読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

伊藤計劃『虐殺器官』感想。同時代に生き、虐殺を眺めた者としてのシンパシィ

しばらく前に読んだ本。
読んだ本をいちいち他人に報告しなくなって久しいが、これは公開で感想を書きたくなった。年が明ける前に書いておく。

(まとめず思うまま書きました。長いです)

作家の敬称略。

伊藤計劃、『虐殺器官』という伝説


『虐殺器官』は2007年に発表された伊藤計劃の小説。

伊藤計劃は2009年に34歳で早世した。
病床で10日間で書き上げたというこの小説は彼のデビュー作。SFの枠を超えた傑作であり、彼の死後も伝説として語り継がれている。

「ベストSF2007」国内篇第1位。「ゼロ年代SFベスト」国内篇第1位。(ウィキペディアより)
最近アニメ化され再び話題となった。Project Itoh


(リンク先は楽天の電子書籍)



ストーリー


2000年代半ばの近未来。
9.11以降、世界の混乱はやまず、サラエボを始まりとして幾つもの都市が核で消失した。もはや「ヒロシマ」「ナガサキ」という地名は被爆地としての特殊性を持たなくなった。
しかし相変わらず先進国の人々は安定した社会を保ち、ドミノ・ピザをバドワイザーで胃に流し込む生活を送っている。死体の積み重なる光景よりも恐怖かもしれない、変わらない生活。

反対側の世界も変わらなかった。
発展途上国で女子供を巻き込む大虐殺が減るきざしはいっこうに見えない、それどころか2000年代半ばに益々増えていく。
ある時期から、それまで平和を保っていた小国の指導者が唐突に狂い、ジェノサイドを始めるという奇妙な内乱がいくつも起きるようになった。
アメリカ合衆国は虐殺を指導しているトップを暗殺することで途上国の平和を保とうとした。
合衆国特殊部隊員クラヴィスは、指導者暗殺の任務を帯びてある国へ潜入。軍人のトラウマを防止する心理操作技術によって、躊躇なく任務を遂行してきたクラヴィスだったが、ターゲットが死ぬ直前に吐き出した言葉を耳にして混乱する。
「わたしはなぜ殺してきた――たのむ、教えてくれ。なんで殺してきた」

軍部は途上国の唐突な虐殺全てに「ジョン・ポール」という名のアメリカ人が関与していることを突き止めていた。
長期の特殊任務でジョン・ポールを追跡したクラヴィスは、ついに彼と遭遇する。そして「虐殺の王(ロード・オブ・ジェノサイド)」たる本人から秘密を明かされる。


小説としての感想


ストーリーは面白い。先を知りたくなり読み続けることができる。SF好きに限らず、純粋エンタテイメントとして読むことも可能だと思う。
ただし設定は暗く描写は残酷、読む人を選ぶ小説ではある。冒頭から残酷描写があるので苦手な人は避けたほうがいい。

それでも、いわゆる「イマドキの小説」として想像するような、命の価値が過剰に低い世界観ではない。
むしろ淡々と描かれる殺戮描写が、声も上げずに消えていく命が、圧倒のインパクトをもって命の重みを押し付けてくる。

悲しみは言葉にされないことでさらに深い悲しみとなる。
悪と正義は示されないまま反転し、希望と絶望も反転する。

ある意味、現実そのままを写し取ったかのような小説である。
思想もある。もちろんその思想は「これが正義だ」といったような押しつけがましいものではないのだが。
内省的な主人公の淡々とした心理描写が現代現実の深層を抉り出す。時にその抉り出された深みが、目を逸らしたくなるほど痛々しく重い。

現代小説で久しぶりに遭遇した思想のある小説だった。
生々しく吐き出された文章に誠実さと、稀有な才能を感じる。


余計なことかもしれないが、才能称賛

まずこの小説を10日で書いたことに驚嘆する。
緻密でよく練られた設定であるうえに知識も深い。同時代の日本人であることが信じられない。
さらに商業目的に流れず、恥ずかし気もなく嘲笑されることも恐れずに、本気の内面描写で思想を描いている。
“文学からの逃避”を続ける同時代、同世代の作家では奇跡とも言える文学だと思った。

ストーリー性が高くエンタテイメントとしても純粋に面白い。だけど、それだけではない。血肉の通った人間の、考える臓器の詰まった濃厚な小説だ。
これが小説としての完全体だろう。
ようやく小説が内臓を取り戻した。
ようやく、これからだったのに。
日本の小説からこの人が失われたことは、つくづく残念だ。

