読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

元旦に、コンビニで見かけた『危険な読書』という雑誌。
まずこの黒背景、黒い本に白文字の明朝で一文、“危険な読書” との縦タイトルに惹かれ手に取ってしまった。
(これは本好きなら手に取らざるを得ない表紙。この表紙デザインから素晴らしい)

中を開くと目に飛び込んできた文に打たれ、しばし立ち尽くした。



リード文、と言うのか? 特集記事を紹介するための文に痺れたのだった。

引用する。
当たり前と思われていた価値観が世界中で次々と崩れ去るいま、もはや流行りの本をいち早く読んだとか、これまで読んだ本の数を指折っていてもつまらないじゃないですか。たとえ一冊であっても深く心に突き刺さるような、常識がひっくり返るような読書こそを愉しみたいのです。

……泣くかも、と思った。

激しく同感だ。
特に太字の箇所は前々から私も主張していて、そのたびバカにされ嫌われてきた。

流行りの本をいち早く読んだとか、これまで読んだ本の数を指折って
いる人ばかりなんだよ、本当に。
自分を飾るために見せかけの読書歴を誇る人ばかりで、実はどこにも本好きなど存在しないのではないかと私は思っていた。

読書は量ではなく質だし、流行を追いかけることではないし、まして自分を飾るためにステイタスとして行うものではない
この言葉が通じる人が、この世界のどこかに存在するのだろうか。
半ば信じられなくなっていた。

最近はネット上でたまに真性の読書好きを見かけるようになったし、芸人でもたとえばオードリー若林氏など「本気で読書マニアなんだな」と思える人を見かけて少しずつ孤独が癒されてはいた。
でも今日、決定的に孤独ではないと分かって嬉しい。

心ある読書人はきっと皆、思っている。
流行を追うことや、読んだ本の数を競うのは読書ではないと。
自分たちは好きだから読み漁り、そのうち抜け出せなくなるような「毒」となる読書をして、どうしようもなく深みにはまっているだけ。

誰に誇りたいわけでもない。
「読書をしている自分、知的でカッコイイ」と訴えたいと思ったことはない。むしろ読書にはまって抜け出せなくなっている自分が、恥ずかしいと思っている(人もいるはず。私がそう。自己否定するつもりではなくても、不可抗力ではまっているものを他人に暴露するのは恥ずかしい)。
それでもある日、思うのだ。
伝えたい、読書はたまらない体験なのだと。
だから恥を忍び勇気を出して好きな本を公開したりしているんだよ。

「心ある読書人」たちは、あまり自分の想いを言葉にしない。
読書量を競ったり自分を着飾るために本を使い捨て、粗末に扱う人々を見て密かに心を痛めているだけだ。
だから今回、上の文を書いたライターさんには心から感謝したい。
声を上げてくれてありがとう。同じ想いを綴ってくれてありがとう。



文の後半にも共鳴する。
ある学者は言いました。本には“マジカル”がないといけないと。またある詩人は言うのです。自分の中の“怪物”に出会うために本を読むのだと。読者諸兄姉! 本のチカラを侮ってはイケナイ。「危険な読書」とは、世の中にはまだこんな本があったのか! という発見と共に、読了後にはこの世界の見え方すら変わってしまう、へたすると人生すら変えちゃうかもしれない、そんな本に出会うための危険な指南書であります。
同意。
 そう言えば私も先日、似たようなことをプライベートブログで書いたっけ。
「読書は毒にもなる。モテるために読書する人たちがイメージするような、カッコイイものではない」と。
たぶん、伝わっていないだろうが。

皆さん本を侮り過ぎ。だから、「モテるために読書家を装う」などという勘違いした人が生まれる。
本はそんなにスマートで安全なものではないですよ。もっと毒々しく泥臭く、影響力のあるもの。


私はこの文を書いたライターさんを応援するため上の雑誌を買ってしまったのだが、 そもそも他人に奨められたものだけ読むというのも私は違うと思う。
始めのうちはお奨め本リストを道案内に使ってもいい。(そのために私もお奨め本リストを書いている)
でもいずれ自分の嗅覚で、自分に合った本を模索していくということが大事。そうしなければ「毒となる」読書など一生できないはず。

好きな本を、好きなだけ読め。
中毒体験を堪能せよ。
それが「人生を変える」などとは私は言わない。ただ、生きていて良かったと思えるほどのかけがえのない体験となることは確か。


2018年1月筆
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二流の読書でバカになる? 広く浅くの雑読を後押しする、嬉しい言葉

東洋経済サイト⇒『読む本でバレる「一生、成長しない人」の3欠点~「二流の読書で、バカになる人」も大勢います』

この記事が「一流」や「二流」などと格付けしていることについて私はどうかと思うし、コメント欄を見ると同じ意見の批判が多い。
ただ、「一流」「二流」をビジネス的な地位や富ではなく、単純に教養の質と考えれば、当たっているところもある。
特に海外の読書人の読み方には共鳴する。
ただし、世界の一流の人を見ていて感じるのは、「優秀な人に限って、読書は肩肘張らず、気の向くまま好きなものを読むのが基本」ということである。

読書だからといって、毎回勉強になるものを大真面目に読む必要はない。大切なのは、「楽しく活字に親しむ習慣」をもっているかどうかだ。

適当に読んでいる雑読派の自分としては嬉しい。
「お前のことじゃないよ」と言われそうだが、勝手に喜ぶ。笑

>毎回勉強になるものを大真面目に読む必要はない


そう。
読書は勉強のためだけにするものではない。

自分は浅い教養しか持たず、とうてい世間の基準に追いつかないのだけど、読書の方向性は間違っていないのだなと感じて自信が持てた。


好きな本だけ読んでいるわけではないが

上記事から引用

その証拠に、私が尊敬する一流のリーダーたちには、じつはそこらへんの漫画や週刊誌を読んでいる人も驚くほど多い。

私も駆け出しのころ、「無理して『フィナンシャル・タイムズ』を読まなくてもいいよ。俺が隣にいなければ、どうせ『週刊SPA!』の袋とじの部分を、一生懸命切り裂いているんでしょ?」と尊敬する上司に言われたことがある。

