読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

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伊藤計劃『虐殺器官』感想。同時代に生き、虐殺を眺めた者としてのシンパシィ

しばらく前に読んだ本。
読んだ本をいちいち他人に報告しなくなって久しいが、これは公開で感想を書きたくなった。年が明ける前に書いておく。

(まとめず思うまま書きました。長いです)

作家の敬称略。

伊藤計劃、『虐殺器官』という伝説


『虐殺器官』は2007年に発表された伊藤計劃の小説。

伊藤計劃は2009年に34歳で早世した。
病床で10日間で書き上げたというこの小説は彼のデビュー作。SFの枠を超えた傑作であり、彼の死後も伝説として語り継がれている。

「ベストSF2007」国内篇第1位。「ゼロ年代SFベスト」国内篇第1位。(ウィキペディアより)
最近アニメ化され再び話題となった。Project Itoh


(リンク先は楽天の電子書籍)



ストーリー


2000年代半ばの近未来。
9.11以降、世界の混乱はやまず、サラエボを始まりとして幾つもの都市が核で消失した。もはや「ヒロシマ」「ナガサキ」という地名は被爆地としての特殊性を持たなくなった。
しかし相変わらず先進国の人々は安定した社会を保ち、ドミノ・ピザをバドワイザーで胃に流し込む生活を送っている。死体の積み重なる光景よりも恐怖かもしれない、変わらない生活。

反対側の世界も変わらなかった。
発展途上国で女子供を巻き込む大虐殺が減るきざしはいっこうに見えない、それどころか2000年代半ばに益々増えていく。
ある時期から、それまで平和を保っていた小国の指導者が唐突に狂い、ジェノサイドを始めるという奇妙な内乱がいくつも起きるようになった。
アメリカ合衆国は虐殺を指導しているトップを暗殺することで途上国の平和を保とうとした。
合衆国特殊部隊員クラヴィスは、指導者暗殺の任務を帯びてある国へ潜入。軍人のトラウマを防止する心理操作技術によって、躊躇なく任務を遂行してきたクラヴィスだったが、ターゲットが死ぬ直前に吐き出した言葉を耳にして混乱する。
「わたしはなぜ殺してきた――たのむ、教えてくれ。なんで殺してきた」

軍部は途上国の唐突な虐殺全てに「ジョン・ポール」という名のアメリカ人が関与していることを突き止めていた。
長期の特殊任務でジョン・ポールを追跡したクラヴィスは、ついに彼と遭遇する。そして「虐殺の王(ロード・オブ・ジェノサイド)」たる本人から秘密を明かされる。


小説としての感想


ストーリーは面白い。先を知りたくなり読み続けることができる。SF好きに限らず、純粋エンタテイメントとして読むことも可能だと思う。
ただし設定は暗く描写は残酷、読む人を選ぶ小説ではある。冒頭から残酷描写があるので苦手な人は避けたほうがいい。

それでも、いわゆる「イマドキの小説」として想像するような、命の価値が過剰に低い世界観ではない。
むしろ淡々と描かれる殺戮描写が、声も上げずに消えていく命が、圧倒のインパクトをもって命の重みを押し付けてくる。

悲しみは言葉にされないことでさらに深い悲しみとなる。
悪と正義は示されないまま反転し、希望と絶望も反転する。

ある意味、現実そのままを写し取ったかのような小説である。
思想もある。もちろんその思想は「これが正義だ」といったような押しつけがましいものではないのだが。
内省的な主人公の淡々とした心理描写が現代現実の深層を抉り出す。時にその抉り出された深みが、目を逸らしたくなるほど痛々しく重い。

現代小説で久しぶりに遭遇した思想のある小説だった。
生々しく吐き出された文章に誠実さと、稀有な才能を感じる。


余計なことかもしれないが、才能称賛

まずこの小説を10日で書いたことに驚嘆する。
緻密でよく練られた設定であるうえに知識も深い。同時代の日本人であることが信じられない。
さらに商業目的に流れず、恥ずかし気もなく嘲笑されることも恐れずに、本気の内面描写で思想を描いている。
“文学からの逃避”を続ける同時代、同世代の作家では奇跡とも言える文学だと思った。

