読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

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『ガラス玉演戯』より、神様の言葉





『ガラス玉演戯』ヘッセ著、高橋健二訳。復刊ドットコム版より。

久しぶりのヘッセで、まだ冒頭ながら衝撃を受けた箇所。

「ああ、ものごとがわかるようになればいいんですが!」とクネヒトは叫んだ。「何か信じられるような教えがあればいいんですが! 何もかもが互いに矛盾し、互いにかけちがい、どこにも確実さがありません。すべてがこうも解釈できれば、また逆にも解釈できます。世界史全体を発展として、進歩として説明することもでき、同様に世界史の中に衰退と不合理だけを見ることもできます。いったい、真理はないのでしょうか。真に価値ある教えはないのでしょうか」
彼がそんなにはげしく話すのを、名人はまだ聞いたことがなかった。名人は少し歩いてから言った。「真理はあるよ、君。だが、君の求める『教え』、完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え、そんなものはない。君も完全な教えにあこがれてはならない。友よ、それより、君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない。戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる」
P66

全く同感だ。クネヒトの気持ちも分かるし、名人の言葉こそ本当(真実)だと思う。

>それより、君自身の完成にあこがれなさい

これはまるで神(先輩方)からのメッセージのよう。
仰る通り、我々は誰もが個々に、自ずから完成を目指さなければならない。
先を歩く者は道案内の手助けはできるが、ショートカットの救いを与えることはできない。
教本教義、宗教のテキストなどを知識として詰め込めばゴールへ飛べるわけでもなく、まして地上の金で贖えるものは何一つない。

>戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる

この言葉、涙が出て来るな……。
何故だろうな。
自分も今、戦いに臨む気持ちでいるのだろうか。

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ジョージ・オーウェル『1984年』感想と紹介(本)



『1984年』の現実化へ真っ直ぐ突き進む現代。消えかけている人間性を失わないために語彙を盾とせよ。


内容紹介:
第三次世界大戦後、世界は三つの大国に分かれて統治されていた。その中の一つ、オセアニア国では「偉大な兄弟(ビック・ブラザー)」の率いる党によって人民が管理されている。
勤務先でも街中でも、自宅の部屋でさえ、「テレスクリーン」と呼ばれる放送受信機を兼ねた監視カメラが人民の一挙手一投足を眺めている。
言語は党が決めた「新語(ニュースピーク)」を用いるよう求められ、結婚や性交渉も党によって管理されている。自由な恋愛や日記を書くなどの行為は許されない。それらは明文化された法律で禁じられているわけではないが、党が意図しない振る舞いをした者は"存在を消される"ことになる。逮捕され行方不明となるだけではなく、全ての文書においてその人物が生まれた時に遡り記録を抹消されるのだった。
真理省に勤めるウィンストンは歴史を改ざんする仕事をしていた。新聞・雑誌、ありとあらゆる文書から存在を消されることになった人物の名前を消し、変更となった戦争相手を書き換える日々を送っている。
密かに自分の仕事へ疑問を持ち、「ビック・ブラザー」に反感を抱いていたウィンストンはある日、骨董屋で白紙の日記帳を見つけた。誘惑にかられて日記帳を買って帰ったウィンストンは"推定"1984年4月、ついに禁断の日記をつけ始める……。

いつか見た光景である。
1984年頃の社会主義国を「過去の歴史」として曖昧に知っている我々は、寒々と聳え立つ無機質な省庁のビル群と、対照的にみすぼらしく荒んだプロレ地区との退廃的な街並みに既視感を覚える。この小説は1984年の現実の国を描写したものではないか、と錯覚さえする。
けれどこれは1948年に書かれた小説であり、著者は1950年に亡くなっているのだと思い出すと寒気がする。
世界がナチスを経験した後で、社会主義の欠陥は既に見えていた時代とは言え、ここまである意味リアルに未来の国家を描写できるものだろうか?


『1984年』は1948年の過去から近未来を描いた、イギリスで最も有名なSF小説。
SFと言っても現代人が「サイエンス・フィクション」として読むのは少々辛いものがある。監視カメラには死角があり、思想的に管理されているのは省庁に勤める党員だけでその他の大衆(プロレ)は野放しにされている。また「歴史改ざん」の作業は全ての新聞や雑誌を集めて書き換えるという、何とも手間のかかるアナログ作業。
この小説の設定より遥かに進んだハイテクを知る現代人の目には、オセアニア国の管理システムは穴だらけに思える。70年近く昔に書かれた小説であることを差し引いても、SFとしてはもう少し空想科学を駆使した設定が欲しいところ。
「これのどこがSF?」と、まずそこに引っ掛かって先に読み進めることが出来なくなる現代人は多いだろう。SFに奇抜な設定だけを求める人は「駄作」「退屈」と罵倒して放り出すに違いない。
しかし私は、2000年代の現代から見て「既視感」を覚える設定であることこそにこの小説の凄味を感じた。
抑えた空想で描写されている国家システムが、ちょうど30年ほど昔の過去のようである。このため実際の1984年を描写したのではないかと錯覚させるリアリティを持つことに成功している。
さらに言えば現代は『1984年』の設定が生温いと思えるほどの進んだ監視社会となった。核心的な意味で、『1984年』に描かれた通りの絶望が実現しつつある。

もしかしたらオーウェルは、真面目に未来を予言しようと企んでこの小説を書いたのかもしれない。
娯楽SFとして設定を愉しもうと迂闊にこの小説に手を出せば、現実の生々しさに遭遇して打ちのめされるだろう。
(この小説を嫌悪する人の嫌悪感の原因は、まさにこの現実らしさにあると思う)

冷戦時代の欧米で、この小説は反社会主義国・反共産主義の象徴として読まれたという。
作者が社会主義国を意識して書いたことは明らかなので、反共小説として読むのも間違いではないのだろう。
しかし作者の意図は反共「だけ」ではなかったと思う。個人の人間性を踏みにじり自由意思を押しつぶし、強制的に全体へ取り込む、全体主義的なるものの全てを描写したかったのではないだろうか。