個人的に感じていたこと


この小説を読みながら私は懐かしいと感じた。
懐かしい、と言うのは違うのかもしれないが、馴染みのある世界観に浸っていた。

夜中、テレビ画面の前で一人、死体野原の光景に釘付けとなった十代の日を思い出す。
白黒の映像に浮かぶ死体野原は静けさに満ちていた。
衝撃などの感情はなく、悲しみも怒りも表現されないまま、静かな涙だけが流れた。

死体野原へ馴染みを感じたのは古い記憶のせいなのか。
それとも今の人生で見せつけられた虐殺の光景があまりにも多く、脳に刷り込まれただけなのか?
今となっても分からないのだけど、これだけは確かに言えるのは、同世代の人たちで私の気持ちを理解した人が一人もいなかったということだった。

ニュース映像で浴びるように虐殺の光景を見せられてきた我々だが、誰も死体野原を「馴染みある」とは言わないし、あの静かな悲しみを感じていると思える人もいない。

それなのに伊藤計劃は同じ光景を、同じ気持ちで眺めていたようで驚いた。

冒頭文引用。
※残酷描写が苦手な人は避けてください
 泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っこんでいるのが見えた。

まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している。
美しい冒頭文だと思った。
残酷な場面なので「美しい」と言うのは語弊あるのかもしれないが、これが冒頭にあることの完璧さが美しい。

赤と泥、色のコントラスト。現実と乖離した直喩。その後に現実が見えてきて、読者はこの小説がどんな物語なのかを察する。

小説の導入としての完璧さに驚いたが、それ以上に私が驚いたのは、この人は現実の虐殺現場をありのまま描いているということだ。
もう少し細かく視覚を描いていく。
――最初、それが何であるのか分からない。
何故あんな小さな女の子が泥へ顔を突っこんでいるのだという不思議さで視線を止める。
歩いて行く。対象が近付いて来る。
心の奥で警戒信号が鳴っているのだが、目を逸らすことができず、視点を止めたまま近付いて見る。
紅い花が鮮烈に目に飛び込み、焼き付く。
やがて状況を理解して現実のままの光景が目に映る。心が静止する。
辺りを見渡す。次々と凄惨な光景が目に入って来る。この時はもう遅い、目を逸らすことはできない。
熱い怒りや悲しみも、ショックさえなく、ただありのままを受け入れるしかないという静かな状況……。

この人は、現実に自分の足で死体野原を歩いたことがあるのだろうか?
それともアメリカ映画で観た光景や、第二次大戦の映像を思い出して描写しているのだろうか?
いずれにしても驚いたのは、彼が私と同じ気持ちで虐殺後の世界を眺めていたことだった。
その後、小説を読み進めるにつれ理解した。
彼もまた、あの画面から目を離せなくなった一人なのだということ。

同じ時代を生き。
同じ宅配ピザの届く安定した平和を味わい。
テレビ画面から流れてくる虐殺映像を、同じ気持ちで眺めていた人がいたことを不思議だと感じる。
決して「嬉しい」とか「ありがたい」などとは思わないことがまた自分でも不思議で。
ただ似た視点で似た世界の場所を眺めていた人が地上から失われたことだけ、残念に思う。

それと似た目で世界を眺めておきながら、ずっと
「言ってもどうせ理解されない」
「こういう分野の話は誰にも受け入れられない」
「戦争モノ、殺戮を描いているだけで有害指定される」
などと言い訳し、このジャンルの話を書いて来なかった自分の怠慢を呪う。
そもそも「小説家になるつもりなど微塵もない」と思っていて、夢など見ないことが真っ当なのだとさえ言い、書くことに背を向け訓練も怠ってきたことは猛烈に反省する。

こんなにも正直に自分の見ている世界を世に提供した人がいるではないか。
(私は一度だけ『我傍に立つ』では露骨なまでに正直になったのだが、以降は気持ちも労力もセーブしてきた。あれ以降、正直にただ好きなものを好きなだけ書くという行いができたことはない)
正直になることを恥ずかしいとずっと思っていた自分の卑小さが今は辛い。だらだらと生きて浪費した時間が申し訳ない。反省しなければならない。

人は生きて何を残せるか、限られた時間で挑まなければならないけど、伊藤計劃という人は残すことができたと言える。もっと残したかっただろうが一つでも残せたら幸運だ。
今、私が何を感じているかと言うと、「羨ましい」ということだ。
生まれて初めて他人へ嫉妬した。(嫉妬とは有難い感情だ)


