ「なんだ坂、こんな坂、ときどき大阪」も巻末収録。

『ホルモー』に比べると落ち着いていてお笑い控えめ、大人しくなった印象がある。
しかし設定は「大阪国独立」という突飛なもの。突飛ながら、もしや著者は本気では?と思わせるほど細かく構成されている。
この細かい構成によって小説としての疾走感を失っているのですが、歴史の「IF」などマニアックな空想が好きな人は楽しめるはず。

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宮崎駿の『風立ちぬ』に愛はあるのか問題

カテゴリを整理する際にこの記事は削除したんですが、もしかしたら需要あるかなと思って復活させておきます。
批判的な感想というだけで嫌悪する人がいるいっぽうで、同じ感覚を持っている方も必ずいるだろうから、そういう方を孤独にしないためにも必要かな。なんて。



まず、美しい映画ではある。
サンテグジュペリが好きで、あの時代の飛行機に憧れ、『紅の豚』に共鳴した者としては少年が飛行機の夢を見る冒頭映像だけで惹き込まれる。

風景も美しい。
薫り立つ緑に淡い霧、高原を這う雲、歩く男の白いスーツに落ちる葉影、青や赤や橙に変化する空。見惚れてしまう。
日本の緑とドイツの緑で微妙に色合いが違うところも驚嘆する。

でも全体にストーリーは、どうだろう。
薄くぼんやりした焦点の合わないものを見せられた気がするのは私だけだろうか?

と言うのは、どうしても原作や現実のことを考えてしまうからであるが。

個人的には小説も好きだし、零戦の設計者も尊敬するので、どうしてこの二つを半端に組み合わせて滲ませたものを作ってしまったのだろう? と首を傾げてしまう。

病に向き合う苦悩も、零戦を作った男の苦悩も「あえて」飛ばして終わった。

「苦悩を書かない奥ゆかしさ」
という芸術性を狙ったのかもしれない。
しかし奥ゆかしさと「逃げ」は紙一重なものだね。
知っている人だけ理解してね、という芸術スタンスは理解するが、私はむしろ少し知っているほうだからこそ「そこ」をもっと味わいたかったのだが。
書かない、書けないなら、創作をする意味がないのではないかとさえ思った。


それにしても昔からこういう薄くぼんやりした創作は、賛否が極端に出るから不思議だ。
(誰かが「難解すぎて理解できない」と言うと、何故か「俺は分かる。なんでこんな簡単なことが分からないんだ?」と言い出す人が続出する。村上春樹の読まれ方に似ている、あるいは『裸の王様』現象とも言う)

ヤフーレビューを見て、
「生涯最高の映画」「すばらしいなんてもんじゃない」「真っ直ぐな愛に感動した」
等々という称賛が寄せられていて唖然とした。
http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC/344584/review/

 本当にそうかなぁ、堀辰雄の『風立ちぬ』を読んだことあって言っているのか?

こちらのレビューは参考になるかもしれない。
 ⇒『風立ちぬ』を見て驚いたこと by横岩良太
彼は堀辰雄の小説には触れていないけど、宮崎版『風立ちぬ』の主人公を残酷で薄情だ、と言い切っている。

堀辰雄の原作(原作と呼んでいいのか謎だが)は、このアニメの堀越二郎とは真逆だ。
主人公は父親から「娘と一緒に行ってくれるね?」と頼まれて当然に承諾し、全ての仕事を断ち切って、高原のサナトリウムに婚約者と二人で閉じ籠もるのだ。
そして死にゆく者に最後まで寄り添う。
彼女の美しいところも、醜いところも、全てを受け入れて向き合う。向き合い尽くす。
死という暗い淵へ、一歩ずつ二人で落ちて行く。(結局は二人では行けないという残酷さも描かれる)
その様子は、高原の美しく寒々しい景色描写と相俟って、悲鳴を上げてしまいそうになるほど心に痛く突き刺さる。
純愛に泣くのではなく息を詰めて痛みを堪えるしかない、そんな小説だ。

おそらく、宮崎駿はそういう二人で死を見つめる時間をむしろ「残酷」と思ったのではないかな。
どうせ何も出来ず一緒に死ぬわけにもいかないのに、寄り添うのはエゴイズムだと。
それで、菜穂子を生者の場所に引っ張り出し、キラキラと生気を発して仕事をしている二郎を眺めさせた。
もしかしたらそのほうが死んでいく人は幸せなのかもしれない、と考えた。

二郎が、菜穂子を山の病院へ帰せと言う妹に対し、
「それは出来ない。僕達には時間がないから、一日一日を大事に過ごしているのだ」
と答える。
でも実際は二郎は毎朝早くに仕事へ向かい、遅くに帰ってくる。
「いってらっしゃい」「いってきます」
だけの関係である。
なんだそれ、と私もそこで突っ込みたくなった。
でも考えようによっては、それこそ菜穂子が望んでいた生活なのではないか? とも想像してしまう。
彼女は病人ではない、ごく普通の新妻としての生活を送りたかったのではないか。
そして二郎としては、精一杯仕事をしている普段の姿を妻に見せることが、「時間を大事にする」ということだったのかもしれない。
そう考えれば、薄情に見えてむしろ愛が深いのは堀辰雄ではなく、二郎のほうなのではないかとも思えてくる。
(あくまでも、ものすごく良く理解すれば)

だとしても、だ。
原作に描かれたあの痛み、死の残酷さを「空白」のまま終わらせるのは原作者に失礼だ。
原作を批判するために反対の作品を書きたかったのなら、タイトルは変えるべきではなかったか。あるいは、タイトルだけ拝借することは良しとして中身は全く別物の話、たとえば完全に堀越二郎の話に徹するべきだったのでは。
この描き方ではただ女性支持が欲しくて、脈絡もなく不治の病設定の悲恋をねじ込んだように見えてしまう。
それが「愛がない」し、「リスペクトがない」。

堀越二郎さんについても、ご遺族の方はどう思われたのかな。
遺族のお気持ちは分からないけど、私だったら自分の歴史についてこのように「空白」として描かれることは、悪口を言われるよりも遥かに傷付き耐え難いことと思う。
闇を掘り下げて描いてもらうことこそ、何より魂の慰めになるというのに。

どちらにしても、半端だったなと思ってしまう。
どちらかの話にまとめて掘り下げてくれたら良かった。
堀辰雄原作の部分も、戦争の部分も楽しみにしていただけに、残念。

ジブリ作品全般について。
やはり私の中では、『ナウシカ』に始まり『紅の豚』が頂点だったなと感じる。
豚だから良くて人間だったら駄目、ということでは絶対にないし、「子供向けでなければ駄目」ということでもない。(そもそも『ナウシカ』は大人向けアニメというコンセプトではなかったか?)

昔のジブリに比べて今のこれは、ファンタジー性などではなくもっと大切なことが失われてしまった気がする。

それはおそらく単純なこと。情熱や、愛。

『ナウシカ』には志への情熱があったし、『紅の豚』には飛行機乗りへの愛があった。

多くの人が『風立ちぬ』に愛がない、という感想を書いているのは、恋愛物として女性への愛が足りないというだけではなくてその他のものにも愛が感じられないからなのでは。


誰もが『ナウシカ』のような完璧な物語は書けない、自分にもそんな能力がないので永久の憧れ。
これからのジブリの人たちも昔のジブリに憧れて欲しい。一ファンとしてそう願う。
だいたい昨今のアニメは芸術を装い、複雑さを気取り過ぎる。
完璧な創作とは、もっとシンプルなものではないのか。

(時間がないと言いつつ、思いがけず夜更かしして長々と書いてしまった。やはり昔のジブリが好きだったもので熱くなります)


追記

“エゴ”について。
アマゾンレビューのほうを見ると、この映画を観て皆さん主人公および宮崎駿がエゴイズムの塊であることに気付いている。その上で、「エゴ」を絶賛する。

確かに、科学者や技術者はエゴイストで、そうでなければ良い物は造れない。
妻の命が目の前で消えていく時であっても一心不乱に仕事に向かうような、「鬼」であることは必要な時がある。
自分の造った物が国家を滅ぼしたとしても、造り出したこと自体に快感を覚える「鬼」、それがある種の天才。
アインシュタイン含め、原爆を造った科学者たちはただそれを生み出したいというエゴの塊であって、結果として大量の人が死んだとしても満足する純然たる悪魔なのだ。

