読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

守屋 淳『孫子とビジネス戦略』読み始めメモ

このブログ向きの話かもしれないので上げ。2011年、読み始め時のメモです。

※下画像のリンク先は電子書籍です


まだ読み始めだけど面白いです。
守屋先生の本は解説本などでお世話になったことがありましたが、今回は純粋な読書としてはまりました。ちょっと燃えています。
「孫子をビジネスに活かそう」、というタイトルのマニュアル本は世に山ほど出ていて、私も昔何冊か読んだことはあるが一度も納得出来たことがなかった。
どれも詐欺、と言うのは言い過ぎかもしれないけど、孫子の言葉を漫然となぞってビジネスに置き換えているだけで内容がない。
古代の偉大なる戦略家の神秘性を借りて、「この法則を実行していれば必ず成功する」などと暗示をかける宗教みたいなものか。あんなもの何冊読んでも役には立たないだろうにと思う。(中には素晴らしく役に立つ本もあるかと思いますが、運が悪いのか私は今まで巡り会ったことがありませんでした)
この本も始めそういう類の本かと思い、期待はしていなかった。
でも読み始めてすぐ良い意味で裏切られた。

この本は大真面目に『孫子』と西洋戦略論・現代ビジネス戦略論を比較し、『孫子』を現代に活かすにはどうしたら良いか検討してみようと書かれた本である。
要するに上から目線で
「こうしなさい」「ああしなさい」
と説教してくるマニュアル本ではなくて、学者的な公平な態度で『孫子』という素材を真摯に分析、他と比較して論じている。だから面白い。
論に同意したり違う視点から考えたり、読者として好奇心を掻き立てられる。
特に、ふんだんに散りばめられた西洋ビジネス戦略論からの引用と、孫子との対比が面白いですね。

細かい主張に関しては色々と首を傾げたりする部分もあるのだけど、こうして考えが浮かぶこと自体が奇跡的。他の孫子本はそこまでに至らなかったので、これは嬉しい。

以下、思ったことをメモしていきます。
メモなので、ばらばらに。読みながらまた追加するかもしれません。
※反対意見っぽいものも「批判」ではありませんから悪しからず。単に一読者としての所感になります※


■本田宗一郎氏の言葉に深く納得

 孫子の兵法とか旧軍隊の作戦要務令とかが、その(経営学の)経典だときいて、私もいささか面くらった。いまどき、こんなものが何かの役に立つだろうか。…私の社の社是の第一条はこうだ、「常に夢と若さを保つこと」。徳川家康も、孫子の兵法もまったく無縁なのである。

P17,引用の引用/原文:『俺の考え』本田宗一郎
 守屋氏は、「本田氏は経営に携わっておらず失敗してもやり直しが出来る現場にいたからこのようなことを言って良かった」と解釈、いっぽうで「失敗の許されない経営(財務やマネジメント)においては『孫子』が当てはまりやすい」としている。

(現場=何度も失敗して可。試行錯誤が許される。
経営=戦争と同じく失敗が許されず試行錯誤が出来ない。
故に、「現場では本田氏の言葉が当てはまり、経営では孫子が当てはまる」との守屋氏の主張)

が、本田宗一郎の言葉は現場だけに当てはまるものではないのではないか?
本田氏が言いたかったのは、
古代の指南書から学ぶのは時間の無駄。現在の経験から、現在の状況を見極め、現在において理念(戦略)を立てていけば足りる
ということではないかと私は思う。
確かに古今東西の経営論の知識は大切だし、その知識を補足するプロのアドバイザーたちが本田氏の周りには存在しただろう。だが経営判断において最も重要なのは、「今」に関する感覚。「今」を的確に判断する目さえあれば無理に千年も前の知識を掘り起こす必要はないだろう。
温故知新と言っても限度があるということ。直近の過去でも足りるはず。
そもそもこんなことを言っては元も子もないけど、私は本当に『孫子』がビジネスに役立つのかどうか疑問を抱いている。
『孫子』はあくまでも戦争の指南書だ。
戦争の指南書を無理やりビジネスに置き換えようと、たくさんの人が苦心しているが、苦心している暇があるなら現代ビジネスを直接勉強したほうが早いのでは? と思ってしまう。

言わずもがなの真実を書いてしまうと、戦争は戦争。
ビジネスはビジネス。
「人殺しもありの奪い合い」と「共存共栄の利益追求」だ。
本質が違うと割り切って専門は専門の道を学んだほうがいいのでは。
いくら『孫子』に詳しくても金計算や法律を知らなければ、現代で会社の一つも起こせない。ということで、ビジネスの極意を知りたかったらビジネス論を学んだほうが圧倒的に近道かと。
きちんと現代ビジネスを学んだ後で『孫子』に置き換えて考えるなら、思考整理の方法として良いと思う。
例、
人生をマラソンに喩えることは可能だけれども、マラソンの達人だからと言って人生全てうまくわたっていけるわけではない
(※マラソン=孫子 人生=ビジネス)


■クラウゼヴィッツと孫子の比較が面白かった。

クラウゼヴィッツは「一対一の対決」、
孫子は「多数との競争の中での生き残り」、
を書いているのだと。

鮮やかな対比。分かりやすいしその通りだなと感じた。

でもなんでこの違いが生まれたのかと考えると、私が思うにクラウゼヴィッツ『戦争論』は戦争状態を写生したもので、孫子兵法は“戦争のやり方”を初学者も含めて一から説く目的で書かれたものだから。
まず書かれた目的が違う。
そして書いている視点の時間軸が違う。
クラウゼヴィッツは既に「一対一」の戦争状態が起こった後を観察してメモしているのであり、孫子はまだ戦争が起こっていない状態の視点から説き始めている。
当然、孫子は「まだ戦争が起きていない」のだから防ぐことも可能なのである。

よく孫子は平和主義から戦争回避を説き、クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長」とまで述べて戦争を肯定したと言われる。
確かに、孫子は内心では戦争を嫌悪していたのではないかと私も感じる。この矛盾が私も孫子を好きな理由。
ただし戦争の本質に関しては、実は両者とも同じ真実を書いているだけに過ぎない。

戦争が始まる前の視点から見れば
「外交・政治その他の暴力以外の力を用いて敵国を圧するのが最善だ。戦争するのは最悪のこと」(孫子)。
同じことを戦争が始まってしまった後からの視点で言い換えれば、
「戦争とは外交と異なる手段を用いてする政治の延長」(クラウゼヴィッツ)
ということになる。

孫子も逆から見れば「戦争とは政治の延長における“最悪な”形」と書いているわけだ。
クラウゼヴィッツの「戦争は政治の延長」も、言葉を裏返せば政治の段階で留まることも可能だったはずという意味になる。
クラウゼヴィッツは少し言葉足らずだったということになるか。
言葉足らずでもたぶん専門家同士なら阿吽で通用する話なのだろうが、一般的な感覚からは戦争と政治をイコールで並べたようで違和感のある文に見えてしま う。現に、クラウゼヴィッツの言葉を「戦争は政治の延長に過ぎないんだからやっても構わないんだ! やるべきだ!」と過激な意味に誤読する素人がいたため大惨事が起きてしまった。
クラウゼヴィッツの『戦争論』は“論”と言いながらも、学習のためにきちんとまとめた指南書のつもりではないと本人が言っている。また未完成のメモの状態のまま発見されたことは有名。
『孫子』とは次元が違うと言うか、戦争について書かれた書物としてはジャンルが違うとさえ言って良いのではと私は思う。
この二つを同列に置いて話すのがそもそも誤読のもとだし、未完のクラウゼヴィッツには酷だなと思う。