ストーリー性が高くエンタテイメントとしても純粋に面白い。だけど、それだけではない。血肉の通った人間の、考える臓器の詰まった濃厚な小説だ。
これが小説としての完全体だろう。
ようやく小説が内臓を取り戻した。
ようやく、これからだったのに。
日本の小説からこの人が失われたことは、つくづく残念だ。

個人的に感じていたこと


この小説を読みながら私は懐かしいと感じた。
懐かしい、と言うのは違うのかもしれないが、馴染みのある世界観に浸っていた。

夜中、テレビ画面の前で一人、死体野原の光景に釘付けとなった十代の日を思い出す。
白黒の映像に浮かぶ死体野原は静けさに満ちていた。
衝撃などの感情はなく、悲しみも怒りも表現されないまま、静かな涙だけが流れた。

死体野原へ馴染みを感じたのは古い記憶のせいなのか。
それとも今の人生で見せつけられた虐殺の光景があまりにも多く、脳に刷り込まれただけなのか?
今となっても分からないのだけど、これだけは確かに言えるのは、同世代の人たちで私の気持ちを理解した人が一人もいなかったということだった。

ニュース映像で浴びるように虐殺の光景を見せられてきた我々だが、誰も死体野原を「馴染みある」とは言わないし、あの静かな悲しみを感じていると思える人もいない。

それなのに伊藤計劃は同じ光景を、同じ気持ちで眺めていたようで驚いた。

冒頭文引用。
※残酷描写が苦手な人は避けてください
 泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っこんでいるのが見えた。

まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している。
美しい冒頭文だと思った。
残酷な場面なので「美しい」と言うのは語弊あるのかもしれないが、これが冒頭にあることの完璧さが美しい。

赤と泥、色のコントラスト。現実と乖離した直喩。その後に現実が見えてきて、読者はこの小説がどんな物語なのかを察する。

小説の導入としての完璧さに驚いたが、それ以上に私が驚いたのは、この人は現実の虐殺現場をありのまま描いているということだ。
もう少し細かく視覚を描いていく。
――最初、それが何であるのか分からない。
何故あんな小さな女の子が泥へ顔を突っこんでいるのだという不思議さで視線を止める。
歩いて行く。対象が近付いて来る。
心の奥で警戒信号が鳴っているのだが、目を逸らすことができず、視点を止めたまま近付いて見る。
紅い花が鮮烈に目に飛び込み、焼き付く。
やがて状況を理解して現実のままの光景が目に映る。心が静止する。
辺りを見渡す。次々と凄惨な光景が目に入って来る。この時はもう遅い、目を逸らすことはできない。
熱い怒りや悲しみも、ショックさえなく、ただありのままを受け入れるしかないという静かな状況……。

この人は、現実に自分の足で死体野原を歩いたことがあるのだろうか?
それともアメリカ映画で観た光景や、第二次大戦の映像を思い出して描写しているのだろうか?
いずれにしても驚いたのは、彼が私と同じ気持ちで虐殺後の世界を眺めていたことだった。
その後、小説を読み進めるにつれ理解した。
彼もまた、あの画面から目を離せなくなった一人なのだということ。

同じ時代を生き。
同じ宅配ピザの届く安定した平和を味わい。
テレビ画面から流れてくる虐殺映像を、同じ気持ちで眺めていた人がいたことを不思議だと感じる。
決して「嬉しい」とか「ありがたい」などとは思わないことがまた自分でも不思議で。
ただ似た視点で似た世界の場所を眺めていた人が地上から失われたことだけ、残念に思う。

それと似た目で世界を眺めておきながら、ずっと
「言ってもどうせ理解されない」
「こういう分野の話は誰にも受け入れられない」
「戦争モノ、殺戮を描いているだけで有害指定される」
などと言い訳し、このジャンルの話を書いて来なかった自分の怠慢を呪う。
そもそも「小説家になるつもりなど微塵もない」と思っていて、夢など見ないことが真っ当なのだとさえ言い、書くことに背を向け訓練も怠ってきたことは猛烈に反省する。