かつて近代人は権力による抑圧という絶望に対抗する希望として、民主主義を信仰していた。
だが気付けば現代、民主主義が個人の人間性を脅かしている。
我々は民主主義的な同意契約のもと、『1984年』の設定よりも遥かに進んだハイテク監視システムに見張られている――個人情報はネットを通じて一瞬で吸い上げられ、監視カメラは日常の隅々まで死角なく設置され、歴史の改ざんも瞬時にネットの情報を書き換えることで行われている。近々、人間は拷問するまでもなく脳内にチップを埋め込まれ心までコントロールされるかもしれない。
いずれ我々は個としての言葉を失いそうだ。
既にかなり前から「新語」を浴びせられ語彙を奪われつつある。
「肉体は拘束されても、心までは縛られることがない。心だけは完全に自由だ」
高潔な精神の持ち主がこう述べることすら不可能となる未来が訪れる、のか。


あまりにも有名なこの小説は古今東西、専門家から素人までたくさんの人が書評や感想を書いており、様々な解釈がされている。私もその中の素人の一人となったわけだが。
村上春樹の『1Q84』もタイトルから分かる通りこの小説を意識したものであるらしい。私は読まないので推測だが、彼のことだからありきたりな反応へ疑問を投げかけているのだろう。

ナチスやソ連のシステムを恐怖政治と呼んで嫌悪する、言わば「ありきたり」な反応を斜に構えて眺める人は一定数存在する。
ありきたりな反応はそんなにダサいのか?
あたかも自分だけが真実に気付いているスタイリッシュな超人類であるかのように、
「全体主義をどうして不幸と呼ぶ?」
「全体主義を受け入れることは生きる意義を見つけ幸福になることだ」
などと、オブライエンと同じ主張をする。
私もこの小説を読みながら、オブライエンの理論は仏教のようだと感じていた。

個が全体に溶け込み、個としての意識を失うことを「悟り」と呼び、究極の幸福であると説く。
個は全体の一つに過ぎず、実はどこにも個の思想など存在していないというのがこの世の真理であるなら、人間社会も全体主義に落ち着くことが幸福と言えるのかもしれない……、

と、待て待て。
これは独裁者が好む詭弁に過ぎない。騙されてはならない。

一見真実に思えるこの勘違いは肝心の前提を無視している(無視させられている)から起こる。
社会において「全体」の反対語は確かに「個」である。
だけど「権力」の反対語は、生きる意義や価値観を失うという意味の「自由」ではない。
全体主義の思想で故意に黙殺されているのは「人間性」。たとえば愛してもいない人を愛していると思わされることや、言葉を奪われ日記を禁じられること、歴史を改ざんされること、2+2=5と信じさせられること、暴力を受けざるを得ないことなどは「人間性」の蹂躙だ。
「人間性」とはごく大雑把に定義すれば「互いに心地よく生存していくための本能?」、かな(仮)。
暴力を受けたり与えたりしない、意に反したことを強制されないしない。「人権」と呼ばれる言葉が掲げるあらゆる権利を、集団内でお互いに尊重し合い守り合うこと。
何故に人権という言葉に「他者の権利を侵害しない限りにおいて」という制約がついているのかと言うと、お互いの人間性を守る必要があるからだ。
最もダサい西洋語で表現すれば、「Love」と言い換えられるか。他者を独占しようとする恋愛の愛ではなく、「思いやり」という日本語で表現される種類の本能。
人は(広い意味では人間に近い動物たちも)「人間性」を持つ生き物。人間性を侵されないことを結論的に「精神の自由」と呼ぶ。
「人間性」があることが「自由」の前提だ。他者の人間性を踏みにじり、責任を放棄して個々の欲望を貪ることが「自由」ではない。
逆に言えば「人間性」が守護されているなら政府の存在を過激に全否定しなくとも良い。集団で生きることもまた「人間性」を前提とすれば決して悪とはならない(政府が完全に人間性を守護することが可能か不可能かはともかく)。だから、全体か・個かという極端な二者択一をする必要もない。
仏教で言うところの「悟り」も強制で個の意思を奪われる服従を指すのではない。
この「精神の自由」へ至る大前提の「人間性」は人類の歴史上、小説や文書であまり書かれて来なかったように思う。何故なら書かなくとも自明のことであったから。たとえば「道義心」は自他の人間性を守ろうとする本能。「道義に悖る」行動を目撃した際の怒りの感情は猛スピードで発現するから、前提の「人間性」が言及されることはあまりない。

ところが現実には書かれていること以外、認識できない人たちが存在する。彼らは認識できないことを無いものとして振る舞うことができる。
だから彼らはAIのように書かれていないことを黙殺して思考し、奇妙な主張を始める。たとえば「全体主義によって強制的にお役目を押し付けられたなら、幸福でしょ?」と言う。
オブライエンや、この小説に対するオーソドックスな反応を嗤うのはこの種の人だと思う。

今さらだがあえて言おう、オーソドックスな反応で何が悪い、と。
「人間性」を失いたくない、と大声で叫んで何が悪い。

著者のオーウェルが自分の体験から、人間性を踏みにじる権力に反抗していたことは事実だ。
『1984年』は絶望に満ちた物語だが、決してこのような未来は避けられないのだと説くための小説ではない。
彼自身の主張は確かに明文で書かれていない。
しかし付録として収録された『ニュースピークの諸原理』の過去形からも、「人類はこうなってはならない」の叫びが感じ取れるはずだ。
『1984年』の感想として、
「怖いわぁ。こんな国に住みたくないなー」
と述べるのはダサくとも妥当なり。

人間性に基づくオーソドックスな感想を抱いたなら、既に始まっている現実の『1984年』化を阻止すべく人間性に踏みとどまろう。
古典の本を読み理解しようと努めることも、豊富な語彙を失うまいとする反抗活動の一つではないだろうか。

【おまけの話】
ピンチョンの解説が凄いという噂を聞きつけて新訳を電子書籍で購入したのだが、電子書籍版にはこの解説は付いていなかった(ピンチョン解説収録は紙書籍のみ)。
残念過ぎる、涙。これから購入する人は注意してください。