ジョン・ポールの発見を未来への提案として考えてみる


以下は小説感想から離れ、現実として設定を考えてみます。
ここから下にはネタバレがあります。未読の方は読まないように。




この小説はSFなのだけど、ジョン・ポールが発見した
「言語テキストの中に潜ませる虐殺を起こす構文」
は、かなりリアリティのある話。

現実にも、たとえば社会主義関連の思想書にはジョン・ポールの「虐殺構文」に近い魔力がある。
社会主義、K産主義は何故か100%人を暴力的にし狂わせる。社会主義に侵されて虐殺が起きなかった国・集団はない。
100%、という確率は驚異だ。
まさにジョン・ポールの技巧。
ポルポトはきっと呟いただろう、「わたしはなぜ人を殺したのだ?」
(スターリンは曹操と同じくサイコパスであり、いわば「虐殺の天才」。彼らのように元から壊れてしまっているサイコパスは生まれ持った本能に従うだけなのだが、社会主義思想が虐殺の後押しをして拡大させたのは間違いない)
これだけの実効力を持つ思想書が人類に与えられたのは不幸としか言えない。

しかし今後はもっと完璧で分かりづらい技術で人は操作されることになるだろう。

もしかしたら今でもAIを使えば可能かもしれない。
先日見つけた診断テスト、『テキスト文でAIが性格診断~Personality Insights 』ではすでに表層の言葉によらず、純粋な文の癖やパターンで性格タイプを見抜くという技術が示されている。
これはまだ研究段階で、今のところ選ぶ単語そのものも考慮されているから純粋なパターンとは言えない。
ただ、この研究が進んでもっと正確性を増せば、逆の展開をさせ
「ある一定の効果をもたらす文章」
というものも簡単に作り上げることができてしまうはずだ。

いや、今の段階でさえ。
「リーダーシップを持つ・人の心に訴えかける文」
という程度なら、AIが作成することは既に充分に可能なのだ。

この技術を悪意ある者が使ったらどうなるか?
ヒトラーのプロパガンダなど目ではない。
マルクスによる地獄の聖書も超える、“言語的転回”での虐殺指令書が完璧な形で現実化する。

既に第二次世界大戦以降、資本主義国のメディアはヒトラーのプロパガンダ技術をパクり、商業目的で使ってきた歴史はある。
誰も公では言わないが、ある程度のメディアによる洗脳はあると皆分かっている。
だから警戒心の強い人は政治的なスピーチを耳に入れないようにしているし、宗教団体にも近付かないようにしている。そうすれば大手メディアの洗脳はあっても、少なくとも極端な行いをする団体からは逃れることができると思える。
(それなのに悪意ある集団へ自ら近付いて教義を鵜呑みにし、騙されている愚かな鴨は大勢いるが)

だけど表層の言葉に関わらず、無害に思われるテキスト文にまで「虐殺構文」が潜むようになったらどう逃れたら良いのか。
「耳に蓋をすることはできない」。
人々が、自覚もないまま虐殺の狂乱に陥る、想像を絶するディストピアが実現する。


私は長年思ってきたけど、これと逆のことはできないのだろうか?
人を100%狂わせ虐殺に向かわせる地獄の聖書があるのなら、それと真逆に、100%穏やかな気持ちにさせて虐殺を抑えさせる構文が。

「虐殺器官」ではなく
「平和器官」や「生存器官」を発動させる構文。

残念ながら本物の『聖書』は虐殺構文に近い。
仏教は「平和器官」を発動させる可能性が最も高いが(ある紛争地域に仏教がもたらされたら殺戮がやみ、平和になったという実際の歴史がある)、先日のミャンマーの事例を見ると100%の効力とまでは言えない。

実は自分がいつか、その構文を書けたらいいなと思っていた。
素人のくせに大仰な夢だ。

当たり前のことだが、私のような素人よりも、言語学の研究者が調べたほうが遥かに早いと思う。
研究者の皆さん。どうか「平和構文」「生存構文」を研究されてください。

12/24続き。やはり魔術で平和を求めるのは駄目だという話。>>「平和構文」でも、やはり私は洗脳なしでいきたいです



メモ。

この本からの引用

伊藤計劃が亡くなる直前まで更新したブログ
伊藤計劃:第弐位相
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小説イントロで改めて確認した。昔の小説冒頭って、インパクトあったな