こんなにも正直に自分の見ている世界を世に提供した人がいるではないか。
(私は一度だけ『我傍に立つ』では露骨なまでに正直になったのだが、以降は気持ちも労力もセーブしてきた。あれ以降、正直にただ好きなものを好きなだけ書くという行いができたことはない)
正直になることを恥ずかしいとずっと思っていた自分の卑小さが今は辛い。だらだらと生きて浪費した時間が申し訳ない。反省しなければならない。

人は生きて何を残せるか、限られた時間で挑まなければならないけど、伊藤計劃という人は残すことができたと言える。もっと残したかっただろうが一つでも残せたら幸運だ。
今、私が何を感じているかと言うと、「羨ましい」ということだ。
生まれて初めて他人へ嫉妬した。(嫉妬とは有難い感情だ)


ジョン・ポールの発見を未来への提案として考えてみる


以下は小説感想から離れ、現実として設定を考えてみます。
ここから下にはネタバレがあります。未読の方は読まないように。




この小説はSFなのだけど、ジョン・ポールが発見した
「言語テキストの中に潜ませる虐殺を起こす構文」
は、かなりリアリティのある話。

現実にも、たとえば社会主義関連の思想書にはジョン・ポールの「虐殺構文」に近い魔力がある。
社会主義、K産主義は何故か100%人を暴力的にし狂わせる。社会主義に侵されて虐殺が起きなかった国・集団はない。
100%、という確率は驚異だ。
まさにジョン・ポールの技巧。
ポルポトはきっと呟いただろう、「わたしはなぜ人を殺したのだ?」
(スターリンは曹操と同じくサイコパスであり、いわば「虐殺の天才」。彼らのように元から壊れてしまっているサイコパスは生まれ持った本能に従うだけなのだが、社会主義思想が虐殺の後押しをして拡大させたのは間違いない)
これだけの実効力を持つ思想書が人類に与えられたのは不幸としか言えない。

しかし今後はもっと完璧で分かりづらい技術で人は操作されることになるだろう。

もしかしたら今でもAIを使えば可能かもしれない。
先日見つけた診断テスト、『テキスト文でAIが性格診断~Personality Insights 』ではすでに表層の言葉によらず、純粋な文の癖やパターンで性格タイプを見抜くという技術が示されている。
これはまだ研究段階で、今のところ選ぶ単語そのものも考慮されているから純粋なパターンとは言えない。
ただ、この研究が進んでもっと正確性を増せば、逆の展開をさせ
「ある一定の効果をもたらす文章」
というものも簡単に作り上げることができてしまうはずだ。

いや、今の段階でさえ。
「リーダーシップを持つ・人の心に訴えかける文」
という程度なら、AIが作成することは既に充分に可能なのだ。

この技術を悪意ある者が使ったらどうなるか?
ヒトラーのプロパガンダなど目ではない。
マルクスによる地獄の聖書も超える、“言語的転回”での虐殺指令書が完璧な形で現実化する。

既に第二次世界大戦以降、資本主義国のメディアはヒトラーのプロパガンダ技術をパクり、商業目的で使ってきた歴史はある。
誰も公では言わないが、ある程度のメディアによる洗脳はあると皆分かっている。
だから警戒心の強い人は政治的なスピーチを耳に入れないようにしているし、宗教団体にも近付かないようにしている。そうすれば大手メディアの洗脳はあっても、少なくとも極端な行いをする団体からは逃れることができると思える。
(それなのに悪意ある集団へ自ら近付いて教義を鵜呑みにし、騙されている愚かな鴨は大勢いるが)

だけど表層の言葉に関わらず、無害に思われるテキスト文にまで「虐殺構文」が潜むようになったらどう逃れたら良いのか。
「耳に蓋をすることはできない」。
人々が、自覚もないまま虐殺の狂乱に陥る、想像を絶するディストピアが実現する。