その上司は業界の中でも高名な伝説のディールメーカーなのだが、読んでいる雑誌がいつも『ヤングマガジン』や『少年ジャンプ』、そして『週刊SPA!』なのだ。

もちろん、雑誌ばかり読んでいるわけではなく、しっかりした本もきちんと読んでいるが、「緊張と緩和」をうまく使い分け、週刊誌や漫画もバカにすることなく自然体で楽しんでいる。

世の中には「売れている本」「話題になっている本」ばかりを追いかけて読む人もいるが、一流の人ほど、「これはいい」という自分なりの価値観があり、その「主体性」に従って、自分が好きな本を堂々と読んでいるものである。

ああ……、「気の向くまま」「適当に」読んでいる雑読の人は好きな本だけ読んでいるわけではないが。
肩の力が抜けているために、傍から見ると「好きな本だけ読んでいる」と誤解してしまうのかもしれない。
(差別なく何でも読むので、中には嫌いなものも含まれる/思い入れがさほど強くない、肩の力を抜いているからこそ何でも読める。私だったら村上春樹など、苦手な本もけっこう読んでいる ただしどうしても読めない悪質な本はある)

この人の誤解はともかく、観察されている側の雑読者に私は共鳴する。
何故、読み物のジャンルを統一しなければならないのか理解できない。
マンガでも哲学書でも価値を見出す。そうでなければ活字中毒者ではないでしょう。

私は実は、売れている本・話題本ばかり追いかけて読んでいる人が苦手だ。
とにかく他人の目だけ意識して本を読む人が苦手なのだよね。
それは“他人軸”の読書。「見せ読書」は明らかに活字中毒者ではない証拠だよな? と思う。

ツイッターの読書垢なども、始めは楽しかったのだがそのうち苦手になりやめた。それは「見せ読書」をしている人が多いと気付いてしまったからだった。
中にはそうではなく真性の本好きもいたのだけど、
「読書しないでスマホ見てる奴は軽蔑する!」
などと激昂している人がいて退散した。

読書しない他人を責めている時点で中毒者ではないと思う。
自分が見せ読書しかしていないことの証。


専門家即バカというわけではない

くれぐれも自分の仕事分野の話しかできない「専門バカ」、周囲から広い教養がないことを笑われているが本人だけがそれを知らない「裸の王様」、そして自分の専門分野に閉じこもって空威張りする「オヤマの大将」になってはいけない。

特定分野に特化した知性ではなく、幅広い教養や人間としての品性を読書によって磨くことが、一流の政治家にとってもビジネスパーソンにとっても重要なのだ。

うーーん??
これはどうだろう。必ずしも「専門バカ」をバカにできないとは思うけどね。
私は、一つの分野に突出した専門家を激しく尊敬するけれども。

そもそも何かの分野に秀でていない人は、他の分野のことも理解できないはず。
どこかに軸足を持つからこそ他の場にも足を踏み出せるのでは?
専門の浅い自分故に言える。

だいたい、専門家がどれだけ深い知識を持っているか分かっているからこそ、他人の専門分野についての話は遠慮する。
だからこそ他所では無口になる。
それが分をわきまえるということでは。
ワイドショーに出て浅いコメントを述べているコメンテーターのようにはなりたくない。

 

問題は、「反社会的バカ」のほう

【2】自分の偏見を助長する「二流の読書」をしない

なお、読書をしながら、視野がどんどん狭まっていくような「二流の読書」をしている人も少なくないので注意が必要だ。

読書で重要な要素のひとつは、視野・視点を広げることだ。これに対し、二流の人に限って、マニアックな特定分野の、自分の偏見を助長してくれる著者の本ばかり読みたがる。こういう「二流の読書」では、読書量が増えても、自分の視野を狭め、偏見を増長させるだけだ。

もちろん「各人が好きな本を読むのが基本」でいいわけだが、知性を磨いていくためには、自分の意見や価値観とは相いれないものも含めた「多様な情報源」を確保するのが不可欠といえるだろう。
これは正しいでしょう。
その人たちは「専門バカ」でさえなくて、思想的な主義を強めるためだけにその思想の読書をしている。宗教信者が、その宗教団体の教義だけ読んでいる状態。
そんな偏った読書をしてバカになっている人を最近よく見かける。
新聞や新書しか読まない人に多い。
彼ら彼女らには理解力もないし、カルト宗教信者のような思考停止に突き進む。
最後に、「一流の読書」にとって最も大切なのは、「書かれたことの一部を読んで批判したり、自分の都合のいいように曲解したりしない」という「まともな知性・メディアリテラシー」を持つことだ。

世の中には、書いてあることを文字通り信じるどころか、そもそも全体を理解できず一部にだけ反応して、自分の都合のいいように解釈し、批判する二流の人は思いのほか多い。

そうそう。
「二流の人」ではなく、思考停止で理解力をなくしてしまい、単語だけに脊髄反射して攻撃するプログラムのポンコツロボットね。二流にも三流にも入らず、使い物にならない反社会的人物。


この記事は序列をつけていると言うよりも、「反社会的バカども」と言いたかったところを、かろうじて言葉を抑えているという感じだな……。


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恋愛小説として読む夏目漱石 おすすめ作品

 休日に日本文学に親しむのは、いかがですか?