しかし、この『風立ちぬ』という映画はそんな現実を描いた作品では決してない、と思う。
そんな素晴らしいものではない。そこまで行っていない。

思うに誰も原作など読んでいないし、堀越二郎のことも知らないのだ。
事実として堀越二郎という人が死にゆく妻を見捨てたのなら私も感じるものがあるが、事実そんなことはない。ということさえ知らずに事実と勘違いして絶賛している。
(仮に知らずにこのアニメだけ観たのだとしても、私はこれでは真に迫るものを感じられず感動出来なかっただろう)

何にせよ、中途半端な仕事で原作や現実の人が踏みにじられたことは確かで、そのことにさえ気付けない大衆のお気楽さに唖然とする。
こういう人たちが歴史人物を踏みにじってバカな嘘話を作り上げていくんだな。

宮崎駿先生も、こうして「自分が好きだった」というだけで他人の作品やら名前やら借りて半端に自己投影するくらいなら、自分自身の伝記を描いていただきたかった。
しかし自伝を描くのはタブーだと彼らは思っている。いったい、日本ではいつからそれが絶対タブーということになったんだ?
自伝を書いたら法律で罰せられるのか。だとしてもタブーを冒してやるのが「鬼」ではないのか。
たとえ日本の庶民から処刑されても、「アニメの鬼」として生きた人生を正面から描いてくれたなら、「ほほう」と感動したかもしれない。

まあ、観客の目を意識して正面から自伝も書けない時点で「エゴの塊」・「技術者の鬼」とは言えないか。

2015年2月25日筆

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なかにし礼『赤い月』と、ドキュメンタリーの話



ドキュメンタリー番組『告白~私たちの満州~』を興味深く観た。
幼い頃を満州で過ごしたタレントたちの実体験は凄まじいものがあった。
私たちは
“何があったか”
を知ってはいても、体感としての苦しみを知らない。
「帰国して渡された食糧に虫がわいていた(自分たちは人間扱いされていなかった)。闘いはこれからだと母は言った」
等、今回語られた記憶には想像以上の現実があった。
「私たちには命しか残っていなかった」、この言葉が全てを表している。

同じく満州で幼い頃を過ごした人による小説として思い出したのは、なかにし礼の『赤い月』。
主に母親のことを描いた物語なので、今回ドキュメンタリーではさらっと流されてしまった、当時の大人たちの満州での生活ぶりも知ることが出来る。
「栄華の絶頂」と表現されたその生活の豪勢なこと。
かつて満州は確かに"夢の地"であったのだ。(当時の日本人にとって)
また、なかにし自身の目で見た引き揚げ時の景色描写は詳細で鮮明だ。
記憶として淡々と書いてしまったという印象がある。心理描写が弱いため感情移入出来ない。
が、むしろそれ故に景色描写がありありと伝わってくると感じるのは私だけだろうか?

――真っ暗な大地が光を浴びると、一面の死体野原だった。
――命がけで渡った河に沈む、とろけそうに赤い夕陽。

戦争や時代背景、当時の思想、現代の喧々諤々な議論……、それら雑音の全てが消えて満州の景色だけが脳裏に浮かんだ。
何故だろう、私にはその光景がたまらなく懐かしかった。
たとえばあの地平線。そこへ沈む巨大な太陽。
「一面の死体野原」までもが懐かしかった。良い意味での「懐かしい」ではないが、奇妙な既視感を覚えて静かな涙が流れた。

満州の歴史的事実を描いたノンフィクションは様々あるが、ソ連侵攻からの悲劇を伝えたいという社会的使命感に傾いているきらいはある。
もちろんそれこそが最も大切なことだが、現実に体験した一般庶民の事実を感じるには社会的使命だけでは不十分かもしれない。何故なら悲劇に焦点が当てられるために、当時の人間の目から見た光景の全てが描かれることはないからだ。
『赤い月』の感情が欠落した表現は、景色描写としては完璧だった。
もし体感として満州の景色を見たかったら、この『赤い月』は絶大にお薦めする。
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『遠野物語』が実話であることの衝撃と、その美しさ

NHK『ヒストリア』で、遠野物語についての話があったので録画して観た。
「妖怪と神さまの不思議な世界~遠野物語をめぐる心の旅~」
これが、仄かな内容だったのだけど予想外で驚きだった。
『遠野物語』に、明治時代に三陸で起きた津波で妻子を失った男の話がある。
男が悲嘆に暮れて海岸を歩いていたところ、死んだはずの妻の姿を見かけた。
妻はその時、かつて自分と結婚する前に恋していた男と一緒に歩いていたという。

ただそれだけの短い話なのだが、これが実話だということで、しかもそのご子孫が2011年3月11日の津波で同じように家を流されたという後日談があったので驚いた。

ご子孫は、妻子ではなく母を津波で奪われた。
彼は震災後もその理不尽さに怒りの感情を持ち続け、苦しんだと言うが……。

不思議なことにご子孫も、ご先祖と同じく母の霊を見た。
彼の場合は夢の中で、日常的な会話を母と交わしたらしい。
震災でストップしていた時間が夢で母と再会出来たことで流れ出し、不思議と怒りが消えていったという。

これと同じことがご先祖にも起きたのではないかと思わせる。
つまり、「妻が昔の男と歩いていた」というストーリーは複雑な気分を起こさせるが、そのことでストップしていた時間が動きだしご先祖は前を向いて歩き出せたのではないかということ。
(ご子孫が生きてらっしゃるということは、ご先祖はその後独り身ではなかったということになるし)

ご子孫は、ご先祖の名前が刻まれている墓の前で
「先祖は優しい人だったのではないかと思う。愛妻をあの世に一人逝かせるのは忍びないと思ったから、せめて昔の想い人とでも一緒にいて欲しいと願ったのでは」
と語る。
この現代で完成した『遠野物語』に、私は涙せずにいられなかった。


現代、「スピリチュアル」というジャンルが流行している。
神秘を日のもとにさらけ出すジャンルだ。
古典スピリチュアル本はインド思想なみに真実で、確かに重要な示唆を含んでいると思う。
しかし私にはあまりにも明快過ぎるように感じられた。
妖怪も神秘さえ存在しないその物理学的過ぎる清潔な次元に、退屈を禁じ得ないのだ。
(つまり「ワクワク」感が、私にはスピで感じられない。清潔で澄んだ気持ちにはなるけれども)

人間が「ワクワク」する次元とは、せいぜい『遠野物語』のような、妖怪や幽霊が住まう世界が限度なのではないか?
時系列の命が存在せず妖怪も幽霊さえ存在しない、ただ清潔な宇宙空間だけの世界に「ワクワク」はない。

「誰も傷付かない世界」は理想郷のように言われるが、それは果たして魅力的なのか?
涙も、愛もない世界に、我々は行きたいとも思わないのではないだろうか。

最も美しく魅力的な世界とは、このような神秘の妖怪たちとともに、時系列に縛られて生きる命の息遣いが感じられる世界だ。

したがって、我々はこれからも『遠野物語』を愛し続ける。
『ゲゲゲの鬼太郎』を、『妖怪ウォッチ』を愛し続けるのだろう。

それは地上に縛り付けられるということを意味するのかもしれないが、妖怪の悲哀を忘れてしまったら我々がこの地上で生きた理由が失われる気がする。

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冲方丁『天地明察』感想(本、映画)



小説の感想

ようやく読むことが叶った。『天地明察』。
もうずっと、何年も前からこれだけは読みたいと思い続けていたのだが、しばらく“読書断ち”していたので読めなかったのだ。
読書断ちしている間に文庫も出ていたらしい。
ありがたく文庫を購入して読んだ。

まず書いておきたい、素晴らしい!!
こんなにストレートに「素晴らしい」と叫びたくなる、気持ちの良い小説を読むのは何年ぶりだろう。
もしかしたら日本の現代作家の小説では初めてかもしれないな。
一点、強調しておきたいのだが歴史小説好きにはこれは受け入れられないと思う。
この小説には「歴史小説らしさ」がないからだ。
歴史小説独特の、歴史臭(講談臭)がしない。
SF作家さんが書いたということだったのでもしかしたら、と期待したが当たりだった。正直思ったよりは歴史小説らしさを装っていたが、視点と心理描写が明らかに現代小説のもので、歴史アレルギー持ちの私でもアレルギーを発症せず読むことが出来た。