私は長年思ってきたけど、これと逆のことはできないのだろうか?
人を100%狂わせ虐殺に向かわせる地獄の聖書があるのなら、それと真逆に、100%穏やかな気持ちにさせて虐殺を抑えさせる構文が。

「虐殺器官」ではなく
「平和器官」や「生存器官」を発動させる構文。

残念ながら本物の『聖書』は虐殺構文に近い。
仏教は「平和器官」を発動させる可能性が最も高いが(ある紛争地域に仏教がもたらされたら殺戮がやみ、平和になったという実際の歴史がある)、先日のミャンマーの事例を見ると100%の効力とまでは言えない。

実は自分がいつか、その構文を書けたらいいなと思っていた。
素人のくせに大仰な夢だ。

当たり前のことだが、私のような素人よりも、言語学の研究者が調べたほうが遥かに早いと思う。
研究者の皆さん。どうか「平和構文」「生存構文」を研究されてください。

12/24続き。やはり魔術で平和を求めるのは駄目だという話。>>「平和構文」でも、やはり私は洗脳なしでいきたいです



メモ。

この本からの引用

伊藤計劃が亡くなる直前まで更新したブログ
伊藤計劃:第弐位相
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ジョージ・オーウェル『1984年』感想と紹介(本)



『1984年』の現実化へ真っ直ぐ突き進む現代。消えかけている人間性を失わないために語彙を盾とせよ。


内容紹介:
第三次世界大戦後、世界は三つの大国に分かれて統治されていた。その中の一つ、オセアニア国では「偉大な兄弟(ビック・ブラザー)」の率いる党によって人民が管理されている。
勤務先でも街中でも、自宅の部屋でさえ、「テレスクリーン」と呼ばれる放送受信機を兼ねた監視カメラが人民の一挙手一投足を眺めている。
言語は党が決めた「新語(ニュースピーク)」を用いるよう求められ、結婚や性交渉も党によって管理されている。自由な恋愛や日記を書くなどの行為は許されない。それらは明文化された法律で禁じられているわけではないが、党が意図しない振る舞いをした者は"存在を消される"ことになる。逮捕され行方不明となるだけではなく、全ての文書においてその人物が生まれた時に遡り記録を抹消されるのだった。
真理省に勤めるウィンストンは歴史を改ざんする仕事をしていた。新聞・雑誌、ありとあらゆる文書から存在を消されることになった人物の名前を消し、変更となった戦争相手を書き換える日々を送っている。
密かに自分の仕事へ疑問を持ち、「ビック・ブラザー」に反感を抱いていたウィンストンはある日、骨董屋で白紙の日記帳を見つけた。誘惑にかられて日記帳を買って帰ったウィンストンは"推定"1984年4月、ついに禁断の日記をつけ始める……。

いつか見た光景である。
1984年頃の社会主義国を「過去の歴史」として曖昧に知っている我々は、寒々と聳え立つ無機質な省庁のビル群と、対照的にみすぼらしく荒んだプロレ地区との退廃的な街並みに既視感を覚える。この小説は1984年の現実の国を描写したものではないか、と錯覚さえする。
けれどこれは1948年に書かれた小説であり、著者は1950年に亡くなっているのだと思い出すと寒気がする。
世界がナチスを経験した後で、社会主義の欠陥は既に見えていた時代とは言え、ここまである意味リアルに未来の国家を描写できるものだろうか?