守屋氏の著書に戻り。
一点だけ、孫子とクラウゼヴィッツとの対比で正確ではないのではと感じた部分。
 ニッチは,敵の手薄な所を突くという意味で,『孫子』にある「進撃するときは、敵の手薄を衝くことだ――進みてふせぐべからざるは、その虚を衝けばなり」という言葉そっくりの部分もある.どの企業もまだ参入していない空白部分が,まさに敵の手薄な部分となるわけだ.
ちなみに,クラウゼヴィッツの『戦争論』には「相手の戦力の最も集中した所を叩け」という指摘があり,『孫子』の考え方とは好対照を成している.
P54
 いやいやそれは対照ではなくて、説かれている戦闘の段階が異なるだけでは。
進撃する段階においては、「手薄な所から」入って行く。
そして決戦においては、クラウゼヴィッツの言うように敵戦闘力の主力を撃滅しなければならない。
「主力撃滅」は孫子で言うと、
「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」
等が近いかな。
“奪取する”と“叩く(撃滅する)”では表現も実際行動も違って来るが、要するに戦闘行為の目的として「大切な主力や要所を叩き潰したり奪ったりして相手に不利を自覚させ、こちらの要求をのませる」ということで同じ。
どちらにしろ、えげつないな。えげつなくて残酷なのが戦争の本質だ。

クラウゼヴィッツと孫子と比べれば私も孫子のほうに共感する。
だからと言って孫子を素晴らしい善人とは思わない。
数さえ少なければ人殺しをしていいという論は、それもまた違う。
戦争は戦争。両者の表現の過激さの違いは、状況が異なっていたというだけのこと。戦争のやり方など状況が変われば必然で変わってしまう。
『孫子』ばかりを永久絶対の指南書と崇めるのもどうかと思うね。


■最後に、世間話。

この本を読みながら改めて考えていたが、どうして皆、『孫子』などの指南書の一部だけしか見ようとしないのだろう?
一部だけ見ればどんな行動もどんな主張も当てはまってしまうだろう。
たとえば、太平洋戦争で日本軍は
「短期決戦」と
「早期での講和」を
結末のシナリオとして描き戦争を始めた。
この部分だけ考えれば、短期決戦と戦闘回避の講和を最善とする『孫子』を実行した、お手本のような戦争だったと言えてしまう。
ところが日本軍は、戦争の基本中の基本である兵站をおろそかにした。
全体で見れば『孫子』のお手本どころか、『孫子』さえ知らないようなド素人以下の戦争をやってしまったわけだ。

イラク戦争の際、アメリカ軍が『孫子』を参考にして戦略を立てたと主張したことは記憶に新しい。
曰く、
「孫子に習って我々は最小限の攻撃――ピンポイント爆撃だけで戦争遂行する。(だからこの戦争はやっていいんだ)」
失笑しましたね。
全体に『孫子』的な解釈から見れば、あの戦争は「やることが最悪」の戦争だったはずだ。
本気で孫子に習う気があるなら、泥沼となるのが目に見えている広い戦場に踏み込んではならなかったし、踏み込んだとしても早期で撤退すべきだった。何より、人心を踏みにじって反感を買っては敗北必至だ。孫子もそう言っている。

このように自分勝手な都合の良い解釈で、自らの穴だらけの戦略を補うために『孫子』など古典を一部引用して看板に掲げる事例が後を絶たない。

どんなに素晴らしい指南書でも一部だけの利用では必ず誤ってしまい、危険だろうと思う。


まとめ(提案)

最もビジネスに活かしやすく有用と考えられるランチェスター戦略でさえ、「本当にビジネスに活かすことが出来るのか?」と疑問視する声が増えているらしい。
まして孫子をビジネスに応用するのは至難の業と思われます。古い戦争指南書の言葉をビジネスに置き換えることばかりにこだわり、考え込んでいる時間があるなら、現代ビジネスを直接に学んだほうが圧倒的に早いと私は思うのでここではそう書きました。

ただ全く応用出来ないと考えているわけではありません。
否定ばかりしていても無意味なので戦争指南書の活用法をご提案してみます。

◎戦争指南書は現在の経験の“整理”に使うべし

まず先に現在行うべきことの基礎を学ぶ。ビジネスならビジネスについて学ぶのが先。当たり前のことなのだが「裏ワザ」を手に入れたくて戦争指南書を先に学びたがる人が多いように感じます。そして古典のみ信奉してすがりつき、現在現実についてあまり学ぼうとしない。だから口を開けば「孫子いわく~」と教訓を周りに押し付けるのみという最悪のパターンに陥る。
特に学者先生や歴史マニアの方々の中には古典しか学ばず現在を学ぼうとしない、現代について学ぶ必要など一切ないと考えている人が存在します(そのため中学生でも知っているような法律や社会常識を知らない人もいて、幼稚さに唖然とさせられることがよくあります)。
戦争指南書は現在現実について学んだ後で、自己の経験を投影させて検討するのが良い活用法ではないでしょうか。状況違いの理論はこのように遠方の鏡として活用することで、現在を客観的に眺めることが出来、行動パターンを良き方に変えていけるのではと思います。
ただ状況の差にはくれぐれも注意すべきです。場合によってはビジネスと戦争では明らかに対応が異なることもあり、戦争指南書をそのまま当てはめて考えては危険なこともあるでしょう。

◎使うなら、もれなく使うべし

次にビジネスではなく戦争の場合です。
もし現実に戦闘的な状況下で戦略論を活用するなら、一部のみ抜粋して自分の主張の拠り所とするのではなく全面的に従わなければなりません。
特に『孫子』などは一から十まで順を追って丁寧に手ほどきされた戦争指南書なはずです。一つでも欠ければそれは『孫子』を活用したとは言えないでしょう。
もちろん現代と古代の戦争では細部が違うのでここは変換する。
たとえば土煙が上がっている方向を見て敵が来ていることを知る→ 当然ながら衛星など現代技術を駆使して敵の所在を知ることになる。
あるいは、ゲリラ戦などでGPSなどが使えない状況では『孫子』がそのまま活かせるかもしれませんね。
なんでもそうだと私は思うのですが、理論はトータルに活用して初めてその真価が発揮されるもの。よく出来た理論であればあるほど一部のみの偏った利用では危険な場合もあります。
(だからこそビジネスにおいて『孫子』を信奉し過ぎてはならないと思うわけです。ビジネスという違う状況では一部の利用しか出来ないため、必ず偏った解釈となります。ですからあまり孫子を深遠で絶対的なものと思い込み過ぎず、冷静に「自己の経験の投影」程度として眺めるべきと申しております)
『孫子』は現在のような偏った利用の仕方が想定された書物ではないと思います。
奇妙にアレンジされた抜粋しか利用されないのは少々、気の毒です。
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我らのリアル・ヒーローたち(『「のび太」という生き方』感想文の感想)