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ヘミングウェイ、おすすめリスト

一時期ヘミングウェイにはまり、読みふけっていた時期がありました。
年を取ってからまた読みたい作家の一人です。
世界的に有名な小説ばかりですので、一度は読んでみて損はないと思います。
読みやすい順に並べます。


老人と海



【内容情報】(「BOOK」データベースより)
キューバの老漁夫サンチャゴは、長い不漁にもめげず、小舟に乗り、たった一人で出漁する。残りわずかな餌に想像を絶する巨大なカジキマグロがかかった。4日にわたる死闘ののち老人は勝ったが、帰途サメに襲われ、舟にくくりつけた獲物はみるみる食いちぎられてゆく…。徹底した外面描写を用い、大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作。

ヘミングウェイの小説で、最も有名なのがこの『老人と海』ではないでしょうか。
老いてなお不屈の精神を持ち続ける海の男。静謐な描写で表現される大魚との戦いは美しさすら感じさせる。男なら誰もが一度は憧れる世界観です。
ヘミングウェイの「強い男」としてのイメージもこの小説によく現れていますね。
短編小説としても完璧です。薄い本なのでヘミングウェイ体験に最適。

誰がために鐘は鳴る




全ヨーロッパをおおわんとするファシズムの暗雲に対し、一点の希望を投げかけたスペイン内戦。1936年に始まったこの戦争を舞台に、限られた生命の中で激しく燃えあがるアメリカ青年とスペイン娘との恋を、ダイナミックな文体で描く代表作。義勇兵として人民政府軍に参加したロバートは、鉄橋爆破の密命を受けてゲリラ隊に合流し、そこで両親をファシストに殺されたマリアと出会う。

映画で観たことがある人のほうが多いのではないでしょうか。
恋愛あり、ゲリラ戦闘あり。現代まで続く伝統的な「THEアメリカ戦争モノ映画」で、通俗感があることは否めませんが、原作は本物の戦争を描いています。
著者自身の戦場体験が織り込まれていると思われ、描写には薄ら物憂い匂いが漂う。
ヒーロー的な通俗小説の装いをしながら、実はティム・オブ・ライエン『本当の戦争の話をしよう』と共通の理由で書かれた小説と思います。
戦争の生々しいトラウマを見ることに拒絶感のある人は、まずこの辺りから本物に触れるといいと思います。


武器よさらば



苛烈な第一次世界大戦。イタリア軍に身を投じたアメリカ人青年フレドリックは、砲撃で重傷を負う。病院で彼と再会したのは、婚約者を失ったイギリス人看護師キャサリン。芽生えた恋は急速に熱を帯びる。だが、戦況は悪化の一途を辿り、フレドリックは脱走。ミラノで首尾よくキャサリンを見つけ出し、新天地スイスで幸福を掴もうとするが…。現実に翻弄される男女の運命を描く名編。

著者の自伝的小説です。
「小説とは・文学とは何か」というと、やはりそれは一個の人間として生きてきた足跡を、命注いで文章に写し取るということではないか? と私は思います。
その命注いで書かれた他人の人生を読者として受け取って、初めて「読書が糧になった」と言えるのではないか。
他人の人生を味わえる唯一のツールが、小説というもの。
本を読むという行為にしても、一生のうちのある一定の時間を割くわけなので、なるべく生きる糧になるものを読んだほうが良いのではと思います。

はっきり言ってヘミングウェイのこの自伝小説には鬱の臭いが強く漂い、引きずり込まれそうになります。それでもこれは貴重な一個の人生として味わう価値があります。


日はまた昇る



第一次大戦後のパリ、そしてスペイン。理想を失った青年たちは虚無と享楽の生活に明け暮れる。釣り、祭り、闘牛、おしゃべり、明るい南国の光の下でくりひろげられる“失われた世代”の青春の日々。果てしない祝祭の日々は、いかなる結末を迎えるのか。彼はこの原稿を二十六歳の誕生日にスペインのバレンシアで書きはじめた。ハードボイルドタッチで若者の代弁者と喝采を浴びた初期の代表作。

同上。
他人の痛みを感じ取る感性がなければ退屈なだけでしょう。
若い頃に読もうとして挫折した人は、人生の悲哀を味わう年齢以降に読むと理解できるかもしれない。


何を見ても何かを思い出す


炸裂する砲弾、絶望的な突撃。凄惨極まる戦場で、作家の視線が何かを捉えたー1937年、ヘミングウェイはスペイン内戦を取材、死を垣間見たこの体験が、以降の作品群に新たな光芒を与えることになる。「蝶々と戦車」を始めとするスペイン内戦ものに加え、自らの内面を凝視するラヴ・ストーリー「異郷」など、生前未発表の7編を含む全22編。遺族らの手による初の決定版短編全集、完結編。

私が思うに、ヘミングウェイの真骨頂は短編です。
これこそ「本当の戦争の話をしよう」で、鬱病をわずらった著者が、鬱々と思い出語りをします。
このパターンの文学を嫌う人は心底嫌うはずです。

私もさすがにこれは同調し過ぎていよいよ引きずり込まれるな、と感じたので(個人的事情によりその可能性は強い)ここらでヘミングウェイから撤退しました。
しかし危険を感じてしまうほどに本物であることは確かです。

だから、いつか「そろそろ死んでもいいだろう」という年齢になった頃に再び読みたいと思うわけです。


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サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 感想と紹介

 十代の頃の自分の背中を見た。反抗などとは呼べない、ただ壊れそうなだけの背中。



『ライ麦畑でつかまえて』は子供の頃から何度もトライし続けたのだが、ほとんど最初の辺りで挫折してしまっていた。
だから自分にはこの小説が理解出来ないのだ、永久に縁がないのだと思っていた。

だが新訳で読んだら縁がないどころか、がんがん響いた。
かつての自分がここに描き出されているのを知って痛々しくも懐かしかった。

旧訳がいけないというのではない。
ただ自分の育った時代において、あの時代の人々の喋り口調はほとんど外国語に等しいものであったということだ。
それに日本がいちばん元気だった時代の口調はどうもこの小説の主人公に合わない。