『1984年』は1948年の過去から近未来を描いた、イギリスで最も有名なSF小説。
SFと言っても現代人が「サイエンス・フィクション」として読むのは少々辛いものがある。監視カメラには死角があり、思想的に管理されているのは省庁に勤める党員だけでその他の大衆(プロレ)は野放しにされている。また「歴史改ざん」の作業は全ての新聞や雑誌を集めて書き換えるという、何とも手間のかかるアナログ作業。
この小説の設定より遥かに進んだハイテクを知る現代人の目には、オセアニア国の管理システムは穴だらけに思える。70年近く昔に書かれた小説であることを差し引いても、SFとしてはもう少し空想科学を駆使した設定が欲しいところ。
「これのどこがSF?」と、まずそこに引っ掛かって先に読み進めることが出来なくなる現代人は多いだろう。SFに奇抜な設定だけを求める人は「駄作」「退屈」と罵倒して放り出すに違いない。
しかし私は、2000年代の現代から見て「既視感」を覚える設定であることこそにこの小説の凄味を感じた。
抑えた空想で描写されている国家システムが、ちょうど30年ほど昔の過去のようである。このため実際の1984年を描写したのではないかと錯覚させるリアリティを持つことに成功している。
さらに言えば現代は『1984年』の設定が生温いと思えるほどの進んだ監視社会となった。核心的な意味で、『1984年』に描かれた通りの絶望が実現しつつある。

もしかしたらオーウェルは、真面目に未来を予言しようと企んでこの小説を書いたのかもしれない。
娯楽SFとして設定を愉しもうと迂闊にこの小説に手を出せば、現実の生々しさに遭遇して打ちのめされるだろう。
(この小説を嫌悪する人の嫌悪感の原因は、まさにこの現実らしさにあると思う)

冷戦時代の欧米で、この小説は反社会主義国・反共産主義の象徴として読まれたという。
作者が社会主義国を意識して書いたことは明らかなので、反共小説として読むのも間違いではないのだろう。
しかし作者の意図は反共「だけ」ではなかったと思う。個人の人間性を踏みにじり自由意思を押しつぶし、強制的に全体へ取り込む、全体主義的なるものの全てを描写したかったのではないだろうか。

かつて近代人は権力による抑圧という絶望に対抗する希望として、民主主義を信仰していた。
だが気付けば現代、民主主義が個人の人間性を脅かしている。
我々は民主主義的な同意契約のもと、『1984年』の設定よりも遥かに進んだハイテク監視システムに見張られている――個人情報はネットを通じて一瞬で吸い上げられ、監視カメラは日常の隅々まで死角なく設置され、歴史の改ざんも瞬時にネットの情報を書き換えることで行われている。近々、人間は拷問するまでもなく脳内にチップを埋め込まれ心までコントロールされるかもしれない。
いずれ我々は個としての言葉を失いそうだ。
既にかなり前から「新語」を浴びせられ語彙を奪われつつある。
「肉体は拘束されても、心までは縛られることがない。心だけは完全に自由だ」
高潔な精神の持ち主がこう述べることすら不可能となる未来が訪れる、のか。


あまりにも有名なこの小説は古今東西、専門家から素人までたくさんの人が書評や感想を書いており、様々な解釈がされている。私もその中の素人の一人となったわけだが。
村上春樹の『1Q84』もタイトルから分かる通りこの小説を意識したものであるらしい。私は読まないので推測だが、彼のことだからありきたりな反応へ疑問を投げかけているのだろう。

ナチスやソ連のシステムを恐怖政治と呼んで嫌悪する、言わば「ありきたり」な反応を斜に構えて眺める人は一定数存在する。
ありきたりな反応はそんなにダサいのか?
あたかも自分だけが真実に気付いているスタイリッシュな超人類であるかのように、
「全体主義をどうして不幸と呼ぶ?」
「全体主義を受け入れることは生きる意義を見つけ幸福になることだ」
などと、オブライエンと同じ主張をする。
私もこの小説を読みながら、オブライエンの理論は仏教のようだと感じていた。

個が全体に溶け込み、個としての意識を失うことを「悟り」と呼び、究極の幸福であると説く。
個は全体の一つに過ぎず、実はどこにも個の思想など存在していないというのがこの世の真理であるなら、人間社会も全体主義に落ち着くことが幸福と言えるのかもしれない……、