99人の壁、小説イントロが面白かった


『クイズ 99人の壁』という番組がある。
一般の人が、自分の得意ジャンルで99人の他の回答者と戦う、という壮絶なクイズ番組。
自分が最も詳しいはずの得意ジャンルで回答するのだから当然に勝てると思うはず。でも99人が相手だと難しい。

それで滅多に勝ち抜いて賞金獲得する人はいないのだけど、今日レギュラー化初で勝ち抜いた人の得意ジャンルが
「小説イントロ」
だったので面白く眺めていた。

「小説イントロ」とは、音楽のイントロのように小説冒頭文を聴いただけで何の小説であるか当てる、というクイズ。
流行歌を言い当てる普通のイントロとは違い、一般の誰もが当てられるジャンルではないので挑戦しようと思って眺めていた。

結果。
第一問目 「おい」の二文字で『蟹工船』だと答えられて自分で驚いた! 
……という自慢。失礼しました。笑

もちろん回答者さんも答えてらっしゃったが。
他に二人ほど分かった方がいたようだ。

蟹工船は特徴的だから文学好きなら答えられるよね。
だから凄いのは、「おい」の二文字で押す回答者さんの反射神経だと思う。
「おい地獄さ行ぐんだで!」
青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html
から始まるので、「地獄」まで聴いてからでは読んだ人なら全員が答えられるだろう。

だけど私も、最近の小説は答えられなかったな。
回答者さんは古典文学から現代のエンタメ小説までイントロで答えられたので凄いなと思った。

私は又吉『火花』を読んでいるのに答えられなかった。笑
→筆者の『火花』感想
たぶん個人的にインパクトを感じなかったのか記憶に定着していない。


昔の小説冒頭のインパクトを再確認


ただこのクイズのおかげで、昔の小説はやはり冒頭からインパクトあったなと改めて分かった。
『蟹工船』もそうだし、有名どころで
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

川端康成『雪国』
とか
吾輩は猫である。名前はまだ無い。

夏目漱石『吾輩は猫である』
とか。

個人的に私が痺れたのは、太宰治『斜陽』。
 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
と幽かな叫び声をお挙げになった。
この冒頭だけで「お母さま」の仕草や表情だけではなく、どのような家なのか、語り手の服装や容貌まで思い浮かべることができる。スウプや香水も薫る。つまり景色や薫りさえも一気に再現できる冒頭で、凄いと思った。
この小説は太宰が愛人の日記を剽窃して(パクること)描いたものなのだが、たとえ設定を剽窃したのだとしても、こういう小説文として表現し世の中に提供できることが才能なのだと思う。

※だからアイディアだけで著作権は取れず、文章表現や音楽表現をした人が著作権を持つことになる。佐村河内氏・新垣氏のゴーストライター事件は、この点で佐村河内氏が大きな勘違いをしていたことが問題だった。
ただしアイディアの質や量によっては共同著作者となるので独占は不可。また、実在の人の日記やブログなどを参考に創作する場合は、著作権またはプライバシー権侵害で法的問題になることがあるので注意。太宰の時代はそんな法的意識などなかったので被害者が文句を言うなど考えにも昇らなかっただろうが。
だから現代では、断りなく他人のブログをモデルに創作などしてはダメですよ。


昔の小説にインパクトがあったのは、熱があったから


昔の小説は冒頭からインパクトが凄かったという話へ戻る。

昔の作家は凄くて現代の作家はレベル落ちしている――などと決めつけるわけではない。

今は小説手法が出尽くしているから、なかなかインパクトのある小説を出すのは難しいということもあるだろう。
どんなにインパクトある冒頭を狙っても、何もかも過去にあった何かの小説のようになってしまう。

だけど現代、小説全体が技巧だけで組み立てられた、コンピュータプログラムのような薄味になってしまっていることは否めない。
そのため冒頭も中身もインパクトが無くて、記憶に残らずすり抜けて行くものが多いとは思う。
たとえば又吉の『火花』は現代小説にしては素直で濃厚なほうで、私は好みだったのだけど、やはりインパクトでは古典に及ばない。たくさんの小説を読み過ぎた人が、技巧に向き合って書くとこういうインパクトの薄い冒頭になってしまうのかもしれない。

