読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

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「沈潜」という言葉に共鳴。『「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差』



ネットにしてはめずらしく共感できる、秀逸な記事だなと思って読んでいたら齋藤孝氏だった。

⇒「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差

昔、この人の『読書力』という本がとても偏った内容で、全く共感するところがないと思ったのだがこの記事はいい。
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『危険な読書』(BRUTUS 2019年 1/15号)に今年も手を出してしまった

今年も抗えずに買ってしまった、BRUTUSの『危険な読書』。
去年の黒に続き、今年は赤! 
コンビニの棚で光る赤が眩しかった。これは抵抗できないでしょう。



去年は『危険な読書(黒)』の名リード文に痺れて涙まで浮かべてしまった私だったが、今年は期待し過ぎたせいかそれほどでもなかった、かな。
でも流行本を追わないコンセプトは健在で、そこにこそ私は共鳴を覚えているので嬉しく思う。

今回のリード文引用:
世の中には2種類の本しかないという。読まなくていい本と読んでもロクなことにならない本。「危険な読書」とは書かれた中身のことばかりを言っているのではない。たとえ国を乱すような、悪徳の書であっても、読み手次第では毒にすらならないこともある。逆にこうも言えるはずだ。どんな本であっても、読み方次第では人生を変え得る危険性をはらんでいると。読書は未知なる世界との遭遇であり、思いもしなかった自分自身に出会う旅でなければならない。黒いインクが滲む紙束を、激しい劇物にすることができるかどうか。世の中にはまだこんな本があったのか! そんな驚きを求め、凝り固まった己の殻を穿つ、“弾丸”となり得る読書を楽しもうではないか。
本を「劇物」と呼ぶ感性、やはり好きだし同感。
今どきのお洒落な子たちが群がる文学カフェの、本ソムリエが並べる「人畜無害でフワフワとした綿菓子のような」本など見かけが本の形をしているだけのレプリカ。
本はやはり、昔も今も「劇物」だ。「劇物」でなければ。


ただ去年もそうだったけど、肝心の、この雑誌内で紹介されている書籍リストは若干「書かれた中身」が関係している気がした。
つまり分かりやすくエロティシズムだったり暗黒だったりタブーを描く小説が多い。今年は政治も入ってきたかな。
まあ、「危険」と言って一般の方々がイメージするのはそういった現実的な刺激だろうから、コンセプトに応えるリストとして仕方ないのだろうが。

たとえば、今回掲載された本タイトルを抜粋してみると
『ジェット・セックス――スチュワーデスの歴史とアメリカ的「女性らしさ」の形成』(明石書店)
『女たちの王国――「結婚のない母系社会」中国秘境のモソ人と暮らす』(草思社)
『安楽死を遂げるまで』(小学館)
『ゲッペルスと私――ナチ宣伝相秘書の独白』(紀伊國谷書店)
『アメリカ死にかけ物語』(河出書房新社)
『大江健三郎全小説3 「政治少年死す」他』(講談社)
『ロリータ』ウラジミールナボコフ(新潮文庫)
…等々。

社会の闇に斬り込むノンフィクションやタブーのエロスを描いた小説が「危険な臭い」を漂わせているのは、当たり前。
読めば刺激的だろうし、影響を受けて人生を変えるための行動を起こす人もいるだろうが、どうもそれは我々の思う『危険』というニュアンスとは違う気がする。
刺激的な出来事を描いただけの字面は、その時は衝撃を受けても実は短期で忘れてしまうことが多い。
それよりも、たった一度読んだだけなのに印象が心の奥深くに根付いて、(特に行動を起こさず人生を変えなかったとしても)体験として宿る読書こそ「危険な読書」と呼ぶにふさわしい気がする。

その意味で、私は個人的にメジャーな文学のほうが「劇物」ではないかと思う。
いや実は歴史に残る文学のほうが危険値が高い。何らか見えない力を持つからこそ歴史に残っているわけだから。
たとえば、太宰治の小説でいったいどれだけたくさんの若者が自殺したと思っている? 「虐殺構文」ならぬ「自殺構文」を含む危険書だ。
あと夏目漱石の恋愛小説。中学生の課題図書に指定する教育者たちの気が知れない。R指定でしょう、普通。
三島由紀夫もかなりヤバイ。美しい装いの彼の小説も、実は変態による変態のためのフェチシズム文学。
これらの劇物を「小難しくて賢そうな、お洒落なブンガク」としか思わず、ファッションとして読めてしまう現代人の感性はどれだけ鈍いのだろうと嗤う。

もう一つ、高潔な精神性を持ち、滋養があって心を豊かにする良書であっても、
「はまり過ぎて危険」
という中毒性を持つことがあればそれも劇物と言える。


正月休み最後となる今日、体調が良くなってきたのでヘッセ著『ガラス玉演戯』を紐解いた。
ノーベル賞を受賞したこの大作は、昔に買ったものの読んでしまうのがもったいなくて読めず、本棚の奥にしまい込んでいた。
先日、読書好きの方がこの本のタイトルに触れてくださったおかげで思い出し、掘り出すことになった。「もったいない」からとしまい込んでいたら、読む前に死んでしまうかもしれない。そのことに気付かせてくださった。
しかし読み始めてすぐ、危険を感じた。
「やばい……抜けられないかも」という危険。
懐かしい高橋健二氏の文体だけではなく、哲学の薫りの漂う単語と世界観に眩暈を覚えてしまう。

