ネットにしてはめずらしく共感できる、秀逸な記事だなと思って読んでいたら齋藤孝氏だった。
⇒「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差
昔、この人の『読書力』という本がとても偏った内容で、全く共感するところがないと思ったのだがこの記事はいい。
読書備忘録 “いつも傍に本があった。”
ネットにしてはめずらしく共感できる、秀逸な記事だなと思って読んでいたら齋藤孝氏だった。
⇒「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差
昔、この人の『読書力』という本がとても偏った内容で、全く共感するところがないと思ったのだがこの記事はいい。
世の中には2種類の本しかないという。読まなくていい本と読んでもロクなことにならない本。「危険な読書」とは書かれた中身のことばかりを言っているのではない。たとえ国を乱すような、悪徳の書であっても、読み手次第では毒にすらならないこともある。逆にこうも言えるはずだ。どんな本であっても、読み方次第では人生を変え得る危険性をはらんでいると。読書は未知なる世界との遭遇であり、思いもしなかった自分自身に出会う旅でなければならない。黒いインクが滲む紙束を、激しい劇物にすることができるかどうか。世の中にはまだこんな本があったのか! そんな驚きを求め、凝り固まった己の殻を穿つ、“弾丸”となり得る読書を楽しもうではないか。本を「劇物」と呼ぶ感性、やはり好きだし同感。
「おい地獄さ行ぐんだで!」から始まるので、「地獄」まで聴いてからでは読んだ人なら全員が答えられるだろう。
青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。とか
川端康成『雪国』
吾輩は猫である。名前はまだ無い。とか。
夏目漱石『吾輩は猫である』
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、この冒頭だけで「お母さま」の仕草や表情だけではなく、どのような家なのか、語り手の服装や容貌まで思い浮かべることができる。スウプや香水も薫る。つまり景色や薫りさえも一気に再現できる冒頭で、凄いと思った。
「あ」
と幽かな叫び声をお挙げになった。
当たり前と思われていた価値観が世界中で次々と崩れ去るいま、もはや流行りの本をいち早く読んだとか、これまで読んだ本の数を指折っていてもつまらないじゃないですか。たとえ一冊であっても深く心に突き刺さるような、常識がひっくり返るような読書こそを愉しみたいのです。
ある学者は言いました。本には“マジカル”がないといけないと。またある詩人は言うのです。自分の中の“怪物”に出会うために本を読むのだと。読者諸兄姉! 本のチカラを侮ってはイケナイ。「危険な読書」とは、世の中にはまだこんな本があったのか! という発見と共に、読了後にはこの世界の見え方すら変わってしまう、へたすると人生すら変えちゃうかもしれない、そんな本に出会うための危険な指南書であります。同意。
ただし、世界の一流の人を見ていて感じるのは、「優秀な人に限って、読書は肩肘張らず、気の向くまま好きなものを読むのが基本」ということである。
読書だからといって、毎回勉強になるものを大真面目に読む必要はない。大切なのは、「楽しく活字に親しむ習慣」をもっているかどうかだ。
適当に読んでいる雑読派の自分としては嬉しい。
「お前のことじゃないよ」と言われそうだが、勝手に喜ぶ。笑
>毎回勉強になるものを大真面目に読む必要はない
そう。
読書は勉強のためだけにするものではない。
自分は浅い教養しか持たず、とうてい世間の基準に追いつかないのだけど、読書の方向性は間違っていないのだなと感じて自信が持てた。
上記事から引用
その証拠に、私が尊敬する一流のリーダーたちには、じつはそこらへんの漫画や週刊誌を読んでいる人も驚くほど多い。
私も駆け出しのころ、「無理して『フィナンシャル・タイムズ』を読まなくてもいいよ。俺が隣にいなければ、どうせ『週刊SPA!』の袋とじの部分を、一生懸命切り裂いているんでしょ?」と尊敬する上司に言われたことがある。
その上司は業界の中でも高名な伝説のディールメーカーなのだが、読んでいる雑誌がいつも『ヤングマガジン』や『少年ジャンプ』、そして『週刊SPA!』なのだ。
もちろん、雑誌ばかり読んでいるわけではなく、しっかりした本もきちんと読んでいるが、「緊張と緩和」をうまく使い分け、週刊誌や漫画もバカにすることなく自然体で楽しんでいる。