どうしても高度経済成長期を連想してしまう会話文からは、あっけらかんと明るく、無秩序だけれども力強く前向きだった時代の人々しか私はイメージ出来ないのだ。そのイメージがあまりに強いものだから、主人公の繊細さを感じ取るまでに至らず挫折してしまったわけだ。

たぶん当時の日本においては『ライ麦畑』は新しい時代の象徴として読まれていたのだろう。それ故に絶大な支持を得たのだろうと想像する。ただ作品内の背景を日本に置き換えれば、この主人公の生きている時代は高度経済成長期よりむしろ80年代から90年代以降に近いのでは、と感じる。
社会全体が上昇気流に乗り、善も悪も混じり合いながら力強く脈動していた時代なのではなく、文化経済が頂点に極まり衰退の陰が見え始めた時代。

十代の若者たちは目標とすべきものを見失い、反抗する対象すら失った。
どこへ行けばいいのか。
何に対して戦えばいいのか。
もやもやと不満は湧いて来るのに、ぶつける壁すら存在しない。

世の中は何もない、空っぽなのだ。
いくら反抗心をぶつけてみても虚空へ吸い込まれるだけ。逃避してもどこにも逃げられない。
ただ痛いだけの季節が絶望として横たわっている。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で描かれているのはそういう十代にとっての危機的な状況、まさに村上春樹が描いてきたところの失われた世界観に近いと思う。
ずっとこの小説は「反抗の旗印」という地位に置かれていたが、実は主人公は反抗など出来てはおらずただ周囲から浮いているだけ。
反抗の衝動も逃避への憧れも、全てが空回り。
それで向かうところを失った不満を棘として全身から出してみるも、その棘はサクサクと自分の心に突き刺さるだけなのだ。

仕方がないことに時代による違いというものはやはりある。
この小説が反抗の旗印として何やら具体的な社会活動に利用された時代は終わり、社会が成熟し衰退しきった今、ようやく個人の思い出に語り掛け始めている。
そしてそうなって初めて小説は不朽なるものになる。

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ガルシア・マルケス『百年の孤独』感想と紹介



読み終わり頁を閉じた瞬間、熱風が体の中を吹き抜けて去ったことを感じた。
生命は終わる。魂も去る。
物語は読み終われば目の前から消えてしまう。
けれど確かに読んでいる間、生命の風は熱をもって胸の中に渦巻いていた。

濃厚な生命の営み、魂の脈動を体感する小説だ。
人も動物も生まれ死に再生し、やがて消え去る。生と死のダイナミックな営みが巻き起こす一時の風こそが、世界の求める力。
この世界観は東洋の輪廻思想にも通じる。

不思議と生命力は文章からも伝染するようで、読書中も読み終わってからもしばらく体の底から湧き上がるエネルギーを感じ続けた。
“生命の水”、まさにウィスキー的な小説と言える。
最高の酩酊体験だった。


(蛇足)

未読の方へ、この本の紹介。

ノーベル文学賞受賞作、南米文学の最高峰と言われるガルシア・マルケスの傑作。
「死ぬまでに一度は読むべき本」として世界中の読書人がこのタイトルを挙げる。
しかし昨今の日本において小説技巧に囚われている人たちがこの物語に入り込むことは困難かと思う。
ミステリ等のエンタメに慣れ、「起承転結があって」「伏線がきっちり消化されていて」「現実的で辻褄が合う」小説以外は小説と呼べないと思い込んでいる人たちにとってこれは小説ですらないかもしれない。理解不能な異端文書だろうか。
物語の舞台は南米のある架空の町。
この町に生きるある一族の人生を、百年生き続けた母なる女性を中心として綴っていく、というのが一応のストーリー。
しかしストーリーが現実の時系列に従って真面目に展開されることはない。
設定は飛びまくる。現実的な革命の話などを書いていたかと思えば、魔法や呪術が割り込み、突飛なファンタジーへ浮遊する。
大量のエピソードが投入される。渦を巻く熱風が何もかも巻き込んで吹き上げるように、エピソード群は空へ放り上げられ、くるくる 廻りながら落下し物語へ落とし込められていく。
魔法あり呪術あり、それでいてファンタジーではないカオス小説である。
日本の読者が最も苦手な「ジャンル分けされない小説」と言える。
「なに、このつまんない小説……。意味分かんない。ダメな小説」。
そんな友人らの声が聞こえてきそうだ。
だがストーリーや技巧に囚われず、純粋に物語を受け取れば、全てのエピソードに濃い味が仕込まれていることに気付くのではないかと思う。

実は『百年の孤独』という小説、全エピソードにおいて現実的な構想のもと、打ち崩して再構築するという高度な技術が用いられていると思われる。
背景には作者の執筆に対する激しい情熱が渦巻いている。作者自身がエピソードを全身全霊で味わい、崩して弄ぶことを楽しみながら書いたことが感じられる。
決して読者を煙に巻き文学風を装う目的で書かれた小説ではない。
「空っぽ」とは違う。魂が吹き込まれた生きた小説だ。
それ故、理屈は無用。
素直に感性に身を委ねたなら退屈を感じることなく物語を最後まで味わい尽くすことが出来るだろう。

小説は体感せよ。
「ストーリーがなきゃダメ」だの
「私小説や文学は敵。排除せよ!」だの、
ごたくを並べている暇があったら傑作を味わおう。
せっかく天才が残してくれた絶妙なるご馳走、味わわなきゃ損、損。

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サン=テグジュペリ『星の王子さま』池澤夏樹訳 感想



池澤夏樹の新訳『星の王子さま』を文庫で手に入れた。
我ながら信じられないことに泣いてしまった。
初めて『星の王子さま』の物語が理解できた。この物語が長く読み継がれている理由も。

子供のころ一度だけ『星の王子さま』に挑戦したことがあったが、説教臭い子供騙しのファンタジーとしか思えず、すぐに放り出してしまった。(自分が子供だから、子供向けに意識された内容がよけいに嫌だったのだと思う)
今になってようやく『星の王子さま』を理解できたのは、訳がどうのというよりも、自分が大人になったからだ。