本当の『危険な読書』とは、エロティシズムでもタブーでもなくて、この種の文学の底知れない深みにはまることだろう。


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小説イントロで改めて確認した。昔の小説冒頭って、インパクトあったな

99人の壁、小説イントロが面白かった


『クイズ 99人の壁』という番組がある。
一般の人が、自分の得意ジャンルで99人の他の回答者と戦う、という壮絶なクイズ番組。
自分が最も詳しいはずの得意ジャンルで回答するのだから当然に勝てると思うはず。でも99人が相手だと難しい。

それで滅多に勝ち抜いて賞金獲得する人はいないのだけど、今日レギュラー化初で勝ち抜いた人の得意ジャンルが
「小説イントロ」
だったので面白く眺めていた。

「小説イントロ」とは、音楽のイントロのように小説冒頭文を聴いただけで何の小説であるか当てる、というクイズ。
流行歌を言い当てる普通のイントロとは違い、一般の誰もが当てられるジャンルではないので挑戦しようと思って眺めていた。

結果。
第一問目 「おい」の二文字で『蟹工船』だと答えられて自分で驚いた! 
……という自慢。失礼しました。笑

もちろん回答者さんも答えてらっしゃったが。
他に二人ほど分かった方がいたようだ。

蟹工船は特徴的だから文学好きなら答えられるよね。
だから凄いのは、「おい」の二文字で押す回答者さんの反射神経だと思う。
「おい地獄さ行ぐんだで!」
青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html
から始まるので、「地獄」まで聴いてからでは読んだ人なら全員が答えられるだろう。

だけど私も、最近の小説は答えられなかったな。
回答者さんは古典文学から現代のエンタメ小説までイントロで答えられたので凄いなと思った。

私は又吉『火花』を読んでいるのに答えられなかった。笑
→筆者の『火花』感想
たぶん個人的にインパクトを感じなかったのか記憶に定着していない。


昔の小説冒頭のインパクトを再確認


ただこのクイズのおかげで、昔の小説はやはり冒頭からインパクトあったなと改めて分かった。
『蟹工船』もそうだし、有名どころで
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

川端康成『雪国』
とか
吾輩は猫である。名前はまだ無い。

夏目漱石『吾輩は猫である』
とか。

個人的に私が痺れたのは、太宰治『斜陽』。
 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
と幽かな叫び声をお挙げになった。
この冒頭だけで「お母さま」の仕草や表情だけではなく、どのような家なのか、語り手の服装や容貌まで思い浮かべることができる。スウプや香水も薫る。つまり景色や薫りさえも一気に再現できる冒頭で、凄いと思った。
この小説は太宰が愛人の日記を剽窃して(パクること)描いたものなのだが、たとえ設定を剽窃したのだとしても、こういう小説文として表現し世の中に提供できることが才能なのだと思う。

※だからアイディアだけで著作権は取れず、文章表現や音楽表現をした人が著作権を持つことになる。佐村河内氏・新垣氏のゴーストライター事件は、この点で佐村河内氏が大きな勘違いをしていたことが問題だった。
ただしアイディアの質や量によっては共同著作者となるので独占は不可。また、実在の人の日記やブログなどを参考に創作する場合は、著作権またはプライバシー権侵害で法的問題になることがあるので注意。太宰の時代はそんな法的意識などなかったので被害者が文句を言うなど考えにも昇らなかっただろうが。
だから現代では、断りなく他人のブログをモデルに創作などしてはダメですよ。


昔の小説にインパクトがあったのは、熱があったから


昔の小説は冒頭からインパクトが凄かったという話へ戻る。

昔の作家は凄くて現代の作家はレベル落ちしている――などと決めつけるわけではない。

今は小説手法が出尽くしているから、なかなかインパクトのある小説を出すのは難しいということもあるだろう。
どんなにインパクトある冒頭を狙っても、何もかも過去にあった何かの小説のようになってしまう。

だけど現代、小説全体が技巧だけで組み立てられた、コンピュータプログラムのような薄味になってしまっていることは否めない。
そのため冒頭も中身もインパクトが無くて、記憶に残らずすり抜けて行くものが多いとは思う。
たとえば又吉の『火花』は現代小説にしては素直で濃厚なほうで、私は好みだったのだけど、やはりインパクトでは古典に及ばない。たくさんの小説を読み過ぎた人が、技巧に向き合って書くとこういうインパクトの薄い冒頭になってしまうのかもしれない。

現代小説でインパクトがあったのは、伊藤計劃『虐殺器官』。
グロいから引用はしないが、『虐殺器官』の冒頭文は久々に目が覚める想いだった。

記憶に残るインパクトある冒頭文と、記憶からすり抜けていく冒頭文。(内容のインパクトは冒頭に比例する)
――何が違うのか?
と言うと、やはり「熱」があるかどうか、なのだろうなあ。
ありきたりだけど。

昔の作家は小説執筆に「熱」を篭めていた。
小説は世の中で下等なものだと思われていて、バカにされていたので必死だったのだろう。
一文、一文、命を削る想いで熱を篭めて書いたからこそあれだけ濃厚な文学世界が生み出された。
それを今の人は「うっとおしい」と言ったり、命懸けの人を指差して「押しつけがましい」と嘲笑するのだが、感性がお粗末過ぎて残念だ。
(命懸けの人を指差して嗤う態度は、人としても最低の鬼畜)