※「歴史臭」とは何か? カビの生えた講談調の言い回し、同じく講談調の定番過ぎる展開(あるいは“新説”と称して定番の逆でしかない展開)、三人称にしても視点が遠過ぎて表面的な心理描写。登場人物が全て人形劇の人形のよう。

『天地明察』という小説の素晴らしさは挙げるときりがない。
まず、切った張ったが出て来ないことが本当に素晴らしい。
今の世の中、「殺人」ありきのストーリーばかりでつくづくうんざりしている。物語の流れで人が死ぬのならまだしも、「殺人」から物語が始まるものばかり。現代作家たちは「殺人」から始めなければ物語が書けないらしい。バカなのだろうか?
『天地明察』では歴史物なのに人が殺されない。斬り合いシーンさえない。
ただ心の勝負があるだけだ。
これだけでも奇跡的に素晴らしいと思った。
殺人も殺し合いシーンもなしで、こんなにも手に汗握る面白い物語が生まれたことが嬉しい。

それから、登場人物が魅力的。
歴史作家たちが歴史上人物を描くときは「いかに我々と違って偉い人間なのか」をアピールしようとする。そのため主人公は高みに置かれ有能で重厚な人物として描かれる。(だからこそ歴史小説の地の文の視点は客観的で、遠い)
だが『天地明察』の描写は真逆。
主人公の春海(算哲)は一所懸命だが不器用、正直で朴訥、夢はあるが野心はないというピュアな人物として描かれている。この主人公がたまらなく魅力的だ。思わずふっと微笑んでしまう彼の失敗が身近に思え、応援したくなる。さらに居場所を探して苦しんでいた若き春海には、自分自身の経験を重ねて共鳴さえした。
関孝和や水戸光圀、保科正之なども、実在人物であるのに雲上の高みに置かれず生き生きとした人間らしい魅力を放っている。
えんや、村瀬とのやり取りにテンポの良い会話文が用いられているのは、「ライトノベルっぽい」と言って嫌う人も多いだろうが私は(この程度なら)好きだ。

そして何より、題材がいい。たまらなく、いい。
碁に算術から始まり、月星の観測へ流れていく。
空を見上げ、空へ手を伸ばす。ただひたすら真っ直ぐそれだけの世界。
私にはどうしようもなく好みの世界だった。
これを読んでいる間中、幸福な気持ちに浸ることが出来た。
作者に“ありがとう”と言いたい。こんな物語を世に出してくださって、ありがとうと。

上に「こんなに気持ちの良い小説を読むのは何年ぶりだろう」と書いたのだが、実を言えばこの小説は私の人生を変えてくれる気がした。それほどのインパクトがあった。
と言うのは個人的な事情による。
算術に浸って楽しげにしていた算哲を見て、自分もあそこに行きたいと思ってしまったとき、自分が疲れていることにはっきりと気付いてしまった。
実際、戦いの世界には飽きてしまったのかもしれない。
算哲が御城碁に飽きて求めた「戦い」などではなくて、義務として巻き込まれるくだらない社会の戦いに。
もういいんじゃないか。戦いを投げ出しても許されるんじゃないか。
これを読みながらずっとそんなことを考えていた。
可能なら、これからの人生は算哲のように空を見て幸福な心地で生きたいと思う。
(今さら算術や天文の道に行くという意味でなない。ただもう少し素直になり、楽しいことを求めて生きるべきだと悟った)
若い頃のような「文学に衝撃を受ける」ということとは違うが、この本は私の人生の節目に必要だった気がする。
運命の本だった。


以下は細かいことです。

■この小説の暦などの知識には難があるらしい

アマゾンレビューによれば、『天地明察』の暦や算術の知識には誤りがあるらしいから注意したい。
小説なのだから、小説として面白ければそれで良いと私は思う。ファンタジーやSFなら設定は自由に出来るのだから。だが、知識にこだわるタイプの人には我慢ならないことかもしれないね。
まあ、確かに冲方さんは専門知識を突き詰めず早急に文を書いてしまう癖はあるのかも……と、先日の「二次創作論」を読んで思った。

■映画について

幸いにも、映画は小説を読むより先に観たので純粋に楽しめた。
映画は省略が多くストーリーもかなり変更されていた。
しかしそんな映画でも2時間半、飽きずに見ることが出来、「ああー面白かった!」と呟いてしまうほど堪能した。
あの長編を2時間半という短い時間に収めたのだから、あちこち省いたり、ストーリーの変更があっても仕方がなかったと思う。
むしろラストのほう、小説では春海がロビー活動で策略を展開するのに対し、映画では真正面から再びの勝負に挑む。小説のほうが歴史的事実なのかもしれないが、ちょっと前半と後半で人物の性格が変わったかなという印象を持つ(それは大人としての成長という意味で悪印象はないものの、やや複雑な気分)。物語としては映画のほうが主人公の人格が変わらず、気持ちの良い展開となっている。
あと細かいことだが、映画で私が感銘を受けたのはタイトル画像の美しさ。
星空をバックに 「天 地 明 察」 の四字が表れた瞬間、そのあまりの美しさに涙が出た。
漢字というものは、なんて美しいのだろうかと思った。星空といい、この四字の語感といい、文字の形といい、完璧だ。
あの画像を見ても、自分にはもう一度帰りたい世界があると感じた。

※2014年8月31日筆

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中嶋博行『司法戦争』感想(本)

※この記事にはネタバレがあります。以下、未読の方はご注意ください※
2011年 再読。
昔読んだ時は、「知的でソフトな人に裏の顔があり…」という、二時間ドラマ好きの主婦が喜んで飛びつきそうなステレオタイプの犯人像にひどく落胆した覚えがある。
壮大な国家戦争へ突入していくと見せかけて、個人の怨みによる犯行という狭い世界で終わったところも落胆だった。

が、改めて今読み返してみると、プロの弁護士のお立場から世界の司法の問題点を浮き彫りにし、警鐘を鳴らされていたことが分かる。
まさに昨年のアメリカの謀略によるトヨタの受難を思わせる場面(日本の自動車メーカーPL訴訟)から小説は始まり、現在の“陪審員裁判”(裁判員制度)を予見した結末で終わる。 最後の法務官僚の言葉には痺れた。その通りなのだろう。

あの当時はまだ裁判員制度は始まっておらず、秋月の言葉を深く考えてみることもなかった。 冤罪大量生産工場と化している裁判所から、犠牲者を救い出す手段として裁判員制度は良かったかもしれない。
だが結局は裁判官に指図されないか、買収はないか、民事にまで広がればどうなるのか、等々考えていく必要がある。
合格率40%で量産した法曹たちが行き場のないまま腐っているこの惨劇も、目を開けて見つめなければならない。

本来は論文とか議会への提唱という形をとられるはずのもの、小説という手段が選ばれたに過ぎない。著者はジョン・グリシャムのようなエンターテイメントを目指されたらしいし、あくまでも小説は小説で楽しむべき。だが、不可抗力で小説に刻まれた一人の法曹の叫びを覚えておきたい。

//追記、「今ここにある危機」。
少し前に話題となったTPPは弁護士や医師の自由化をも推進するものだった。大国からレベルの低い弁護士たちが襲来して日本を食い荒らす、という小説の設定はフィクションではない。今こそこの小説を読み、その危険性を肌で知るべき。

出版社/著者からの内容紹介
日本を震撼させるリーガル・サスペンス
沖縄で最高裁の判事が殺された。判事はなぜ死なねばならなかったのか。東京地検、法務省、内閣情報室、警視庁、あらゆる国家権力を巻き込みながら潜行していく巨大な陰謀がついに暴かれる。現役敏腕弁護士作家ならではのリアリティ。司法制度を根本から問い日本を震撼させるリーガル・サスペンスの最高峰!