花の我がままに疲れて逃げ出したことのある大人。
逃げ出しておきながら、ほんとうは弱い花をいつまでも思い続けている大人。
他の何千とある同じ種類の花ではなく、たった一つの花でなければならない大人。
“飼いならされる”ということが身にしみて分かっている――飼いならされたあとにその相手を、失う痛みを知っている大人。

『星の王子さま』とは、そういう大人が書いた物語。
そして、そういう大人だけが深々と理解できる物語。

果たしてこれは童話なのか。
確かに大人が自分の人生から得た教訓を子供に伝えるためのものだと思う。
だけど、この物語は子供には分からない。分かりにくい。
分かりにくいからこそ、あえて未来に彼らが経験するだろうことを伝えるために、その時は誤まらないよう伝えるために書いたのかもしれないけど。
それにしても難しい。

この物語を
「子供の目から見た、汚い大人に対する批判」
と理解するのは残念ながら子供ゆえなのだな。
無傷なときには理解できず、過ちを経験した後にようやく理解できる。
つまり『星の王子さま』は、童話としては矛盾している。
また王子さまはイエス・キリストがモデルで、このストーリーは聖書の教えを伝えるためとの見方もあるけど、きっとそうではない。聖書はストーリーを考える時のモチーフに過ぎなかったと思う。
これすべてグジュペリが実際に生きて得たエッセンスを絞り出したもの。
だから同じ気持ちを持つ者が、切なくて何度も涙を流す。

インデストラクティビリティ。破壊しえない一つのもの。
童話としては矛盾しているけれど、『星の王子さま』はこれからもたくさんの涙を受け止め続けるだろう不朽の名作だ。

追記:訳文について。
池澤夏樹の文は、もともと私はとても好きなので文句なし。
このようなシンプルな物語を伝えるためには、シンプルな彼の文がとても合っていると感じた。
池澤夏樹は“静謐な文”と言われていて、日本の作家にありがちなくどさがなく、村上春樹のようなユーモア(嫌味っぽさ)もない。このため人によっては情緒がないと感じられるかもしれないが、『星の王子さま』にはこのように静かな文が向いている。いや、むしろこうでなければと思う。

2005年筆
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『アルジャーノンに花束を』は、あなたを知る物語である(小説とドラマの感想)

 TBSで『アルジャーノンに花束を』が再びドラマ化された。
脚本は野島伸司。(※脚本監修、だそうです)
第一回目を観たところ、「野島ワールド」と言えるオリジナルな世界観に創り変えられていて、これはこれで悪くないと思った。
古くて良い曲をBGMとし、物悲しくも心温まるシーンを連ねるスタイルに、ちょっと懐かしい『未成年』を思い出す。
いしだ壱成に河相我聞、萩原聖人など、往年の少年俳優たちが出ているのも懐かしく思った。皆さんあまりにもオジサンになっていて始め気付かなかったが(笑)。

野島ドラマなので最初はこのように雰囲気の良い感じで始まるのだが、そのうち泥沼になるぞという警戒感はある。
今回は原作があるのだから、どうか原作に頼って落ち着いて物語を続けて欲しいものだけど。どうなることやら。また泥沼が始まるまでしばしのお付き合いだ。

『アルジャーノンに花束を』のドラマ化については、いつも期待はしていない。
2002年のユースケ・サンタマリア主演のドラマは今回のよりは原作に忠実だが、ドラマはドラマ。二次は二次。
そもそも『アルジャーノンに花束を』は小説で、日記形式のあの技巧を味わうのが醍醐味だからドラマなどの二次作品は「別物」と思っている。
本当は小説を読むべきだと思う。 
日本語訳が素晴らしいので、日本語で十分に(噂によれば原文以上に)堪能できるはず。



ただ設定だけでも、この物語が持つ力は確かに大きい。

「知的障がい者」として仲間に可愛がられながらもバカにされていた主人公が、科学の力で高い知能を獲得し、自分が置かれていた立場に気付いていく。
 それとともに周りの態度も変化し、どんどん孤独になり、最後は……。

この哀しい物語について多くの人が様々な感想を言うはずだ。
その感想に人の本性が出るから、観察すると面白い。
たとえば前回のユースケの時のドラマでは、ある種の人たちが主人公に対し
知恵遅れだったときは可愛かったのに、頭が良くなってからはすっごいムカつく!
という感想を言っていた。
この感想には人の非情さと残酷さ、嫉妬という醜い心が映し出されている。

アルジャーノンと主人公を見ているのだと思って物語をていると、実は自分の姿を見せられてしまうのだ。
そんな真実を映す鏡のような物語が、『アルジャーノンに花束を』。
 だからこの物語を「恐ろしい」と感じる人もいる。
感動作だと思って見ていると、思わぬ自分の本性を目の当たりにして衝撃を受けるかもしれませんよ。

■ドラマ感想

2015年版『アルジャーノンに花束を』は最後まで見てしまいました。
原作『アルジャーノン』のドラマ化と言うよりは、『アルジャーノン』設定をモチーフとした新しい物語という感じかな。
美しく整え過ぎですから、おそらくこのドラマは「不朽の名作」とはならないでしょう。
原作は「名作」です。悲しい物語ですが、人の心を暴き出す鏡として今も読み継がれているのだと思います。

ただ、今回のドラマ、私は好きですね。
全体に流れる人への優しさに涙せずにはいられませんでした。
何故か懐かしい情景にも、優しく心を撫でられた気がします。

このドラマを眺めながら私は色々考えました。個人的なことなどを。

人は、「普通」が一番幸せです。
でも「普通」であることは、とてもとても難しいです。

私は天才だった瞬間など一瞬たりともなかったのですが、それでも何故かずっと疎外感だけは感じてきました。
精一杯、「普通」であろうとしたのについに「普通」にはなれなかった気がします。
他人より余分に持っていると言うよりも、足りないのです。
これも一種の障碍のようなものです。

