読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

哲学書より? メモ



本棚の整理中に発見したメモ。
何の本を読んでいる時にメモしたのか忘れたが、たぶん哲学関連のガイド本。

西洋では、「神は自由」と定義したいために「一切は偶然」「個人は自由」という思想が生まれた。

※神は普遍に縛られない。だから人間個人と神を切り離し、人間の知覚から「普遍」を創り出さなければならない。そのような考えから形而上との決別――「オッカムの剃刀」が生まれた。近世哲学の源流。

Share:

『虐殺器官』より引用

伊藤計劃『虐殺器官』より、気になった箇所を引用。


 ぼくは、ことばそのものがイメージとして感じられる。ことばそのものを情景として思い描く。この感覚を他人に説明するのはむつかしい。要するにこれは、ぼくの現実を感じる感覚がどこに付着しているかという問題だからだ。何をリアルと感じるかは、実は個々の脳によってかなり違う。ローマ人は味と色彩を論じない、という言葉があるのは、そういうわけだ。
 ぼくがことばを実体としてイメージできるように、「国家」や「民族」という抽象を現実としてイメージできる人々がいる。
P42-43
ことばに対する感覚、面白い。我々も言葉を見たり聞いたりした瞬間にイメージしているし、小説などではその世界を感じることができるけど、あえて強調して書くということはきっとイメージとは違うのだろうな。
おそらく自分と似たような、「共感覚」の一種なのだろう。
きっとこの感覚から作者は『虐殺器官』のアイディアを得たのだと思った。

忘却というものがいかに頼りないか、誰でもそれを知っている。夜、寝入りばなに突如遅いくる恥の記憶。完璧に思い出さずにいられるような忘却を、ぼくらの脳は持ち合わせていない。ひとは完璧に憶えていることも、完璧に忘れることもできない。
P71
本当に本当に、その通り。

「彼がよく言っていたわ……虐殺には、独特の匂いがある、って」
「匂い……」
「ホロコーストにも、カチンの森にも、クメール・ルージュにも、ぜんぶそれが張り付いてる、って。虐殺が行われる場所、意図された大量死が発生する国……そういうところには、いつも『匂い』があるんですって」
 虐殺の匂い。
 ジョン・ポールは過去の虐殺を調べているうちに、その匂いにたどり着いた。
「死体の匂い、とかそういうものじゃなさそうだね」
「そうね。彼なりの詩的表現なのだと思うわ。
P168-169
匂いか。分かる気がするな。

「眠りと覚醒のあいだにも、約二十の亜段階が存在します。意識、ここにいるわたしという自我は、常に一定のレベルを保っているわけではないのです。あるモジュールが機能し、あるモジュールはスリープする。スリープしたモジュールがうっかり呼び出しに応答しない場合だってある。物忘れや記憶の混乱はそのわかりやすい例ですし、アルコールやドラッグによる酩酊状態もまた、その一種です。こうして話しているいまだって、わたしやあなたの意識というのは一定の……こう言ってよければ、クオリティを保っているわけではない。わたしやあなたは、たえず薄まったり濃くなったりしているのです」
「『わたし』が濃くなったり薄まったり、ですって……」
 言葉の問題なのです、と医者は要った。「わたし」とは要するに言葉の問題でしかないんです、いまとなっては。
 (略)  どれだけのモジュールが生きていれば「わたし」なのか、どれぐらいのモジュールが連合していれば「意識」なのか。それをまだ社会は決めていないのだ、と。
P261-262
「わたし」を物の集合体として喩える。表現が面白いが、実存は絶望を呼ぶな。

 人間とは、ときに自分の命よりも、愛やモラルを優先させてしまうことができる、歪んだ生き物なのだ。利他精神で身を滅ぼしてしまうことのできる、そんな種族なのだ。
P290  
そうね歪んでるね。自分はその典型か。

 つまり、ここでは裏切りゲームがまだ有効なのだ。ゲーム理論的なシミュレーション・モデルの初期は確かに、愛他行為や利他行為といった特性を備えた個体よりも、いつも裏切って目先の利益を優先する個体のほうが生き延びやすい。モデルが複雑化するにつれ、そうした個体は淘汰されて、互いに協力関係にあり、互いを利する性格の個体による集合が増加し始めるが、この大地では複雑性がそこまで進行していないのだ。
 かつてはそうではなかったかもしれない。だが、この大地の倫理コードは、どこかの時点で一旦リセットされてしまって、シミュレーション・モデルはまだ充分な複雑さを獲得できない状態にとどまっているのだ。
P356
まさに現代はそういう状況。完全にリセットされてしまっている。しかも人口が増えているので大規模な悲劇が繰り返される。
我々が「古代」と呼ぶ世界は本当に古いのか、今いる時代のほうが野蛮へ逆行しているのではないか?