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角田光代『八日目の蝉』 読書感想とドラマの感想

 泣けて、泣けて仕方がなかった。ドラマのほう。
最終回だけ観たのだが予想外に感動的な仕上がりで、泣きのツボを突かれた。
久しぶりに胸の底から気持ちが込み上げて来て息もつけずに泣いた。
※2010年 壇れい主演で気になっていたドラマです。最後だけ観ても彼女の演技は情緒あり、そしてやはり美しい。全部観れば良かった。
小説のほうでも少し泣きかけたのだが、泣くことの罪を意識させられて涙は寸止めとなった。
決して悪くはない小説。本物の深みがある。けれど感動はさせてくれない。
“愛も情けも、見せびらかしながらすんでのところで逸らされる”
そんな消化不良を起こしそうな辛い小説だった。

誘拐の話である。
不倫相手の子をさらって育てる女の話。
憎むべき犯罪者であり、やってはいけないこと。
それが不思議なことに、母が子を愛しく思う気持ちが切々と伝わって来る描写なのだ。
擬似母子の生活は貧しくても明るく、暖かい。
愛と友情に包まれた生活。
人の子として生まれたらこんなふうに育てられるのが理想と思える。

さらわれた子は“偽の母”が警察に捕まるまで本当に幸福に過ごす。
捕まってからは一転、愛のない冷たい家庭に放り込まれすさんだ生活を強いられる。

「偽者の母親のほうが良かったのではないか。かつての生活のほうが幸せだったのではないか」
とうっかり思ってしまいそうになる。
だがそう思う読者を糾弾するのが、被害者の怨み。
感動している自分がおかしいのかと迷わされる。
最後まで決して気持ちに解決はない。
親子の情に心を震わせかける読者をせせら笑うような、
「愛なんてしょせん幻想。犯罪者でも作り出せる張りぼて」
と言われているような。気のせいだろうか。背後にうっすら背筋の寒くなる怨念も感じられた、と言うのは少し言いがかり気味かな。
もともと女流作家の小説が苦手なだけかもしれない。
(角田光代では他に『三面記事小説』という作品があって、実際にあった犯罪をきっかけに構想し物語を展開させていくという手法が得意らしい。『八日目の蝉』も実際にあった事件がモデルのようだが、事件を描く目的ではなく単に構想のきっかけに過ぎないと思われる。そのきっかけから、ここまで同調して深い物語を書けることは天才的と思う。たぶん自分自身の経験か何かと同調させていると感じられるので、ここまで描けばオリジナルと言って良い。……しかし実際にあった事件の犯人に共感し過ぎな傾向はいかがなものかと思った。『三面記事小説』では、あまりに犯人寄りの、深読みし過ぎな描き方が気になった。現実の事件にはそこまで深い理由がない。だからこそ理不尽で、なお怒りに震えるのだ)

だがしかし――
ドラマは最終回だけ観たからか素直に感動出来た。

脚本もドラマ的に、感動重視で仕上げられていたせいでもあった。一歩間違えばメロドラマふうであまり文学的とは言えないが、個人的にこちらのほうが好きだし、こちらのほうが実は現実的。つまり「リアル」と言えるように思う。
人はそれほどクールにはなれない。
愛の中にどっぷり心を浸したいと思うものだし、愛を信じたいと願う。
たとえ偽者の母子だろうと、愛情が生まれることがある。
生まれた愛は確信となり本物となる。
確かに“そこにある”と自分でも周りから見ても思えるようなものへ。
だから、このドラマのように「あの人は犯罪者ではない。あの人たちは普通の親子だった」と言ってくれる人が出て来るほうが、現実的で完成された世界に見える。
(現実のほうが小説よりよほどメロドラマなのである)
小説を読んで以来のモヤモヤが一気に流された。
“いけないこと”・“おかしいこと”なのかもしれないが、今宵は素直に母子の情に浸りたい。
安っぽくていい、会わせて抱き締めさせてやりたかった。

***
個人的な話。
こういう「母から引き離される子」のテーマは弱い、昔から。
そう言えば『一休さん』もそうだし、『母を訪ねて三千里』もそう。笑
誰もがこのテーマには弱いのかもしれないけど、私は何故か隣に母がいるのに別れたつもりになって共感して泣いていた。
何故だか今生(でも?)、母と別れた錯覚に陥ることがある。
“遠くの母”を想う切なさはちょっと半端ではない。実際に八歳の時に別れるはずではあったので、そのせいかどうか。

「別れずに済んで良かった」と言いたいところだが、別れておけば良かったかもしれないと考えるような辛い片想いを味わうはめになった。
考えてみれば母としての愛情があれば手放すはずの経緯だった。
生みの母よりも他人のほうが愛を注いでくれるということがままあるかもしれない、実際。
(ああそう言えばもうすぐ母の日です。どんな仕打ちを受けても私は彼女を大切にします。これが“対等ではない”関係、永遠の片想いというもの)


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坂の上の雲(感想メモ2)

前記事より続き。

・日本に優秀な戦略家がいないと書いたが、日露戦争の時にはそうではなかった。秋山参謀のような職人から、児玉源太郎のような俯瞰脳を持つ政治戦略家まで粒揃い。現代から見れば羨ましい、明治政府の教育方針ゆえか。
またこの明治の当時、滅私奉公の精神を政治家が当たり前にもっていたことにも頭が下がる。日露戦争の戦略を担当した参謀本部次長たち(田村い与造、川上操六)が過労で死んでいった。この後、児玉源太郎は大臣から参謀本部次長へと降格してまでこの激務の後を継いだ。その児玉は日露戦争の後に死んだ。
国のため降格し、命を削ってまで任務をまっとうする。…偉い人がいたもの。泣いた。

・ところで司馬先生が「児玉源太郎は読書家ではない故に天才」と言い、読書家へさんざん嫌味を書いているのには参った。
自分の本を読んでいるお客様のほぼ全てが“読書家”であることに気付いているのかいないのか?(笑)
うっかりミスなのか、それとも冗談なのかなと思ってちょっと笑いました。


・引用、三巻P196
「ちなみに、すぐれた戦略戦術というものはいわば算術ていどのもので、素人が十分に理解できるような簡明さをもっている。逆にいえば玄人だけに理解できるような哲学じみた晦渋な戦略戦術はまれにしか存在しないし、まれに存在しえたとしても、それは敗北側のそれでしかない。」

>すぐれた戦略戦術というものはいわば算術ていどのもので、素人が十分に理解できるような簡明さをもっている
全くそのとおりだと思う。
戦闘の勝敗というのは純粋に力の合計のみで決まるから、本来なら小学生でも計算可能なはずだ。たとえば敵の兵数が6万、こちらが4万とすると、同等の能力を持つ兵だった場合に必ず6万の敵が勝つ。子供でも分かる。
しかし実は、その単純さを受け入れることこそ素人には最も難しいのではないでしょうか、司馬先生。

シンプルな定理を見抜けないのが、素人が素人たる所以なのでは。
基本をとらえられないから、少し複雑な結果になると分かりにくい。たとえば小が大に勝つという結果は、複雑で不可解なゆえに素人目には「天才が起こした奇跡」に見える。(この小が大に勝つという場合、素人目には見えにくい兵力以外の要素が力学的に勝っていたという単純な事実があったからに過ぎないのだが)
つまり素人のほうが神秘的で哲学的で、難解な非合理に飛びつきがちだ。

>逆にいえば玄人だけに理解できるような哲学じみた晦渋な戦略戦術は…敗北側のそれでしかない
第二次世界大戦時の日本国の戦略のことを仰っているのだと思うが、「玄人だけに理解できる」は逆でしょう。
その時の戦略は玄人向けに作られたものではなく、むしろ素人向けに作られた宣伝。プロパガンダ。
非合理な戦略は一般大衆が素人だからこそ受け入れることが出来るもの。あれが意図的に国民の協力を目的として考えられた計略なら、(宣伝効果という点で)至上稀に見る成功に終わったと言えるだろうし、戦略としても決して大きなはずれではなかったと思う。
司馬先生は愛国心のことを「戦略の非合理」と呼ぶけれども、その合理、総合戦闘力とは経済力と兵数のみで量れるものではない。兵士・国民の士気、忠誠心というものも戦闘力の重大な要素。
というのは、先に日清戦争の結末を眺めていて大いに分かるはず。巨大な戦艦を持っていて、物理の戦闘力では日本を上回っていた清が敗北したのは何故か? 愛国心、忠誠心(統制力)という要素が欠乏していたからだ。この点で日本国は清国より勝っていたためにトータルな、つまり「総合戦闘力」の数値が上昇し勝利することが出来た。日露戦争でも最終的には、敵国ロシアの統制力のなさのおかげで日本が優ることが出来たと言えるだろう。どれほど強い戦艦を持っていたとしても、使う者たちの戦闘力が弱ければ役には立たないのだ。
確かに経済力や兵数と比べて、愛国心に基づく統制力は数値に置き換えることが難しい。しかし、難しいからといって、「存在しない」ものではない。司馬先生のように「あいまいな神秘」などと断言してこの重大要素を排除してしまっては、清国や露国と同様に滅亡の道へまっしぐらだろう。