2012年筆。かつて人気だった記事なので上げておきます。

目次
我々世代の「ヒーロー」とは
『「のび太」という生き方』中学生の感想文
藤子F作品における、真実の「のび太」
余談。「のび太」ではなく「キテレツ」だった自分

我々世代の「ヒーロー」とは


子供の頃、テレビアニメや漫画の世界で強いヒーローは流行ではなかった。
たとえば「リアルロボ」と呼ばれる『ガンダム』。何故、「リアル」なのかと言うと悪と正義が明確に分けられておらず、しかも能力の高い絶対的英雄が登場しないからだそう。つまり現実世界に近い。
主人公のアムロは気が弱く小さいことでウジウジと悩み、我がままで義務から逃げたがる。一般によく見かけるタイプの少年、シャア言うところの「坊や」に過ぎない。そんな一般少年が大きな責任を負わされることで少し成長し、自分の全能力を搾り出すようにして目の前の課題に取り組んでいく必死な姿が共感を呼んだ。この流れは『エヴァンゲリオン』等にも受け継がれたか。

だから私たち以下の世代には、英雄を無条件に崇拝することを知らずに育った人がたぶん多い。
私に限って言えば、『三国志』さえ知らずに育った。もし幼い頃の私が『三国志』等を知っていたとしても、作られた英雄の嘘話には興味を覚えなかったはずだ。
大人たちも誰も、子供たちに強い英雄を崇拝することを押し付けず、英雄そのものを教えなかった。そんな時代だった。

この時代を最もよく象徴している創作が『ドラえもん』ではないだろうか。
なにしろ主人公は尊敬心を少しも抱かせることのない、何をやっても駄目ないじめられっ子だ。
人格的にもお世辞にも立派とは言えない。弱虫なうえに甘えん坊ですぐ他人に依存し、努力は大嫌いで、秘密道具を使って他人を陥れようとする腹黒な面も持っている。
それまでの創作のヒーローたちとは正反対の主人公である。
だけどその主人公の駄目なところが現実の人間らしく、読者が自分を重ねて痛々しく眺めながら共感する部分であり、世界中に渡って多くの人に読み継がれている理由だろうと思う。
絶対的英雄に中毒して現実から逃げ続ける人生もたぶん楽しいのだろうけど、私たちの現実をずっと支え続けてくれたのは何もできない「のび太」のほうだった。


『「のび太」という生き方』中学生の感想文

少し前から、『「のび太」という生き方』という本に関して中学生が書いた読書感想文が話題になっている。

中学三年生の読書感想文/「のび太」という生き方

素晴らしい文だと思う。この完成された文を中学生が書いたという驚きをひとまず措いて、純粋に人が書いた文として素晴らしい。

特に、
… 受け入れられているという実感もとても大切なことだと思った。また、のび太が夢を叶えることが出来た根本的な理由はドラえもんと出会ったからである。つまり、ドラえもんはロボットの形をした希望そのものであると言える。僕にロボットの形をしたドラえもんはいないけれども、心の中にドラえもんは存在する。希望を持ち続けることにより、心の輝きを失わずに、豊かな人生を送りたいと思う。
 この締め括りに感動を覚えた。

そうだな、ドラえもんの道具ではなく、ドラえもんという友達がのび太を変えたのだ。
友に受け入れられているという実感。
友を大切に思う気持ち。
それがあるだけで人は能力などなくても奇跡を起こすことができる。

友への想いとは、確かに希望と呼ぶのも不自然ではないが、もっと強烈で強力な現実の力だと私は感じる。

魯迅の有名な言葉(実際は魯迅ではなく魯迅がペテーフィ・シャンドルの詩を引用したもの)に、
「絶望は虚妄だ。希望がそうであるように」
というものがある。 
もしかしたら希望は絶望と同じように永く心に留めることはできないかもしれない。ある日、唐突に絶望の風が吹いて希望の火がかき消される――かのように思える――瞬間が人生には必ず訪れる。
だけど人への想いは幻の風だけで消えない。
“今”友がいないのだとしても、かつていた友を想う気持ちでもいい。
今のところ人生で誰も自分を愛してくれる者はないと感じているなら、自分が愛した人のことを思い浮かべてみる。すると力が湧いて来る。
人を想い、人のために動くなら、どんな力でも湧いて来る。
たとえ無力な自分でも、玉砕することが分かっていても、困難に突き進んでしまう力が自分を押すことを感じるだろう。

そう、長編における弱虫ヒーロー、「のび太」のように。

弱虫でありながら優しさだけを武器にして困難に飛び込む「長編のび太」の姿こそが、我々の希望。そしてあれが現実における本物のヒーローの姿なのだ。

「のび太」という生きかた 頑張らない。無理しない。




藤子F作品における、真実の「のび太」


ところで私は『「のび太」という生き方』という本を読んでいないから詳しいことは分からないが、上の読書感想文を読んでいていくつか気になる点があった。

読書感想文を書いた彼は解説本を読んで、初めて『ドラえもん』の奥深さ、藤子・F・不二雄のメッセージに気付いたと言う。
子供の頃、私は原作だけで充分に藤子・F・不二雄の言おうとしていることを感じ取ることができたし、藤子F作品の奥深さには子供心にも感嘆したものだが。最近の子は解説されないと駄目なものか?
(ああそうかぁ、テレビで一時期やっていた無理めの脚本。藤子F先生本人が書いたのではない話。あれが今の子たちの『ドラえもん』のイメージなのかもしれない。今の子が悪いんじゃ、ないよな)

それから肝心の解説本のこと。
解説本では、のび太に関して
「悪口を言わない」 「妬まない」 「何度もチャレンジする」 「がむしゃらに立ち向かっていく」
などと書いてあるらしいが、そこはたぶん正しくないですよ。
のび太は毎日のように出木杉くんに嫉妬して歯噛みしていた。ジャイアンやスネ夫の悪口は常時言っていた。がむしゃらに、一心不乱に努力して勉強するなんて場面も見られなかった。確かに反省するということがないから打たれ強く「何度もチャレンジする」ように見えるのだが、比較的にすぐくじけていじけて泣く。
私は子供の頃、のび太には「なんだこいつ最低な性格だな」と思った記憶がある。

のび太の長所を言うとしたら、ただ一点、「優しいところ」だろう。
弱い動物が道端で泣いていたら捨てておけない。巨大に成長した恐竜でも慈しみ愛する。
出木杉に嫉妬したり、ジャイアンを憎んだりして悪口を言うのだが現実に相手を陥れるような悪さはしない。あ、いや、しようとはするのだが最終的に性根の「優しさ」が顔を出して、踏みとどまる。
独裁者となった時は世界中の全員を消して(粛清!)しまうのだが、ひどく反省して元に戻す。

弱虫さの反対にあるこの優しさが、長編において危機の環境に置かれた時に「後にひけない」気持ちとなって最終的に友を守り抜く。

そして友を守り続けた心が、のび太の夢を叶えさせる。


たぶん解説本に書かれているのは主に長編ののび太のことなのだろう。
長編は、のび太もジャイアンもスネ夫も別人かと思うほどキャラが違う。
確かに長編は感動的で、私も大好きだけど、『ドラえもん』の真髄は日常のほうにあると思います。あの悪辣な登場人物たち、人間の悪い面を描き出したブラックなところが、藤子F作品の醍醐味。

実は藤子F先生にはシニカルでブラックな作品も多い。
人の悪い面を浮き彫りにして読者に直面させる、そういう古典的な文学の手法が藤子F先生の作品にはある。
シニカル作品を子供向けにしたのが、『ドラえもん』だろう。

(藤子F先生は『ドラえもん』をギャグ漫画と言っていた。決して感動だけを狙った作品ではない)


