ネットにしてはめずらしく共感できる、秀逸な記事だなと思って読んでいたら齋藤孝氏だった。
⇒「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差
昔、この人の『読書力』という本がとても偏った内容で、全く共感するところがないと思ったのだがこの記事はいい。
旧制高校の学生が使った言葉で「沈潜(ちんせん)する」というものがありました。自己研鑽すること、自分を磨くことを「沈潜する」と表現したのです。とてもいい言葉だと思います。
忙しい毎日、膨大な情報洪水に流され浮遊するのではなく、「沈潜する」時間を持ちたい。本を読んで著者と一対一で対話する。あるいは自分自身と対話する。作品の本質に迫り、グッと自分の深い部分や心の奥底に沈んで潜っていく感覚です。そこにはネットでの画像や動画の派手さや、SNSで短い言葉が飛び交う喧噪はありません。
静かな無音の空間、ゆったりとした時間の中で他者と出会い、自分自身と出会う。実際、海で潜った人はこの沈潜の雰囲気をよく知っているのではないでしょうか。3メートルも潜ると、もう外界の音は聞こえません。わずかな光が差し込み、かえって太陽の光の存在を強く感じます。沈黙の世界の中で、ゆったりと泳ぐ魚に出合ったりすると、思わず声を上げたくなるほど感激します。
まさにそんな心と精神の中に沈潜すると、今まで聞こえなかったかすかな音や、わずかな光に気がついたり、新たな発見や出会いがあったりする。今の世の中、「沈潜する感覚」があまりにも少ないように思います。人間の精神の深いところへ沈み込み、今まで気がつかなかった自分の無意識の世界、内面の世界を改めて発見する。それが「沈潜力」です。
毎日の1時間(筆者註:スマホを見る時間のこと)を「沈潜する時間」に変えるだけで、世界は大きく変わって見えてくるのではないでしょうか。深い世界に沈潜するということは、時間をさかのぼることでもあります。
「沈潜」などという美しい言葉があることを知らなかった。
「とてもいい言葉」というところに同意、共感する。
人間には確かに「沈潜」する時間が必要だ。
何も隠棲暮らしする必要はない。
土日だけでもいいと思う。
長く分厚い本を読むために。
長文を執筆するために自分の心と向き合うのも、「沈潜」と言えるかな。
そう言う私も最近は「沈潜」しなくなっていた。
SNSの呟きで発散することは苦手なので、たぶん他の人よりは長文を書いているはずだが、ブログという一記事で済ませることが増えたのは良くないなと思う。
昔は長編小説の執筆など、「沈潜」はもっと遥かに長い時間に及んだというのに。
(一年間、生存に関わること以外は一切せずに小説を書き続けた日々もあった。あれは奇跡とも言える幸福な体験だった。常にあのような生活をしていたら死ぬと思うが)
読書も同じ。
最近は圧倒で「沈潜」する時間が減ってしまった。
長編の文学に、時を忘れて浸るということがなくなった。
仕事をしていて時間がない、休みの日にはブログを更新しなければならない、と無意識に追い立てられていて「沈潜」の余裕をなくしてしまったか。
こうなると心が栄養をうまく採ることができなくなる。
新たな発見もなくなる。
これは確かに悪循環、良くないことだと思っている。
大人になると自分で意識して「沈潜」の時間を作らなければならないのだな。
【補足】
上記事のコメント欄を読むと「スマホ批判・紙本崇拝」と解釈している人が多い。もしかしたら齋藤孝氏はそのような意識で書いているのかもしれない。(昔読んだ『読書力』にはその偏見が披瀝されていたので嫌だった)
私もかつて、ツイッターの読書垢で「スマホ画面を眺めてる奴を軽蔑する!」などと呟いている人がいて軽蔑したことがある。読書は紙だろうとスマホだろうと同じと思う。紙の感覚は未だに捨て難いし、データ削除というデジタル焚書に備えるという意味では紙本のほうがお薦めだが。
そして元々、「何かの目的で本を読む」という意識が私にはない。コメントトップの人「私から言わせれば読むことで何か身になるから読む、という人は読書家ではないと思います。」にほぼ意見は同じ。だから齋藤氏の偏った紙本崇拝はそのまま受け入れられない。
だけど「沈潜」という旧制高校の学生が使った言葉には、人間の心を高める響きがある。
あるコメント者「SNSやニュースサイト、動画も著者の言う「沈潜」をして向き合えばいいのでは。」ということではなくて、交流(対象以外の意見・他者との無駄なお喋り)を遮断することと、時間を忘れるほど長時間対象に向き合うことが必要なのだと思う。
/そもそもネットニュースに沈潜できると言う人は、「沈潜」を体験したことが一度もないはず。
何時間以上が沈潜なのか、と定義することは難しいだろうが、やはり10分で読める記事に向き合っても「沈潜」と呼べない。
きっと没頭よりも遥かに長時間を指す言葉なのだから。