人と対等になれないことの悲しみをこの物語はうまく描き出している。
下でも上でも仲間になれないのだという悲しみを。

今回のドラマは優し過ぎるファンタジーでしたが、主人公への共感の涙で、ほんの少し傷を癒してくれました。
脚本家さんへ。ありがとう。

2015年6月12日筆

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『ドクター・ヘリオットの猫物語』感想

 クリスマスに小さな包みをいただいた。
何だろうと思って開けてみたら、可愛い文庫本が出てきた。

ちょっと驚いて、歓喜した。
まずプレゼントとして本をいただくことほど嬉しいものはない。
今まで私に小説本を贈ってくれたのは家族だけ。つまり私が芯から本好きであることを知っている人たちだけだった。
今回、初めて友人から小説本をいただいて驚いたし、嬉しかった。本当に私が何を喜ぶか考えてくださった、その思いやりに感動してしまった。
しかも本の内容はクリスマスに合った心温まる物語だった。



内容:イギリスの獣医師、ドクター・ヘリオットが優しい目で綴った猫たちの短編物語、十編。
菓子店の威厳ある猫、決してなつかないと思っていた山猫たちとの感動の交流、何度も死の淵から蘇る猫等々…生き生きと描かれる猫たち。ラストはクリスマスの夜、悲しくも最高の贈り物。

ドクター・ヘリオットが獣医として奮闘するシリーズはイギリスではドラマ化もされたお馴染みの物語らしいが、私は存じ上げず今回初めて読んだ。
登場人物名は変えられているものの、動物についてはおそらく全て著者の実体験に基づく話。
だからこそ、ほのぼのした動物とのふれあい日記に終わらない迫真のストーリーとなっている。
表紙のイラスト絵の可愛らしさに気を抜いていると不意打ちでハラハラさせられ、一気に読まされてしまう。
主人公は獣医なのだから、読者としてもやはり傷付いた猫たちと対面しなければならないし、悲しい出来事もある。手に汗握って読んでいて、良かったなと息をつくこともあれば願いが叶わないこともあるのだ。
猫好きはそれを覚悟して読まなければならない。本物の猫と付き合うのと同じように。

私はこの本を読みながら、自分の猫たちのことも思い出して泣かずにいられなかった。
生まれた頃から猫と一緒だった私には、たくさんの猫との思い出と後悔がある。
いつも思い出すのは忠実だった猫たちと、その見返りに何もしてやれず最期は後悔ばかりだったこと。
猫たちの姿を思い出すと同時にどっと後悔の波に襲われるので、辛くてもう二度と猫は飼わないと誓っているほどだ。
(もうあれ以上に愛せないというほど愛した猫がいたせいもある)

でもヘリオット先生の『猫物語』を読んで、後悔だけではなく、彼ら・彼女らの理知的なところも思い出した。
家中を駆け巡りぐちゃぐちゃにするヤンチャさや、人の予想を裏切り笑いを誘う行動の数々も。

ヘリオット先生の言葉で嬉しかったのはこの言葉、
 私はまた多くのひとが猫について抱いていた奇妙な見方を思い出す。猫は自分勝手な生きもので、自分に都合のいい時しか愛情を示さないとか、犬が見せるいちずな愛は望めないとか、自分だけの興味にかまけていて、まったく打ち解けないなどという見方だ。なんとばかげた見方だろうか!
 イギリスでもこのような猫に対する偏見があるのだと知って驚いたが、名獣医の言葉には勇気づけられる。

私は毎日自分を迎えに来る忠実な猫と暮らしていたし、「家」ではなく私についてきてくれた猫も知っている。
猫ほど相手を見て、一途な忠誠心を発揮する生き物はいない。

彼らのそんな態度を思い出すと、ダメな人間ばかり見て絶望した心が温まり蘇るのを感じる。
私もいつか彼らの物語を書きたいと思うようになった。

2014年12月28日筆


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『遠野物語』が実話であることの衝撃と、その美しさ

NHK『ヒストリア』で、遠野物語についての話があったので録画して観た。
「妖怪と神さまの不思議な世界~遠野物語をめぐる心の旅~」
これが、仄かな内容だったのだけど予想外で驚きだった。
『遠野物語』に、明治時代に三陸で起きた津波で妻子を失った男の話がある。
男が悲嘆に暮れて海岸を歩いていたところ、死んだはずの妻の姿を見かけた。
妻はその時、かつて自分と結婚する前に恋していた男と一緒に歩いていたという。

ただそれだけの短い話なのだが、これが実話だということで、しかもそのご子孫が2011年3月11日の津波で同じように家を流されたという後日談があったので驚いた。

ご子孫は、妻子ではなく母を津波で奪われた。
彼は震災後もその理不尽さに怒りの感情を持ち続け、苦しんだと言うが……。

不思議なことにご子孫も、ご先祖と同じく母の霊を見た。
彼の場合は夢の中で、日常的な会話を母と交わしたらしい。
震災でストップしていた時間が夢で母と再会出来たことで流れ出し、不思議と怒りが消えていったという。

これと同じことがご先祖にも起きたのではないかと思わせる。
つまり、「妻が昔の男と歩いていた」というストーリーは複雑な気分を起こさせるが、そのことでストップしていた時間が動きだしご先祖は前を向いて歩き出せたのではないかということ。
(ご子孫が生きてらっしゃるということは、ご先祖はその後独り身ではなかったということになるし)

ご子孫は、ご先祖の名前が刻まれている墓の前で
「先祖は優しい人だったのではないかと思う。愛妻をあの世に一人逝かせるのは忍びないと思ったから、せめて昔の想い人とでも一緒にいて欲しいと願ったのでは」
と語る。
この現代で完成した『遠野物語』に、私は涙せずにいられなかった。


現代、「スピリチュアル」というジャンルが流行している。
神秘を日のもとにさらけ出すジャンルだ。
古典スピリチュアル本はインド思想なみに真実で、確かに重要な示唆を含んでいると思う。
しかし私にはあまりにも明快過ぎるように感じられた。
妖怪も神秘さえ存在しないその物理学的過ぎる清潔な次元に、退屈を禁じ得ないのだ。
(つまり「ワクワク」感が、私にはスピで感じられない。清潔で澄んだ気持ちにはなるけれども)

