本棚の整理中に発見したメモ。
何の本を読んでいる時にメモしたのか忘れたが、たぶん哲学関連のガイド本。
西洋では、「神は自由」と定義したいために「一切は偶然」「個人は自由」という思想が生まれた。
※神は普遍に縛られない。だから人間個人と神を切り離し、人間の知覚から「普遍」を創り出さなければならない。そのような考えから形而上との決別――「オッカムの剃刀」が生まれた。近世哲学の源流。
読書備忘録 “いつも傍に本があった。”
西洋では、「神は自由」と定義したいために「一切は偶然」「個人は自由」という思想が生まれた。
※神は普遍に縛られない。だから人間個人と神を切り離し、人間の知覚から「普遍」を創り出さなければならない。そのような考えから形而上との決別――「オッカムの剃刀」が生まれた。近世哲学の源流。
ぼくは、ことばそのものがイメージとして感じられる。ことばそのものを情景として思い描く。この感覚を他人に説明するのはむつかしい。要するにこれは、ぼくの現実を感じる感覚がどこに付着しているかという問題だからだ。何をリアルと感じるかは、実は個々の脳によってかなり違う。ローマ人は味と色彩を論じない、という言葉があるのは、そういうわけだ。ことばに対する感覚、面白い。我々も言葉を見たり聞いたりした瞬間にイメージしているし、小説などではその世界を感じることができるけど、あえて強調して書くということはきっとイメージとは違うのだろうな。
ぼくがことばを実体としてイメージできるように、「国家」や「民族」という抽象を現実としてイメージできる人々がいる。
P42-43
忘却というものがいかに頼りないか、誰でもそれを知っている。夜、寝入りばなに突如遅いくる恥の記憶。完璧に思い出さずにいられるような忘却を、ぼくらの脳は持ち合わせていない。ひとは完璧に憶えていることも、完璧に忘れることもできない。本当に本当に、その通り。
P71
「彼がよく言っていたわ……虐殺には、独特の匂いがある、って」匂いか。分かる気がするな。
「匂い……」
「ホロコーストにも、カチンの森にも、クメール・ルージュにも、ぜんぶそれが張り付いてる、って。虐殺が行われる場所、意図された大量死が発生する国……そういうところには、いつも『匂い』があるんですって」
虐殺の匂い。
ジョン・ポールは過去の虐殺を調べているうちに、その匂いにたどり着いた。
「死体の匂い、とかそういうものじゃなさそうだね」
「そうね。彼なりの詩的表現なのだと思うわ。
P168-169
「眠りと覚醒のあいだにも、約二十の亜段階が存在します。意識、ここにいるわたしという自我は、常に一定のレベルを保っているわけではないのです。あるモジュールが機能し、あるモジュールはスリープする。スリープしたモジュールがうっかり呼び出しに応答しない場合だってある。物忘れや記憶の混乱はそのわかりやすい例ですし、アルコールやドラッグによる酩酊状態もまた、その一種です。こうして話しているいまだって、わたしやあなたの意識というのは一定の……こう言ってよければ、クオリティを保っているわけではない。わたしやあなたは、たえず薄まったり濃くなったりしているのです」「わたし」を物の集合体として喩える。表現が面白いが、実存は絶望を呼ぶな。
「『わたし』が濃くなったり薄まったり、ですって……」
言葉の問題なのです、と医者は要った。「わたし」とは要するに言葉の問題でしかないんです、いまとなっては。
(略) どれだけのモジュールが生きていれば「わたし」なのか、どれぐらいのモジュールが連合していれば「意識」なのか。それをまだ社会は決めていないのだ、と。
P261-262
人間とは、ときに自分の命よりも、愛やモラルを優先させてしまうことができる、歪んだ生き物なのだ。利他精神で身を滅ぼしてしまうことのできる、そんな種族なのだ。そうね歪んでるね。自分はその典型か。
P290
つまり、ここでは裏切りゲームがまだ有効なのだ。ゲーム理論的なシミュレーション・モデルの初期は確かに、愛他行為や利他行為といった特性を備えた個体よりも、いつも裏切って目先の利益を優先する個体のほうが生き延びやすい。モデルが複雑化するにつれ、そうした個体は淘汰されて、互いに協力関係にあり、互いを利する性格の個体による集合が増加し始めるが、この大地では複雑性がそこまで進行していないのだ。まさに現代はそういう状況。完全にリセットされてしまっている。しかも人口が増えているので大規模な悲劇が繰り返される。
かつてはそうではなかったかもしれない。だが、この大地の倫理コードは、どこかの時点で一旦リセットされてしまって、シミュレーション・モデルはまだ充分な複雑さを獲得できない状態にとどまっているのだ。
P356
われ地に平和を興(あた)えんために来ると思ふか。われ汝らに告ぐ、然らず、反(かえ)って分争うなり。聖書の一節を引用。
P359
世界はたぶん、よくなっているのだろう。たまにカオスにとらわれて、後退することもあるけれど、長い目で見れば、相対主義者が言うような、人間の文明はその時々の独立した価値観に支配され、それぞれの時代はいいも悪いもない、というような状態では決してない。文明は、良心は、殺したり犯したり盗んだり裏切ったりする本能と争いながらも、それでもより他愛的に、より利他的になるよう進んでいるのだろう。ここで終わればリアリズムを保つことができたのだが、終わり方は陳腐だった。
だが、まだ充分にぼくらは道徳的ではない。まだ完全に倫理的ではない。
ぼくらはまだまだ、いろいろなものに目をつむることができる。
P382
世の中には2種類の本しかないという。読まなくていい本と読んでもロクなことにならない本。「危険な読書」とは書かれた中身のことばかりを言っているのではない。たとえ国を乱すような、悪徳の書であっても、読み手次第では毒にすらならないこともある。逆にこうも言えるはずだ。どんな本であっても、読み方次第では人生を変え得る危険性をはらんでいると。読書は未知なる世界との遭遇であり、思いもしなかった自分自身に出会う旅でなければならない。黒いインクが滲む紙束を、激しい劇物にすることができるかどうか。世の中にはまだこんな本があったのか! そんな驚きを求め、凝り固まった己の殻を穿つ、“弾丸”となり得る読書を楽しもうではないか。本を「劇物」と呼ぶ感性、やはり好きだし同感。
泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っこんでいるのが見えた。美しい冒頭文だと思った。
まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している。
「おい地獄さ行ぐんだで!」から始まるので、「地獄」まで聴いてからでは読んだ人なら全員が答えられるだろう。
青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。とか
川端康成『雪国』
吾輩は猫である。名前はまだ無い。とか。
夏目漱石『吾輩は猫である』
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、この冒頭だけで「お母さま」の仕草や表情だけではなく、どのような家なのか、語り手の服装や容貌まで思い浮かべることができる。スウプや香水も薫る。つまり景色や薫りさえも一気に再現できる冒頭で、凄いと思った。
「あ」
と幽かな叫び声をお挙げになった。