『ドラえもん』を希望の物語として読むのもいいが、もう少し大人になったら藤子F作品のブラックさも味わって欲しい。

他人が介入するとどうしても作者の意図が薄められてしまうもの。
ぜひ、アニメだけではなく原作を読んで欲しいものです。

(可能なら『ドラえもん』以外の藤子F作品も読んで欲しい)



余談の自省

偉そうなことを言いながら自分自身の人生はどうなのかと言うと、たぶん負け組に入るのだろう。学歴や収入や家の大きさ、子供の有る無しで他人を評価するタイプの人々に言わせれば。
「成功者か失敗者か」と問われれば明らかに私は「失敗者」だ。
自分の能力を活かす生き方ができなかったという点で。

私がのび太と大きく違う点は、勉強だけはできたこと。なまじ、できてしまったからまずかったのか。
(ところで上の作文を書いたのも開成の子。のび太の気持ちなど本当に心底は分からないよな)

だから私はどちらかと言うと、のび太よりも『キテレツ大百科』のキテレツに甚くシンパシィを感じていた。
キテレツは勉強ができる。できるのに、のび太と同じ、いやそれ以上に仲間はずれになっていて苛められているのだ。 
私立の進学校などに通っていない限り、小中学生の世界で勉強ができるということは人気者となる要素がゼロである。喩えるなら、「激しい暴力に対するスプーン曲げが出来る程度の超能力」、と同じくらい完全に無意味で無価値な能力だ。
私は小学校の頃、「ちくしょう勉強なんかできたって何の意味があるんだ」と腐っていた覚えがある。
キテレツのクラスでの扱いがのび太と同じであることは、勉強ができるからこそなお悲哀が感じられる。

キテレツよりさらに共感を覚えたのは、『エスパー魔美』の魔美のクラスメイト、高畑。
彼は天才でテストでは必ず満点を取ることもできるが、わざと間違いの答えを書いて点を落とすという寂しい努力をしている。
ウィキペディアで今調べたところ、「他の努力家に申し訳ないから」という理由でテストの点を落としていたのだそうだが、私が読んだ時の印象ではもっと深刻な理由だったように覚えている。自分の深刻過ぎる気持ちを重ねて増幅し読んでしまったのかもしれない。

中学の時、『エスパー魔美』を読んだ友人の女子が(高畑について)
「自分でテストの答えを間違えて点を落とすなんて。信じらんない! こんな人、現実にいるわけないよね!?」
と憤るのを聞いて私は、生きた心地がせず冷や汗を流していた。
あの女子は高畑と同じ罪を犯している人間がまさか横にいるとは思わなかったろう。


実際、私は高畑やキテレツほどの天才ではなく、文系でほんの少しだけ勉強ができた程度。確かに教科書を一読するだけで合格点を取れる、という程度の能力はあったが理系天才のキテレツたちにはとうてい届かない。
それでもイジメが席巻していた当時、勉強ができることは隠さなければならないと怯えていた。テストの点をわざと落とすことをして、これは犯罪みたいなもの だと自分で自分を責めながらやめることができなかった。先生にも親にも、もちろん友達にも告白できず、たった一人で罪を抱えて孤独にあえいでいた。辛い学生生活だった。
(念のため、私は実際にイジメを受けた経験はない。過剰に怯えたのは他にも理由がある)

高畑のエピソードに触れた時、漫画とはいえ生まれて初めて自分と同じことを考えている人を見つけて救われた。
あの時、藤子F先生には生涯の恩を感じたな。


思うに、藤子F先生は「のび太」ではなく、キテレツや高畑タイプの子供だったのではないか。
だけど事実をそのまま描いても共感というほどのものは得られなくて、いっそ勉強さえもできない主人公を描いてしまったら最もヒットした。
ヒットへ導いた「のび太」の力が示すように、もしかしたらこの世で最も強い人間とは「優しさ」以外に何も持たない者だったのか、と藤子F先生も驚いたことだろう。


未来ある人たちへ // 

18/8/26追記 上で「この世で最も強い人間とは「優しさ」以外に何も持たない者だった」と書いたけど、これは全ての才能を棄てるべきだという意味ではないので注意。
すでに持っている才能も個性の一つ。個性を棄てるのもまた、自分を繕い世間に嘘をついていることになり、苦しみの種となる。
棄てることなく、繕わず、ありのまま生きることが本当は一番正しい。
私は繕ってしまったので道を誤った。

大人になって振り返ってみれば、勉強ができるということは大人世界においてかなり得だったと分かる。
ただ勉強ができるというそれだけで一発逆転も可能だ。
勉強ができる子が嫌われて、叩かれ潰されがちなのは「コイツは将来有望だ」と皆が本能で悟っているからだ。
(性格的に問題ある子は別である。テストの点だけで他人を評価し、低い点を取った子を見下したりすればその部分だけは責められても仕方ない。ただそれでも集団でイジメという行為をやるのは人間として最低に汚い、イジメが正当化される理由は一つもない)

将来有望……そんなことは言われなくても賢い子たちのほとんどが気付いているだろうが。
私は“良い子”過ぎたのか、周りが嫌だと言うことをやらないことが正しいのだと信じてしまった。だから嫌われてはいけないと過剰に思うあまり、自分を潰してしまった。

“良い子”であり過ぎてはいけない。「死ね」と言われても言うなりになって死んではいけない。
「嫌味なヤツ」と思われてもいいから本来の自分のまま生きるべきだ。

もし、イジメの対象となってしまい酷い目に遭わされるなら、能力を出せる時まで隠しておけばいいのだ。
その代わり勉強は密かに続けていけ。
後になって出せなくなるほど本気で自分を潰してしまったらいけない、私のように。

正直言って私は後悔している。
才能をドブに捨てて、人生を無駄に潰してしまった。
そのせいで誰かの役に立ちたくても、今たいした役にも立たない大人となった。神(地上へ送り出してくれた、応援してくれた霊たち)に申し訳なく思う。私はひどい罪を犯してしまったのかもしれない。


自分がのび太と違う点、のび太の長所をもう一点挙げよう。
それは「求める力」があること。
のび太は素直に夢を求める。自分の願望に我がままなのだ。
静香ちゃんが欲しいなら、欲しいと言う。結婚して欲しかったら、結婚してくださいと言う。
そのことが夢を叶える能力として最低の条件だった。当たり前過ぎるけど案外、見落としがちだ。

私ももう少し我がままで、素直に願望を口に出していたら今頃はもう少し役に立つ大人となっていたかもしれないと思う。たとえば、大学の学費を出してくれる人がいたかもしれない。いや確かにいたと今は分かっている。
残念ながら、私は堪えた。我慢した。“イイ子ちゃん”過ぎた。
そして黙っている者に夢を叶える資格は与えられない。

(「権利の上に眠る者は救われない」――法律だけではなく人生にも言えることらしい)


こんな私を反面教師として、これからの人生がある若い人たちはどうか「のび太」となってください。

そして夢が叶ったあかつきには、他人を見下さないように。
「のび太」のように優しさを失わず、他人のために動く人間となってください。

いくら夢を叶える力があると言っても、他人を見下して嘲笑する目的のためだけに頑張るのは虚しいと思うのです。そんな人は「のび太」ではなくて単なる私利私欲の亡者。他人の役に立つことは一生にない。


2012年3月10日筆 2018年8月25日、読みづらかった箇所を改稿
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デービッド・ハルバースタム『静かなる戦争』 感想