伊藤計劃も、命を削って書いたのだ。文字通り。
だから冒頭から突き刺さる熱がある。
冷めているように見えて、冷たい炎が燃えている。

「命を削って、書け」
などと偉そうなことは私には言えず、やれと言われても今はもうできないのだけど、命が刻み込まれた文に価値があると強く主張したい。

技巧なんかでは他人の心は動かせない。
心だけが心を動かすのだと思う。

(もちろん、受け取り手の感じ取る能力も必要だが。現代人はこの心のポイントがゼロに近い人が多いのが絶望)


【関連記事】
・文章で人を説得するには? 驚きの『出師表』使い方
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元旦に、コンビニで見かけた『危険な読書』という雑誌。
まずこの黒背景、黒い本に白文字の明朝で一文、“危険な読書” との縦タイトルに惹かれ手に取ってしまった。
(これは本好きなら手に取らざるを得ない表紙。この表紙デザインから素晴らしい)

中を開くと目に飛び込んできた文に打たれ、しばし立ち尽くした。



リード文、と言うのか? 特集記事を紹介するための文に痺れたのだった。

引用する。
当たり前と思われていた価値観が世界中で次々と崩れ去るいま、もはや流行りの本をいち早く読んだとか、これまで読んだ本の数を指折っていてもつまらないじゃないですか。たとえ一冊であっても深く心に突き刺さるような、常識がひっくり返るような読書こそを愉しみたいのです。

……泣くかも、と思った。

激しく同感だ。
特に太字の箇所は前々から私も主張していて、そのたびバカにされ嫌われてきた。

流行りの本をいち早く読んだとか、これまで読んだ本の数を指折って
いる人ばかりなんだよ、本当に。
自分を飾るために見せかけの読書歴を誇る人ばかりで、実はどこにも本好きなど存在しないのではないかと私は思っていた。

読書は量ではなく質だし、流行を追いかけることではないし、まして自分を飾るためにステイタスとして行うものではない
この言葉が通じる人が、この世界のどこかに存在するのだろうか。
半ば信じられなくなっていた。

最近はネット上でたまに真性の読書好きを見かけるようになったし、芸人でもたとえばオードリー若林氏など「本気で読書マニアなんだな」と思える人を見かけて少しずつ孤独が癒されてはいた。
でも今日、決定的に孤独ではないと分かって嬉しい。

心ある読書人はきっと皆、思っている。
流行を追うことや、読んだ本の数を競うのは読書ではないと。
自分たちは好きだから読み漁り、そのうち抜け出せなくなるような「毒」となる読書をして、どうしようもなく深みにはまっているだけ。

誰に誇りたいわけでもない。
「読書をしている自分、知的でカッコイイ」と訴えたいと思ったことはない。むしろ読書にはまって抜け出せなくなっている自分が、恥ずかしいと思っている(人もいるはず。私がそう。自己否定するつもりではなくても、不可抗力ではまっているものを他人に暴露するのは恥ずかしい)。
それでもある日、思うのだ。
伝えたい、読書はたまらない体験なのだと。
だから恥を忍び勇気を出して好きな本を公開したりしているんだよ。

「心ある読書人」たちは、あまり自分の想いを言葉にしない。
読書量を競ったり自分を着飾るために本を使い捨て、粗末に扱う人々を見て密かに心を痛めているだけだ。
だから今回、上の文を書いたライターさんには心から感謝したい。
声を上げてくれてありがとう。同じ想いを綴ってくれてありがとう。



文の後半にも共鳴する。
ある学者は言いました。本には“マジカル”がないといけないと。またある詩人は言うのです。自分の中の“怪物”に出会うために本を読むのだと。読者諸兄姉! 本のチカラを侮ってはイケナイ。「危険な読書」とは、世の中にはまだこんな本があったのか! という発見と共に、読了後にはこの世界の見え方すら変わってしまう、へたすると人生すら変えちゃうかもしれない、そんな本に出会うための危険な指南書であります。
同意。
 そう言えば私も先日、似たようなことをプライベートブログで書いたっけ。
「読書は毒にもなる。モテるために読書する人たちがイメージするような、カッコイイものではない」と。
たぶん、伝わっていないだろうが。

皆さん本を侮り過ぎ。だから、「モテるために読書家を装う」などという勘違いした人が生まれる。
本はそんなにスマートで安全なものではないですよ。もっと毒々しく泥臭く、影響力のあるもの。


私はこの文を書いたライターさんを応援するため上の雑誌を買ってしまったのだが、 そもそも他人に奨められたものだけ読むというのも私は違うと思う。
始めのうちはお奨め本リストを道案内に使ってもいい。(そのために私もお奨め本リストを書いている)
でもいずれ自分の嗅覚で、自分に合った本を模索していくということが大事。そうしなければ「毒となる」読書など一生できないはず。

好きな本を、好きなだけ読め。
中毒体験を堪能せよ。
それが「人生を変える」などとは私は言わない。ただ、生きていて良かったと思えるほどのかけがえのない体験となることは確か。


2018年1月筆
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二流の読書でバカになる? 広く浅くの雑読を後押しする、嬉しい言葉