ところで明治政府の為政者たちが「国民精神の高揚などというとりとめない発言をしなかった」というのは信じがたい。
“富国強兵”という小学校の社会で習ったあのスローガンは気のせいだったのか? まさか。
明治時代ほど日本人が国民精神を高揚させ、一致団結して国を高めていった時代はなかったろうと思う。だからこその日清・日露の勝利があったことは見逃せないだろう。
少し戦争を齧れば、過去の日本を勝利へ導いた重大要素が「国民の統制力」にあったことは見抜ける。太平洋戦争開戦時において、為政者たちはこの過去を見習い、足りない戦闘力を補おうとしたのではないか。
だからあの曖昧で哲学的なスローガンは、全体の戦闘力を底上げするプロパガンダとして、戦略を考える側から見れば“有用であった”と言える。
ただし太平洋戦争の不幸なところは、物理的に圧倒的に不利だったゆえに「国民精神の高揚」という要素を足しても敵国に戦闘力が追いつかなかったことだ。(このため「国民精神の高揚」が神秘的な妄想に過ぎなくなってしまったのだ)
さらに全体的な戦略シナリオの欠陥。というよりはシナリオの欠乏。
参謀という戦術家の寄せ集めだけで、行き当たりばったりに戦争をしたという感が否めない。戦争の結末を方向づける戦略家の存在が見当たらない。
そもそも勝利が妄想と言えるほど総合戦闘力が劣っているのなら、現実の戦闘に踏み切るべきではなかったのだが……。
「窮鼠 猫を噛む」か。
いたしかたなかったにしろ、もう少し無謀ではないやり方があったように思う。
太平洋戦争の末期に至っては、素人だけが信奉するべき「神秘」を戦争のプロたる将軍たちまで信じるようになってしまったようだ。
伝統的な歴史小説ファンタジーに基づき、「現場ですべて何とか出来る」という妄想を現場に押し付けた。
(※これは歴史小説で描かれている、「天才たちが現場ですべて何とかした」かのような嘘っぱちな戦争フィクションを鵜呑みにしてしまったもの。だから歴史小説は現実に対して有害なのだ。プロは中華と日本の歴史小説を捨てろ)
当たり前だが物理を無視しての“戦闘力の底上げ”はあり得ない。物理あっての精神による戦闘力の底上げだ。太平洋戦争ではプロまで妄想にすがりつき、あまりにも精神に偏り過ぎた。偏ったから悲劇的な敗北を喫した。プロが妄想にすがってしまっては従う国民は妄想で溺れ死にするしかない。

現代について。
戦後史の流れとして、司馬先生の「愛国心=戦闘要素ゼロ」という偏った結論が現代日本のスタンダードな考え方になってしまったとするとまずいなと思う。偏れば滅ぶ。

司馬先生もそうだけど戦争を体験した先輩たちは、過去の反省から「愛国心」を過剰に排除しようとしてきた。
神経質なまでに愛国心を漂白する現代教育。私自身もこの教育を受けて来たので、同世代の多くの人々と同じように「愛国心って何?」「国のため?馬鹿馬鹿しい」と思うほう。だから、分かる。今もし戦争が起きたら清国と似たような状態になるだろうこと。国が滅ぶのを憂えるよりも自分の身が傷付くのが嫌で、戦場から逃亡する人がきっと多い。

愛国心を漂白する教育が悪いと言っているのではなくて、事実としてこの国は弱いと考えられる。もし総合戦闘力を数値に置き換えることが出来るとしたら、今の日本の戦闘力(政治・経済含む)は先進国最低レベルの数値になるのだろう。


追記: 
細かいことを書いてしまったのは、、司馬作品が「つい語りたくなってしまうほど詳細で素晴らしい」小説だからです。
興奮を抑えられず物語の中に唐突に登場してしまう「私」と、熱い語り口が私は好きです。この情熱に導かれて目が止まらず、読み進んでしまう。
情熱溢れる創作。素晴らしいです。


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司馬遼太郎『坂の上の雲』感想メモまとめ

 東洋の歴史物アレルギー持ちである私に、
「これなら近代でリアルだから大丈夫でしょ」
と言って相方がクリスマスに『坂雲』全巻をプレゼントしてくれた。
確かに、近代のリアルな戦争物なら読める。むしろ好んで読む。
『坂雲』は私の好きな明治以降の話だから気にはなっていた。
いざシバリョウ・デビュー。
読み始めたら思った以上にリアルだったため、はまったはまった。
考えが山ほど湧いて、様々なところに感想メモを書き散らしてしまった。
ブクログ・歴史館と散らかったメモをここにまとめておきます。
乱文ママなので読みづらいことご容赦を。

紹介。電子で合本が出ていたらしい。これ欲しいなぁ
※電子書籍です、注意※ 


紙本はこちら:

 

■2011年1月 読了時の感想 (ブクログで書いたもの)

爽快です。凄惨な戦争場面は辛かったが全体に前向きな力が溢れてくる。
リアルの話は面白い。細かい記録描写も全て丁寧に読みました。長く心地良い読書でした。
「感傷を軽蔑する」などと、まるで恋愛を軽蔑する中学生かのようなことを仰っていた司馬先生が書き終わった後は呆然としてしまったとのこと。この話に涙が出た。
これだけ膨大な記録を調べながらの執筆活動は人生そのもの、命を注がれたことでしょう。
素晴らしい作品を読めた幸せを噛み締めます。


■2010年11月 4巻について(同じくブクログにて)

しばらく途中で放置していたのですが、ドラマが放送される前に読みたいので慌ててまた読み始めました。

この巻は特に実際の記録を並べて著者がご自身の意見を延々と書くという、あまり小説的ではないスタイルに終始しています。物語性が低いので駄目な人は駄目だろうなあ。私は好きですが。

詳細な記述と熱い語り口に感じるところが多かった。
児玉さん、個人として素晴らしい。しかし国家全体では兵站という戦略の基本中の基本をおろそかにし、「現場で何とか出来る」という歴史小説的な妄想において全てを現場に押し付ける体質。苛々した。(この体質は現代まであらゆる分野で続いている)
士気を重視する乃木さんの態度には感服したが、ここまで来れば伊地知への信頼は失墜しているので彼を降ろさないことこそ士気に関わるだろうと歯噛みした。
露の狂乱についても事実は小説より奇なり。要はどっちもどっち、戦争をするレベル以前の問題。

近現代戦は武器だけとんでもなく優れているのだが、使う人間の組織に欠陥があったり、戦略の基本が抜けているような気がします。それで大量殺戮兵器を扱うのだからなお恐ろしい。

引用箇所、同意です。
 恐怖心のつよい性格であることは、軍人としてかならずしも不名誉なことではなく、古来名将やすぐれた作戦家といわれる人物にむしろこの性格のもちぬしが多い。人間の智恵は勇猛な性格からうまれるよりも、恐怖心のつよい性格からうまれることが多いのである。が、古来の名将といわれる人物は、それを自分の胸中に閉じ込め、身辺の配下にさえ知られぬようにした。それが統帥の秘訣であるだろう。


■歴史館の日記より。その1

10/01/03
再び『坂の上の雲』から。
日本人には「兵站」という概念がなかった、という話に心底驚いた。
「…日本人の戦争の歴史は、一、二の例外をのぞいてはすべて国内が戦場になっており、兵站というほどのものが必要であったことがない。強いて例外をもとめれば、豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、(略)」
<文春文庫(1)P233>

本当だ。近所でしか戦争経験のない民族。

だから戦争と言えば戦場で羽みたいなものをバサバサ振って隊を動かす、みたいな現場イメージしかないのだな。歴史の話になると陣の動かし方はこう、と現場知識ばかり誇らしげにひけらかしている。
なんてこった。
そのファンタジー頭のまま第二次大戦に突っ走り、“兵站”がいかに大事かも考えられず、大量の戦場での餓死者を出した……わけか。

涙。
戦うことも出来ず飢えで亡くなった方々、本当に気の毒に。

戦争の実務は兵站に始まり兵站に終わる、はず。
武具・兵器の調達から食料の確保、その輸送路確保。近隣諸国との水面下での根回し。
つまり、「戦争」=後方支援+政治。
実際、現場の戦場ですることなどほとんど無きに等しいと言って正しいはずだ。(と、私は思う)