「文学なんて難しい」と思うかもしれませんが、意外に夏目漱石などは現代人にも馴染みやすい恋愛小説を遺しています。
いつの時代も人を悩ませ、惹きつけるのは恋愛の苦悩なのですね。
苦い思い出のある大人はもちろん、これから恋をする若い人たちへお奨めの漱石作品をご紹介します。


☆下記「漱石作品」リストは画像を表示するため楽天リンクをお借りしていますが、電子書籍なら無料本があります。
※画像の下のほうにKindle無料版へのリンクしておきます

三四郎



【Kindle無料版】三四郎
熊本の高等学校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物の総てが目新しい世界の中で、自由気侭な都会の女性里見美禰子に出会い、彼女に強く惹かれてゆく…。青春の一時期において誰もが経験する、学問、友情、恋愛への不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から失恋に至る過程の中に描いて「それから」「門」に続く三部作の序曲をなす作品である。
漱石の小説は、『猫』よりも『坊ちゃん』よりも、『三四郎』から入ったほうが良いのではないかと私は思います。恋愛小説こそ漱石の真髄だと思うからです。

 「田舎の青年が東京へ出て来て都会の女に恋をする」。
一言で『三四郎』のあらすじを言えばそうなりますか。現代ならありふれた恋愛小説なのですが、漱石の筆は描写の巧みさ的確さで登場人物の人生を疑似体験させてくれます。
みずみずしい青春を生きていた三四郎が、恋の苦さを知って少しずつ心に深みを持っていく。明るい『坊ちゃん』には共感できなくても、悩む三四郎には共鳴する人が多いのでは。
王道の恋愛小説、傑作です。


それから



【Kindle無料版】それから
長井代助は三十にもなって定職も持たず、父からの援助で毎日をぶらぶらと暮している。実生活に根を持たない思索家の代助は、かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく……。破局を予想しながらもそれにむかわなければいられない愛を通して明治知識人の悲劇を描く、『三四郎』に続く三部作の第二作。
アマゾンより
『三四郎』は若者の恋愛でしたが、『それから』は文字通りもう少し大人の恋愛です。十代・二十代前半より、もう少し上の年齢となってから読むのをお奨めします。(そう言う筆者もかなり若い頃に読んでしまったので、いずれ再読するつもりです)

現代では安い昼ドラになってしまいそうな設定でも、漱石の的確な筆で描かれると人物の心理を体験する実験に参加させられているようで、一緒に苦悩せずにはいられません。言わば高等な人生VRです。
陰鬱とした文章であるため好みは分かれるでしょうが、日本における最高峰の恋愛小説をぜひ一度ご堪能あれ。



【Kindle無料版】門
親友の安井を裏切り、その妻であった御米と結ばれた宗助は、その負い目から、父の遺産相続を叔父の意にまかせ、今また、叔父の死により、弟・小六の学費を打ち切られても積極的解決に乗り出すこともなく、社会の罪人として諦めのなかに暮らしている。そんな彼が、思いがけず耳にした安井の消息に心を乱し、救いを求めて禅寺の門をくぐるのだが。『三四郎』『それから』に続く三部作。
「恋愛小説」としては少々苦過ぎる、もう老境に入った夫婦の話。
若者が思い描く恋とはかなりかけ離れていますが、これもまた恋の行方の一つではあります。

人生の陰を鬱々と描き込む筆に、私はどうしても『こころ』の描写と重ねてしまうのですが、『こころ』のように派手な(衝撃的な)展開はありません。
ストーリーの展開だけを求める人にはお奨めできない小説と言えます。ただ『それから』を味わうことができた読書人には、『門』も読み応えのある一級品と感じられるでしょう。


虞美人草



【Kindle無料版】虞美人草
大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風でもの静かな恩師の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさからぬけ出すために、いったんは小夜子との縁談を断わるが……。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業的作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品。
文章表現が漢文から口語へ移り変わる時代、絶妙なバランスを取りながら両者の表現を混在させる漱石の文。この表現が恋愛小説に向く。二つの表現の間を巧みに行き来する筆致が、揺れながら恋を謳歌しようとする心に似ているからか?

漱石が流行小説家として生きることを決めた直後に書かれた作品だけあって、ストーリーは大衆向けなのかもしれません。やはり漱石の文章でなければ安い昼ドラの脚本に堕ちていたでしょう。
この話を一流の恋愛小説に仕立てているのは、超絶に巧い文章表現です。話の筋はともかく私は『虞美人草』が好きです。文体そのものに色っぽさを覚える、稀有な恋愛小説と言えます。

薤露行(かいろこう)


JohnAtkinsonGrimshaw.jpg ※画像はジョン・アトキン・グリムショー『シャーロットの乙女』

【Kindle無料版】薤露行

 『こころ』『行人』『彼岸過迄』等々、愛の苦悩を描いた名作は数多くあるのですが、重過ぎるのでまた別枠でご紹介します。
代わりに漱石作品の中ではあまり有名ではない短編小説、『薤露行』をここに置いておきます。

漱石だけではなく日本文学全体でもめずらしい、西洋を舞台とする小説。題材はなんとあの『アーサー王』です。
アーサー王の家臣ランスロットは、王の妃と不義の関係にあります。この西洋では有名な三角関係を漱石流の解釈で描いたのが『薤露行』。王妃とランスロットの報われない愛、ランスロットの妻の切ない想い、死に行く美しい乙女……等々に『三四郎』からの三部作や『虞美人草』を想起して眩暈を覚えます。
なお、「薤露行」とは「人生は薤の葉の上の露がすぐに乾くように、あっという間に過ぎ去ってしまう」という意味の歌。古代中国(漢代)、貴族の葬送歌です。漱石は報われない乙女たちの恋へ「薤露行」を捧げたのでしょう。このセンスだけでも惚れ惚れします。



――ああ、書いていてむしょうに漱石を読み返したくなりました。
ご紹介しておいて何ですが、筆者にはしばらく漱石文学を貪る時間がありません。
またいつか漱石に溺れるほどの暇が得られることを夢見ます。