と、待て待て。
これは独裁者が好む詭弁に過ぎない。騙されてはならない。

一見真実に思えるこの勘違いは肝心の前提を無視している(無視させられている)から起こる。
社会において「全体」の反対語は確かに「個」である。
だけど「権力」の反対語は、生きる意義や価値観を失うという意味の「自由」ではない。
全体主義の思想で故意に黙殺されているのは「人間性」。たとえば愛してもいない人を愛していると思わされることや、言葉を奪われ日記を禁じられること、歴史を改ざんされること、2+2=5と信じさせられること、暴力を受けざるを得ないことなどは「人間性」の蹂躙だ。
「人間性」とはごく大雑把に定義すれば「互いに心地よく生存していくための本能?」、かな(仮)。
暴力を受けたり与えたりしない、意に反したことを強制されないしない。「人権」と呼ばれる言葉が掲げるあらゆる権利を、集団内でお互いに尊重し合い守り合うこと。
何故に人権という言葉に「他者の権利を侵害しない限りにおいて」という制約がついているのかと言うと、お互いの人間性を守る必要があるからだ。
最もダサい西洋語で表現すれば、「Love」と言い換えられるか。他者を独占しようとする恋愛の愛ではなく、「思いやり」という日本語で表現される種類の本能。
人は(広い意味では人間に近い動物たちも)「人間性」を持つ生き物。人間性を侵されないことを結論的に「精神の自由」と呼ぶ。
「人間性」があることが「自由」の前提だ。他者の人間性を踏みにじり、責任を放棄して個々の欲望を貪ることが「自由」ではない。
逆に言えば「人間性」が守護されているなら政府の存在を過激に全否定しなくとも良い。集団で生きることもまた「人間性」を前提とすれば決して悪とはならない(政府が完全に人間性を守護することが可能か不可能かはともかく)。だから、全体か・個かという極端な二者択一をする必要もない。
仏教で言うところの「悟り」も強制で個の意思を奪われる服従を指すのではない。
この「精神の自由」へ至る大前提の「人間性」は人類の歴史上、小説や文書であまり書かれて来なかったように思う。何故なら書かなくとも自明のことであったから。たとえば「道義心」は自他の人間性を守ろうとする本能。「道義に悖る」行動を目撃した際の怒りの感情は猛スピードで発現するから、前提の「人間性」が言及されることはあまりない。

ところが現実には書かれていること以外、認識できない人たちが存在する。彼らは認識できないことを無いものとして振る舞うことができる。
だから彼らはAIのように書かれていないことを黙殺して思考し、奇妙な主張を始める。たとえば「全体主義によって強制的にお役目を押し付けられたなら、幸福でしょ?」と言う。
オブライエンや、この小説に対するオーソドックスな反応を嗤うのはこの種の人だと思う。

今さらだがあえて言おう、オーソドックスな反応で何が悪い、と。
「人間性」を失いたくない、と大声で叫んで何が悪い。

著者のオーウェルが自分の体験から、人間性を踏みにじる権力に反抗していたことは事実だ。
『1984年』は絶望に満ちた物語だが、決してこのような未来は避けられないのだと説くための小説ではない。
彼自身の主張は確かに明文で書かれていない。
しかし付録として収録された『ニュースピークの諸原理』の過去形からも、「人類はこうなってはならない」の叫びが感じ取れるはずだ。
『1984年』の感想として、
「怖いわぁ。こんな国に住みたくないなー」
と述べるのはダサくとも妥当なり。

人間性に基づくオーソドックスな感想を抱いたなら、既に始まっている現実の『1984年』化を阻止すべく人間性に踏みとどまろう。
古典の本を読み理解しようと努めることも、豊富な語彙を失うまいとする反抗活動の一つではないだろうか。

【おまけの話】
ピンチョンの解説が凄いという噂を聞きつけて新訳を電子書籍で購入したのだが、電子書籍版にはこの解説は付いていなかった(ピンチョン解説収録は紙書籍のみ)。
残念過ぎる、涙。これから購入する人は注意してください。


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『アルジャーノンに花束を』は、あなたを知る物語である(小説とドラマの感想)