東洋経済サイト⇒『読む本でバレる「一生、成長しない人」の3欠点~「二流の読書で、バカになる人」も大勢います』

この記事が「一流」や「二流」などと格付けしていることについて私はどうかと思うし、コメント欄を見ると同じ意見の批判が多い。
ただ、「一流」「二流」をビジネス的な地位や富ではなく、単純に教養の質と考えれば、当たっているところもある。
特に海外の読書人の読み方には共鳴する。
ただし、世界の一流の人を見ていて感じるのは、「優秀な人に限って、読書は肩肘張らず、気の向くまま好きなものを読むのが基本」ということである。

読書だからといって、毎回勉強になるものを大真面目に読む必要はない。大切なのは、「楽しく活字に親しむ習慣」をもっているかどうかだ。
適当に読んでいる雑読派の自分としては嬉しい。
「お前のことじゃないよ」と言われそうだが、勝手に喜ぶ。笑

>毎回勉強になるものを大真面目に読む必要はない
そう。
読書は勉強のためだけにするものではない。

自分は浅い教養しか持たず、とうてい世間の基準に追いつかないのだけど、読書の方向性は間違っていないのだなと感じて自信が持てた。

上記事から引用
その証拠に、私が尊敬する一流のリーダーたちには、じつはそこらへんの漫画や週刊誌を読んでいる人も驚くほど多い。

私も駆け出しのころ、「無理して『フィナンシャル・タイムズ』を読まなくてもいいよ。俺が隣にいなければ、どうせ『週刊SPA!』の袋とじの部分を、一生懸命切り裂いているんでしょ?」と尊敬する上司に言われたことがある。

その上司は業界の中でも高名な伝説のディールメーカーなのだが、読んでいる雑誌がいつも『ヤングマガジン』や『少年ジャンプ』、そして『週刊SPA!』なのだ。

もちろん、雑誌ばかり読んでいるわけではなく、しっかりした本もきちんと読んでいるが、「緊張と緩和」をうまく使い分け、週刊誌や漫画もバカにすることなく自然体で楽しんでいる。

世の中には「売れている本」「話題になっている本」ばかりを追いかけて読む人もいるが、一流の人ほど、「これはいい」という自分なりの価値観があり、その「主体性」に従って、自分が好きな本を堂々と読んでいるものである。
ああ……、「気の向くまま」「適当に」読んでいる雑読の人は好きな本だけ読んでいるわけではないが。
肩の力が抜けているために、傍から見ると「好きな本だけ読んでいる」と誤解してしまうのかもしれない。
(差別なく何でも読むので、中には嫌いなものも含まれる/思い入れがさほど強くない、肩の力を抜いているからこそ何でも読める。私だったら村上春樹など、生理的に苦手な本もけっこう読んでいる ただし『三国志』と女性作家の嫉妬話だけは生理的に無理で読まない)

この人の誤解はともかく、観察されている側の雑読者に私は共鳴する。
何故、読み物のジャンルを統一しなければならないのか理解できない。
マンガでも哲学書でも価値を見出す。そうでなければ活字中毒者ではないでしょう。

私は実は、売れている本・話題本ばかり追いかけて読んでいる人が苦手だ。
とにかく他人の目だけ意識して本を読む人が苦手なのだよね。
それは“他人軸”の読書。「見せ読書」は明らかに活字中毒者ではない証拠だよな? と思う。

ツイッターの読書垢なども、始めは楽しかったのだがそのうち苦手になりやめた。それは「見せ読書」をしている人が多いと気付いてしまったからだった。
中にはそうではなく真性の本好きもいたのだけど、
「読書しないでスマホ見てる奴は軽蔑する!」
などと激昂している人がいて退散した。

読書しない他人を責めている時点で中毒者ではないと思う。
自分が見せ読書しかしていないことの証。
くれぐれも自分の仕事分野の話しかできない「専門バカ」、周囲から広い教養がないことを笑われているが本人だけがそれを知らない「裸の王様」、そして自分の専門分野に閉じこもって空威張りする「オヤマの大将」になってはいけない。

特定分野に特化した知性ではなく、幅広い教養や人間としての品性を読書によって磨くことが、一流の政治家にとってもビジネスパーソンにとっても重要なのだ。
うーーん??
これはどうだろう。必ずしも「専門バカ」をバカにできないとは思うけどね。
私は、一つの分野に突出した専門家を激しく尊敬するけれども。

そもそも何かの分野に秀でていない人は、他の分野のことも理解できないはず。
どこかに軸足を持つからこそ他の場にも足を踏み出せるのでは?
専門の浅い自分故に言える。

だいたい、専門家がどれだけ深い知識と持っているか分かっているからこそ、他人の専門分野についての話は遠慮する。
だからこそ他所では無口になる。
それが分をわきまえるということでは。
ワイドショーに出て浅いコメントを述べているコメンテーターのようにはなりたくない。
【2】自分の偏見を助長する「二流の読書」をしない

なお、読書をしながら、視野がどんどん狭まっていくような「二流の読書」をしている人も少なくないので注意が必要だ。

読書で重要な要素のひとつは、視野・視点を広げることだ。これに対し、二流の人に限って、マニアックな特定分野の、自分の偏見を助長してくれる著者の本ばかり読みたがる。こういう「二流の読書」では、読書量が増えても、自分の視野を狭め、偏見を増長させるだけだ。