世の中には「売れている本」「話題になっている本」ばかりを追いかけて読む人もいるが、一流の人ほど、「これはいい」という自分なりの価値観があり、その「主体性」に従って、自分が好きな本を堂々と読んでいるものである。
ああ……、「気の向くまま」「適当に」読んでいる雑読の人は好きな本だけ読んでいるわけではないが。
肩の力が抜けているために、傍から見ると「好きな本だけ読んでいる」と誤解してしまうのかもしれない。
(差別なく何でも読むので、中には嫌いなものも含まれる/思い入れがさほど強くない、肩の力を抜いているからこそ何でも読める。私だったら村上春樹など、苦手な本もけっこう読んでいる ※ただしどうしても読めない悪質な本はある)
この人の誤解はともかく、観察されている側の雑読者に私は共鳴する。
何故、読み物のジャンルを統一しなければならないのか理解できない。
マンガでも哲学書でも価値を見出す。そうでなければ活字中毒者ではないでしょう。
私は実は、売れている本・話題本ばかり追いかけて読んでいる人が苦手だ。
とにかく他人の目だけ意識して本を読む人が苦手なのだよね。
それは“他人軸”の読書。「見せ読書」は明らかに活字中毒者ではない証拠だよな? と思う。
ツイッターの読書垢なども、始めは楽しかったのだがそのうち苦手になりやめた。それは「見せ読書」をしている人が多いと気付いてしまったからだった。
中にはそうではなく真性の本好きもいたのだけど、
「読書しないでスマホ見てる奴は軽蔑する!」
などと激昂している人がいて退散した。
読書しない他人を責めている時点で中毒者ではないと思う。
自分が見せ読書しかしていないことの証。
くれぐれも自分の仕事分野の話しかできない「専門バカ」、周囲から広い教養がないことを笑われているが本人だけがそれを知らない「裸の王様」、そして自分の専門分野に閉じこもって空威張りする「オヤマの大将」になってはいけない。
特定分野に特化した知性ではなく、幅広い教養や人間としての品性を読書によって磨くことが、一流の政治家にとってもビジネスパーソンにとっても重要なのだ。
うーーん??
これはどうだろう。必ずしも「専門バカ」をバカにできないとは思うけどね。
私は、一つの分野に突出した専門家を激しく尊敬するけれども。
そもそも何かの分野に秀でていない人は、他の分野のことも理解できないはず。
どこかに軸足を持つからこそ他の場にも足を踏み出せるのでは?
専門の浅い自分故に言える。
だいたい、専門家がどれだけ深い知識を持っているか分かっているからこそ、他人の専門分野についての話は遠慮する。
だからこそ他所では無口になる。
それが分をわきまえるということでは。
ワイドショーに出て浅いコメントを述べているコメンテーターのようにはなりたくない。
【2】自分の偏見を助長する「二流の読書」をしないこれは正しいでしょう。
なお、読書をしながら、視野がどんどん狭まっていくような「二流の読書」をしている人も少なくないので注意が必要だ。
読書で重要な要素のひとつは、視野・視点を広げることだ。これに対し、二流の人に限って、マニアックな特定分野の、自分の偏見を助長してくれる著者の本ばかり読みたがる。こういう「二流の読書」では、読書量が増えても、自分の視野を狭め、偏見を増長させるだけだ。
もちろん「各人が好きな本を読むのが基本」でいいわけだが、知性を磨いていくためには、自分の意見や価値観とは相いれないものも含めた「多様な情報源」を確保するのが不可欠といえるだろう。
最後に、「一流の読書」にとって最も大切なのは、「書かれたことの一部を読んで批判したり、自分の都合のいいように曲解したりしない」という「まともな知性・メディアリテラシー」を持つことだ。
世の中には、書いてあることを文字通り信じるどころか、そもそも全体を理解できず一部にだけ反応して、自分の都合のいいように解釈し、批判する二流の人は思いのほか多い。
そうそう。
「二流の人」ではなく、思考停止で理解力をなくしてしまい、単語だけに脊髄反射して攻撃するプログラムのポンコツロボットね。二流にも三流にも入らず、使い物にならない反社会的人物。
この記事は序列をつけていると言うよりも、「反社会的バカども」と言いたかったところを、かろうじて言葉を抑えているという感じだな……。
『遠野物語』に、明治時代に三陸で起きた津波で妻子を失った男の話がある。
男が悲嘆に暮れて海岸を歩いていたところ、死んだはずの妻の姿を見かけた。
