読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

フォイエルバッハの講義より引用


 

そこでわれわれは死者をそっとしておいて、生きている者のことを心配しようではないか! もしわれわれがよりよい生活をもはや信じないで、これを欲するならば、もちろん個々にではなく、みなで力をあわせて欲するならば、われわれはまたよりよい生活を創造し少なくとも従来人類が苦悩してきた言語道断の不正と邪悪との数々を排除できよう。しかしこのことを意欲して、実現するためには、神の愛のかわりに人類愛を唯一の真の宗教として代置しなければならない。すなわち神の信仰に代えて、人間の自分自身に対する、自分の力に対する信仰を、人類の運命は人類の外に存するなにかある実体によって左右されるのでなく、人類自身に依存しており、人間の唯一の悪魔は粗野で、迷信的で、利己的で、邪悪な人間そのものであって、他面人間の唯一の神は人間そのものであるという信仰をもってしなければならない。

―― Ludwig Feuerbach:Werke,Ⅷ.S.369-370.猪木正道訳

欧州における悪魔崇拝のベースとなった、神(≒唯心論)への反抗思想。

フォイエルバッハの言う意味での“人類愛”には私も共鳴する。ただし当時の欧州人にとっての「人間性」「人道」という言葉は東洋とかなり違っていたために、悪魔崇拝や全体主義の基礎となってしまった。

(東洋で「人間性」や「人道」を訳語として使うべきではなかった。結果的にこれらの素晴らしい東洋語を盗まれることになった)


フォイエルバッハの人類愛は正当で美しく善良だし、民を虐げていたキリスト教への抵抗は当時絶対に必要だったが、神を殺してその座に鎮座しただけの社会主義(全体主義)を生んだのは悲劇だった。彼自身は全く想定していなかったことだろう。

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『権利のための闘争』 冒頭メモ


 権利=法(レヒト)の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならない限り――世界が滅びるまでその必要はなくならないのだが――権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
 世界中のすべての権利=法は戦い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。…

イェーリング『権利のための闘争』(村上淳一訳/岩波文庫)、力強く惹き込まれる冒頭文。
平和のための闘争が必要だという目覚ましの宣言に我々は衝撃を受ける。

この権利感覚、“法治”とはどういう意味なのか――法的精神が東洋人には確かに理解し難いものだったようだ。

東洋には市民が闘争して自由・権利を獲得した歴史が無い。
正しく法を用いた法家の為政者を除き、ほとんどの時代で法は権力者が民を虐げるための鎖として用いられたようだ。
このため東洋で自由を目指す者は全ての法を憎む。決して、自らが正しい法を得ようなどとは考えない。法の全否定。
法が権力であり憎き敵である限り、「法に殺されるか。それとも法を殺して自分が権力を得るか」の二択しかない。だから革命が終わらず永久に正しい法治国家が打ち立てられない。

法は権力者のためにある道具ではない。
法が権力を縛る鎖ともなることを、(本来の法とは権力からも盗賊からも善良な民を守るためのものであることを)東洋人はそろそろ理解しなければならない。


追記

東洋でもほんとうの大昔、たとえば『史記』の時代から漢代までは“法治”が現代と同じ意味で用いられたことがあった。不法行為から民を保護するための法、権力を縛るための法として。それがいつしか忘れられてしまったのは、“民のための政治”という概念が失われてしまったからか。免疫となる文化思想が失われたのだ。

私は必ずしも一般民という弱者が権力者と戦って権利=法を得なければならないとは思わない。血はそこまで大量に流されなくても良い。
 “民による民のための完全自由な愚民政治”が近現代のような地獄を招くことがあるのだから、我が侭のために法を倒していいと誤解しないようにしたい。

東洋人がもっと権利感覚と法への理解を深めるべきことは確か。東洋には東洋のやり方があるのではないだろうか。それにはかつて存在した「民のための法治」を蘇らせること、最強の文化教養の免疫システムを再起動させることだ。


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「沈潜」という言葉に共鳴。『「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差』

 


ネットにしてはめずらしく共感できる、秀逸な記事だなと思って読んでいたら齋藤孝氏だった。

⇒「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差

昔、この人の『読書力』という本がとても偏った内容で、全く共感するところがないと思ったのだがこの記事はいい。

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『ガラス玉演戯』より、神様の言葉





『ガラス玉演戯』ヘッセ著、高橋健二訳。復刊ドットコム版より。

久しぶりのヘッセで、まだ冒頭ながら衝撃を受けた箇所。

「ああ、ものごとがわかるようになればいいんですが!」とクネヒトは叫んだ。「何か信じられるような教えがあればいいんですが! 何もかもが互いに矛盾し、互いにかけちがい、どこにも確実さがありません。すべてがこうも解釈できれば、また逆にも解釈できます。世界史全体を発展として、進歩として説明することもでき、同様に世界史の中に衰退と不合理だけを見ることもできます。いったい、真理はないのでしょうか。真に価値ある教えはないのでしょうか」
彼がそんなにはげしく話すのを、名人はまだ聞いたことがなかった。名人は少し歩いてから言った。「真理はあるよ、君。だが、君の求める『教え』、完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え、そんなものはない。君も完全な教えにあこがれてはならない。友よ、それより、君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない。戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる」
P66

全く同感だ。クネヒトの気持ちも分かるし、名人の言葉こそ本当(真実)だと思う。

>それより、君自身の完成にあこがれなさい

これはまるで神(先輩方)からのメッセージのよう。
仰る通り、我々は誰もが個々に、自ずから完成を目指さなければならない。
先を歩く者は道案内の手助けはできるが、ショートカットの救いを与えることはできない。
教本教義、宗教のテキストなどを知識として詰め込めばゴールへ飛べるわけでもなく、まして地上の金で贖えるものは何一つない。

>戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる

この言葉、涙が出て来るな……。
何故だろうな。
自分も今、戦いに臨む気持ちでいるのだろうか。

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哲学書より? メモ



本棚の整理中に発見したメモ。
何の本を読んでいる時にメモしたのか忘れたが、たぶん哲学関連のガイド本。

西洋では、「神は自由」と定義したいために「一切は偶然」「個人は自由」という思想が生まれた。

※神は普遍に縛られない。だから人間個人と神を切り離し、人間の知覚から「普遍」を創り出さなければならない。そのような考えから形而上との決別――「オッカムの剃刀」が生まれた。近世哲学の源流。

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