 TBSで『アルジャーノンに花束を』が再びドラマ化された。
脚本は野島伸司。(※脚本監修、だそうです)
第一回目を観たところ、「野島ワールド」と言えるオリジナルな世界観に創り変えられていて、これはこれで悪くないと思った。
古くて良い曲をBGMとし、物悲しくも心温まるシーンを連ねるスタイルに、ちょっと懐かしい『未成年』を思い出す。
いしだ壱成に河相我聞、萩原聖人など、往年の少年俳優たちが出ているのも懐かしく思った。皆さんあまりにもオジサンになっていて始め気付かなかったが(笑)。

野島ドラマなので最初はこのように雰囲気の良い感じで始まるのだが、そのうち泥沼になるぞという警戒感はある。
今回は原作があるのだから、どうか原作に頼って落ち着いて物語を続けて欲しいものだけど。どうなることやら。また泥沼が始まるまでしばしのお付き合いだ。

『アルジャーノンに花束を』のドラマ化については、いつも期待はしていない。
2002年のユースケ・サンタマリア主演のドラマは今回のよりは原作に忠実だが、ドラマはドラマ。二次は二次。
そもそも『アルジャーノンに花束を』は小説で、日記形式のあの技巧を味わうのが醍醐味だからドラマなどの二次作品は「別物」と思っている。
本当は小説を読むべきだと思う。 
日本語訳が素晴らしいので、日本語で十分に(噂によれば原文以上に)堪能できるはず。



ただ設定だけでも、この物語が持つ力は確かに大きい。

「知的障がい者」として仲間に可愛がられながらもバカにされていた主人公が、科学の力で高い知能を獲得し、自分が置かれていた立場に気付いていく。
 それとともに周りの態度も変化し、どんどん孤独になり、最後は……。

この哀しい物語について多くの人が様々な感想を言うはずだ。
その感想に人の本性が出るから、観察すると面白い。
たとえば前回のユースケの時のドラマでは、ある種の人たちが主人公に対し
知恵遅れだったときは可愛かったのに、頭が良くなってからはすっごいムカつく!
という感想を言っていた。
この感想には人の非情さと残酷さ、嫉妬という醜い心が映し出されている。

アルジャーノンと主人公を見ているのだと思って物語をていると、実は自分の姿を見せられてしまうのだ。
そんな真実を映す鏡のような物語が、『アルジャーノンに花束を』。
 だからこの物語を「恐ろしい」と感じる人もいる。
感動作だと思って見ていると、思わぬ自分の本性を目の当たりにして衝撃を受けるかもしれませんよ。

■ドラマ感想

2015年版『アルジャーノンに花束を』は最後まで見てしまいました。
原作『アルジャーノン』のドラマ化と言うよりは、『アルジャーノン』設定をモチーフとした新しい物語という感じかな。
美しく整え過ぎですから、おそらくこのドラマは「不朽の名作」とはならないでしょう。
原作は「名作」です。悲しい物語ですが、人の心を暴き出す鏡として今も読み継がれているのだと思います。

ただ、今回のドラマ、私は好きですね。
全体に流れる人への優しさに涙せずにはいられませんでした。
何故か懐かしい情景にも、優しく心を撫でられた気がします。

このドラマを眺めながら私は色々考えました。個人的なことなどを。

人は、「普通」が一番幸せです。
でも「普通」であることは、とてもとても難しいです。

私は天才だった瞬間など一瞬たりともなかったのですが、それでも何故かずっと疎外感だけは感じてきました。
精一杯、「普通」であろうとしたのについに「普通」にはなれなかった気がします。
他人より余分に持っていると言うよりも、足りないのです。
これも一種の障碍のようなものです。

人と対等になれないことの悲しみをこの物語はうまく描き出している。
下でも上でも仲間になれないのだという悲しみを。

今回のドラマは優し過ぎるファンタジーでしたが、主人公への共感の涙で、ほんの少し傷を癒してくれました。
脚本家さんへ。ありがとう。

2015年6月12日筆

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