妻はその時、かつて自分と結婚する前に恋していた男と一緒に歩いていたという。
2012年2月の 『アメトーーク! 読書芸人』 鑑賞記。ざっくばらんに書いております。敬称略。
アメトークにて、ついに「読書芸人」が放送された。
……いやあ。
嬉しかった。
昨日はテレビチェック担当の相方が、「アメトークを見て!」とテレビ前まで私を導いてくれたおかげでこの歴史的瞬間に立ち会うことが出来たのです。
なんだか感慨深いですね。
ついにこの日が来たか。
まさか公共の電波で、読書が趣味な人々の集団を見られるとは思いませんでした。
又吉くんのおかげですね。有難う。
「読書が趣味」などと、大っぴらに言えない世の中です。
なにせただ本が好きというだけで暗いと決めつけられ気持ち悪がられたり。
「そんなもの趣味ではない」と蔑まれたり。
何より「読書が好きで」、と言った時点で会話が終わるのが悲しい。以降避けられていることを感じるようになる。
仮に読書好きだという人と巡り合っても必ずしも理解し合えるわけでもない。「頭良さげに見られるから」、「読書で他人に勝ちたいから」、というだけで好きでもないのに本を読んでいる“振り”をしている人も実在するからだ。
(参照⇒「読書家たちの憂鬱」1 2)
『アメトーク』に出ていた芸人さんたちも、又吉以外は日ごろ読書好きであることを言わない人たちだったな。
言えないのだろう。意外な顔ぶれが多かった。
特に若林、本読むイメージ全くなかったのだが相当好きみたいだ。又吉以上に熱を感じた。
若林はこの間ちらっと爆笑問題の『ストライクTV』の本の回で見かけて読書好きだと知り、驚いた。
その番組では太田も又吉も一般受けする本を紹介していたのでガッカリさせられたのだが、若林ひとりだけ本気で自分の好きな本のことを語って空気を乱していたのが印象深かった。
(若林が紹介したのは『苦役列車』。内容も一般受けするとは言えないが、何より芥川賞で誰もが知っている小説を紹介するという空気の読めなさ。この空気読めない感が“本気で好き!”熱を伝えてきた)
だいたい、
「ミステリ小説以外は存在してはならない」だの
「エンターテイメント以外は犯罪だ」とか
「純文学なんか読む価値なし」だとか言って他人の読むもの否定してばかりいる自称・読書好きは、間違いなく似非読書家だ。
他人の読む本を否定する暇があったら、一冊でもいいからあんなふうに熱く本のことを語ってみろと思う。
*
で、読書あるある。
これも唯一、若林の話に共感した。
「本屋でバッタリ知り合いに会ったら、相手に悪いので何の本を買ったか聞けない」。
というところ。分かる分かる。
すかさず宮迫が、
「お互い女連れて歩いているときにバッタリ会うた時の気まずい感じ?」
と聞いてくれてなおさら共感した。
だよなあ。そんな感じだ。
人の彼女、彼氏はじろじろ見てはいけない。失礼でしょう。それと似ている。
他人の持っている本は覗き込めない。
自分も覗かれたら嫌だしな。
それに、本屋での時間は大切なものだから壊したくないという気持ちも分かる。
あまり友人と一緒には本屋に行けない。好きな本を探すあまり相手の存在を忘れてはぐれてしまう。そうならないよう常に気を配らねばならないので疲れる。結果、友人と行った場合は本気で本を探すのは諦めることになる。
やはり本屋で過ごす時はどっぷり一人の世界に浸りたい。
他の「あるある」はあまり共感出来るところは少なかったな。
やはり読書好きには色々とバリエーションがあって、噛み合うところが少ないと感じる。だからなかなか読書好き同士でも友達になれないのか。
以下、自分の場合。
・私は風呂場で本を読むことはしない。
(湿気で紙がふやけ、しわになるのが我慢ならない)
・食べながら本を読むことは滅多にしない。
(上と同じ理由。基本、本を汚すのは嫌だ)
・帯ははずす。
(読む時に邪魔だから)
・はずした帯はとっておいて、戻す。
・どうしても捨てられない本だけ残し、後は売る。
(貧乏でとっておくスペースがないから。また本棚崩壊の経験があるから。ちなみに「始めから売る予定なので食べ物等で汚したくない」のではない。汚れが嫌なのは純粋に読む際の自分の生理的問題)
・古書など高い本のコレクターにはならない。
(一番の理由は貧乏で買えないから、笑。あと本は読むためにあるもの。コレクションの対象とするのは失礼と思ってしまう。…でも、太宰の初版とかは魅力を感じますがね)
・読書のベスト場所は喫茶店。