現代小説でインパクトがあったのは、伊藤計劃『虐殺器官』。
グロいから引用はしないが、『虐殺器官』の冒頭文は久々に目が覚める想いだった。

記憶に残るインパクトある冒頭文と、記憶からすり抜けていく冒頭文。(内容のインパクトは冒頭に比例する)
――何が違うのか?
と言うと、やはり「熱」があるかどうか、なのだろうなあ。
ありきたりだけど。

昔の作家は小説執筆に「熱」を篭めていた。
小説は世の中で下等なものだと思われていて、バカにされていたので必死だったのだろう。
一文、一文、命を削る想いで熱を篭めて書いたからこそあれだけ濃厚な文学世界が生み出された。
それを今の人は「うっとおしい」と言ったり、命懸けの人を指差して「押しつけがましい」と嘲笑するのだが、感性がお粗末過ぎて残念だ。
(命懸けの人を指差して嗤う態度は、人としても最低の鬼畜)

伊藤計劃も、命を削って書いたのだ。文字通り。
だから冒頭から突き刺さる熱がある。
冷めているように見えて、冷たい炎が燃えている。

「命を削って、書け」
などと偉そうなことは私には言えず、やれと言われても今はもうできないのだけど、命が刻み込まれた文に価値があると強く主張したい。

技巧なんかでは他人の心は動かせない。
心だけが心を動かすのだと思う。

(もちろん、受け取り手の感じ取る能力も必要だが。現代人はこの心のポイントがゼロに近い人が多いのが絶望)


【関連記事】
・文章で人を説得するには? 驚きの『出師表』使い方
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元旦に、コンビニで見かけた『危険な読書』という雑誌。
まずこの黒背景、黒い本に白文字の明朝で一文、“危険な読書” との縦タイトルに惹かれ手に取ってしまった。
(これは本好きなら手に取らざるを得ない表紙。この表紙デザインから素晴らしい)

中を開くと目に飛び込んできた文に打たれ、しばし立ち尽くした。



リード文、と言うのか? 特集記事を紹介するための文に痺れたのだった。

引用する。
当たり前と思われていた価値観が世界中で次々と崩れ去るいま、もはや流行りの本をいち早く読んだとか、これまで読んだ本の数を指折っていてもつまらないじゃないですか。たとえ一冊であっても深く心に突き刺さるような、常識がひっくり返るような読書こそを愉しみたいのです。

……泣くかも、と思った。

激しく同感だ。
特に太字の箇所は前々から私も主張していて、そのたびバカにされ嫌われてきた。

流行りの本をいち早く読んだとか、これまで読んだ本の数を指折って
いる人ばかりなんだよ、本当に。
自分を飾るために見せかけの読書歴を誇る人ばかりで、実はどこにも本好きなど存在しないのではないかと私は思っていた。

読書は量ではなく質だし、流行を追いかけることではないし、まして自分を飾るためにステイタスとして行うものではない
この言葉が通じる人が、この世界のどこかに存在するのだろうか。
半ば信じられなくなっていた。

最近はネット上でたまに真性の読書好きを見かけるようになったし、芸人でもたとえばオードリー若林氏など「本気で読書マニアなんだな」と思える人を見かけて少しずつ孤独が癒されてはいた。
でも今日、決定的に孤独ではないと分かって嬉しい。

心ある読書人はきっと皆、思っている。
流行を追うことや、読んだ本の数を競うのは読書ではないと。
自分たちは好きだから読み漁り、そのうち抜け出せなくなるような「毒」となる読書をして、どうしようもなく深みにはまっているだけ。

誰に誇りたいわけでもない。
「読書をしている自分、知的でカッコイイ」と訴えたいと思ったことはない。むしろ読書にはまって抜け出せなくなっている自分が、恥ずかしいと思っている(人もいるはず。私がそう。自己否定するつもりではなくても、不可抗力ではまっているものを他人に暴露するのは恥ずかしい)。
それでもある日、思うのだ。
伝えたい、読書はたまらない体験なのだと。
だから恥を忍び勇気を出して好きな本を公開したりしているんだよ。

「心ある読書人」たちは、あまり自分の想いを言葉にしない。
読書量を競ったり自分を着飾るために本を使い捨て、粗末に扱う人々を見て密かに心を痛めているだけだ。
だから今回、上の文を書いたライターさんには心から感謝したい。
声を上げてくれてありがとう。同じ想いを綴ってくれてありがとう。