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守屋 淳『孫子とビジネス戦略』読み始めメモ

このブログ向きの話かもしれないので上げ。2011年、読み始め時のメモです。

※下画像のリンク先は電子書籍です


まだ読み始めだけど面白いです。
守屋先生の本は解説本などでお世話になったことがありましたが、今回は純粋な読書としてはまりました。ちょっと燃えています。
「孫子をビジネスに活かそう」、というタイトルのマニュアル本は世に山ほど出ていて、私も昔何冊か読んだことはあるが一度も納得出来たことがなかった。
どれも詐欺、と言うのは言い過ぎかもしれないけど、孫子の言葉を漫然となぞってビジネスに置き換えているだけで内容がない。
古代の偉大なる戦略家の神秘性を借りて、「この法則を実行していれば必ず成功する」などと暗示をかける宗教みたいなものか。あんなもの何冊読んでも役には立たないだろうにと思う。(中には素晴らしく役に立つ本もあるかと思いますが、運が悪いのか私は今まで巡り会ったことがありませんでした)
この本も始めそういう類の本かと思い、期待はしていなかった。
でも読み始めてすぐ良い意味で裏切られた。

この本は大真面目に『孫子』と西洋戦略論・現代ビジネス戦略論を比較し、『孫子』を現代に活かすにはどうしたら良いか検討してみようと書かれた本である。
要するに上から目線で
「こうしなさい」「ああしなさい」
と説教してくるマニュアル本ではなくて、学者的な公平な態度で『孫子』という素材を真摯に分析、他と比較して論じている。だから面白い。
論に同意したり違う視点から考えたり、読者として好奇心を掻き立てられる。
特に、ふんだんに散りばめられた西洋ビジネス戦略論からの引用と、孫子との対比が面白いですね。

細かい主張に関しては色々と首を傾げたりする部分もあるのだけど、こうして考えが浮かぶこと自体が奇跡的。他の孫子本はそこまでに至らなかったので、これは嬉しい。

以下、思ったことをメモしていきます。
メモなので、ばらばらに。読みながらまた追加するかもしれません。
※反対意見っぽいものも「批判」ではありませんから悪しからず。単に一読者としての所感になります※


■本田宗一郎氏の言葉に深く納得

 孫子の兵法とか旧軍隊の作戦要務令とかが、その(経営学の)経典だときいて、私もいささか面くらった。いまどき、こんなものが何かの役に立つだろうか。…私の社の社是の第一条はこうだ、「常に夢と若さを保つこと」。徳川家康も、孫子の兵法もまったく無縁なのである。

P17,引用の引用/原文:『俺の考え』本田宗一郎
 守屋氏は、「本田氏は経営に携わっておらず失敗してもやり直しが出来る現場にいたからこのようなことを言って良かった」と解釈、いっぽうで「失敗の許されない経営(財務やマネジメント)においては『孫子』が当てはまりやすい」としている。

(現場=何度も失敗して可。試行錯誤が許される。
経営=戦争と同じく失敗が許されず試行錯誤が出来ない。
故に、「現場では本田氏の言葉が当てはまり、経営では孫子が当てはまる」との守屋氏の主張)

が、本田宗一郎の言葉は現場だけに当てはまるものではないのではないか?
本田氏が言いたかったのは、
古代の指南書から学ぶのは時間の無駄。現在の経験から、現在の状況を見極め、現在において理念(戦略)を立てていけば足りる
ということではないかと私は思う。
確かに古今東西の経営論の知識は大切だし、その知識を補足するプロのアドバイザーたちが本田氏の周りには存在しただろう。だが経営判断において最も重要なのは、「今」に関する感覚。「今」を的確に判断する目さえあれば無理に千年も前の知識を掘り起こす必要はないだろう。
温故知新と言っても限度があるということ。直近の過去でも足りるはず。
そもそもこんなことを言っては元も子もないけど、私は本当に『孫子』がビジネスに役立つのかどうか疑問を抱いている。
『孫子』はあくまでも戦争の指南書だ。
戦争の指南書を無理やりビジネスに置き換えようと、たくさんの人が苦心しているが、苦心している暇があるなら現代ビジネスを直接勉強したほうが早いのでは? と思ってしまう。

言わずもがなの真実を書いてしまうと、戦争は戦争。
ビジネスはビジネス。
「人殺しもありの奪い合い」と「共存共栄の利益追求」だ。
本質が違うと割り切って専門は専門の道を学んだほうがいいのでは。
いくら『孫子』に詳しくても金計算や法律を知らなければ、現代で会社の一つも起こせない。ということで、ビジネスの極意を知りたかったらビジネス論を学んだほうが圧倒的に近道かと。
きちんと現代ビジネスを学んだ後で『孫子』に置き換えて考えるなら、思考整理の方法として良いと思う。
例、
人生をマラソンに喩えることは可能だけれども、マラソンの達人だからと言って人生全てうまくわたっていけるわけではない
(※マラソン=孫子 人生=ビジネス)


■クラウゼヴィッツと孫子の比較が面白かった。

クラウゼヴィッツは「一対一の対決」、
孫子は「多数との競争の中での生き残り」、
を書いているのだと。

鮮やかな対比。分かりやすいしその通りだなと感じた。

でもなんでこの違いが生まれたのかと考えると、私が思うにクラウゼヴィッツ『戦争論』は戦争状態を写生したもので、孫子兵法は“戦争のやり方”を初学者も含めて一から説く目的で書かれたものだから。
まず書かれた目的が違う。
そして書いている視点の時間軸が違う。
クラウゼヴィッツは既に「一対一」の戦争状態が起こった後を観察してメモしているのであり、孫子はまだ戦争が起こっていない状態の視点から説き始めている。
当然、孫子は「まだ戦争が起きていない」のだから防ぐことも可能なのである。

よく孫子は平和主義から戦争回避を説き、クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長」とまで述べて戦争を肯定したと言われる。
確かに、孫子は内心では戦争を嫌悪していたのではないかと私も感じる。この矛盾が私も孫子を好きな理由。
ただし戦争の本質に関しては、実は両者とも同じ真実を書いているだけに過ぎない。