もちろん「各人が好きな本を読むのが基本」でいいわけだが、知性を磨いていくためには、自分の意見や価値観とは相いれないものも含めた「多様な情報源」を確保するのが不可欠といえるだろう。
これは正しいでしょう。
その人たちは「専門バカ」でさえなくて、思想的な主義を強めるためだけにその思想の読書をしている。宗教信者が、その宗教団体の教義だけ読んでいる状態。
そんな偏った読書をしてバカになっている人を最近よく見かける。
新聞や新書しか読まない人に多い。
彼ら彼女らには理解力もないし、カルト宗教信者のような思考停止に突き進む。
最後に、「一流の読書」にとって最も大切なのは、「書かれたことの一部を読んで批判したり、自分の都合のいいように曲解したりしない」という「まともな知性・メディアリテラシー」を持つことだ。

世の中には、書いてあることを文字通り信じるどころか、そもそも全体を理解できず一部にだけ反応して、自分の都合のいいように解釈し、批判する二流の人は思いのほか多い。
そうそう。
「二流の人」ではなく、思考停止で理解力をなくしてしまい、単語だけに脊髄反射して攻撃するプログラムのポンコツロボットね。二流にも三流にも入らず、使い物にならない反社会的人物。
この記事は序列をつけていると言うよりも、「反社会的バカども」と言いたかったところを、かろうじて言葉を抑えているという感じだな……。

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『遠野物語』が実話であることの衝撃と、その美しさ

NHK『ヒストリア』で、遠野物語についての話があったので録画して観た。
「妖怪と神さまの不思議な世界~遠野物語をめぐる心の旅~」
これが、仄かな内容だったのだけど予想外で驚きだった。
『遠野物語』に、明治時代に三陸で起きた津波で妻子を失った男の話がある。
男が悲嘆に暮れて海岸を歩いていたところ、死んだはずの妻の姿を見かけた。
妻はその時、かつて自分と結婚する前に恋していた男と一緒に歩いていたという。

ただそれだけの短い話なのだが、これが実話だということで、しかもそのご子孫が2011年3月11日の津波で同じように家を流されたという後日談があったので驚いた。

ご子孫は、妻子ではなく母を津波で奪われた。
彼は震災後もその理不尽さに怒りの感情を持ち続け、苦しんだと言うが……。

不思議なことにご子孫も、ご先祖と同じく母の霊を見た。
彼の場合は夢の中で、日常的な会話を母と交わしたらしい。
震災でストップしていた時間が夢で母と再会出来たことで流れ出し、不思議と怒りが消えていったという。

これと同じことがご先祖にも起きたのではないかと思わせる。
つまり、「妻が昔の男と歩いていた」というストーリーは複雑な気分を起こさせるが、そのことでストップしていた時間が動きだしご先祖は前を向いて歩き出せたのではないかということ。
(ご子孫が生きてらっしゃるということは、ご先祖はその後独り身ではなかったということになるし)

ご子孫は、ご先祖の名前が刻まれている墓の前で
「先祖は優しい人だったのではないかと思う。愛妻をあの世に一人逝かせるのは忍びないと思ったから、せめて昔の想い人とでも一緒にいて欲しいと願ったのでは」
と語る。
この現代で完成した『遠野物語』に、私は涙せずにいられなかった。


現代、「スピリチュアル」というジャンルが流行している。
神秘を日のもとにさらけ出すジャンルだ。
古典スピリチュアル本はインド思想なみに真実で、確かに重要な示唆を含んでいると思う。
しかし私にはあまりにも明快過ぎるように感じられた。
妖怪も神秘さえ存在しないその物理学的過ぎる清潔な次元に、退屈を禁じ得ないのだ。
(つまり「ワクワク」感が、私にはスピで感じられない。清潔で澄んだ気持ちにはなるけれども)

人間が「ワクワク」する次元とは、せいぜい『遠野物語』のような、妖怪や幽霊が住まう世界が限度なのではないか?
時系列の命が存在せず妖怪も幽霊さえ存在しない、ただ清潔な宇宙空間だけの世界に「ワクワク」はない。

「誰も傷付かない世界」は理想郷のように言われるが、それは果たして魅力的なのか?
涙も、愛もない世界に、我々は行きたいとも思わないのではないだろうか。

最も美しく魅力的な世界とは、このような神秘の妖怪たちとともに、時系列に縛られて生きる命の息遣いが感じられる世界だ。

したがって、我々はこれからも『遠野物語』を愛し続ける。
『ゲゲゲの鬼太郎』を、『妖怪ウォッチ』を愛し続けるのだろう。

それは地上に縛り付けられるということを意味するのかもしれないが、妖怪の悲哀を忘れてしまったら我々がこの地上で生きた理由が失われる気がする。

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本の虫とは何なのか、本を開いた時に横切るアイツとは別?