文の後半にも共鳴する。
ある学者は言いました。本には“マジカル”がないといけないと。またある詩人は言うのです。自分の中の“怪物”に出会うために本を読むのだと。読者諸兄姉! 本のチカラを侮ってはイケナイ。「危険な読書」とは、世の中にはまだこんな本があったのか! という発見と共に、読了後にはこの世界の見え方すら変わってしまう、へたすると人生すら変えちゃうかもしれない、そんな本に出会うための危険な指南書であります。
同意。
 そう言えば私も先日、似たようなことをプライベートブログで書いたっけ。
「読書は毒にもなる。モテるために読書する人たちがイメージするような、カッコイイものではない」と。
たぶん、伝わっていないだろうが。

皆さん本を侮り過ぎ。だから、「モテるために読書家を装う」などという勘違いした人が生まれる。
本はそんなにスマートで安全なものではないですよ。もっと毒々しく泥臭く、影響力のあるもの。


私はこの文を書いたライターさんを応援するため上の雑誌を買ってしまったのだが、 そもそも他人に奨められたものだけ読むというのも私は違うと思う。
始めのうちはお奨め本リストを道案内に使ってもいい。(そのために私もお奨め本リストを書いている)
でもいずれ自分の嗅覚で、自分に合った本を模索していくということが大事。そうしなければ「毒となる」読書など一生できないはず。

好きな本を、好きなだけ読め。
中毒体験を堪能せよ。
それが「人生を変える」などとは私は言わない。ただ、生きていて良かったと思えるほどのかけがえのない体験となることは確か。


2018年1月筆
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二流の読書でバカになる? 広く浅くの雑読を後押しする、嬉しい言葉

東洋経済サイト⇒『読む本でバレる「一生、成長しない人」の3欠点~「二流の読書で、バカになる人」も大勢います』

この記事が「一流」や「二流」などと格付けしていることについて私はどうかと思うし、コメント欄を見ると同じ意見の批判が多い。
ただ、「一流」「二流」をビジネス的な地位や富ではなく、単純に教養の質と考えれば、当たっているところもある。
特に海外の読書人の読み方には共鳴する。
ただし、世界の一流の人を見ていて感じるのは、「優秀な人に限って、読書は肩肘張らず、気の向くまま好きなものを読むのが基本」ということである。

読書だからといって、毎回勉強になるものを大真面目に読む必要はない。大切なのは、「楽しく活字に親しむ習慣」をもっているかどうかだ。
適当に読んでいる雑読派の自分としては嬉しい。
「お前のことじゃないよ」と言われそうだが、勝手に喜ぶ。笑

>毎回勉強になるものを大真面目に読む必要はない
そう。
読書は勉強のためだけにするものではない。

自分は浅い教養しか持たず、とうてい世間の基準に追いつかないのだけど、読書の方向性は間違っていないのだなと感じて自信が持てた。

上記事から引用
その証拠に、私が尊敬する一流のリーダーたちには、じつはそこらへんの漫画や週刊誌を読んでいる人も驚くほど多い。

私も駆け出しのころ、「無理して『フィナンシャル・タイムズ』を読まなくてもいいよ。俺が隣にいなければ、どうせ『週刊SPA!』の袋とじの部分を、一生懸命切り裂いているんでしょ?」と尊敬する上司に言われたことがある。

その上司は業界の中でも高名な伝説のディールメーカーなのだが、読んでいる雑誌がいつも『ヤングマガジン』や『少年ジャンプ』、そして『週刊SPA!』なのだ。

もちろん、雑誌ばかり読んでいるわけではなく、しっかりした本もきちんと読んでいるが、「緊張と緩和」をうまく使い分け、週刊誌や漫画もバカにすることなく自然体で楽しんでいる。

世の中には「売れている本」「話題になっている本」ばかりを追いかけて読む人もいるが、一流の人ほど、「これはいい」という自分なりの価値観があり、その「主体性」に従って、自分が好きな本を堂々と読んでいるものである。
ああ……、「気の向くまま」「適当に」読んでいる雑読の人は好きな本だけ読んでいるわけではないが。
肩の力が抜けているために、傍から見ると「好きな本だけ読んでいる」と誤解してしまうのかもしれない。
(差別なく何でも読むので、中には嫌いなものも含まれる/思い入れがさほど強くない、肩の力を抜いているからこそ何でも読める。私だったら村上春樹など、苦手な本もけっこう読んでいる ただしどうしても読めない悪質な本はある)

この人の誤解はともかく、観察されている側の雑読者に私は共鳴する。
何故、読み物のジャンルを統一しなければならないのか理解できない。
マンガでも哲学書でも価値を見出す。そうでなければ活字中毒者ではないでしょう。