 2017年はトランプ政権に揺れるアメリカを目撃し、世界各国の影響力順位が変わる様を眺めた年だった。
ハルバースタム著『静かなる戦争』は、こんな今だからこそ読みたい名著。

(記事中敬称略)

〔目次〕
紹介と読後の雑感
まとめ
参考になった箇所、引用






■本の紹介と読後の雑感

本書にはブッシュ(父)政権後半からクリントン政権の内幕が詳細に描かれている。表向き流れてくるニュースの情報とはまるで質が違う。
関係者への徹底した取材で、政権メンバーの詳細な経歴はもちろん、プライベートな場での発言まで明かされる。さらにソマリアやユーゴ紛争の虐殺など世界的事件の最中、アメリカ政権内で交わされていた会話、大統領の言動が詳細に記されている。ここから「アメリカ大統領」が何者であるのか、ひいては 「アメリカ」とは何であるのかまでもが見えてくる。それは愚民制度としての「民主主義」の末路も見せてくれているのだが。

さすがジャーナリズムの傑作。圧倒のリアリズム。今まさに生きている時代の歴史書は、全てが興味深く細部まで見逃せない。
やはり現実は面白い。だが、恐ろしい。
遥か遠い過去の歴史を眺めるのとは違い、今の命に係わる現実に私は震えを抑えることができない。

この本を読んで得た結論を先に書く――
 「アメリカ大統領」とは素人集団の長である。
「アメリカ」とは、莫大な富を得たために世界一の軍事力を持ってしまった、無知な金持ちたちを乗せたジャンボジェットである。
この巨大な飛行機を操るのは未経験の新人パイロット。
我々が住む現代は、素人同然のパイロットが操縦する危ういジャンボジェットに世界の運命を委ねているようなもの。2017年末の今もまだ人類が生き残っていることは奇跡としか言いようがない。

「新人パイロット」とは言っても、これまでのアメリカ大統領たちは政権を担うことが初めてというだけだった。
ブッシュ父にしろコリン・パウエル にしろ、湾岸戦争当時の政権メンバーは若い頃から政治や戦争の場で腕を磨いた人々。
クリントン は大統領となった当時若かったし経験も十分とは言えなかったが、それでも長年政治畑を歩んできた人。周りを固めていたのも優秀な頭脳を持つ専門家集団たちだった。
そんな一流の政治エリートたちですら、超大国を操縦するにあたって長期の政策を軸とせず、国民の反応に右往左往し、行き当たりばったりにその場しのぎの対処ばかりしていたのが現実。
結果、大量虐殺の犠牲者を生み続け、テロと世界紛争の種を撒き散らした。この本に記された時代に撒かれた種は、二十年後・三十年後の未来である今、刈り取ることすらできないほどの大木に成長している。
一応は政治のプロであったクリントンたちでさえ、国家運営が未経験ゆえにドタバタとその場しのぎの対処しかできなかったことを考えれば、正真正銘本物の素人が大統領職にある今がどれほど恐ろしい状況か……。

日本のメディアは、アメリカがプロフェッショナルな軍事専門家による長期戦略のもとで動いている国家なのだという幻想を抱いている。
大統領などお飾りでしかない。どれほど無知でバカな素人が当選したとしても、大統領となった瞬間から超一流のプロたちが周りを取り囲み、手取り足取りアドバイスを浴びせるから大丈夫。何も心配は要らない。
トランプが大統領となったとき、そのような楽観的な発言をするコメンテーター、分析家ばかりだった。
現実はそうではない。王様の椅子に座っているのはお飾りではなく権力を持った愚民なのだ、と彼らが悟るのはもう間もなく。最悪の有事が起きてからではないだろうか?

おそらく有事を経た後に全ての人類が気付くのだろう、我々は数百年前、決定的に道を誤ったのだと。

■まとめ

国家運営は最も難しい仕事で、どれほど優秀な人物でも未経験者ができるものではないはず。先輩たちの仕事を観ながら学び、小さな仕事から少しずつこなして運営の技術を身に付け、何年も経てようやくトップに相応しいだけの力量を身に付ける。
ましてアメリカは人類史上最高規模の軍事力と財力を持つ。トップしか知ることのできない機密情報も膨大で、前任者から引き継いだその情報を読み込むだけで何年もかかるだろう。
それがいきなりトップの座に据えられ、ろくに情報も知らされないまま「国家の操縦をしろ」と言われる。その日から怒涛のごとく国際問題が襲い掛かる。
これに正しく対処するのは個人の能力を遥かに超える。不可能なことをやらされるのだから過ちが起きるのは避けられない。アメリカが衰え世界崩壊の種を撒き散らしたのは必然だったと思う。

未経験者または完全なる素人が大国を操縦しなければならない、というシステムにこそ重大な欠陥がある、ということに人類はいつ気付くのだろう。
プロへの尊敬心を棄て去り、プロの首を斬って素人が国を支配し君臨する。愚民の王様に政策があるはずもなく、全ては国民の言うなり、風まかせに振り回されるだけ。このような愚民制度(衆愚制)を続ける限り人類の不幸は終わらない。
民主主義の理念は正しいが、現代のシステムには明らかに欠陥がある。


■参考になった箇所、引用

 P444
ある時、ボスニア情勢について議論をしていると、アスピンが、「アメリカはセルビア人に一発食らわせ、様子を見るべきだ」というようなことを軽い気持ちで言った。パウエルは訊く。「もし、うまくいかなかったらどうしますか」。アスピンは答える。「その時は、別の手を考えよう」。するとパウエルは、第二次大戦中の英雄、ジョージ・パットン将軍の言葉に少し手を加えて切り返した。「何かに着手する時には、必ず成功するよう、手を尽くさなければならないのです」。

>何かに着手する時には、必ず成功するよう、手を尽くさなければならない
賛同する。その通りだと思う。
何事も「成功するにはどうしたらいいか」という前提で細部まで計画を練るべき(結果がどうであれ計画段階では)。子供の遊びから一般社会の仕事まであらゆることがそうであるのに、どうして戦争だけは「とりあえずやってみればなんとかなる」と皆が思っているのだろう? 
人は戦争のことになるとテーマが大き過ぎて考えが及ばなくなり、際限なく楽観的になるものなのか?

パウエルは撤退まで計画できなければ派兵に反対する人だったという。その主義が、国民の要望に応えたい政権側から見ればたびたび障害となっていたが、彼は正当だったと思う。(それにしてはイラク戦争が疑問過ぎるが。あの愚かな戦争の裏側を知りたい)

P449
「映像の持つ説得力」が、アメリカの外交政策に新たな波を起こした――アメリカは、歴史的な繋がりが浅く、自国の安全保障にまったく関係のない国へ、限定的に介入するようになったのである。政策を動かすのは、テレビの画像とアメリカ国民の「人道的な衝動」である。それだけに危険性がある。感情をもとにした政策は根が浅い。外交政策、それも武力行使を伴う政策を実行する必然性が乏しいからだ。

>感情をもとにした政策は根が浅い。
外国人から見ると当たり前の中の当たり前。
このような当たり前をあえて書かなければならないお国柄に驚く。

不思議の国、アメリカ。日本人から遠いのは中国ではなくアメリカなのだ。
人道主義は素晴らしいが、もし人道を叶えたいなら他人のために自らの命を捧げなければならない。ということをおそらくあの国の国民は知らない。
中途半端な人道主義こそ最大の犯罪で、今の世界の混乱を招いた要因。
だからトランプが候補者時代に唱えていた「他国のことに首を突っ込まない」政策は正しいのだが、今さら遅い。世界を混乱させた後で責任放棄するのはさらなる犯罪だ。せめて自分たちが招いた混乱の責任くらい取るべき。