人間の世界が嫌に思えるとき、「来世は本の虫に生まれ変わりたい」などと願うことがある。

幼い頃、祖母に「そんなに本ばかり読んでいると、来世は本の虫になっちゃうよ!」などとよく叱られたものだが、願うところだと思ったりした。
出来ることならばもう、本に住み着き、永久に本の中で生きたい。

しかし考えてみれば奴ら本の虫は文字を読むことが出来ないので、本の虫に生まれ変わったら読書を堪能できないのだな。
それに今から100年後にはもうほとんど電子書籍に変わり、紙の本というものが希少となり住処が少なくなるかもしれない。そうなると住処の争奪戦となり、人間社会のような殺伐とした一生になるかもしれない。
それは嫌なので、「本の虫に生まれ変わりたい」という願いは一応キャンセルしておく。


ちなみに“本の虫”とは。
正確には紙魚(シミ)と呼ばれる虫で、紙などを食べる。本に住み着き、ページを食い破り穴だらけにする害虫。
見た目が魚に似た銀色の虫だから、“紙魚”なのだそうだ。

我が家では発生したことがなく、私も実際に見かけたことはないのだが、ネットを眺めていると意外に現代でも大発生している家が多いらしい。
→Yahoo知恵袋 紙魚が大発生して困っています!系の質問

湿気た紙が好物らしいので、今の季節は特に注意されたし。
本は畳などに直接置かないほうがいいね。
私は、けっこう神経質なほうなのか本が埃を被るのが嫌いで、収拾がつかないからといって畳に積み上げたりはしない。積み上げるにしても、とりあえず100均で買った不織布の本入れに詰めて置いておく。おかげで今のところ紙魚さんとのご対面がないのだろうか。

そんなわけで紙魚さんとは会ったことがないため、私にとって“本の虫”とは、ダニのような小さな虫。
古本のページを開くと白い点がツーッと横切るように見える、あれである。

ずっと彼らを“本の虫”とだけ読んできたが、このほど某テレビ番組であの虫の名前を知った。
「チャタデムシ」と言うんだそうである。
アップで見ると白蟻のようでなかなかグロテスクなのだが、顔は意外に可愛いと思ってしまった(笑)。
→チャタデムシ 画像
※虫の画像なので苦手な人はクリックしないでください

それになにより長年「本の虫」と呼んできた相手なので、初めてアップでご対面して何故か嬉しかった。
こんにちは、本の虫さん! なんて思わず口走っていたね。

……ん?
なんかものすごく変なことを書いている気がするな(笑)

チャタデムシは現代でアレルギーの原因となっている虫だそうで、当たり前だが歓迎すべきものではなく、やはり湿気対策と掃除で撃退していかなければならないのだが。
何故かチャタデくんに親しみを抱き憎めない私は、やっぱりヘンだろうか。


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ある日の雨話に想う/『アメトーーク 読書芸人(2012年、初回)』

2012年2月の 『アメトーーク! 読書芸人』 鑑賞記。ざっくばらんに書いております。敬称略。


アメトークにて、ついに「読書芸人」が放送された。

……いやあ。
嬉しかった。

昨日はテレビチェック担当の相方が、「アメトークを見て!」とテレビ前まで私を導いてくれたおかげでこの歴史的瞬間に立ち会うことが出来たのです。

なんだか感慨深いですね。
ついにこの日が来たか。
まさか公共の電波で、読書が趣味な人々の集団を見られるとは思いませんでした。
又吉くんのおかげですね。有難う。

「読書が趣味」などと、大っぴらに言えない世の中です。
なにせただ本が好きというだけで暗いと決めつけられ気持ち悪がられたり。
「そんなもの趣味ではない」と蔑まれたり。
何より「読書が好きで」、と言った時点で会話が終わるのが悲しい。以降避けられていることを感じるようになる。

仮に読書好きだという人と巡り合っても必ずしも理解し合えるわけでもない。「頭良さげに見られるから」、「読書で他人に勝ちたいから」、というだけで好きでもないのに本を読んでいる“振り”をしている人も実在するからだ。
(参照⇒「読書家たちの憂鬱」1 2)

『アメトーク』に出ていた芸人さんたちも、又吉以外は日ごろ読書好きであることを言わない人たちだったな。
言えないのだろう。意外な顔ぶれが多かった。
特に若林、本読むイメージ全くなかったのだが相当好きみたいだ。又吉以上に熱を感じた。

若林はこの間ちらっと爆笑問題の『ストライクTV』の本の回で見かけて読書好きだと知り、驚いた。
その番組では太田も又吉も一般受けする本を紹介していたのでガッカリさせられたのだが、若林ひとりだけ本気で自分の好きな本のことを語って空気を乱していたのが印象深かった。
(若林が紹介したのは『苦役列車』。内容も一般受けするとは言えないが、何より芥川賞で誰もが知っている小説を紹介するという空気の読めなさ。この空気読めない感が“本気で好き!”熱を伝えてきた)

だいたい、
「ミステリ小説以外は存在してはならない」だの
「エンターテイメント以外は犯罪だ」とか
「純文学なんか読む価値なし」だとか言って他人の読むもの否定してばかりいる自称・読書好きは、間違いなく似非読書家だ。

他人の読む本を否定する暇があったら、一冊でもいいからあんなふうに熱く本のことを語ってみろと思う。

*

で、読書あるある。

これも唯一、若林の話に共感した。
「本屋でバッタリ知り合いに会ったら、相手に悪いので何の本を買ったか聞けない」。
というところ。分かる分かる。

すかさず宮迫が、
「お互い女連れて歩いているときにバッタリ会うた時の気まずい感じ?」
と聞いてくれてなおさら共感した。

だよなあ。そんな感じだ。
人の彼女、彼氏はじろじろ見てはいけない。失礼でしょう。それと似ている。

他人の持っている本は覗き込めない。
自分も覗かれたら嫌だしな。
それに、本屋での時間は大切なものだから壊したくないという気持ちも分かる。
あまり友人と一緒には本屋に行けない。好きな本を探すあまり相手の存在を忘れてはぐれてしまう。そうならないよう常に気を配らねばならないので疲れる。結果、友人と行った場合は本気で本を探すのは諦めることになる。
やはり本屋で過ごす時はどっぷり一人の世界に浸りたい。