(これは又吉に同じ。公園で読むのも好きだ。喫茶店の場合、個人経営の古い店のほうが雰囲気はあるのだが実は読書向きではない。長居をすると店主の目が気になるし、顔を覚えられて話しかけられてしまうことがある。チェーン系の大型店舗で気に入りの席を持つのが理想。なお個人的にはスタバよりドトールが好み、ルノアールあれば最高。読書喫茶の頂点はルノアールだと思う)
・難解な本でもとりあえず最後まで目を通す。
(分からないからといって線を書き込んだり、後にとっておくということはしない。とりあえず一度ざっとでも最後まで目を通して感覚に委ねる。それで感覚に響くものがなければ諦める。相性の悪い作家は必ずいる)
・「ごほうび本」としてマンガを読む? 全く意味が分からない。分厚い本こそ「ごほうび」だろう。
(声を大にして言いたかった。これだけは本好きとして譲れない)
あと、皆さんやはり「小説好き」ですよね。
ストーリーを楽しんでらっしゃる。
夢中になると食事時でも読むのをやめられない、他の人に話し掛けられても答えることすら出来ない、そんな集中力は私にはないので尊敬してしまう。彼らは本物の活字中毒者だ。
自分もストーリーを楽しむことは楽しむのだが、それ以上に「読む行為」そのものが好きだ。
だから本なら何でも良いところがある。
実は私、ここ数年ほど小説は数えるほどしか読んでいない。
ほとんど仕事用の無味乾燥なテキストばかり読み漁っている。それでもどうにか発狂せずに済んでいるのは、文字を読むことが出来さえすれば気が済むから。
衝動にかられて猛烈に本を読み漁るということもあまりない。
どんなに面白くてもいつでも中断出来る。
だから食事中は読まなくても済むし、旅行に持って行く本も適度な重さであれば内容は何でも良い。テキストでもOK。
これはたぶん、成長してから何かのきっかけで急激に本好きになったか、それとも幼児期から意識せず読書好きだったかの違いかもしれない。
私の場合、
「ある本が面白くて夢中になり、それから読書好きになった」
というきっかけが一切思い出せない。
気付いた時は既に本が手放せない体質だった。
それでずっと、空気を吸うように一定のペースで本を読んできた。
空気を吸うのに「面白くてたまらないから猛烈に吸い続ける」ことはないと思う。無意識に淡々と一定のペースで吸い続けているだけのはず。
その代わり、空気を絶たれたら苦しい。死んでしまう。
それと同じ感覚で、本を丸一日以上絶たれたら私は苦しい。だから読む。小説がなければテキストを。それがなければ手近な文の並びを。
(新聞、雑誌、なければ辞書。…電話帳を読んだこともあった。これは末期症状)
(やや毒舌。要注意)
かつて「本好き」と自分で言っている女性と付き合いがあった。
本好きなら図書館という場所は絶対好きに違いないと考えて、休日に図書館デートへ誘った。
彼女があまり楽しそうではない様子であるのにしばらく気付かなかった。
本好き同士が図書館へ行けば必ず見られる行動、お互い好きな本棚のほうへ走りまくりマイペースに読書をし、それでいて同じスペースで過ごした充実感を味わうということにもならなかった。
なんか調子狂うなと思いつつ、何故かずっと一緒について来て本棚を眺めているだけの彼女へ、仕方がないのでいろいろと目に入る本の話などをして歩いていた。
その時、不意に彼女が顔を上げて真っ直ぐ私を睨みつけ
「そんなにたくさん本を読んでも偉くないよぉ?」
と言った。
ん。
何を言っているんだ彼女は。
人は自分の理解が及ばない言葉を投げつけられると頭が真っ白になるというのは事実だ。まるで知らない外国語を聴いたかのように音声が意味を結ばず通過した。
後から頭の中で言葉を再生してみて、ゆっくり意味を理解していった。
理解した瞬間、ぞぞぞと悪寒が走った。
なんだ対抗心というやつか? 急にライバル設定されたのか。
一部の女性の、親友だろうがテレビの中の美人タレントだろうが自分との比較は無視してライバル設定し、相手の持ち物は金でも美貌でも能力でもとにかく何でも許せず、「キィーッ、何よっ、自慢して。いけすかないっ。あいつよりアタシのが凄いんだから。アタシのが! アタシのが!」という言葉を始終口から放出している。いずれ相対的に自分の評価を上げるために相手の悪口を言い触らし始める。
そういう種類の人々が妄想するところの
「あれは自慢、これも自慢、他人の話は全て自慢」
という前提において私は批判され、ライバル(笑)として宣戦布告されたわけだ。
どうやらこの女性、今までずっと私が本の話をするたび“自慢”と受け取ってむかむか腹を立てていたらしい。図書館という本から逃げられない場所で聞きたくない話を聞かされ続けたので怒りが爆発してしまい、ついに嫌味を投げつけた。