 われ地に平和を興(あた)えんために来ると思ふか。われ汝らに告ぐ、然らず、反(かえ)って分争うなり。
P359
聖書の一節を引用。
ジョン・ポールをキリストに喩える場面。

 世界はたぶん、よくなっているのだろう。たまにカオスにとらわれて、後退することもあるけれど、長い目で見れば、相対主義者が言うような、人間の文明はその時々の独立した価値観に支配され、それぞれの時代はいいも悪いもない、というような状態では決してない。文明は、良心は、殺したり犯したり盗んだり裏切ったりする本能と争いながらも、それでもより他愛的に、より利他的になるよう進んでいるのだろう。
 だが、まだ充分にぼくらは道徳的ではない。まだ完全に倫理的ではない。
 ぼくらはまだまだ、いろいろなものに目をつむることができる。
P382
ここで終わればリアリズムを保つことができたのだが、終わり方は陳腐だった。
わざとなのか文学に走る勇気がなかったのか、陳腐な商業エンタ-テイメントに逃げた。
でも陳腐なラストをこそ多くの現代人は「リアリズム!」と称賛するのだろう。そんな現実にこそこの物語の本当の結末が描かれていると思う。

Share:

『危険な読書』(BRUTUS 2019年 1/15号)に今年も手を出してしまった

今年も抗えずに買ってしまった、BRUTUSの『危険な読書』。
去年の黒に続き、今年は赤! 
コンビニの棚で光る赤が眩しかった。これは抵抗できないでしょう。



去年は『危険な読書(黒)』の名リード文に痺れて涙まで浮かべてしまった私だったが、今年は期待し過ぎたせいかそれほどでもなかった、かな。
でも流行本を追わないコンセプトは健在で、そこにこそ私は共鳴を覚えているので嬉しく思う。

今回のリード文引用:
世の中には2種類の本しかないという。読まなくていい本と読んでもロクなことにならない本。「危険な読書」とは書かれた中身のことばかりを言っているのではない。たとえ国を乱すような、悪徳の書であっても、読み手次第では毒にすらならないこともある。逆にこうも言えるはずだ。どんな本であっても、読み方次第では人生を変え得る危険性をはらんでいると。読書は未知なる世界との遭遇であり、思いもしなかった自分自身に出会う旅でなければならない。黒いインクが滲む紙束を、激しい劇物にすることができるかどうか。世の中にはまだこんな本があったのか! そんな驚きを求め、凝り固まった己の殻を穿つ、“弾丸”となり得る読書を楽しもうではないか。
本を「劇物」と呼ぶ感性、やはり好きだし同感。
今どきのお洒落な子たちが群がる文学カフェの、本ソムリエが並べる「人畜無害でフワフワとした綿菓子のような」本など見かけが本の形をしているだけのレプリカ。
本はやはり、昔も今も「劇物」だ。「劇物」でなければ。


ただ去年もそうだったけど、肝心の、この雑誌内で紹介されている書籍リストは若干「書かれた中身」が関係している気がした。
つまり分かりやすくエロティシズムだったり暗黒だったりタブーを描く小説が多い。今年は政治も入ってきたかな。
まあ、「危険」と言って一般の方々がイメージするのはそういった現実的な刺激だろうから、コンセプトに応えるリストとして仕方ないのだろうが。

たとえば、今回掲載された本タイトルを抜粋してみると
『ジェット・セックス――スチュワーデスの歴史とアメリカ的「女性らしさ」の形成』(明石書店)
『女たちの王国――「結婚のない母系社会」中国秘境のモソ人と暮らす』(草思社)
『安楽死を遂げるまで』(小学館)
『ゲッペルスと私――ナチ宣伝相秘書の独白』(紀伊國谷書店)
『アメリカ死にかけ物語』(河出書房新社)
『大江健三郎全小説3 「政治少年死す」他』(講談社)
『ロリータ』ウラジミールナボコフ(新潮文庫)
…等々。