P410
「おめでとうございます、大統領。ようやくふらつかずに、真っすぐ歩けるようになりましたね」
「君には、これまでずいぶん手厳しくやられたな」。
そう言ってからクリントンは一瞬沈黙した。それから、まるで詫びるかのように、心の内をうかがわせる言葉を添えた。
「覚えているかい? 私は知事から大統領になったから、外交政策の経験はまったくなかったんだ」
和やかな、親しみ溢れる会話だった。こんなやりとりができるようになったのは、クリントンの大統領就任から七年目のことだった。

アメリカ大統領制および、現代民主主義のシステム的欠陥を明白に表す一節。

未経験者が国家運営で「ようやく真っ直ぐ歩けるようになる」ために七年。これはおそらく超絶に早いほう。クリントンは一般人より遥かに優秀な人間なので、七年で少しだけ立って歩けるようになった。
しかしその時はもう任期終了間近。
どれほどの天才が大統領となっても間に合わないシステム。
通常なら七年もあれば国家崩壊、世界滅亡するまでに十分。これまでアメリカは莫大な富と軍事力があったので無事だったのだが、これからはそうはいかないと思う。
アメリカも、アメリカの傘の下で過ごした世界も、偏った富の上にあぐらをかき過ぎたな。

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酒見賢一『泣き虫弱虫』感想 (なりきり設定)

酒見賢一著、『泣き虫弱虫 諸葛孔明』というコメディ小説があるそうです。

nakimusi.png
『泣き虫弱虫 諸葛孔明』


「口喧嘩無敗だが負けそうになったら火刑(放火)」
「弟をいじめまくっている」
という強烈キャラとして描かれているとの噂で、気になりました。
『三国志』関連のフィクションを全く読むことができない私も、あの『後宮小説』を書いた作家の本なら笑って読めるかなと期待したものです。

噂を聞いてから十年以上。古書店で見つけ、ようやく買いました。
ブログネタとしてここにレビューさせていただきます。
(少々辛口です。冒頭しか読んでいないわりに長いから要注意)

〔参考〕酒見賢一とは:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E8%A6%8B%E8%B3%A2%E4%B8%80より
酒見 賢一(さけみ けんいち、1963年11月26日 - )は、日本の小説家。福岡県久留米市出身。福岡県立明善高等学校卒業。1988年、愛知大学文学部哲学科東洋哲学専攻卒業[1]。デビュー作『後宮小説』は、架空の中国史小説(王朝も人物もすべて架空で時代も判然としない)風ファンタジーという異色作だったが、その後は実際の中国史から題材をとることが多い。
>その後は実際の中国史から題材をとることが多い。
ただし、あまり史実の文献を調べないタイプのようです。以下参照。

■小説冒頭について


冒頭を読み、コメディとしては期待はずれと思いました。
世の中の人たちは
「抱腹絶倒!」
「笑いを堪えるのが大変だから電車で読むのは辛い」
とレビューされていますが、いや、どこで笑えば良いのか分からなかった。ごめん。
『演義』でおなじみフィクションの孔明を知っている人だけが笑える特殊なジョークなのか?
爆笑しているアメリカ人たちと一緒に映画を観ている気分です。アメリカンジョークはアメリカ人にしか分からない、みたいな。

私が笑えなかったのは、既に『演義』でこんな感じの変人として描かれていると勝手に想像していたので(笑)、意外性がなかったせいでもあります。※筆者は『演義』の設定をあまり知りません

主人公は想像していたよりキャラが薄い印象です。
「口喧嘩無敗」と言ってもただ難しそうな言葉を並べ立てるだけで勝った気になっているだけ。相手に関係のない言葉を並べ知識を誇ることのどこが「口喧嘩」だろう?
「火刑」と言ってもただ放火という犯罪行為に走るだけ。これでは単なる犯罪者。エピソードに工夫が感じられない

もっと『今日から俺は!!』の主人公のように工夫に長けた一流クズのキャラで描かれているのだと思っていました。

そもそもだけど、台詞や内面描写で人格を表現せずに、地の文で「こういうことを行った」と書くだけで人物設定が終わっているのも小説としていかがなものか。

歴史ジャンルの読者は作家に対して甘いと思った。この本を絶賛している人たちは、きっと一般の本を読むことなどないのでしょう。他ジャンルの小説だと、地の文で人物設定をするこのような低次元の小説は「プロの小説」として認めてもらえない。歴史創作ファンはもう少し他ジャンルの小説も読んだほうが良いと思う。

小説としてのお粗末さはともかくとして、前書きは作者としての本心を書いたもののようですが、これこそ残念な印象でした。
実は、前書きを読んで本編を読む気を80%ほど失いました。


■なりきり宣言で前置きとの対話


以下、趣向を変えまして。

「孔明なりきり設定」ということで前置きについて対話してみます。
(言い訳や迂遠な表現が面倒なため、「なりきり」ということにしておく)
「なりきり」と言っても筆者はフィクションキャラを知らないのであくまでも現実、ということで。
言語や知識も現代日本に住む「孔明」という設定にしておきます。
現代風に軽い口語体で書きますので少々下品な表現もある点、ご了承ください。


【引用元:文藝春秋の単行本 第3刷より(引用中の……は引用者による略)】
 ちかごろ、わたしにもようやく諸葛孔明の偉大さがわかってきた。
決して皮肉ではない。

いや、皮肉でしかないでしょう。
冒頭から嘘を吐くと口が腐りますよ。

『三國志』は漢字が難しいので読めず、『三國志通俗演義』もまた漢字が難しいので読めなかったから、適当に和訳された『三国志』をつらつら眺めたのであった。

ここでかなり読む気が失せた。
酒見氏は「東洋哲学専攻」ということで、東洋古典にはかなりの知識があると勝手に想像していたのだが、「漢字が難しいから読めなかった」と仰るのはどういうことか? 東洋哲学(思想)で扱う書物はほぼ漢字のみだと思うが。
それに「適当に和訳された『三国志』」って何だろうな。『演義』を読んでいない、吉川版も読んでいない、ということは何か子供向けのフィクションを読まれただけなのか。

巨大な野獣型模型兵器を出動させ、口からは火炎放射、硫黄の毒煙を吐かせて野獣車を四散させ、地雷まで仕掛けて、蛮族どもを虫けらのように焼き殺してしまうのであった。
そんな孔明の大人げない所業もさることながら、何故このロボット兵器群を、後の魏との北伐戦……に投入して魏軍を攻撃させなかったのかが不思議でならない。
読者も……見たかったはず。
え、何その設定。
バカなの?