私は実は、売れている本・話題本ばかり追いかけて読んでいる人が苦手だ。
とにかく他人の目だけ意識して本を読む人が苦手なのだよね。
それは“他人軸”の読書。「見せ読書」は明らかに活字中毒者ではない証拠だよな? と思う。

ツイッターの読書垢なども、始めは楽しかったのだがそのうち苦手になりやめた。それは「見せ読書」をしている人が多いと気付いてしまったからだった。
中にはそうではなく真性の本好きもいたのだけど、
「読書しないでスマホ見てる奴は軽蔑する!」
などと激昂している人がいて退散した。

読書しない他人を責めている時点で中毒者ではないと思う。
自分が見せ読書しかしていないことの証。
くれぐれも自分の仕事分野の話しかできない「専門バカ」、周囲から広い教養がないことを笑われているが本人だけがそれを知らない「裸の王様」、そして自分の専門分野に閉じこもって空威張りする「オヤマの大将」になってはいけない。

特定分野に特化した知性ではなく、幅広い教養や人間としての品性を読書によって磨くことが、一流の政治家にとってもビジネスパーソンにとっても重要なのだ。
うーーん??
これはどうだろう。必ずしも「専門バカ」をバカにできないとは思うけどね。
私は、一つの分野に突出した専門家を激しく尊敬するけれども。

そもそも何かの分野に秀でていない人は、他の分野のことも理解できないはず。
どこかに軸足を持つからこそ他の場にも足を踏み出せるのでは?
専門の浅い自分故に言える。

だいたい、専門家がどれだけ深い知識と持っているか分かっているからこそ、他人の専門分野についての話は遠慮する。
だからこそ他所では無口になる。
それが分をわきまえるということでは。
ワイドショーに出て浅いコメントを述べているコメンテーターのようにはなりたくない。
【2】自分の偏見を助長する「二流の読書」をしない

なお、読書をしながら、視野がどんどん狭まっていくような「二流の読書」をしている人も少なくないので注意が必要だ。

読書で重要な要素のひとつは、視野・視点を広げることだ。これに対し、二流の人に限って、マニアックな特定分野の、自分の偏見を助長してくれる著者の本ばかり読みたがる。こういう「二流の読書」では、読書量が増えても、自分の視野を狭め、偏見を増長させるだけだ。

もちろん「各人が好きな本を読むのが基本」でいいわけだが、知性を磨いていくためには、自分の意見や価値観とは相いれないものも含めた「多様な情報源」を確保するのが不可欠といえるだろう。
これは正しいでしょう。
その人たちは「専門バカ」でさえなくて、思想的な主義を強めるためだけにその思想の読書をしている。宗教信者が、その宗教団体の教義だけ読んでいる状態。
そんな偏った読書をしてバカになっている人を最近よく見かける。
新聞や新書しか読まない人に多い。
彼ら彼女らには理解力もないし、カルト宗教信者のような思考停止に突き進む。
最後に、「一流の読書」にとって最も大切なのは、「書かれたことの一部を読んで批判したり、自分の都合のいいように曲解したりしない」という「まともな知性・メディアリテラシー」を持つことだ。

世の中には、書いてあることを文字通り信じるどころか、そもそも全体を理解できず一部にだけ反応して、自分の都合のいいように解釈し、批判する二流の人は思いのほか多い。
そうそう。
「二流の人」ではなく、思考停止で理解力をなくしてしまい、単語だけに脊髄反射して攻撃するプログラムのポンコツロボットね。二流にも三流にも入らず、使い物にならない反社会的人物。
この記事は序列をつけていると言うよりも、「反社会的バカども」と言いたかったところを、かろうじて言葉を抑えているという感じだな……。

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恋愛小説として読む夏目漱石 おすすめ作品

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漱石の小説は、『猫』よりも『坊ちゃん』よりも、『三四郎』から入ったほうが良いのではないかと私は思います。恋愛小説こそ漱石の真髄だと思うからです。

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一言で『三四郎』のあらすじを言えばそうなりますか。現代ならありふれた恋愛小説なのですが、漱石の筆は描写の巧みさ的確さで登場人物の人生を疑似体験させてくれます。
みずみずしい青春を生きていた三四郎が、恋の苦さを知って少しずつ心に深みを持っていく。明るい『坊ちゃん』には共感できなくても、悩む三四郎には共鳴する人が多いのでは。
王道の恋愛小説、傑作です。