日本人に戦争を教えようとやって来たドイツ人講師が頭を抱えたのも当然。
「戦場は、戦争そのものではない」 (※戦場は戦争のほんの一部の場面に過ぎない)
ということなど何度教えても日本人にはピンと来なかったに違いない。
いまだに大学の歴史学者ですら「戦場=戦争」だという前提で話をしているくらいだから。

日露戦争まではどうにか戦争を知識として叩き込むことが可能だったとしても、その後は伝統として根付いていかなかったのか。ドイツ人の直属の弟子たちが死んだら知識は潰えてしまった。
そのためにあの大敗。
民族に刷り込まれた思い込みを叩きなおすことは出来なかった、ということだ。

“戦場で羽などバサバサ振って戦う”という、
こんな阿呆なファンタジーを植えつけてしまった責任の一端は『三国志(演義)』にもあるな。
あれは庶民による庶民向け、素人による素人限定の物語。
すなわち書いた人間も戦争のド素人だ、という事実を割り切って読むべきだ。
(そう言う私も素人ですが)
大陸の人たちは割り切って読んでいるのではないかな?
『三国志』はあくまでも京劇用の台本。日本と比べて劇と現実物語との区分けが非常にきっちりしているように思う。
日本の場合、織田信長や豊臣秀吉の史実をもとにした逸話なんかとごちゃ混ぜになり、『演義』もほとんど史実と同等に受け取られて、現実とフィクションの区別がつかない人たちを大量に生み出してしまったのでは。

最も困ると感じることは、『三国志』を読んでいる人々には現実の戦争の知識がない。
そして現代戦争のプロたちは、『三国志』などの古典時代にほとんど興味がない(現実としては)。ということ。

だから『三国志』に現実が浸透していくことはついになく、古典信奉者たちはファンタジーを鵜呑みにして現実だと主張する……。
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これはきっぱり……日本人には戦争は向かない、と言うしかないのではないか。
少なくとも外国との戦争は無理、本質的に他国とは違う気がする。やめておくべし。やめておこう。

追記: 日本人は戦争に向かない代わりに和を保つ稀有な才能を持っている。他国のような無茶苦茶な暴君(私欲のエロと殺戮に突っ走った独裁者)を出したことが一度もない、これは奇跡。こんな国は他にないのだから。
戦争は日本人の性に合わないと知り、この民族の才能を良い方向に生かしていけたらと思う。


09/12/31

秋山真之は書生時代、「試験の神様」と呼ばれていたらしい。
(『坂の上の雲』情報)
彼は普段はろくに勉強しないのだが、ヤマを当てる天才だったため、いつも一夜漬けで試験を切り抜けていたそう。
友人に「どうしてそんなに当たるのか」と聞かれると、教師の立場で考える・過去のデータを分析する等々ありきたりのことを言いつつ、最終的にはやはり“カン”と答えたという。

どこでも似たような人がいるのだなと思う。ちなみに私も秋山氏と同様のタイプです、限りなくレベルは低いが;

この後の秋山氏の自己分析が面白かった。
「自分は要領が良すぎる」。
だから、学問は二流で終わるしかないと彼は言う。
そして結局、そんな「要領の良い」人間は軍人にでもなるしかないから、参謀への道を歩んで行く……。

唸ったね。それはそうなのかもしれない。

シバリョウ曰く、
「学者は根気とつみかさねであり、それだけで十分に学者になれる。一世紀に何人という天才的学者だけが、根気とつみかさねの上にするどい直感力をもち、巨大な仮説を設定してそれを裏付けする。真之は学問をするかぎりはそういう学者になりたかったが、しかし金がない。学問をするには右の条件のほかに金が要るのである」
金がない! 
そう、才能のほかに必要なのは金(環境)、これは絶望的な真理。
ただその絶望的環境が秋山を参謀職に導いたわけで、やはり運命はその人なりの道に向かうように仕組まれているのか。

追記:
にしても、近代はやはり面白い。
近現代好きなのは、エピソードが作り物ではない可能性が高いからです(たとえフィクションだとしてもリアルらしく感じられるよう気を遣われている)。それに近現代物はミニ情報が多いところがいい。たとえばヨーロッパで騎兵が創られたのはチンギス・ハーンの騎兵軍団に影響を受けたから、等という話など私には面白かった。

感想メモ2へ続く>>


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牛島信『利益相反/コンフリクト』



帯の紹介文、
「顧問弁護士と監査役の立場から父親を糾弾する息子の葛藤とは?」
 とのことだったので、実の息子が父親の不正を暴く葛藤のドラマを期待して読んだ。が、想像していた内容ではなかった。
 ギリシア悲劇さながらの展開に登場人物たちが鬱々と悩んで独白するあたり、もしかしたら純文学に近いものを目指されたのかもしれない。一般受けしないだろうなと思った。
まあ「殺人事件の犯人捜してメデタシメデタシ」しか能のない馬鹿なミステリ小説よりは遥かにマシ。法律モノと言えばミステリという時代が去ってくれて良かった。
出来れば巨大な不正に挑むドラマが読みたかったけど、プロの弁護士さんが描いたものとしてリアルが感じられ良かった。
 弁護士の呟きには色々考えさせられたし、論語が出てくるあたり本当に堪能した。
法学部の学生が読むと面白いかもしれないな。

(逆に言うと法学部卒でなければ面白くもなんともないだろうなと思う。楽天レビュー「ここまで面白くないと思った小説は僕が読んだ中では過去を振り返っても皆無です。」に、それもそうだろうと笑った)

2010年10月27日筆 2017年10月14日追記

【内容情報】(「BOOK」データベースより)
顧問弁護士と監査役の立場から父親を糾弾する息子の葛藤とは?樋山は不動産会社を創業し、年商1500億円の上場企業にまで成長させたオーナー社長だ。ある日、監査法人からトンネル会社の不正を指摘され、社内に激震が走る…。国際弁護士作家の書き下ろし傑作・企業法律小説。


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佐藤正午『5』感想(本)


「最近、くだらない恋愛小説が流行っているなぁ。ちっ、読者も作家もバカばっかり」
世相を眺め苛々したベテラン作家が、露骨な皮肉をもって「大人の恋愛小説とはこう書くんだよ」と提示した作品。
恋愛小説と言いながら、愛はないのでご注意を。何故かSF小説になっている。(そのことでSFも皮肉っている)
良い意味でも悪い意味でもアイロニーに溢れている。
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
「憶えてるよ」僕は正気を取り戻した。「スープも人の感情もいずれ冷めてしまうという一行だね」「本気で書いたんでしょう?」「本気だよ」「必ず冷めるもののことをスープと呼び愛と呼ぶ」「真理だ」「その真理がくつがえるんです」。洗練された筆致と息をつかせぬリーダビリティで綴られる、交錯した人間模様。愛の真理と幻想を描いた、大傑作長編。

冷めないスープはない、止まない雨はない。当たり前。
 永遠という言葉を“冷めないスープ”というそのままの意味に受け取り、過剰反応し、「永遠なんかあり得ない!」とヒステリーを起こしていた女性がいたっけ。その人のスープはきっと冷めたのだろうな。

自己陶酔の語りに酔っているかと見せかけて、実は完全しらふの文と感じます。ストーリーは緻密、完成している。
 古典的なSF小説に、文学(私小説風な語り)が織り交ぜられた感じ。だからストーリー性ある小説として読むのも面白いかと。

ただストーリー、だけじゃないところが良かった。ダラダラ愚痴のように書かれた“作家”の語りは退屈だけど、この小説の最大の味わいもその愚痴部分でしょう。
 退屈でも、人が腹の中のもの見せてくれるのっていいよなと思う。
“エンターテイメント至上”と言って、ストーリーだけの小説を大人が読んで何の意味があるのだろう?(大人が目新しい設定に出会う機会などあり得ないというのに)

2010年9月20日
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『三島由紀夫とは何者だったのか』感想

 三島由紀夫の小説も一時期よく読んだが、一度たりとも「好き」と思えたことがなかった。

文章は嫌いではない。華美な表現も面白みがあり私には楽しめる。
ストーリー展開も現代のコミックの原型と言えるので、ある意味で“馴染み深い”もの。
 退屈なストーリーで溢れる小説世界にこの人は救世主として表れたのだろう。

けど、な。
三島の小説を読むと必ずと言って良いほど落ち込むんだよな。
 今度こそ大丈夫と覚悟して読むも、読後は鬱を覚えるのを避けられない。

それはたぶん小説から一切何も学ぶべきところがなく虚しいからだ。
作者の人柄そのまま、人としての深みがなく成長がなく無意味である。
 激烈に文章の巧い中学生の書いた小説を読むような気分なんだな。
美しく形作られた砂糖菓子のようなもの。
眺めるなら綺麗でも、口に入れれば甘いだけで他の味がしない。だからこんなの食べてどうしたかったんだろうと食べた後に落ち込むのだ。