こんなフィクションを鵜呑みにする幼稚な精神でいると、いつか現実で痛い目に遭うと思う。
私は現代軍事オタも好きではないが、「陣形だけで戦争に勝つことはできない!」と言う人のほうが東洋古典フィクションに耽溺する歴史創作マニアよりも遥かに人として見込みがあると思う。現実を好み、きちんと現実を見る心構えがあるという点において。

酒見賢一を称えるネット掲示板で、
「『泣き虫弱虫諸葛孔明』は、『三国志』は現実通りに書かなければならないという固定観念を払拭してくれた!」
などと書いている人がいて笑った。
いったいどこに現実に拠って書かれた『三国志』があるんだ? 『演義』通りに書かねばならないと作家が神経を遣っている小説なら、世の中に腐るほど溢れているが。
どうもこの人たちが言う「現実」とは、お馴染み『演義』設定のことを指しているらしい。劉備中心の物語であれば「正統(史実との区別なし)」として分類している。
一般の『三国志』こそTHE フィクションなのだよ。あ、やはりご存知なかった?笑
※一般の『三国志』は中国『三国演義』がベース。「演義」とは「架空物語」という意味。つまりフィクションのことです

そもそもわたしが初めて『三國志』を読んだのは、作家になって後のことである。わたしのデビュー作が、「シンデレラ+三国志+金瓶梅+ラスト・エンペラー」のおもしろさと言われていたので、どんなものか見てみようと思ったのであった。

『後宮小説』が!?
あの小説、アイディアは面白いと思った。私も楽しく読ませてもらった。でも「シンデレラ+三国志+金瓶梅+ラスト・エンペラー」までは行っていないと思う。一作品にも届いていない。
編集か誰か売るためにずいぶん盛ったものだね。と言うか本質的に売り文句として違うと思うが。

まあ作者が鵜呑みにしているふうなのはジョークだと思いたい。鵜呑みにしていたら怖い。
(ここで薄ら、『泣き虫弱虫~』の主人公は作者自身の投影なのでは? と気付いた)

 『三国志』は……
「しかし、こいつら、なんでこんなに戦争ばっかりしてるんだ?」
と感想せざるを得ず、大陸人同士が、やめりゃあいいのに人口が半減するほどの殺し合いを飽きもせずに続けるという異様な話なのである(だが中国史とはこのような強烈な話の連続なのであって、三国時代がとりたてて異常なわけではない)。

中国史だけではない。
君が生まれる頃より二十年も遡らずに「やめりゃあいいのに人口が半減するほどの殺し合い」が世界中で行われた時代があった。日本人もたくさん殺し、殺された。

いや現代も。
この文を書いている最中にも。たった今も世界各地で虐殺が行われている。

古典時代、あるいは中国だけが特殊で異様だと仰るとはね。ヘイト発言だろう。小学校の授業で習った近現代史の記憶は消え去ったのか?
完全なる平和ボケだな。

人間の知性は『三国志』では、人殺しに用いられるばかりである。紛争解決にもっとよい知恵を出すのが知性というものだろうと思いたい。敢えて人類とは度し難い生き物だということを示したいのか。
「……こいつら、結局、根本的に頭が悪いんじゃないのか?」
と首をかしげられることもしばしばである。

それは太平洋戦争の生き残りの前で言えるのかな?

十代か二十代だったら物を知らないからこういう暴言を吐くのも仕方ないと思うが、年齢を見たら書いた時点で四十代ということで少々引いた。
年齢にしては幼稚過ぎる発言。

>人類の知性は紛争解決に用いるべきである

この部分は私も全く同感、同意。
(それにしても、漢文が読めず・太平洋戦争があったことさえ知らないという、人類の知性を僅かも受け継いでいない人が言うのは笑えるが。いったい何様なんだこの人)
でも三国時代だけではなくて、第二次世界大戦時でも他のどんな時代でも、ほとんどの人が好き好んで戦争を選んだわけではないんだよ。大人だったらそんなことは普通、分かるはず。

しかし『三国志』のフィクションしか読んでいないと確かに全員、頭が悪そうに感じるのも無理はない。
フィクションの作者が頭が悪いからだろう。 
……虫けらのように殺されてゆく。それを、
「乾坤一擲の大智謀、秘計が当たったわい!」
と喜んだり、褒めたり、けなしあったりしているのである。
そう、こんなふうに、フィクション作家は頭の悪いことを書く。

※この記事で使う「フィクション」の用語定義は記事下↓注記参照

歴史フィクションしか読まないとバカになると言うのは、脳の成長が作者と同じレベルのままで止まってしまうから。
そもそもフィクションは平和な時代に書かれるものだから、フィクション作者の多くは戦争を知らないのである。
結果、素人に育てられた平和ボケの素人が大勢育つことになる。
(例外は吉川英治の時代だが、彼は『演義』に忠実であろうとして現実の戦争体験は反映していない/失礼。吉川版『三国志』も全て読んでいないので断定するのは違うかもしれない。少なくとも筆者が耐えられなくなって読むのを放棄したページまではそう。少し覗いたラストのほうで孔明が死体の山を見て泣き崩れるシーンがあり、そこに作者ご自身が実際に見た戦場の記憶と気持ちが反映されていたので、私も泣いた)

 その天下麻の如く乱れた凶悪無残の地獄に、天が平和を勧めて遣わした一人涼やかな忠烈義仁の男、それが諸葛亮孔明だ、ということになっている。

これも初耳。
誰がこんなこと言ったんだ? 気色悪いな。

あと、
>諸葛亮孔明
姓名字のフル表記をすると無知がばれますよ。
(フル表記をしなくても無知であることは分かるけどね)

要勉強。⇒古代中国の名前、「姓」「名」「字」について。“諸葛亮孔明”と書くのは間違い

こんな基礎も知らないとは。本当に東洋哲学科へ行ったのかな?
仮に大人になるまでに勉強しなかったとしても、お金をいただいて小説を書くのだから基礎的な勉強をするのは当然のこと。

『三国志』関連の創作家は一切記録を調べず、無知なまま小説を書いて印税を稼げるのか。『蒼天航路』の作者も「ぶっちゃけ何も知らないで書いてる」と言っていたが。
ラクな商売だな。他ジャンルの作家では絶対に許されない。

 しかし孔明の逸話を史書に照らして検討していくと、途端に深い疑念にとらわれることになる。結局孔明は戦火に油を注ぎこそすれ、平和を実現させることはなかった。また戦に勝ったことなど数えるほどしかなく、何故この男が稀代の軍略家と讃えられるのかさっぱり分からない。孔明神話というものか。
>何故この男が稀代の軍略家と讃えられるのかさっぱり分からない。

うん、私もさっぱり分からない。笑
まずあなた方の「孔明神話」というものが分からないし、よく知らないので理解し難い。

だけど負けた側には言いたい放題に言っていい、という意識はどうかと思う。
本当に酒見氏は史書に照らして調べたのかどうか疑わしいが(後で書くように事実誤認が多いのでどうも嘘ではないかと思う)、勝てば何をした人間でもヒーローと崇め、負ければどんな悪口でも浴びせて良いと考えるのはどうだろう。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
として記録されるのは人間社会において仕方ないことだと思うのだが、敗軍の将へ悪口を浴びせることは日本人の美学には反すると思うがね。
私も他の敗軍の将に対してこういうことは言いたくない。人として恥ずかしい


〔追記〕(筆者にて)私には諸葛亮を擁護するつもりは毛頭ないのだけど、さすがに
>戦に勝ったことなど数えるほどしかなく
発言には脱力。蜀漢軍の戦略は全て諸葛亮が担当したのだけどな。
この人も「戦場」だけが戦争だと考える、お子様向けゲーム程度の頭しかない。歴史作家の知的レベルの低さを憂う。