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【Kindle無料版】それから
長井代助は三十にもなって定職も持たず、父からの援助で毎日をぶらぶらと暮している。実生活に根を持たない思索家の代助は、かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく……。破局を予想しながらもそれにむかわなければいられない愛を通して明治知識人の悲劇を描く、『三四郎』に続く三部作の第二作。
アマゾンより
『三四郎』は若者の恋愛でしたが、『それから』は文字通りもう少し大人の恋愛です。十代・二十代前半より、もう少し上の年齢となってから読むのをお奨めします。(そう言う筆者もかなり若い頃に読んでしまったので、いずれ再読するつもりです)

現代では安い昼ドラになってしまいそうな設定でも、漱石の的確な筆で描かれると人物の心理を体験する実験に参加させられているようで、一緒に苦悩せずにはいられません。言わば高等な人生VRです。
陰鬱とした文章であるため好みは分かれるでしょうが、日本における最高峰の恋愛小説をぜひ一度ご堪能あれ。



【Kindle無料版】門
親友の安井を裏切り、その妻であった御米と結ばれた宗助は、その負い目から、父の遺産相続を叔父の意にまかせ、今また、叔父の死により、弟・小六の学費を打ち切られても積極的解決に乗り出すこともなく、社会の罪人として諦めのなかに暮らしている。そんな彼が、思いがけず耳にした安井の消息に心を乱し、救いを求めて禅寺の門をくぐるのだが。『三四郎』『それから』に続く三部作。
「恋愛小説」としては少々苦過ぎる、もう老境に入った夫婦の話。
若者が思い描く恋とはかなりかけ離れていますが、これもまた恋の行方の一つではあります。

人生の陰を鬱々と描き込む筆に、私はどうしても『こころ』の描写と重ねてしまうのですが、『こころ』のように派手な(衝撃的な)展開はありません。
ストーリーの展開だけを求める人にはお奨めできない小説と言えます。ただ『それから』を味わうことができた読書人には、『門』も読み応えのある一級品と感じられるでしょう。


虞美人草



【Kindle無料版】虞美人草
大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風でもの静かな恩師の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさからぬけ出すために、いったんは小夜子との縁談を断わるが……。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業的作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品。
文章表現が漢文から口語へ移り変わる時代、絶妙なバランスを取りながら両者の表現を混在させる漱石の文。この表現が恋愛小説に向く。二つの表現の間を巧みに行き来する筆致が、揺れながら恋を謳歌しようとする心に似ているからか?

漱石が流行小説家として生きることを決めた直後に書かれた作品だけあって、ストーリーは大衆向けなのかもしれません。やはり漱石の文章でなければ安い昼ドラの脚本に堕ちていたでしょう。
この話を一流の恋愛小説に仕立てているのは、超絶に巧い文章表現です。話の筋はともかく私は『虞美人草』が好きです。文体そのものに色っぽさを覚える、稀有な恋愛小説と言えます。

薤露行(かいろこう)


JohnAtkinsonGrimshaw.jpg ※画像はジョン・アトキン・グリムショー『シャーロットの乙女』

【Kindle無料版】薤露行

 『こころ』『行人』『彼岸過迄』等々、愛の苦悩を描いた名作は数多くあるのですが、重過ぎるのでまた別枠でご紹介します。
代わりに漱石作品の中ではあまり有名ではない短編小説、『薤露行』をここに置いておきます。

漱石だけではなく日本文学全体でもめずらしい、西洋を舞台とする小説。題材はなんとあの『アーサー王』です。
アーサー王の家臣ランスロットは、王の妃と不義の関係にあります。この西洋では有名な三角関係を漱石流の解釈で描いたのが『薤露行』。王妃とランスロットの報われない愛、ランスロットの妻の切ない想い、死に行く美しい乙女……等々に『三四郎』からの三部作や『虞美人草』を想起して眩暈を覚えます。
なお、「薤露行」とは「人生は薤の葉の上の露がすぐに乾くように、あっという間に過ぎ去ってしまう」という意味の歌。古代中国(漢代)、貴族の葬送歌です。漱石は報われない乙女たちの恋へ「薤露行」を捧げたのでしょう。このセンスだけでも惚れ惚れします。



――ああ、書いていてむしょうに漱石を読み返したくなりました。
ご紹介しておいて何ですが、筆者にはしばらく漱石文学を貪る時間がありません。
またいつか漱石に溺れるほどの暇が得られることを夢見ます。

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