人間が「ワクワク」する次元とは、せいぜい『遠野物語』のような、妖怪や幽霊が住まう世界が限度なのではないか?
時系列の命が存在せず妖怪も幽霊さえ存在しない、ただ清潔な宇宙空間だけの世界に「ワクワク」はない。

「誰も傷付かない世界」は理想郷のように言われるが、それは果たして魅力的なのか?
涙も、愛もない世界に、我々は行きたいとも思わないのではないだろうか。

最も美しく魅力的な世界とは、このような神秘の妖怪たちとともに、時系列に縛られて生きる命の息遣いが感じられる世界だ。

したがって、我々はこれからも『遠野物語』を愛し続ける。
『ゲゲゲの鬼太郎』を、『妖怪ウォッチ』を愛し続けるのだろう。

それは地上に縛り付けられるということを意味するのかもしれないが、妖怪の悲哀を忘れてしまったら我々がこの地上で生きた理由が失われる気がする。

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『めぐりあう時間たち』映画の感想

知人女性のお薦めで、映画『めぐりあう時間たち』を観た。



ストーリーは、小説『ダロウェイ夫人』を中心として展開する。三つの時代と三人の女性が交錯し、物語が紡がれる。

一つ目の時代。
1923年、作家ウルフ本人。神経衰弱で療養しながら小説を書いている。愛してくれる夫はいるが苦しみは癒えず、病気も回復しない。療養のために連れて来られた田舎に監禁されている想いで、苦しんでいる。
二つ目の時代。
1951年、『ダロウェイ夫人』を愛読するロサンゼルスの女性。裕福な夫がいて家があり、幼い男の子がいて、現在も妊娠中。幸福そのものだが、『ダロウェイ夫人』に同調してしまうようなある苦しみを抱えている。
三つ目の時代。
2001年、レズビアンで女性と同棲しているニューヨークの女性。同じく同性愛者で、現在はエイズに罹り療養中の詩人リチャード(元彼)との一夏の恋が忘れられず、思い出に囚われている。

三人の女性たちはそれぞれ見た目には自分らしく生きていて、幸福そうに思われている。
だが実は癒しがたい深い苦しみを抱え、葛藤しているところで共通し、共鳴し合っている。

おそらく同じ苦しみを抱えている人は彼女たちに共鳴するだろう。
特に、女性は。
そしてそんな女性たちのためにこの映画は存在している。
“共鳴”することで癒される苦しみもあるのだ。

人生はかくも苦しく、悲しみに溢れている。
真っ暗な底であがいている女性はぜひ一度この映画を観て欲しい。
この映画はあなたの苦しむ背中にそっと手を置き、優しくさするだろう。
※ただし少しネガティブなシーンもあるから、精神の状態が悪い時には観ないほうが良いかもしれない

解説と、個人的感想(ネタバレあり)

『ダロウェイ夫人』とは、イギリスに実在した作家ヴァージニア・ウルフの代表的長編小説。この映画は『ダロウェイ夫人』を深く愛する人による、小説世界を投影した物語だ。

小説ファン、もしくは登場する女性たちと同じ苦しみを経験をした人にしか理解出来ない世界、と言えるかもしれない。
“同じ苦しみを経験した人”とは、立場として自然と女性のほうが多くなるはず。

おそらく普通の男がこの映画を見たら、ただ苛々するだけではないだろうか。
「何故、あの女たちは全てを悪いほうへ考え、自分で自分の人生を駄目にするのか?」
「何故、あの女たちは鬱々とした気分と決別して、前向きに生きようとしないのか?」
と。

何よりも男目線で腹立たしいはずなのは、登場する女性たち(二人)が愛してもいない男と結婚し・それを口にせず偽りの家庭生活を演じ・最終的に姿を消すことだ。
これは愛する女性を幸せにするために全人生を捧げてきた男からすると、大ダメージを受ける行為であり、理解不能で許しがたい罪と言える。
客観的に見ている我々は思わず彼らに同情し、
「だったら始めから結婚なんかするなよ! 愛していないならいないと、早い段階で告げて別れてやれ!!」
と叫んでしまう。
でもそのように叫ぶのは無粋なのだろう。女性から見れば、彼女たちの本心に気付くことが出来なかった男たちにこそ罪があるのかもしれない。

今いち納得出来ずに不愉快な気分でこの映画を観終わった人は、現実の作家ヴァージニア・ウルフを知ると少しは腑に落ちるだろうか。
ヴァージニア・ウルフは少女期に性的虐待に遭い、そのトラウマや家族の死に直面することによって精神を患い、長く幻覚や幻聴に悩まされ続けた。
その耐え難い苦しみ、深い闇があってこその、最後の決断だった。

苦しかったろう。
辛かったろう。
私はせいぜい頭痛で苦しむ程度で、幻覚や幻聴の経験はない。だからその地獄を想像してもきっと苦しみの10分の1にも満たないと思う。
「もっと健康的に生きる方法もあったはずだ」などと軽々しく言うのは健康な人間の自惚れだろう。
時代もある。治療法はない。薬もまともなものがない。最終的にあの道を選んだのは悲しいことだが、当時としてはそれしか救われようがなかったのではないだろうか。
(芥川龍之介などに対しても同様に思う)

あの選択に罪はない、とは言わない。だが人間として、誰が彼らを責められるだろう。
それでも、せめて物語としては彼ら(彼女ら)の生に希望を与えて欲しかったというのが個人的感想。
たとえば私がヘルマン・ヘッセを好きなのは、不屈の精神で人生に挑み続けたからだ。
ヘッセには希望があり、救いがある。人生を悲しみだけの色で塗り潰さなかった。私は彼を、遥か高みの“人生の模範”・“心の師”と仰いでいる。

女性と男性の苦しみの原因は違い、闘い方も違う。だからヘッセとウルフを比較することは出来ない。
だがおそらく私は彼女の小説を読んだとしても、同じ気持ちになることはない気がしている。少なくとも最後の選択だけは、自分にはないと信じている。