社会の闇に斬り込むノンフィクションやタブーのエロスを描いた小説が「危険な臭い」を漂わせているのは、当たり前。
読めば刺激的だろうし、影響を受けて人生を変えるための行動を起こす人もいるだろうが、どうもそれは我々の思う『危険』というニュアンスとは違う気がする。
刺激的な出来事を描いただけの字面は、その時は衝撃を受けても実は短期で忘れてしまうことが多い。
それよりも、たった一度読んだだけなのに印象が心の奥深くに根付いて、(特に行動を起こさず人生を変えなかったとしても)体験として宿る読書こそ「危険な読書」と呼ぶにふさわしい気がする。

その意味で、私は個人的にメジャーな文学のほうが「劇物」ではないかと思う。
いや実は歴史に残る文学のほうが危険値が高い。何らか見えない力を持つからこそ歴史に残っているわけだから。
たとえば、太宰治の小説でいったいどれだけたくさんの若者が自殺したと思っている? 「虐殺構文」ならぬ「自殺構文」を含む危険書だ。
あと夏目漱石の恋愛小説。中学生の課題図書に指定する教育者たちの気が知れない。R指定でしょう、普通。
三島由紀夫もかなりヤバイ。美しい装いの彼の小説も、実は変態による変態のためのフェチシズム文学。
これらの劇物を「小難しくて賢そうな、お洒落なブンガク」としか思わず、ファッションとして読めてしまう現代人の感性はどれだけ鈍いのだろうと嗤う。

もう一つ、高潔な精神性を持ち、滋養があって心を豊かにする良書であっても、
「はまり過ぎて危険」
という中毒性を持つことがあればそれも劇物と言える。


正月休み最後となる今日、体調が良くなってきたのでヘッセ著『ガラス玉演戯』を紐解いた。
ノーベル賞を受賞したこの大作は、昔に買ったものの読んでしまうのがもったいなくて読めず、本棚の奥にしまい込んでいた。
先日、読書好きの方がこの本のタイトルに触れてくださったおかげで思い出し、掘り出すことになった。「もったいない」からとしまい込んでいたら、読む前に死んでしまうかもしれない。そのことに気付かせてくださった。
しかし読み始めてすぐ、危険を感じた。
「やばい……抜けられないかも」という危険。
懐かしい高橋健二氏の文体だけではなく、哲学の薫りの漂う単語と世界観に眩暈を覚えてしまう。

本当の『危険な読書』とは、エロティシズムでもタブーでもなくて、この種の文学の底知れない深みにはまることだろう。


Share:

伊藤計劃『虐殺器官』感想。同時代に生き、虐殺を眺めた者としてのシンパシィ

しばらく前に読んだ本。
読んだ本をいちいち他人に報告しなくなって久しいが、これは公開で感想を書きたくなった。年が明ける前に書いておく。

(まとめず思うまま書きました。長いです)

作家の敬称略。

伊藤計劃、『虐殺器官』という伝説


『虐殺器官』は2007年に発表された伊藤計劃の小説。

伊藤計劃は2009年に34歳で早世した。
病床で10日間で書き上げたというこの小説は彼のデビュー作。SFの枠を超えた傑作であり、彼の死後も伝説として語り継がれている。

「ベストSF2007」国内篇第1位。「ゼロ年代SFベスト」国内篇第1位。(ウィキペディアより)
最近アニメ化され再び話題となった。Project Itoh


(リンク先は楽天の電子書籍)



ストーリー


2000年代半ばの近未来。
9.11以降、世界の混乱はやまず、サラエボを始まりとして幾つもの都市が核で消失した。もはや「ヒロシマ」「ナガサキ」という地名は被爆地としての特殊性を持たなくなった。
しかし相変わらず先進国の人々は安定した社会を保ち、ドミノ・ピザをバドワイザーで胃に流し込む生活を送っている。死体の積み重なる光景よりも恐怖かもしれない、変わらない生活。