戦争が始まる前の視点から見れば
「外交・政治その他の暴力以外の力を用いて敵国を圧するのが最善だ。戦争するのは最悪のこと」(孫子)。
同じことを戦争が始まってしまった後からの視点で言い換えれば、
「戦争とは外交と異なる手段を用いてする政治の延長」(クラウゼヴィッツ)
ということになる。

孫子も逆から見れば「戦争とは政治の延長における“最悪な”形」と書いているわけだ。
クラウゼヴィッツの「戦争は政治の延長」も、言葉を裏返せば政治の段階で留まることも可能だったはずという意味になる。
クラウゼヴィッツは少し言葉足らずだったということになるか。
言葉足らずでもたぶん専門家同士なら阿吽で通用する話なのだろうが、一般的な感覚からは戦争と政治をイコールで並べたようで違和感のある文に見えてしま う。現に、クラウゼヴィッツの言葉を「戦争は政治の延長に過ぎないんだからやっても構わないんだ! やるべきだ!」と過激な意味に誤読する素人がいたため大惨事が起きてしまった。
クラウゼヴィッツの『戦争論』は“論”と言いながらも、学習のためにきちんとまとめた指南書のつもりではないと本人が言っている。また未完成のメモの状態のまま発見されたことは有名。
『孫子』とは次元が違うと言うか、戦争について書かれた書物としてはジャンルが違うとさえ言って良いのではと私は思う。
この二つを同列に置いて話すのがそもそも誤読のもとだし、未完のクラウゼヴィッツには酷だなと思う。

守屋氏の著書に戻り。
一点だけ、孫子とクラウゼヴィッツとの対比で正確ではないのではと感じた部分。
 ニッチは,敵の手薄な所を突くという意味で,『孫子』にある「進撃するときは、敵の手薄を衝くことだ――進みてふせぐべからざるは、その虚を衝けばなり」という言葉そっくりの部分もある.どの企業もまだ参入していない空白部分が,まさに敵の手薄な部分となるわけだ.
ちなみに,クラウゼヴィッツの『戦争論』には「相手の戦力の最も集中した所を叩け」という指摘があり,『孫子』の考え方とは好対照を成している.
P54
 いやいやそれは対照ではなくて、説かれている戦闘の段階が異なるだけでは。
進撃する段階においては、「手薄な所から」入って行く。
そして決戦においては、クラウゼヴィッツの言うように敵戦闘力の主力を撃滅しなければならない。
「主力撃滅」は孫子で言うと、
「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」
等が近いかな。
“奪取する”と“叩く(撃滅する)”では表現も実際行動も違って来るが、要するに戦闘行為の目的として「大切な主力や要所を叩き潰したり奪ったりして相手に不利を自覚させ、こちらの要求をのませる」ということで同じ。
どちらにしろ、えげつないな。えげつなくて残酷なのが戦争の本質だ。

クラウゼヴィッツと孫子と比べれば私も孫子のほうに共感する。
だからと言って孫子を素晴らしい善人とは思わない。
数さえ少なければ人殺しをしていいという論は、それもまた違う。
戦争は戦争。両者の表現の過激さの違いは、状況が異なっていたというだけのこと。戦争のやり方など状況が変われば必然で変わってしまう。
『孫子』ばかりを永久絶対の指南書と崇めるのもどうかと思うね。


■最後に、世間話。

この本を読みながら改めて考えていたが、どうして皆、『孫子』などの指南書の一部だけしか見ようとしないのだろう?
一部だけ見ればどんな行動もどんな主張も当てはまってしまうだろう。
たとえば、太平洋戦争で日本軍は
「短期決戦」と
「早期での講和」を
結末のシナリオとして描き戦争を始めた。
この部分だけ考えれば、短期決戦と戦闘回避の講和を最善とする『孫子』を実行した、お手本のような戦争だったと言えてしまう。
ところが日本軍は、戦争の基本中の基本である兵站をおろそかにした。
全体で見れば『孫子』のお手本どころか、『孫子』さえ知らないようなド素人以下の戦争をやってしまったわけだ。

イラク戦争の際、アメリカ軍が『孫子』を参考にして戦略を立てたと主張したことは記憶に新しい。
曰く、
「孫子に習って我々は最小限の攻撃――ピンポイント爆撃だけで戦争遂行する。(だからこの戦争はやっていいんだ)」
失笑しましたね。
全体に『孫子』的な解釈から見れば、あの戦争は「やることが最悪」の戦争だったはずだ。
本気で孫子に習う気があるなら、泥沼となるのが目に見えている広い戦場に踏み込んではならなかったし、踏み込んだとしても早期で撤退すべきだった。何より、人心を踏みにじって反感を買っては敗北必至だ。孫子もそう言っている。

このように自分勝手な都合の良い解釈で、自らの穴だらけの戦略を補うために『孫子』など古典を一部引用して看板に掲げる事例が後を絶たない。

どんなに素晴らしい指南書でも一部だけの利用では必ず誤ってしまい、危険だろうと思う。


まとめ(提案)

最もビジネスに活かしやすく有用と考えられるランチェスター戦略でさえ、「本当にビジネスに活かすことが出来るのか?」と疑問視する声が増えているらしい。
まして孫子をビジネスに応用するのは至難の業と思われます。古い戦争指南書の言葉をビジネスに置き換えることばかりにこだわり、考え込んでいる時間があるなら、現代ビジネスを直接に学んだほうが圧倒的に早いと私は思うのでここではそう書きました。

