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『よみがえる古代思想』佐々木毅著(講談社)より、プラトンの目指した政治術とは

 先に書籍から引用。感想は記事下。
 

引用文

 アテナイの有名な政治家のペリクレス、ペルシャ戦争の英雄テミストクレスなどは、プラトンによれば、どうにもならない迎合屋になります。アテナイのもっとも誇りとする政治家たちを、プラトンはそれこそぼろくそに批判するわけです。彼らは人々に一時的な快楽を与えることや、欲望を一時的に満足させることにこれ努めて、本当の政治とは何をなすべきかをまったく知らなかったというのが、プラトンの見方です。なぜかというと、彼らは哲学をしなかったからである。単純化していえば、ソクラテス流の哲学をしなかったという点をプラトンは指摘します。

 それでは、本当の政治家とは何か。人々の魂を正しい方向へ導くのが政治家というものだというわけです。確かに船をつくったり、橋をつくったり、道をつくったりしても、魂

――P80

 

を正しい方向へ導かないだろうということは想像がつくわけで、これは戦後の日本においては広く知られた真理になっています。

 プラトンは、政治術という言葉を使っています。政治は技術であるというのが彼の信念です。民主制のように、だれもがみんな平等に政治に参加するが、だれも決定的な術(アート)をマスターしておらず、平等な中でいろいろと討論しながら政治をするという議論に対して、彼は技術(テクネー)というカテゴリーで対決するわけです。政治も技術である、と。

 彼が好んで用いるのは医者との対比で、医術は非常に専門的な術ですが、政治にも専門的な術があるというわけです。その専門的な術としての政治術の核心こそ、ソクラテス流にいえば「人間の魂に配慮する」こと、つまり人間の魂をよりよくするということを目標にした活動であるわけです。先ほどの言葉でいえば、人間の魂の中にある神聖なる要素を養い育てて、人間が本来あるべき姿になるようにする術ということになります。

―― P81

 しかしながら、プラトンは、ちょうど医術が人間の身体を正しい状態に持っていくように、人間の魂を正しい状態に持っていくのが政治術だとし、医術と政治術とを並列的に考えている。片方は肉体、片方は魂が対象というふうに考えており、これが政治を考えるときの彼の議論の基本となっています。

 ペリクレスその他がだめだったのは、…(略)…哲学的にいえば、一種の仮象の世界、真理の世界とは異なる見せかけの世界に人々をまどろませておいて、人々の支持を獲得するということです。それは政治の世界ではよく行われることであって、だから迎合してはいけないという話がすぐ出てくるわけです。

 人間の肉体や金銭、名誉といった価値に人々が関心を向けて、そこに快楽を見出すような世界から、本来ある魂に人間の価値を転倒させていくのが政治の仕事であるといっても

―― P82

いいわけで、これはソクラテスが既にいったことを新しい形で翻訳したものです。ですから、その意味で、放埓ではなく秩序ある魂の持ち主へと人間を導いていくのが、政治活動の重要なキーポイントということになります。これを除いては政治という活動は考えられない。大衆の欲望に召使のように奉仕することがあってはならないし、ましてや、人を傷つけることをもって誇りとするような専制君主などの魂は最悪の状態にあり、もっとも堕落している。そういう専制君主の更生の道は、まず人によって処罰されることであるといっています。ですから、処罰というか、一種の権力による統制、規制は、人間の魂を正しい方向へ導いていくための重要な手段になっていくとも考えられるわけです。 

――P83

 ブログ筆者の感想

やはりプラトン思想は東洋で言うところの儒家+法家という感じ。

哲人王≒徳王。(ただし東洋の徳王は教育さえあれば誰でもなれるものではなく資質こそ重要となるが)

 

プラトンの目指した“政治術”は東洋にあった。

私もおそらくそれ故に東洋思想に共鳴したのだと思う。無意識では、「探していた術がここにあった」と感じていたようだ。

プラトンが医術と政治術を同等に考えていたという解釈も面白い。共鳴する。ただし私はプラトン先生より、もう少し人々の本来備わった自然治癒力を信じるが。 治療は最小限、手術のあとは生活習慣を改善するアドバイス程度で良いと考える。それでもプロの医術を完全否定し、民間療法だけを正義と唱える極端な人たちとは対立するのかもしれない。

 

人々のため、誰もが幸せに生きていける社会体制とはどのようなものか考え続けたプラトン。

それなのにキリスト教徒や近現代の反哲学者など、権力欲の塊である悪魔たちによって捻じ曲げられ全体主義の教科書として悪用されたのは不幸極まる。

悪い者たちに名を利用されたのはプラトンが西欧において圧倒の人気があったからなのだろうが。

「だから思想は書いてはならないのだ」とソクラテスが苦笑いしていそう。

ところが、書かずに行動だけで示そうと考えた諸葛亮はこれだけ悪用されている。書かなければ誤解されたまま、未来の賢い人たちにも本心が届かず「実際はどうだったのだろう?」と首を傾げられて終わり。

書いても書かなくても悪魔たちは自分の欲望のために思想を捻じ曲げ、悪用するのだ。

だとすればせめて賢い人たちの推測が裏付けられるように、本心を文として残しておくべきではないだろうか。

今ここでプラトン本心の推測を私が裏付けられるのも、彼が文を残してくれたからだ。

(上の引用文は佐々木毅氏の解釈であって本人の言葉ではないけれども。個人的にはかなり正解に近いと思う。裏付けはプラトン著書原典/後世キリスト教徒による改変と思われる箇所を除く)


続き。>>プラトンはどのように悪用されたのか? その一例