反対側の世界も変わらなかった。
発展途上国で女子供を巻き込む大虐殺が減るきざしはいっこうに見えない、それどころか2000年代半ばに益々増えていく。
ある時期から、それまで平和を保っていた小国の指導者が唐突に狂い、ジェノサイドを始めるという奇妙な内乱がいくつも起きるようになった。
アメリカ合衆国は虐殺を指導しているトップを暗殺することで途上国の平和を保とうとした。
合衆国特殊部隊員クラヴィスは、指導者暗殺の任務を帯びてある国へ潜入。軍人のトラウマを防止する心理操作技術によって、躊躇なく任務を遂行してきたクラヴィスだったが、ターゲットが死ぬ直前に吐き出した言葉を耳にして混乱する。
「わたしはなぜ殺してきた――たのむ、教えてくれ。なんで殺してきた」

軍部は途上国の唐突な虐殺全てに「ジョン・ポール」という名のアメリカ人が関与していることを突き止めていた。
長期の特殊任務でジョン・ポールを追跡したクラヴィスは、ついに彼と遭遇する。そして「虐殺の王(ロード・オブ・ジェノサイド)」たる本人から秘密を明かされる。


小説としての感想


ストーリーは面白い。先を知りたくなり読み続けることができる。SF好きに限らず、純粋エンタテイメントとして読むことも可能だと思う。
ただし設定は暗く描写は残酷、読む人を選ぶ小説ではある。冒頭から残酷描写があるので苦手な人は避けたほうがいい。

それでも、いわゆる「イマドキの小説」として想像するような、命の価値が過剰に低い世界観ではない。
むしろ淡々と描かれる殺戮描写が、声も上げずに消えていく命が、圧倒のインパクトをもって命の重みを押し付けてくる。

悲しみは言葉にされないことでさらに深い悲しみとなる。
悪と正義は示されないまま反転し、希望と絶望も反転する。

ある意味、現実そのままを写し取ったかのような小説である。
思想もある。もちろんその思想は「これが正義だ」といったような押しつけがましいものではないのだが。
内省的な主人公の淡々とした心理描写が現代現実の深層を抉り出す。時にその抉り出された深みが、目を逸らしたくなるほど痛々しく重い。

現代小説で久しぶりに遭遇した思想のある小説だった。
生々しく吐き出された文章に誠実さと、稀有な才能を感じる。


余計なことかもしれないが、才能称賛

まずこの小説を10日で書いたことに驚嘆する。
緻密でよく練られた設定であるうえに知識も深い。同時代の日本人であることが信じられない。
さらに商業目的に流れず、恥ずかし気もなく嘲笑されることも恐れずに、本気の内面描写で思想を描いている。
“文学からの逃避”を続ける同時代、同世代の作家では奇跡とも言える文学だと思った。

ストーリー性が高くエンタテイメントとしても純粋に面白い。だけど、それだけではない。血肉の通った人間の、考える臓器の詰まった濃厚な小説だ。
これが小説としての完全体だろう。
ようやく小説が内臓を取り戻した。
ようやく、これからだったのに。
日本の小説からこの人が失われたことは、つくづく残念だ。

個人的に感じていたこと


この小説を読みながら私は懐かしいと感じた。
懐かしい、と言うのは違うのかもしれないが、馴染みのある世界観に浸っていた。

夜中、テレビ画面の前で一人、死体野原の光景に釘付けとなった十代の日を思い出す。
白黒の映像に浮かぶ死体野原は静けさに満ちていた。
衝撃などの感情はなく、悲しみも怒りも表現されないまま、静かな涙だけが流れた。

死体野原へ馴染みを感じたのは古い記憶のせいなのか。
それとも今の人生で見せつけられた虐殺の光景があまりにも多く、脳に刷り込まれただけなのか?
今となっても分からないのだけど、これだけは確かに言えるのは、同世代の人たちで私の気持ちを理解した人が一人もいなかったということだった。

ニュース映像で浴びるように虐殺の光景を見せられてきた我々だが、誰も死体野原を「馴染みある」とは言わないし、あの静かな悲しみを感じていると思える人もいない。

それなのに伊藤計劃は同じ光景を、同じ気持ちで眺めていたようで驚いた。

冒頭文引用。
※残酷描写が苦手な人は避けてください
 泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っこんでいるのが見えた。

まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している。
美しい冒頭文だと思った。
残酷な場面なので「美しい」と言うのは語弊あるのかもしれないが、これが冒頭にあることの完璧さが美しい。