 ただ三島小説が現代作家の「空っぽの箱」と違うのは、この砂糖菓子たる形が作者自身の人生であるところだ。
「空っぽの箱」
を作ろうと狙って、気取った技巧のみにこだわっている。読者を簡単に騙すことが出来るそのような技巧に長けてしまった、腐った大人作家たちとは大いに異なる。
 三島はこれしか出来なかった。
自分に出来る最大限を素直に表現したら結果こうなっただけのこと。

中学生のように正直過ぎる人なのだと思う。
 そのままを小説に写し取っただけに過ぎないのだから、小説家としては誠実だったのだと言える。

三島の小説を読んで妙に落ち込むのと、現代の「空っぽ」小説を読んで時間を無駄にしたと怒りを覚えるのとでは比較にならないほど前者のほうが気分が良い。
 未熟だが正直な中学生の話のほうが、嘘つきな大人の話よりも遥かにマシと思う。

そんな三島由紀夫という人はやはりどうしても気になってしまう存在だ。
以下はタイトルが同感で手に取った評伝。



内容(「BOOK」データベースより) “同性愛”を書いた作家ではなく、“同性愛”を書かなかった作家。恋ではなく、「恋の不可能」にしか欲望を機能させることが出来ない人―。諸作品の驚嘆すべき精緻な読み込みから浮かび上がる、天才作家への新しい視点。「私の中で、三島由紀夫はとうの昔に終わっている」と語って憚らない著者が、「それなのになぜ、私は三島が気になるのか?」と自問を重ね綴る。小林秀雄賞受賞作。

凄い言葉だ。「欲望媒介物」、フェティッシュ。
橋本治は、これにただ 「物」 という字をあてた。
<引用>
…だから、妄想の外に出てしまった人間は、一時的に戸惑うのである。妄想と共にあることに慣れてしまった欲望は、妄想という動機付けがないと、欲望として機能しない。だから、一時的な機能停止に陥って、その欲望を現実の基準に合わせた形で再構成する。「相手かまわずやり放題だった人間が、本当に好きな相手と巡り会って、やり放題が不可能になる」というのが、卑近な一列である。  …ところがこの「私」は違うのだ。「欲望は妄想と共にあり、妄想がなければ欲望は成り立たない」ということを知って、現実の上に妄想を覆いかぶせようとするのである。  …「私」にとっての近江は、「肉体だけを持つ生きた物語」になった。近江に「人格」はいらない。「知性において自分は近江より遥かに上だ」と規定してしまった「私」は、近江を「好みの物語を連想させる、肉体だけの人間」として見る。近江は、「私」の欲望を成り立たせる「物(フェティッシュ)」にされたのである。より現代的な表現を使うなら、「妄想の中にいた“私”は、妄想から抜け出し、ストーカーになった」である。 【『三島由紀夫はなにものだったのか』橋本治著 165-167】
 引用文ラストの太字、
「妄想の中にいた“私”は、妄想から抜け出し、ストーカーになった」
には納得。

そういうこと。
ストーカーなのだ。現実の恋愛に不能な、三島的なる彼らは。

彼らは自分の妄想を現実に合わせることが出来ない。たとえば好きになった現実の人間から、“イメージと違う”部分を見せ付けられると自分のイメージを修正するのではなく、違う部分を無視する。
“なかったこと”、つまり、現実を殺してしまう。

 行き過ぎると、実際に相手を自分の妄想に合わせて作り変えようとする。
たとえば脅迫して言うなりにしたり、縛ったり、監禁したり。
それでも駄目なら殺す。
イメージに合わないのなら、消えてもらうしかないからだ。

それは相手が単なる
「物 : 欲望媒介物」
でしかないため。

これがストーカー。
 ストーカー行為をしたからストーカーなのではなく、現実の相手を欲望媒介物にしてしまう心理を持った時点でストーカーだとするなら。三島由紀夫は、正真正銘ストーカーだった。
昭和初期に比べると、変態を表すうまい言葉がものすごく増えたのだろうなと思う。
たとえば三島を、
「ショタ萌え」 (byアマゾンレビュアー)
と言ってしまえるとか。
ということはそれだけ、恋愛不能の人口が増えたということだな……。

現代なら三島由紀夫は特殊ではなく、むしろ、“その他大勢”。
 よくいる変態萌えオタクだから、現代に生きていれば確かにラクだったかもしれない。特別視されて絶賛されることはなかっただろうけど、多くのオタクさんがそうであるように、同じ趣味の仲間を見つけて大人しく妄想の世界で生きていけたのかも。
自殺なんかする必要、なかったかもな。

それにしても橋本治先生は現代変態用語への変換がうまいです。
この本は最初うんざりして投げ出していたけど、再チャレンジしたら途中から面白くなってきた。
もうレビューは諦めた(語りつくせないので)ものの、抜書きしておきたい文章がたくさんある。

最も面白かったアマゾンレビュー
「電波男」に感銘を受けた人に勧めたい。, 2005/11/06 レビュアー: "インド一反木綿"
女性不信なのに女なんて要らない、と言えなかった男の子たちの背中を押したのが「電波男」なら、この本は「自意識と深く絡み合った性癖のせいで恋愛ができなかった男の子が、自分を肯定しようと四苦八苦したあげくに滅びていった」ことを「作家橋本治」の目線で述べている。この解釈が正しいのかどうかは知らない。三島自身が生きていれば当たっていようが間違っていようがきっと「違う」と言い切るであろう。が、この本を読んだあとには三島が40年遅く生まれていれば、「隠れショタ萌えのオタ官僚」として、死なずにすんだような気がしてしまう。その代わりに文豪にも時代の寵児にもなることはなかっただろうが。


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『桜桃とキリスト――もう一つの太宰治伝』感想

 この人こそ読んでいると誤解される作家の代表ではないだろうか。太宰治。
太宰治ファンで有名な芸人、又吉がブログにて
「太宰治が好きだと言うと“ああ。昔読んだわ”と言われ、やったった感を出される」
と書いていたので笑った。確かにそういう自称読書家は多いな。

彼が言うようにそのような人間は偉い評論家の言葉をコピーしているだけだ。
「太宰ごときは十代の頃に読むべきもの」とか
「自意識過剰な太宰文学を大人が読むのは恥ずかしい」
 などと他人の言葉を何も考えず鵜呑みにし、オウムのようにそのまま口から再生してしまう人間のほうが遥かに恥ずかしい。
自分の意見として「好きになれない」と言うのならまだしも。

と、……そう言う私は、実はあまり太宰文学が好きなほうではなかった。
 ただ単に深くヒットする作品に出会わなかった、私の人生には影響がなかったというだけのことで、悪い作家と思ったことは一度もないが。
言っておくが現代の商魂丸出しの張りぼて小説より、遥か遥かに好きだ。
 大量生産されたくだらない現代小説を読む時間があれば太宰治を再読したほうが有意義な時間を過ごせると思う。
 さて評論家として、「十代の通過点」どころか年配になっても太宰治を読み続けている人がいる。
ここに紹介する本はその「生涯・太宰ファン」による、熱きラブコール。


 とにかく太宰が好きで、長年太宰を何度も再読し続けているという強者です。
 調査が細かく徹底していて、さらに客観的な目もある。
 たとえば『女学生』などの小説はほとんどパクリで書かれたことなど、現代だったら大問題となるだろう事実まで容赦なく載せている。
他のエピソードも驚きの連続だった。

特に驚嘆したのは太宰の小説の書き方。
彼はいざ原稿に向かうと一文字も修正することなく最後まで淀みなく書き上げてしまったという。
また口述で原稿を書くことも多く、まるで既に存在する原稿を読み上げるように滑らかに述べた。
つまり頭の中で一字一句に至るまで完璧に仕上げてから、原稿なり声なりでアウトプットしたのだ。

 人間業ではない。
(つい推敲を繰り返してしまう私から見たら神様です)