他の「あるある」はあまり共感出来るところは少なかったな。
やはり読書好きには色々とバリエーションがあって、噛み合うところが少ないと感じる。だからなかなか読書好き同士でも友達になれないのか。

以下、自分の場合。

・私は風呂場で本を読むことはしない。
(湿気で紙がふやけ、しわになるのが我慢ならない)

・食べながら本を読むことは滅多にしない。
(上と同じ理由。基本、本を汚すのは嫌だ)

・帯ははずす。
(読む時に邪魔だから)

・はずした帯はとっておいて、戻す。

・どうしても捨てられない本だけ残し、後は売る。
(貧乏でとっておくスペースがないから。また本棚崩壊の経験があるから。ちなみに「始めから売る予定なので食べ物等で汚したくない」のではない。汚れが嫌なのは純粋に読む際の自分の生理的問題)

・古書など高い本のコレクターにはならない。
(一番の理由は貧乏で買えないから、笑。あと本は読むためにあるもの。コレクションの対象とするのは失礼と思ってしまう。…でも、太宰の初版とかは魅力を感じますがね)

・読書のベスト場所は喫茶店。
(これは又吉に同じ。公園で読むのも好きだ。喫茶店の場合、個人経営の古い店のほうが雰囲気はあるのだが実は読書向きではない。長居をすると店主の目が気になるし、顔を覚えられて話しかけられてしまうことがある。チェーン系の大型店舗で気に入りの席を持つのが理想。なお個人的にはスタバよりドトールが好み、ルノアールあれば最高。読書喫茶の頂点はルノアールだと思う)

・難解な本でもとりあえず最後まで目を通す。
(分からないからといって線を書き込んだり、後にとっておくということはしない。とりあえず一度ざっとでも最後まで目を通して感覚に委ねる。それで感覚に響くものがなければ諦める。相性の悪い作家は必ずいる)

・「ごほうび本」としてマンガを読む? 全く意味が分からない。分厚い本こそ「ごほうび」だろう。
(声を大にして言いたかった。これだけは本好きとして譲れない)

あと、皆さんやはり「小説好き」ですよね。
ストーリーを楽しんでらっしゃる。
夢中になると食事時でも読むのをやめられない、他の人に話し掛けられても答えることすら出来ない、そんな集中力は私にはないので尊敬してしまう。彼らは本物の活字中毒者だ。
自分もストーリーを楽しむことは楽しむのだが、それ以上に「読む行為」そのものが好きだ。
だから本なら何でも良いところがある。

実は私、ここ数年ほど小説は数えるほどしか読んでいない。
ほとんど仕事用の無味乾燥なテキストばかり読み漁っている。それでもどうにか発狂せずに済んでいるのは、文字を読むことが出来さえすれば気が済むから。

衝動にかられて猛烈に本を読み漁るということもあまりない。 
どんなに面白くてもいつでも中断出来る。
だから食事中は読まなくても済むし、旅行に持って行く本も適度な重さであれば内容は何でも良い。テキストでもOK。

これはたぶん、成長してから何かのきっかけで急激に本好きになったか、それとも幼児期から意識せず読書好きだったかの違いかもしれない。
私の場合、
「ある本が面白くて夢中になり、それから読書好きになった」
というきっかけが一切思い出せない。
気付いた時は既に本が手放せない体質だった。
それでずっと、空気を吸うように一定のペースで本を読んできた。

空気を吸うのに「面白くてたまらないから猛烈に吸い続ける」ことはないと思う。無意識に淡々と一定のペースで吸い続けているだけのはず。
その代わり、空気を絶たれたら苦しい。死んでしまう。
それと同じ感覚で、本を丸一日以上絶たれたら私は苦しい。だから読む。小説がなければテキストを。それがなければ手近な文の並びを。
(新聞、雑誌、なければ辞書。…電話帳を読んだこともあった。これは末期症状)
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「読書家」たちの憂鬱1

(やや毒舌。要注意)

かつて「本好き」と自分で言っている女性と付き合いがあった。
本好きなら図書館という場所は絶対好きに違いないと考えて、休日に図書館デートへ誘った。

彼女があまり楽しそうではない様子であるのにしばらく気付かなかった。
本好き同士が図書館へ行けば必ず見られる行動、お互い好きな本棚のほうへ走りまくりマイペースに読書をし、それでいて同じスペースで過ごした充実感を味わうということにもならなかった。
なんか調子狂うなと思いつつ、何故かずっと一緒について来て本棚を眺めているだけの彼女へ、仕方がないのでいろいろと目に入る本の話などをして歩いていた。

その時、不意に彼女が顔を上げて真っ直ぐ私を睨みつけ
「そんなにたくさん本を読んでも偉くないよぉ?」
と言った。

ん。
何を言っているんだ彼女は。

人は自分の理解が及ばない言葉を投げつけられると頭が真っ白になるというのは事実だ。まるで知らない外国語を聴いたかのように音声が意味を結ばず通過した。
後から頭の中で言葉を再生してみて、ゆっくり意味を理解していった。