ただ全く応用出来ないと考えているわけではありません。
否定ばかりしていても無意味なので戦争指南書の活用法をご提案してみます。

◎戦争指南書は現在の経験の“整理”に使うべし

まず先に現在行うべきことの基礎を学ぶ。ビジネスならビジネスについて学ぶのが先。当たり前のことなのだが「裏ワザ」を手に入れたくて戦争指南書を先に学びたがる人が多いように感じます。そして古典のみ信奉してすがりつき、現在現実についてあまり学ぼうとしない。だから口を開けば「孫子いわく~」と教訓を周りに押し付けるのみという最悪のパターンに陥る。
特に学者先生や歴史マニアの方々の中には古典しか学ばず現在を学ぼうとしない、現代について学ぶ必要など一切ないと考えている人が存在します(そのため中学生でも知っているような法律や社会常識を知らない人もいて、幼稚さに唖然とさせられることがよくあります)。
戦争指南書は現在現実について学んだ後で、自己の経験を投影させて検討するのが良い活用法ではないでしょうか。状況違いの理論はこのように遠方の鏡として活用することで、現在を客観的に眺めることが出来、行動パターンを良き方に変えていけるのではと思います。
ただ状況の差にはくれぐれも注意すべきです。場合によってはビジネスと戦争では明らかに対応が異なることもあり、戦争指南書をそのまま当てはめて考えては危険なこともあるでしょう。

◎使うなら、もれなく使うべし

次にビジネスではなく戦争の場合です。
もし現実に戦闘的な状況下で戦略論を活用するなら、一部のみ抜粋して自分の主張の拠り所とするのではなく全面的に従わなければなりません。
特に『孫子』などは一から十まで順を追って丁寧に手ほどきされた戦争指南書なはずです。一つでも欠ければそれは『孫子』を活用したとは言えないでしょう。
もちろん現代と古代の戦争では細部が違うのでここは変換する。
たとえば土煙が上がっている方向を見て敵が来ていることを知る→ 当然ながら衛星など現代技術を駆使して敵の所在を知ることになる。
あるいは、ゲリラ戦などでGPSなどが使えない状況では『孫子』がそのまま活かせるかもしれませんね。
なんでもそうだと私は思うのですが、理論はトータルに活用して初めてその真価が発揮されるもの。よく出来た理論であればあるほど一部のみの偏った利用では危険な場合もあります。
(だからこそビジネスにおいて『孫子』を信奉し過ぎてはならないと思うわけです。ビジネスという違う状況では一部の利用しか出来ないため、必ず偏った解釈となります。ですからあまり孫子を深遠で絶対的なものと思い込み過ぎず、冷静に「自己の経験の投影」程度として眺めるべきと申しております)
『孫子』は現在のような偏った利用の仕方が想定された書物ではないと思います。
奇妙にアレンジされた抜粋しか利用されないのは少々、気の毒です。
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我らのリアル・ヒーローたち(『「のび太」という生き方』感想文の感想)

2012年筆。かつて人気だった記事なので上げておきます。

目次
我々世代の「ヒーロー」とは
『「のび太」という生き方』中学生の感想文
藤子F作品における、真実の「のび太」
余談。「のび太」ではなく「キテレツ」だった自分

我々世代の「ヒーロー」とは


子供の頃、テレビアニメや漫画の世界で強いヒーローは流行ではなかった。
たとえば「リアルロボ」と呼ばれる『ガンダム』。何故、「リアル」なのかと言うと悪と正義が明確に分けられておらず、しかも能力の高い絶対的英雄が登場しないからだそう。つまり現実世界に近い。
主人公のアムロは気が弱く小さいことでウジウジと悩み、我がままで義務から逃げたがる。一般によく見かけるタイプの少年、シャア言うところの「坊や」に過ぎない。そんな一般少年が大きな責任を負わされることで少し成長し、自分の全能力を搾り出すようにして目の前の課題に取り組んでいく必死な姿が共感を呼んだ。この流れは『エヴァンゲリオン』等にも受け継がれたか。

だから私たち以下の世代には、英雄を無条件に崇拝することを知らずに育った人がたぶん多い。
私に限って言えば、『三国志』さえ知らずに育った。もし幼い頃の私が『三国志』等を知っていたとしても、作られた英雄の嘘話には興味を覚えなかったはずだ。
大人たちも誰も、子供たちに強い英雄を崇拝することを押し付けず、英雄そのものを教えなかった。そんな時代だった。

この時代を最もよく象徴している創作が『ドラえもん』ではないだろうか。
なにしろ主人公は尊敬心を少しも抱かせることのない、何をやっても駄目ないじめられっ子だ。
人格的にもお世辞にも立派とは言えない。弱虫なうえに甘えん坊ですぐ他人に依存し、努力は大嫌いで、秘密道具を使って他人を陥れようとする腹黒な面も持っている。
それまでの創作のヒーローたちとは正反対の主人公である。
だけどその主人公の駄目なところが現実の人間らしく、読者が自分を重ねて痛々しく眺めながら共感する部分であり、世界中に渡って多くの人に読み継がれている理由だろうと思う。
絶対的英雄に中毒して現実から逃げ続ける人生もたぶん楽しいのだろうけど、私たちの現実をずっと支え続けてくれたのは何もできない「のび太」のほうだった。


『「のび太」という生き方』中学生の感想文

少し前から、『「のび太」という生き方』という本に関して中学生が書いた読書感想文が話題になっている。

中学三年生の読書感想文/「のび太」という生き方

素晴らしい文だと思う。この完成された文を中学生が書いたという驚きをひとまず措いて、純粋に人が書いた文として素晴らしい。

特に、
… 受け入れられているという実感もとても大切なことだと思った。また、のび太が夢を叶えることが出来た根本的な理由はドラえもんと出会ったからである。つまり、ドラえもんはロボットの形をした希望そのものであると言える。僕にロボットの形をしたドラえもんはいないけれども、心の中にドラえもんは存在する。希望を持ち続けることにより、心の輝きを失わずに、豊かな人生を送りたいと思う。
 この締め括りに感動を覚えた。

そうだな、ドラえもんの道具ではなく、ドラえもんという友達がのび太を変えたのだ。
友に受け入れられているという実感。
友を大切に思う気持ち。
それがあるだけで人は能力などなくても奇跡を起こすことができる。