「どうだ本当のことを言ってやった。傷付いたろ、反省しろ」
とドヤ顔で私のダメージを窺っていた彼女の顔が忘れられない。
その面倒臭い競争オンリーな性格問題について云々するより前にまず、私は彼女の読書というものに対する価値観に驚いた。
彼女は本の話をする人たちは皆、「自分を偉く見せかけるため」なのだと思い込んでいた。
ということは常々読書家をアピールしている彼女自身が、ずっと「他人から偉いと褒めてもらいたくて」本を読んできたのだということになる。
図書館デートがうまくいかないわけだ。同じ読書好きとして阿吽の呼吸で過ごすことなど永久に無理だ。
【別館関連記事】読書しているだけで絡まれた経験を持つ人がこんなにもいた…
*
彼女が、本なんか少しも好きでもないのに本が好きという振りをしていた嘘つきだと決めつけるのではない。
思い起こせばミステリやライトノベルの話は実に楽しそうにしていたから、「本が好き」という自己申告は嘘ではなかったのだろう。
ただ根本的に読書という行為に対する価値観が私とは異なり過ぎていたと思う。
いつだか某作家がエッセイで、
「自分は小学生時代、友達に勝つためだけにあえて難しそうに思われる本を選んで読んでいた。」
というゲスな思い出話を書いているのに遭遇して私は引いていた。
(一方的にライバル設定されたその友人はさぞウザかったろう)
小学生時代の自分はバカだったという告白と反省ならまだ良いが、まるで他人を見下すために自分を本で装飾することが良いことのように得意気に語っている点、最も軽蔑した。本好きならあり得ないだろう。本好きには競争目的で本を読むという発想そのものがまずないし、そんな目的のために本を読むのは本に対して失礼だと思う。本への冒涜に当たる。だいたい作家なら書いた人の気持ちが分からないものだろうか?
このエッセイの話を上の女性にしたところ、凄い勢いで嬉しそうに
「分かる分かる。私も全く同じことした!」
と返された。
“あり得ないよなぁ、こんな作家”という同感を期待して話し始めたのだけど、その後の言葉は口に出せなくなってしまった。
何故このような価値観を持つ人たちが存在しているのだろうとずっと不思議に思っていたが、ある時、彼女自身から幼少期のエピソードを聞いて理解した。
彼女は幼い頃、本を読むたびに母親から「よしよし。偉い子ね」と頭を撫でて褒めてもらったという。
一冊読むと頭を撫でられ、「偉い偉い」と言われる。
そしてすぐさま次の本を差し出される。
母親に褒めてもらいたくて、その本をがんばって読む。
読めばまた「偉い偉い。いい子いい子」が待っている……。
こんな育ち方をすれば
「本を読むのは偉いこと」で
「みんなが褒められたくて本を読んでいる」
と思い込んでしまったのだとしても仕方ない。
私と彼女の話が合うことは絶望的になかったはずだ。
彼女にとっては「偉いと褒められたくて本を読む」のは当たり前のことであり、「自分を飾る装飾品として読書歴を得る」というのは正義なのだろう。そして他人が読書歴を披歴していたら、その行為は自分と同じく「自慢」なのであり、「他人を見下すため」以外にないと思い込むのも仕方がないわけだ。人を殺すのが正義と教育された国の人のように我々とは価値基準が違い過ぎると諦めなければならない。
悪いのはそんな育て方をした母親であって、彼女ではない。
彼女ではないのだけれども、大人になったら他の価値観もあることに気付いて欲しかった。
他人に自分だけの価値観を押し付けライバル心をぶつけ続けるのは迷惑千万。
言葉を尽くしても変わらない価値観が犯罪などの害を及ぼすようになってきたら、周りはそっと離れるしかないわけです。
*
この女性ほど極端ではなくても、多かれ少なかれ日本人は
「本を読んで偉いわね。いい子いい子」
という教育を受けて来たように思われる。
そのような人々が自称で「読書家」を名乗っていることは、往々にしてある。
周りばかり意識して、「本を読んでいる自分って偉いでしょ。でしょ」と言う人々は読書家であり続けることに大変な努力を費やし、苦しんでいる。
苦しいから他の人々の読書ジャンルを批判するなど邪魔して他の読書家の数を減らそうと努めているようだ。
そんなに苦しいなら、読書家と自称するのやめればいいじゃないですか。
と、いつも思いますがね。
「本を読むことは偉いことなんだ!」
という永久なる勘違いのもとに、読書家のステイタスにしがみついていたくてやめられないのでしょう。
自称「読書家」たちの憂鬱はこれからも続いて行く。