理解した瞬間、ぞぞぞと悪寒が走った。
なんだ対抗心というやつか? 急にライバル設定されたのか。

一部の女性の、親友だろうがテレビの中の美人タレントだろうが自分との比較は無視してライバル設定し、相手の持ち物は金でも美貌でも能力でもとにかく何でも許せず、「キィーッ、何よっ、自慢して。いけすかないっ。あいつよりアタシのが凄いんだから。アタシのが! アタシのが!」という言葉を始終口から放出している。いずれ相対的に自分の評価を上げるために相手の悪口を言い触らし始める。
そういう種類の人々が妄想するところの
「あれは自慢、これも自慢、他人の話は全て自慢」
という前提において私は批判され、ライバル(笑)として宣戦布告されたわけだ。

どうやらこの女性、今までずっと私が本の話をするたび“自慢”と受け取ってむかむか腹を立てていたらしい。図書館という本から逃げられない場所で聞きたくない話を聞かされ続けたので怒りが爆発してしまい、ついに嫌味を投げつけた。
「どうだ本当のことを言ってやった。傷付いたろ、反省しろ」
とドヤ顔で私のダメージを窺っていた彼女の顔が忘れられない。

その面倒臭い競争オンリーな性格問題について云々するより前にまず、私は彼女の読書というものに対する価値観に驚いた。
彼女は本の話をする人たちは皆、「自分を偉く見せかけるため」なのだと思い込んでいた。
ということは常々読書家をアピールしている彼女自身が、ずっと「他人から偉いと褒めてもらいたくて」本を読んできたのだということになる。

図書館デートがうまくいかないわけだ。同じ読書好きとして阿吽の呼吸で過ごすことなど永久に無理だ。

*

彼女が、本なんか少しも好きでもないのに本が好きという振りをしていた嘘つきだと決めつけるのではない。
思い起こせばミステリやライトノベルの話は実に楽しそうにしていたから、「本が好き」という自己申告は嘘ではなかったのだろう。
ただ根本的に読書という行為に対する価値観が私とは異なり過ぎていたと思う。

いつだか某作家がエッセイで、
「自分は小学生時代、友達に勝つためだけにあえて難しそうに思われる本を選んで読んでいた。」
というゲスな思い出話を書いているのに遭遇して私は引いていた。
(一方的にライバル設定されたその友人はさぞウザかったろう)
小学生時代の自分はバカだったという告白と反省ならまだ良いが、まるで他人を見下すために自分を本で装飾することが良いことのように得意気に語っている点、最も軽蔑した。本好きならあり得ないだろう。本好きには競争目的で本を読むという発想そのものがまずないし、そんな目的のために本を読むのは本に対して失礼だと思う。本への冒涜に当たる。だいたい作家なら書いた人の気持ちが分からないものだろうか? 
このエッセイの話を上の女性にしたところ、凄い勢いで嬉しそうに
「分かる分かる。私も全く同じことした!」 
と返された。
“あり得ないよなぁ、こんな作家”という同感を期待して話し始めたのだけど、その後の言葉は口に出せなくなってしまった。

何故このような価値観を持つ人たちが存在しているのだろうとずっと不思議に思っていたが、ある時、彼女自身から幼少期のエピソードを聞いて理解した。

彼女は幼い頃、本を読むたびに母親から「よしよし。偉い子ね」と頭を撫でて褒めてもらったという。

一冊読むと頭を撫でられ、「偉い偉い」と言われる。
そしてすぐさま次の本を差し出される。
母親に褒めてもらいたくて、その本をがんばって読む。
読めばまた「偉い偉い。いい子いい子」が待っている……。

こんな育ち方をすれば
「本を読むのは偉いこと」で
「みんなが褒められたくて本を読んでいる」
と思い込んでしまったのだとしても仕方ない。
私と彼女の話が合うことは絶望的になかったはずだ。
彼女にとっては「偉いと褒められたくて本を読む」のは当たり前のことであり、「自分を飾る装飾品として読書歴を得る」というのは正義なのだろう。そして他人が読書歴を披歴していたら、その行為は自分と同じく「自慢」なのであり、「他人を見下すため」以外にないと思い込むのも仕方がないわけだ。人を殺すのが正義と教育された国の人のように我々とは価値基準が違い過ぎると諦めなければならない。

悪いのはそんな育て方をした母親であって、彼女ではない。
彼女ではないのだけれども、大人になったら他の価値観もあることに気付いて欲しかった。
他人に自分だけの価値観を押し付けライバル心をぶつけ続けるのは迷惑千万。
言葉を尽くしても変わらない価値観が犯罪などの害を及ぼすようになってきたら、周りはそっと離れるしかないわけです。

*

この女性ほど極端ではなくても、多かれ少なかれ日本人は
「本を読んで偉いわね。いい子いい子」
という教育を受けて来たように思われる。

そのような人々が自称で「読書家」を名乗っていることは、往々にしてある。

周りばかり意識して、「本を読んでいる自分って偉いでしょ。でしょ」と言う人々は読書家であり続けることに大変な努力を費やし、苦しんでいる。
苦しいから他の人々の読書ジャンルを批判するなど邪魔して他の読書家の数を減らそうと努めているようだ。

そんなに苦しいなら、読書家と自称するのやめればいいじゃないですか。
と、いつも思いますがね。
「本を読むことは偉いことなんだ!」
という永久なる勘違いのもとに、読書家のステイタスにしがみついていたくてやめられないのでしょう。

自称「読書家」たちの憂鬱はこれからも続いて行く。

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