友への想いとは、確かに希望と呼ぶのも不自然ではないが、もっと強烈で強力な現実の力だと私は感じる。

魯迅の有名な言葉(実際は魯迅ではなく魯迅がペテーフィ・シャンドルの詩を引用したもの)に、
「絶望は虚妄だ。希望がそうであるように」
というものがある。 
もしかしたら希望は絶望と同じように永く心に留めることはできないかもしれない。ある日、唐突に絶望の風が吹いて希望の火がかき消される――かのように思える――瞬間が人生には必ず訪れる。
だけど人への想いは幻の風だけで消えない。
“今”友がいないのだとしても、かつていた友を想う気持ちでもいい。
今のところ人生で誰も自分を愛してくれる者はないと感じているなら、自分が愛した人のことを思い浮かべてみる。すると力が湧いて来る。
人を想い、人のために動くなら、どんな力でも湧いて来る。
たとえ無力な自分でも、玉砕することが分かっていても、困難に突き進んでしまう力が自分を押すことを感じるだろう。

そう、長編における弱虫ヒーロー、「のび太」のように。

弱虫でありながら優しさだけを武器にして困難に飛び込む「長編のび太」の姿こそが、我々の希望。そしてあれが現実における本物のヒーローの姿なのだ。

「のび太」という生きかた 頑張らない。無理しない。




藤子F作品における、真実の「のび太」


ところで私は『「のび太」という生き方』という本を読んでいないから詳しいことは分からないが、上の読書感想文を読んでいていくつか気になる点があった。

読書感想文を書いた彼は解説本を読んで、初めて『ドラえもん』の奥深さ、藤子・F・不二雄のメッセージに気付いたと言う。
子供の頃、私は原作だけで充分に藤子・F・不二雄の言おうとしていることを感じ取ることができたし、藤子F作品の奥深さには子供心にも感嘆したものだが。最近の子は解説されないと駄目なものか?
(ああそうかぁ、テレビで一時期やっていた無理めの脚本。藤子F先生本人が書いたのではない話。あれが今の子たちの『ドラえもん』のイメージなのかもしれない。今の子が悪いんじゃ、ないよな)

それから肝心の解説本のこと。
解説本では、のび太に関して
「悪口を言わない」 「妬まない」 「何度もチャレンジする」 「がむしゃらに立ち向かっていく」
などと書いてあるらしいが、そこはたぶん正しくないですよ。
のび太は毎日のように出木杉くんに嫉妬して歯噛みしていた。ジャイアンやスネ夫の悪口は常時言っていた。がむしゃらに、一心不乱に努力して勉強するなんて場面も見られなかった。確かに反省するということがないから打たれ強く「何度もチャレンジする」ように見えるのだが、比較的にすぐくじけていじけて泣く。
私は子供の頃、のび太には「なんだこいつ最低な性格だな」と思った記憶がある。

のび太の長所を言うとしたら、ただ一点、「優しいところ」だろう。
弱い動物が道端で泣いていたら捨てておけない。巨大に成長した恐竜でも慈しみ愛する。
出木杉に嫉妬したり、ジャイアンを憎んだりして悪口を言うのだが現実に相手を陥れるような悪さはしない。あ、いや、しようとはするのだが最終的に性根の「優しさ」が顔を出して、踏みとどまる。
独裁者となった時は世界中の全員を消して(粛清!)しまうのだが、ひどく反省して元に戻す。

弱虫さの反対にあるこの優しさが、長編において危機の環境に置かれた時に「後にひけない」気持ちとなって最終的に友を守り抜く。

そして友を守り続けた心が、のび太の夢を叶えさせる。


たぶん解説本に書かれているのは主に長編ののび太のことなのだろう。
長編は、のび太もジャイアンもスネ夫も別人かと思うほどキャラが違う。
確かに長編は感動的で、私も大好きだけど、『ドラえもん』の真髄は日常のほうにあると思います。あの悪辣な登場人物たち、人間の悪い面を描き出したブラックなところが、藤子F作品の醍醐味。

実は藤子F先生にはシニカルでブラックな作品も多い。
人の悪い面を浮き彫りにして読者に直面させる、そういう古典的な文学の手法が藤子F先生の作品にはある。
シニカル作品を子供向けにしたのが、『ドラえもん』だろう。

(藤子F先生は『ドラえもん』をギャグ漫画と言っていた。決して感動だけを狙った作品ではない)


『ドラえもん』を希望の物語として読むのもいいが、もう少し大人になったら藤子F作品のブラックさも味わって欲しい。

他人が介入するとどうしても作者の意図が薄められてしまうもの。
ぜひ、アニメだけではなく原作を読んで欲しいものです。

(可能なら『ドラえもん』以外の藤子F作品も読んで欲しい)



余談の自省

偉そうなことを言いながら自分自身の人生はどうなのかと言うと、たぶん負け組に入るのだろう。学歴や収入や家の大きさ、子供の有る無しで他人を評価するタイプの人々に言わせれば。
「成功者か失敗者か」と問われれば明らかに私は「失敗者」だ。
自分の能力を活かす生き方ができなかったという点で。

私がのび太と大きく違う点は、勉強だけはできたこと。なまじ、できてしまったからまずかったのか。
(ところで上の作文を書いたのも開成の子。のび太の気持ちなど本当に心底は分からないよな)

だから私はどちらかと言うと、のび太よりも『キテレツ大百科』のキテレツに甚くシンパシィを感じていた。
キテレツは勉強ができる。できるのに、のび太と同じ、いやそれ以上に仲間はずれになっていて苛められているのだ。 
私立の進学校などに通っていない限り、小中学生の世界で勉強ができるということは人気者となる要素がゼロである。喩えるなら、「激しい暴力に対するスプーン曲げが出来る程度の超能力」、と同じくらい完全に無意味で無価値な能力だ。
私は小学校の頃、「ちくしょう勉強なんかできたって何の意味があるんだ」と腐っていた覚えがある。
キテレツのクラスでの扱いがのび太と同じであることは、勉強ができるからこそなお悲哀が感じられる。