 私は「この世に天才などいない」と思っていたのだが、これは、いるんだなと初めて信じた。
 間違いなく太宰治は天才だったようだ。
その才能は青森の潮来に由来するのではないか、と長部氏は見ている。
 『女学生』などはほぼ女子学生が書いた文を写したようなのだが、ところどころ太宰なりの言い回しに変えられているそうでそれ故に名作となっている。
 要するに、潮来として他人の心を乗り移らせて語る超人的な才能があったのかもしれない。
と言うことは自分について語る時もいったん魂を遠ざけ、他人の魂のように乗り移らせて語ったのだとも想像出来る。
それ故、ぞんざいで表現が粗いようにも思えるのだが、全体で眺めてみれば見事な歌として成立している。

 そもそも太宰の小説は音楽だと長部氏は語っていて、私も同感だった。
太宰の小説は決して飛ばし読みをしてはいけない。
 文章を頭の中で音として再生しながら読むと最高のリズム、完璧な歌を味わうことが出来る。

正直言って太宰先生がここまでの天才だとは気付かず、今まで読み返してみることもなかったことを反省した。
 それでこの本を読んだ直後、むしょうに読み返してみたくなり太宰本を買いあさったのだった。
 (ちょうど太宰生誕百周年の年だったので書店の目立つところに並んでいた。いつも隅に追いやられているのだが)

こんなふうに感化されて見方を変える読者もいるのだから、やはりファンなら声を上げたほうがいいなと思った。
 馬鹿にされても好きな作家について語っていくことは大切です。
*** 以下はこの本について以前に書いた感想。太宰の人格に対する個人的な印象が中心、まとまりないメモです ***

『桜桃とキリスト―もう一つの太宰治伝』
太宰の二度目の結婚から、心中死に至るまでを書いた評伝。大佛次郎賞、受賞作品。

 濃厚な内容だった。
 「人生を通してずっと太宰治を読んで来た」という著者の語り口は熱い。そして資料をつぶさに調べて引用を多く用いてくれているので人物像が生き生きと浮かび上がって来る。
まるで生きた津島修治という人物が目の前にいるかのような、彼を囲む宴会の片隅にでも座らせてもらっているような気分だった。

この本を読んで太宰治という作家のイメージを払拭せざるを得なかった。
 女々しい作家であり、奥さんを大事に出来なかった最低なアル中ヤク中野郎で、最終的には安易な死に逃げた……という事実の認識は変わらない。だがそこに至るまでの道のりを知ったことで、デカダンスな文豪というイメージに過ぎなかった太宰治が人間・津島修治として見えて来た。
なんだ、彼も普通の人だったのだ。
ごくありふれた日常に潜む落とし穴にはまり抜け出せなくなっただけの男だ。
“仕方がない”、とは言わない。が、分かる。
自分もいつそこにはまるかもしれない。
 はまったら抜け出すのは容易ではないだろう。
 健康に生きている今の自分はたまたまの幸運に過ぎず、もしかしたらあの時あの道を行けば、太宰と似たり寄ったりの人生だったかもしれないと思う。(彼ほどの自堕落が出来るほどの体力はないが)
 思うから、むやみに軽蔑したり「自分はあいつとは違う」と誇ったりすることはもう、出来ない。
まず最も驚いたことは、太宰はどこまでも男であったということだ。

 というのも、女々しいというイメージが一般的で私もそう思っていたのだが、女性的なのは外見だけで彼は性根から男だった。あの女々しさは、男としてのありきたりな女々しさだ。実は女性のほうがこういう女々しい部分など持っていない。
 男なのだから、妻子を本心では愛していたはずだ。
でも大切に出来ない。その力がない。
「自分にはこれでいっぱい(精一杯)なのです」
 と言った彼の言葉はやったことを見れば嘘に聞こえてしまうが、きっと本気の本心だろう。
夜中に妻子への愛情で苦しみのた打ち回っていた津島修治の姿がありありと見える。
 
彼が自殺に至った要因は様々に取り沙汰されていて、「無理心中だ(愛人が殺したのだ)」という噂まで飛び交っていたことに驚いた。
 著者の長部氏は
「無理心中ということはないだろう」
と言っていて、私もそうだと思う。死を選んだのは太宰自身の意思なんだろう。

結核。多額の税金。愛人問題。
 それらの苦悩が胸に降り積った結果という著者の想像がたぶん正しい。
ただ最終的にはやはり、山崎富栄が実力行使したに近いな、と私は個人的に感じる。
 俗な言い方だけど、別れ話のもつれでは。
 それまでの不健康な生活から少し抜け出して、結核も快復に向かっていた。そして新しい作品も書き始めていた。その矢先に死んでしまったのは、身近な愛人の強制があってのことだと思う。
死のしばらく前から山崎富栄は太宰を軟禁して誰にも会わせなかったらしい。
 軟禁状態で太宰が受けた精神攻撃の地獄は想像に難くない。
「自分の物にならないなら死んでくれ」
 そう言われた時、人の心はポキンと折れる。
あ、もういいよ。
 分かったよ。死んでやるよ。喜んでくれるなら。
そう思う。
疲れてしまう、のだろう。
ましてそれまでに様々に傷付き心労を抱えて疲れきった人間なら、なおさら。

太宰の場合、その「心労」のほとんどが客観的にどう見ても彼自身が悪いとしか思えないのだが。
 それにしても、師であった井伏鱒二が口にしたとされる“悪口”を聞いた時の心の傷は深いものだったはずだ。
 太宰の言葉を再引用。
P346:
「ここだけの話だがね、この正月にね、亀井や山岸たちと井伏さんのところに、挨拶に行ったんだ。例のごとく、おれはしたたかに酔っ払っちゃってね、眠くなったものだから、隣室に引退って、横になって寝ちまったんだ。どのぐらい寝てたんだか、それは分からんがね、とにかくふと眼をさますと、襖越しに笑い声が聞こえるんだ。みんなで、寄ってたかっておれの悪口をいい合っては、笑っているんだ。おれがピエロだというんだ。いい気になっているけれど、ピエロに過ぎんというんだよ。このとき、おれはね、地獄に叩きこまれたと思ったね。髪の逆立つ思いとは、あれのことだね。思い出しただけで、総身が慄えてくるんだよ」

大人の嫉妬はみっともない。
 実生活ではあまり褒められる人間ではない太宰だが、単なる嫉妬という理由だけで人を叩くのは筋が通らない。
 当時、太宰は『斜陽』が大ヒットして一躍スター作家となっていた。だから周囲の嫉妬は凄まじかったろう。上のエピソードはその中でも最も身近な人たちからの嫉妬を受けた場面。
 
 長部氏は、太宰の師である井伏鱒二はたぶんその場にいただけで悪口は言っていないはず、と言う。
 きっとそうなのだろうと思う。太宰は被害妄想の気があるから、過剰に受け取ってしまっただけなのだ。
長部氏が書いている通り、井伏はどんなに太宰が酷いことをしても見捨てずに献身的に尽くした。他人から見れば何もそこまでしてやることはないのに、怒っていいはずなのにと呆れる。驚くほど誠実で優しい人だ。
最後の手紙を見ても、決して太宰のことを悪くは思っていなかった様子。
 こんな人を“悪人”と呼んだらバチが当たる。
だが井伏が太宰の悪口を言っていなくてもその場にいて、否定さえしなかったことにやはり傷付いたはず。
 信頼していた人々の嫉妬という醜い感情を目の当たりにした時の太宰のショックがどれほどだったか。私にも共感するところがある。
自殺の直接の原因とはならなくても、その時の傷は本人が思った以上に深く、ふさごうとしてもふさげなくてじくじく化膿していった……。
その化膿が、太宰の晩年において彼を死へ向かわせる一番の力となったのではないかと思う。
  

太宰も踏ん張ろうとしたのだろう。
何とか最後まで生きようと足掻いた。
 しかし傷は思ったより深く、重荷を担ぎ続けた疲労は濃厚過ぎて、その暗い淵の前で踏ん張りきれなかったのだ。

――この本について感じたことは書ききれないので、いずれ続きを書く(かも)

【追記】
後日、改めての追記:
この記事を読み返してみると、本を読んだ直後だっただけに引きずられて同情的な印象があるな。
現実に太宰が友人として身近にいたら早くに見限って縁を切ると思う。
が、どこかけなしきれないのはやはり、「自分もいつどうなるか分からない」と知っているから。
借金重ねてアル中で、どうしようもない駄目人間をせせら笑うのは自由だけども、「俺はあいつとは根本から違う」「自分は絶対にああはならない」と言い切ってしまうのはどうかと思う。それは自分について無知と言えるでしょう。


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