赤と泥、色のコントラスト。現実と乖離した直喩。その後に現実が見えてきて、読者はこの小説がどんな物語なのかを察する。

小説の導入としての完璧さに驚いたが、それ以上に私が驚いたのは、この人は現実の虐殺現場をありのまま描いているということだ。
もう少し細かく視覚を描いていく。
――最初、それが何であるのか分からない。
何故あんな小さな女の子が泥へ顔を突っこんでいるのだという不思議さで視線を止める。
歩いて行く。対象が近付いて来る。
心の奥で警戒信号が鳴っているのだが、目を逸らすことができず、視点を止めたまま近付いて見る。
紅い花が鮮烈に目に飛び込み、焼き付く。
やがて状況を理解して現実のままの光景が目に映る。心が静止する。
辺りを見渡す。次々と凄惨な光景が目に入って来る。この時はもう遅い、目を逸らすことはできない。
熱い怒りや悲しみも、ショックさえなく、ただありのままを受け入れるしかないという静かな状況……。

この人は、現実に自分の足で死体野原を歩いたことがあるのだろうか?
それともアメリカ映画で観た光景や、第二次大戦の映像を思い出して描写しているのだろうか?
いずれにしても驚いたのは、彼が私と同じ気持ちで虐殺後の世界を眺めていたことだった。
その後、小説を読み進めるにつれ理解した。
彼もまた、あの画面から目を離せなくなった一人なのだということ。

同じ時代を生き。
同じ宅配ピザの届く安定した平和を味わい。
テレビ画面から流れてくる虐殺映像を、同じ気持ちで眺めていた人がいたことを不思議だと感じる。
決して「嬉しい」とか「ありがたい」などとは思わないことがまた自分でも不思議で。
ただ似た視点で似た世界の場所を眺めていた人が地上から失われたことだけ、残念に思う。

それと似た目で世界を眺めておきながら、ずっと
「言ってもどうせ理解されない」
「こういう分野の話は誰にも受け入れられない」
「戦争モノ、殺戮を描いているだけで有害指定される」
などと言い訳し、このジャンルの話を書いて来なかった自分の怠慢を呪う。
そもそも「小説家になるつもりなど微塵もない」と思っていて、夢など見ないことが真っ当なのだとさえ言い、書くことに背を向け訓練も怠ってきたことは猛烈に反省する。

こんなにも正直に自分の見ている世界を世に提供した人がいるではないか。
(私は一度だけ『我傍に立つ』では露骨なまでに正直になったのだが、以降は気持ちも労力もセーブしてきた。あれ以降、正直にただ好きなものを好きなだけ書くという行いができたことはない)
正直になることを恥ずかしいとずっと思っていた自分の卑小さが今は辛い。だらだらと生きて浪費した時間が申し訳ない。反省しなければならない。

人は生きて何を残せるか、限られた時間で挑まなければならないけど、伊藤計劃という人は残すことができたと言える。もっと残したかっただろうが一つでも残せたら幸運だ。
今、私が何を感じているかと言うと、「羨ましい」ということだ。
生まれて初めて他人へ嫉妬した。(嫉妬とは有難い感情だ)


ジョン・ポールの発見を未来への提案として考えてみる


以下は小説感想から離れ、現実として設定を考えてみます。
ここから下にはネタバレがあります。未読の方は読まないように。




この小説はSFなのだけど、ジョン・ポールが発見した
「言語テキストの中に潜ませる虐殺を起こす構文」
は、かなりリアリティのある話。

現実にも、たとえば社会主義関連の思想書にはジョン・ポールの「虐殺構文」に近い魔力がある。
社会主義、K産主義は何故か100%人を暴力的にし狂わせる。社会主義に侵されて虐殺が起きなかった国・集団はない。
100%、という確率は驚異だ。
まさにジョン・ポールの技巧。
ポルポトはきっと呟いただろう、「わたしはなぜ人を殺したのだ?」
(スターリンは曹操と同じくサイコパスであり、いわば「虐殺の天才」。彼らのように元から壊れてしまっているサイコパスは生まれ持った本能に従うだけなのだが、社会主義思想が虐殺の後押しをして拡大させたのは間違いない)
これだけの実効力を持つ思想書が人類に与えられたのは不幸としか言えない。

しかし今後はもっと完璧で分かりづらい技術で人は操作されることになるだろう。

もしかしたら今でもAIを使えば可能かもしれない。
先日見つけた診断テスト、『テキスト文でAIが性格診断~Personality Insights 』ではすでに表層の言葉によらず、純粋な文の癖やパターンで性格タイプを見抜くという技術が示されている。
これはまだ研究段階で、今のところ選ぶ単語そのものも考慮されているから純粋なパターンとは言えない。
ただ、この研究が進んでもっと正確性を増せば、逆の展開をさせ
「ある一定の効果をもたらす文章」
というものも簡単に作り上げることができてしまうはずだ。