ゲームしか知らない幼稚園児は要勉強 ⇒諸葛孔明の仕事について
 とくに晩年、なんの気に入らないことがあったのかは知らないが、天下の大勢が魏の曹操の一族により定まり、ようやく平和が訪れそうなことが分かっていながら、もう意地になっているとしか思われない北伐四回に及び、蜀の民衆を疲弊させて迷惑をかけ、しかも魏の領土を一片たりとも奪れなかったという意味では全戦全敗しているのである。なんなんだ一体。

蜀の民を疲弊させたうえに全敗したことについて異論はない。(※実際は敗戦したことは一度もなく目的を達成できなかっただけ)
その点、どこまでも責められるべきと思う。

でも、あまりの幼稚な無理解にため息が出るな。
大人の発言とは思えない。引くほど幼稚。
ネット掲示板で、曹操崇拝の中学生による孔明への悪口を見かけた気分だ。

一点だけこれは危険な思想だと思う箇所を指摘しておく。

>平和が訪れそうなことが分かっていながら

「天下統一 イコール 平和」
というのは大きな勘違いだし、こういうことを作家さんが公に書くのは危険だ。

三国時代は遠くの他人事であり、自分だけは永久平和の下で暮らせるという妄想を抱いている人には分かりづらいと思うが、上のような思想を撒き散らすとお隣の独裁国家(現代中国)が諸手をあげて大喜びしますよ。

「天下統一」とはC華J民共和国が掲げている旗で、彼らは可能なら世界制覇、少なくともアジア諸国は占領下に置く気でいる。
そのことを正当化するために、曹操や始皇帝などを「天下統一で平和を目指した素晴らしい人物たち。再評価すべし」というキャンペーンを行っている。
参照 ⇒現代的“諸葛亮後世評価”考、気を付けるべきこと

彼らは狡猾だからフィクションを使って宣伝をしていることに気付くべきだ。
平和ボケもいい加減にすべきと思う。
曹操つまり現代中国を称賛し、日本を「曹操サマ」へ売り渡して、売国奴と呼ばれたいのか?

 とにかくわたしの目には、まずは、孔明が、おとなげない男、と印象づけられたことは確かである。

>おとなげない

お前もな。(旧2chふうに。笑)
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三浦しをん『船を編む』感想(本)


大手出版社の玄武書房、辞書編集部を率いる荒木は、定年間近となり最後の大仕事に傾注していた。その大仕事とは、次代の辞書編集部を担う優秀な人材を探して引き抜くことだった。
辞書を作る仕事は特殊で、監修の松本先生曰く
「気長で、細かい作業を厭わず、言葉に耽溺し、しかし溺れきらず広い視野をも併せ持つ」
者でなければ務まらない。
今の時代にそのような若者が、はたしているのだろうか。
人材探しは難航し、社内の隅々を訪ね歩き若い部下の話も聞いた末、ようやく巡り合ったのが真面目――ではなく馬締(まじめ)光也。
院卒の二十七歳、築数十年の下宿先で本に埋もれて暮らしている変人だった。身だしなみに気を遣わず、恋人なし、会話も下手で営業部ではお荷物扱いされていた不器用な青年は、言葉にかける知識とセンスでは並外れていた。
かくして逸材馬締を得た辞書編集部は、新たな時代の言葉の海を渡る新辞書、『大渡海』の編集に乗り出す。……

先に映画を見て、今の時代には巡り合うことが難しい良質な物語に感動し、いつか原作を読みたいと思っていた。
最近、思い出してようやく読む。
これだけ映画と小説のイメージが大差ない物語もめずらしい。誠実に作られた映画だったのだなと知った。

映画も穏やかだったが小説はさらに繊細で温かい世界観だ。
登場人物も魅力的。恐ろしく美人なのに馬締と同じ変わり者、下宿先の大家タケさんの孫で、板前修業をしている香具矢。
辞書編集部に合わないお調子者ながら、根は優しく誠実な同僚、西岡。
戸惑いつつ入った辞書編集部の仕事に魅力を感じていく新人、岸辺。等々。
いわゆる「キャラが立っている」。マンガ化もされているらしいと知って、なるほどと思う。登場人物同士の会話文、関係が魅力的でマンガにも合っている。
映画を見た時はもっと硬い文体で書かれた小説をイメージしていたが、意外と軽さがあって読みやすい。「ライトノベルか?」と思う人もいそう。文学を期待して読む人には肩透かしかもしれない。
馬締の恋愛ストーリーも描かれていて、こういうところが若い女子人気を集めているのだろうと思った。
恋愛部分の話は苦手な人もいるはず。ただ、馬締の純粋な恋には心をつかまれる。気付けば馬締と一緒に落胆したり驚いたりしている自分がいて、懐かしい想いを味わった。
恋愛は冒険。意外とこれが現実に近いのだ(あの恋文はないが。でも、何かしら痛いことを必ずやっている)。一見普通の人でも、誰もが若い頃に心臓が止まるような恋の冒険をして家族を築いていくのだよな、と思い出す。

辞書作りの描写は地味ではあるが緊迫感がある。
馬締たちの辞書作りへ懸ける情熱、辞書作りという仕事の大変さが細かく描写されていて感動、驚嘆してばかり。私にはハードボイルドの小説より緊迫感があるように思えた。
たとえずっと室内の描写が続いても、言葉の説明ばかり並ぶ地味なページが続いても、志の高い大事業の話ほど緊迫感のあるものはない。
そう、こういう誠実な仕事の話が読みたかった。
お互いがお互いを思いやり、協力し合いながら優しく時が流れていき、日々の仕事へ真剣に向き合っていくうちやがて大事業を成し遂げる。
最後に来た道を振り返る馬締たちの場面に、「やはりこれはライトノベルでは無理だな」と思った。
軽く始まりながら、気付けば人生の重みを味わっている。
ページ数は多くないのに記憶へ刻み込まれる、素晴らしい小説だと思う。

個人的には、言葉の説明の箇所に心躍った。
さいぎょう【西行】 不死身の意味あり。西行が旅の途中で富士山を見ている姿が、絵の題材として好まれた時期があった。『富士見をしている西行さん』から、『西行=不死身』になった。
 等々の話は楽しい。まだ知らないことだらけだ。
それから馬締の住む築数十年の下宿、建物のほとんどを書庫として借り、本に埋もれる生活は「た……たまらない」と悶えた。羨ましい。ああいう部屋に住みたい。(さすがにうちは狭いし床が抜けるので、物理的に「本に埋もれて暮らす」ことはできない)
辞書マニアはもちろん、本好きにもたまらない一冊。

最後のこの箇所には共鳴し、感動した。日頃、分かりやすさを狙って軽い言葉を使ったり、注目を集めようとして刺激的な言葉を使ってしまう自分を反省。もっと言葉を大切にしなければならない。
 けれど、と馬締は思う。先生のすべてが失われたわけではない。言葉があるからこそ、一番大切なものが俺たちのなかに残った。
生命活動が終わっても、肉体が灰となっても、物理的な死を超えてなお、魂は生きつづけることがあるのだと証すもの――、先生の思い出が。
先生のたたずまい、先生の言動。それらを語りあい、記憶をわけあい伝えていくためには、絶対に言葉が必要だ。
馬締はふと、触れたことのないはずの先生の手の感触を、己れの掌に感じた。先生と最後に会った日、病室でついに握ることができなかった。ひんやりと乾いてなめらかだったろう先生の手を。
死者とつながり、まだ生まれ来ぬものたちとつながるために、ひとは言葉を生みだした。
……
俺たちは船を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく船を。



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