権利=法(レヒト)の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならない限り――世界が滅びるまでその必要はなくならないのだが――権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
世界中のすべての権利=法は戦い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。…
イェーリング『権利のための闘争』(村上淳一訳/岩波文庫)、力強く惹き込まれる冒頭文。
平和のための闘争※が必要だという宣言に我々は衝撃を受ける。
※〔2023/1/8追記〕なお、この矛盾した表現が後に「革命」を言い訳とした暴力主義者たちの蛮行を正当化し、「暴力ふるったけど非暴力」「僕たちは人を殺すのが大好きだけど平和主義者」と平気で言える狂気のカルト信者(アカ)を生んだことは付け加えておく。イェーリングの頃は現実に抑圧があり、闘争で法=権利を勝ち取るしかなかったのではあろうが。
この権利感覚、“法治”とはどういう意味なのか――法的精神が東洋人には確かに理解し難いものだったようだ。
東洋には市民が闘争して自由・権利を獲得した歴史が無い。
正しく法を用いた法家の為政者を除き、ほとんどの時代で法は権力者が民を虐げるための鎖として用いられたようだ。
このため東洋で自由を目指す者は全ての法を憎む。決して、自らが正しい法を得ようなどとは考えない。法の全否定。
法が権力であり憎き敵である限り、「法に殺されるか。それとも法を殺して自分が権力を得るか」の二択しかない。だから革命が終わらず永久に正しい法治国家が打ち立てられない。
法は権力者のためにある道具ではない。
法が権力を縛る鎖ともなることを、(本来の法とは権力からも盗賊からも善良な民を守るためのものであることを)東洋人はそろそろ理解しなければならない。
追記
東洋でもほんとうの大昔、たとえば『史記』の時代から漢代までは“法治”が現代と同じ意味で用いられたことがあった。不法行為から民を保護するための法、権力を縛るための法として。それがいつしか忘れられてしまったのは、“民のための政治”という概念が失われてしまったからか。免疫となる文化思想が失われたのだ。私は必ずしも一般民という弱者が権力者と戦って権利=法を得なければならないとは思わない。血はそこまで大量に流されなくても良い。
“民による民のための完全自由な愚民政治”が近現代のような地獄を招くことがあるのだから、我が侭のために法を倒していいと誤解しないようにしたい。
東洋人がもっと権利感覚と法への理解を深めるべきことは確か。東洋には東洋のやり方があるのではないだろうか。それにはかつて存在した「民のための法治」を蘇らせること、最強の文化教養の免疫システムを再起動させることだ。