いや、今の段階でさえ。
「リーダーシップを持つ・人の心に訴えかける文」
という程度なら、AIが作成することは既に充分に可能なのだ。

この技術を悪意ある者が使ったらどうなるか?
ヒトラーのプロパガンダなど目ではない。
マルクスによる地獄の聖書も超える、“言語的転回”での虐殺指令書が完璧な形で現実化する。

既に第二次世界大戦以降、資本主義国のメディアはヒトラーのプロパガンダ技術をパクり、商業目的で使ってきた歴史はある。
誰も公では言わないが、ある程度のメディアによる洗脳はあると皆分かっている。
だから警戒心の強い人は政治的なスピーチを耳に入れないようにしているし、宗教団体にも近付かないようにしている。そうすれば大手メディアの洗脳はあっても、少なくとも極端な行いをする団体からは逃れることができると思える。
(それなのに悪意ある集団へ自ら近付いて教義を鵜呑みにし、騙されている愚かな鴨は大勢いるが)

だけど表層の言葉に関わらず、無害に思われるテキスト文にまで「虐殺構文」が潜むようになったらどう逃れたら良いのか。
「耳に蓋をすることはできない」。
人々が、自覚もないまま虐殺の狂乱に陥る、想像を絶するディストピアが実現する。


私は長年思ってきたけど、これと逆のことはできないのだろうか?
人を100%狂わせ虐殺に向かわせる地獄の聖書があるのなら、それと真逆に、100%穏やかな気持ちにさせて虐殺を抑えさせる構文が。

「虐殺器官」ではなく
「平和器官」や「生存器官」を発動させる構文。

残念ながら本物の『聖書』は虐殺構文に近い。
仏教は「平和器官」を発動させる可能性が最も高いが(ある紛争地域に仏教がもたらされたら殺戮がやみ、平和になったという実際の歴史がある)、先日のミャンマーの事例を見ると100%の効力とまでは言えない。

実は自分がいつか、その構文を書けたらいいなと思っていた。
素人のくせに大仰な夢だ。

当たり前のことだが、私のような素人よりも、言語学の研究者が調べたほうが遥かに早いと思う。
研究者の皆さん。どうか「平和構文」「生存構文」を研究されてください。

12/24続き。やはり魔術で平和を求めるのは駄目だという話。>>「平和構文」でも、やはり私は洗脳なしでいきたいです



メモ。

この本からの引用

伊藤計劃が亡くなる直前まで更新したブログ
伊藤計劃:第弐位相
Share:

小説イントロで改めて確認した。昔の小説冒頭って、インパクトあったな

99人の壁、小説イントロが面白かった


『クイズ 99人の壁』という番組がある。
一般の人が、自分の得意ジャンルで99人の他の回答者と戦う、という壮絶なクイズ番組。
自分が最も詳しいはずの得意ジャンルで回答するのだから当然に勝てると思うはず。でも99人が相手だと難しい。

それで滅多に勝ち抜いて賞金獲得する人はいないのだけど、今日レギュラー化初で勝ち抜いた人の得意ジャンルが
「小説イントロ」
だったので面白く眺めていた。

「小説イントロ」とは、音楽のイントロのように小説冒頭文を聴いただけで何の小説であるか当てる、というクイズ。
流行歌を言い当てる普通のイントロとは違い、一般の誰もが当てられるジャンルではないので挑戦しようと思って眺めていた。

結果。
第一問目 「おい」の二文字で『蟹工船』だと答えられて自分で驚いた! 
……という自慢。失礼しました。笑

もちろん回答者さんも答えてらっしゃったが。
他に二人ほど分かった方がいたようだ。

蟹工船は特徴的だから文学好きなら答えられるよね。
だから凄いのは、「おい」の二文字で押す回答者さんの反射神経だと思う。
「おい地獄さ行ぐんだで!」
青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html
から始まるので、「地獄」まで聴いてからでは読んだ人なら全員が答えられるだろう。