【追記】

実は、私は女性作家の小説に共鳴することが滅多にない。
※今まで女性作家の作品ではまったのは、パール・バックと山崎豊子のみ。小野不由美と諏訪緑(漫画家)は別枠で尊敬、桜庭一樹は一作だけ共鳴した
だから無意識に女性の書いたものを避ける癖があり、そのせいかこの小説も読んだことがなかった。知りさえしなかった。申し訳ない。
この映画を見て、いつか彼女の小説を読んでみたいと思った。

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ヘッセという硬派な作家

 ヘッセと言えば、『車輪の下』。
学校の課題図書で『車輪の下』を無理やり読まされ、「競争主義の教育は良くないと思いましたぁ」などという教科書のコピーのような読書感想文を書いて表彰された人もいるだろう。

またヘッセは美辞麗句で取り繕ったお上品なだけの詩人、との認識もよく耳にする。
「ヘッセが好き」
と告白すると
「あなたは美しいものが好きなんですね。お上品な方なんですね」
となんとなく引き気味でお世辞を言われることがかなりの高確率である。

繊細で、上品で、美しさだけを追求したナルシストな作家というイメージ。
思想は学校の教師のように単純で説教臭く、ただ「子供たちに競争教育を押し付けてはいけません。みんなで仲良く勉強しましょう」という平和な主張のみ。(平等教育論者と誤解されることさえある)
そんな作家の小説を好んで読む人間も同じ烙印を押されることは、日本では避けられない。

しかしヘルマン・ヘッセという作家に対するこのような認識、ある意味で差別的な意識を持つのは日本人だけらしい。
海外においては『車輪の下』はあまり有名な作品とは言えず、それよりも『デミアン』や『荒野のおおかみ』など日本ではあまり知られていない作品が絶大な支持を受けているという。

では何故、日本人にとっては聞いたこともないような小説が世界中で多くのファンを獲得しているのか。
それはこれらの作品が彼自身の戦いの軌跡であり、易きに流れる社会への宣戦布告であり、一人きりの戦いを強いられている全ての孤独者にとっての支え手であるからだ。

*
たとえば、『デミアン』という作品がある。
第一次世界大戦後、壮絶な精神の苦悩を経て書かれたこの小説は始め偽名で出版されたという。
戦争に突き進んだ祖国へ対する批判が含まれていたためだ。

祖国から疎外され、孤独となりながらも我が道を行く。自己の信じるものへ突き進む。
「自己として生きるためには一度死に、新しく生まれ直す覚悟が必要」。
「自分らしく生きられないなら(詩人として生きられないなら)、死を選ぶ」。
抑え付ける者に徹底して抗い、自己を追求するため戦い続ける彼の姿勢は十代の頃から変わらなかった。
たとえ圧力が襲ってきて精神が破壊する寸前まで叩きのめされても、戦い抜いて自己を貫いた。
さらに第二次大戦に至っては当時祖国で絶大な支持を受けていたヒトラーに対し批判の声を上げ、戦争に反対し続けた。(参照:『ヘッセからの手紙』)

この多分に反骨的な性質が日本で知られざるヘルマン・ヘッセという人物かつ作品だ。
根が無頼、硬派である。
よく読めば初期の作品にも硬派な精神は表れているし、『車輪の下』にも十代の頃の過激過ぎる反骨性が投影されているのだが、順序としてそちらを先に読むと分かりづらいかもしれない。
“作風が変わった”とされる『デミアン』以降の少しダークな作品を読めば、よほどのバカでない限り彼の目的が「美しさ」のみを追い求めることではなかったと気付くはずだ。

*
コリン・ウィルソンによって≪アウトサイダー≫の名を与えられたヘッセは、本質において社会に馴染まない人間と言える。

詩情あふれる描写からも垣間見えるように、繊細で過敏過ぎる本質を持つことは否めない。
繊細で過敏だったために社会から外れ壮絶な精神の戦いへ放り込まれた。(みずから突き進んだ)
そして戦いを経、強靭な精神を獲得した。

もし彼の作品が美しく見えるのなら、それは戦いを超えた地点の静けさ故だろう。
苦悩で磨き上げられたヘッセの言葉は熱く強い。
ストーリー性のみ求める人はこのような文学をはなからバカにするだろうし、現代の小説技巧の観点から見て確かにほころびが多いと言えるかもしれない。
だが技巧だけの張りぼて小説とは比べものにならない現実の救済力を持つ。
何故なら、ヘッセ自身が言うことと行いを伴にしていた「生きた作品」だからだ。
世界中の若者たちを救済してきたヘッセの言葉は今でも同等の力を持つと信じられる。

たった今、社会から疎外され孤独にあえいでいる若い人がいたら、ぜひ『車輪の下』を置いて他の硬派な作品に触れて欲しい。
その後にまた『車輪の下』へ戻れば、美しく繊細なだけに見えた作品からも生きる糧となる強いメッセージを受け取ることが出来るはず。


個人的な話。

私がヘルマン・ヘッセに痺れたのは『デミアン』が最初でした。

それまでは子供時代に学校の課題図書で読まされた『車輪の下』しか知らず、他の多くの人々と同じようなイメージを抱きあまり興味を持つことは出来なかったものです。
『デミアン』を読み衝撃に打たれ、一行一行を涙なくしては読めなかった時、心から“しまった”と思いました。
この導き手を知らずに長い孤独な時を過ごしてしまったこと。
浅薄で偏った文学教育を鵜呑みにし、彼を誤解してしまったこと等をつくづく悔いました。

ヘッセが日本において『車輪の下』の作家というイメージしか持たれずに誤解されていることは、長年ヘッセファンたちが嘆いているところです。
文学そのものに対する誤解、差別意識が日本では根強いことも相まってますますヘッセは敬遠される傾向にあるようです。
“知る人ぞ知る”でも良いから一人でも多くの人がヘッセからの手紙を受け取って欲しいと願い、このページを書きました。
個々の作品の紹介はまた整理して追々載せていきますので、良かったら読んでみてください。

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