キテレツよりさらに共感を覚えたのは、『エスパー魔美』の魔美のクラスメイト、高畑。
彼は天才でテストでは必ず満点を取ることもできるが、わざと間違いの答えを書いて点を落とすという寂しい努力をしている。
ウィキペディアで今調べたところ、「他の努力家に申し訳ないから」という理由でテストの点を落としていたのだそうだが、私が読んだ時の印象ではもっと深刻な理由だったように覚えている。自分の深刻過ぎる気持ちを重ねて増幅し読んでしまったのかもしれない。

中学の時、『エスパー魔美』を読んだ友人の女子が(高畑について)
「自分でテストの答えを間違えて点を落とすなんて。信じらんない! こんな人、現実にいるわけないよね!?」
と憤るのを聞いて私は、生きた心地がせず冷や汗を流していた。
あの女子は高畑と同じ罪を犯している人間がまさか横にいるとは思わなかったろう。


実際、私は高畑やキテレツほどの天才ではなく、文系でほんの少しだけ勉強ができた程度。確かに教科書を一読するだけで合格点を取れる、という程度の能力はあったが理系天才のキテレツたちにはとうてい届かない。
それでもイジメが席巻していた当時、勉強ができることは隠さなければならないと怯えていた。テストの点をわざと落とすことをして、これは犯罪みたいなもの だと自分で自分を責めながらやめることができなかった。先生にも親にも、もちろん友達にも告白できず、たった一人で罪を抱えて孤独にあえいでいた。辛い学生生活だった。
(念のため、私は実際にイジメを受けた経験はない。過剰に怯えたのは他にも理由がある)

高畑のエピソードに触れた時、漫画とはいえ生まれて初めて自分と同じことを考えている人を見つけて救われた。
あの時、藤子F先生には生涯の恩を感じたな。


思うに、藤子F先生は「のび太」ではなく、キテレツや高畑タイプの子供だったのではないか。
だけど事実をそのまま描いても共感というほどのものは得られなくて、いっそ勉強さえもできない主人公を描いてしまったら最もヒットした。
ヒットへ導いた「のび太」の力が示すように、もしかしたらこの世で最も強い人間とは「優しさ」以外に何も持たない者だったのか、と藤子F先生も驚いたことだろう。


未来ある人たちへ // 

18/8/26追記 上で「この世で最も強い人間とは「優しさ」以外に何も持たない者だった」と書いたけど、これは全ての才能を棄てるべきだという意味ではないので注意。
すでに持っている才能も個性の一つ。個性を棄てるのもまた、自分を繕い世間に嘘をついていることになり、苦しみの種となる。
棄てることなく、繕わず、ありのまま生きることが本当は一番正しい。
私は繕ってしまったので道を誤った。

大人になって振り返ってみれば、勉強ができるということは大人世界においてかなり得だったと分かる。
ただ勉強ができるというそれだけで一発逆転も可能だ。
勉強ができる子が嫌われて、叩かれ潰されがちなのは「コイツは将来有望だ」と皆が本能で悟っているからだ。
(性格的に問題ある子は別である。テストの点だけで他人を評価し、低い点を取った子を見下したりすればその部分だけは責められても仕方ない。ただそれでも集団でイジメという行為をやるのは人間として最低に汚い、イジメが正当化される理由は一つもない)

将来有望……そんなことは言われなくても賢い子たちのほとんどが気付いているだろうが。
私は“良い子”過ぎたのか、周りが嫌だと言うことをやらないことが正しいのだと信じてしまった。だから嫌われてはいけないと過剰に思うあまり、自分を潰してしまった。

“良い子”であり過ぎてはいけない。「死ね」と言われても言うなりになって死んではいけない。
「嫌味なヤツ」と思われてもいいから本来の自分のまま生きるべきだ。

もし、イジメの対象となってしまい酷い目に遭わされるなら、能力を出せる時まで隠しておけばいいのだ。
その代わり勉強は密かに続けていけ。
後になって出せなくなるほど本気で自分を潰してしまったらいけない、私のように。

正直言って私は後悔している。
才能をドブに捨てて、人生を無駄に潰してしまった。
そのせいで誰かの役に立ちたくても、今たいした役にも立たない大人となった。神(地上へ送り出してくれた、応援してくれた霊たち)に申し訳なく思う。私はひどい罪を犯してしまったのかもしれない。


自分がのび太と違う点、のび太の長所をもう一点挙げよう。
それは「求める力」があること。
のび太は素直に夢を求める。自分の願望に我がままなのだ。
静香ちゃんが欲しいなら、欲しいと言う。結婚して欲しかったら、結婚してくださいと言う。
そのことが夢を叶える能力として最低の条件だった。当たり前過ぎるけど案外、見落としがちだ。

私ももう少し我がままで、素直に願望を口に出していたら今頃はもう少し役に立つ大人となっていたかもしれないと思う。たとえば、大学の学費を出してくれる人がいたかもしれない。いや確かにいたと今は分かっている。
残念ながら、私は堪えた。我慢した。“イイ子ちゃん”過ぎた。
そして黙っている者に夢を叶える資格は与えられない。

(「権利の上に眠る者は救われない」――法律だけではなく人生にも言えることらしい)


こんな私を反面教師として、これからの人生がある若い人たちはどうか「のび太」となってください。

そして夢が叶ったあかつきには、他人を見下さないように。
「のび太」のように優しさを失わず、他人のために動く人間となってください。

いくら夢を叶える力があると言っても、他人を見下して嘲笑する目的のためだけに頑張るのは虚しいと思うのです。そんな人は「のび太」ではなくて単なる私利私欲の亡者。他人の役に立つことは一生にない。


2012年3月10日筆 2018年8月25日、読みづらかった箇所を改稿
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