だけど私も、最近の小説は答えられなかったな。
回答者さんは古典文学から現代のエンタメ小説までイントロで答えられたので凄いなと思った。

私は又吉『火花』を読んでいるのに答えられなかった。笑
→筆者の『火花』感想
たぶん個人的にインパクトを感じなかったのか記憶に定着していない。


昔の小説冒頭のインパクトを再確認


ただこのクイズのおかげで、昔の小説はやはり冒頭からインパクトあったなと改めて分かった。
『蟹工船』もそうだし、有名どころで
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

川端康成『雪国』
とか
吾輩は猫である。名前はまだ無い。

夏目漱石『吾輩は猫である』
とか。

個人的に私が痺れたのは、太宰治『斜陽』。
 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
と幽かな叫び声をお挙げになった。
この冒頭だけで「お母さま」の仕草や表情だけではなく、どのような家なのか、語り手の服装や容貌まで思い浮かべることができる。スウプや香水も薫る。つまり景色や薫りさえも一気に再現できる冒頭で、凄いと思った。
この小説は太宰が愛人の日記を剽窃して(パクること)描いたものなのだが、たとえ設定を剽窃したのだとしても、こういう小説文として表現し世の中に提供できることが才能なのだと思う。

※だからアイディアだけで著作権は取れず、文章表現や音楽表現をした人が著作権を持つことになる。佐村河内氏・新垣氏のゴーストライター事件は、この点で佐村河内氏が大きな勘違いをしていたことが問題だった。
ただしアイディアの質や量によっては共同著作者となるので独占は不可。また、実在の人の日記やブログなどを参考に創作する場合は、著作権またはプライバシー権侵害で法的問題になることがあるので注意。太宰の時代はそんな法的意識などなかったので被害者が文句を言うなど考えにも昇らなかっただろうが。
だから現代では、断りなく他人のブログをモデルに創作などしてはダメですよ。


昔の小説にインパクトがあったのは、熱があったから


昔の小説は冒頭からインパクトが凄かったという話へ戻る。

昔の作家は凄くて現代の作家はレベル落ちしている――などと決めつけるわけではない。

今は小説手法が出尽くしているから、なかなかインパクトのある小説を出すのは難しいということもあるだろう。
どんなにインパクトある冒頭を狙っても、何もかも過去にあった何かの小説のようになってしまう。

だけど現代、小説全体が技巧だけで組み立てられた、コンピュータプログラムのような薄味になってしまっていることは否めない。
そのため冒頭も中身もインパクトが無くて、記憶に残らずすり抜けて行くものが多いとは思う。
たとえば又吉の『火花』は現代小説にしては素直で濃厚なほうで、私は好みだったのだけど、やはりインパクトでは古典に及ばない。たくさんの小説を読み過ぎた人が、技巧に向き合って書くとこういうインパクトの薄い冒頭になってしまうのかもしれない。

現代小説でインパクトがあったのは、伊藤計劃『虐殺器官』。
グロいから引用はしないが、『虐殺器官』の冒頭文は久々に目が覚める想いだった。

記憶に残るインパクトある冒頭文と、記憶からすり抜けていく冒頭文。(内容のインパクトは冒頭に比例する)
――何が違うのか?
と言うと、やはり「熱」があるかどうか、なのだろうなあ。
ありきたりだけど。

昔の作家は小説執筆に「熱」を篭めていた。
小説は世の中で下等なものだと思われていて、バカにされていたので必死だったのだろう。
一文、一文、命を削る想いで熱を篭めて書いたからこそあれだけ濃厚な文学世界が生み出された。
それを今の人は「うっとおしい」と言ったり、命懸けの人を指差して「押しつけがましい」と嘲笑するのだが、感性がお粗末過ぎて残念だ。
(命懸けの人を指差して嗤う態度は、人としても最低の鬼畜)

伊藤計劃も、命を削って書いたのだ。文字通り。
だから冒頭から突き刺さる熱がある。
冷めているように見えて、冷たい炎が燃えている。

「命を削って、書け」
などと偉そうなことは私には言えず、やれと言われても今はもうできないのだけど、命が刻み込まれた文に価値があると強く主張したい。

技巧なんかでは他人の心は動かせない。
心だけが心を動かすのだと思う。

(もちろん、受け取り手の感じ取る能力も必要だが。現代人はこの心のポイントがゼロに近い人が多いのが絶望)


【関連記事】
・文章で人を説得するには? 驚きの『出師表』使い方
Share:

Translate