中学の頃から「この人の薦めてくれる本にハズレはない」と思い、尊敬している読書好きの友人が
「私、村上春樹だけは何が良いのか理解出来ないんだけど。ぜんぜん意味分かんない」
と言っていた。
ああ、やっぱりこの人は真実本好きの正直者だと知って嬉しかった。
“裸の王様”が裸だと指差して言える人は稀有だ。
村上春樹を「裸の王様」と言っているわけではないですよ。
ただ誰でも好き嫌いはあるはずなのに、春樹だけはどうして日本中の誰もが手放しで「面白い」「大好き」と絶賛するのか。少し不思議に思いまして。
それって本心なんですか?
あなたは、ほんとうに心から村上春樹を「面白い」と思っていますか。
ハーメルンの笛吹
『海辺のカフカ』は自殺小説ではないかと思っていた。
「自分の小説は空っぽ!」
とカミングアウトして筆を絶つ作家の。
けれどそうはならなかった。
中身を公表しない小説が、204万部(2009年)という大ベストセラーを達成した世間の狂乱を見て、村上春樹の真の狙いを知った。
この人は小説と心中するつもりでいる。
作家の名だけで「小説」という箱が売れるとはどういうことか。
もう、誰も小説を読んでいないということだ。
小説は要らないということだ。
小説そのものが滅んでいるということだ。
この現実を行動で示して見せたことで、村上春樹は小説を処刑した。
それは当然、自身の作家としての自殺行為でもある。
作家として創作家として、「名前だけで売れる・中身なんか本当には誰も見ていない」という扱いは最高に屈辱的。並みの作家なら生きてなどいられない。
この屈辱的な自らの状況を逆手に取り、屈辱を“小説そのもの”になすりつけることで小説を処刑しようとしている。
“空っぽ”な小説に釣られた“空っぽ”たちが、続々と彼の後をついて行く。
そして他のあまたの小説たちを巻き添えにして、海の底へ沈んで行こうとしている……、
ハーメルンの笛吹きかね。
風の歌を聴け、
「ほうらね。小説なんて、どうでもいいでしょ。空っぽに人は食いつくんだよ。しょせんみんな、頭の中は空っぽだもんね。だから死ね、死ね死ね小説」
※以上、私の個人的な空想
空っぽ小説は人類への裏切り
小森陽一氏は『村上春樹論』で、『海辺のカフカ』を処刑小説だと言っている。
村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)
小森氏は東大教授、漱石などの論文を書いている文学研究者。
長年にわたり「小説」と向き合うことで培われた信念から、村上春樹の小説を
「人類への裏切り」と断言する。
村上春樹は小説を書きながら小説を否定し、「言葉」そのものを全否定している。
つまり、処刑しようとしている。
これが
「言葉を獲得して以来、人類が模索し続けた」
自らの傷を語り、自らの頭で考えようとする人類の努力を無きものにしようとする裏切りであり、犯罪的行為でもあると言う。
引用、
しかし、「カラス」と呼ばれる少年」の批判は、なぜ近代国民国家によって遂行される組織的暴力と「姉なるものを犯」すことが無媒介的に結合されてしまうかについての批判はなされておらず、むしろ「戦いというのは一種の完全生物」という言い方によって、<いたしかたのないこと>であるという印象を強化する役割を担っているのです。
私は繰り返し「無媒介的結合」を批判してきました。なぜでしょうか。それは論理的かつ合理的な原因と結果をめぐる思考を停止させる働きがあるからです。つまり『海辺のカフカ』という小説は、小説テクストを読み進める読者を思考停止させる機能を持っており、因果論的思考そのものを処刑する企てなのです。そして、原因と結果の関係を考える人間の思考能力が、言葉を操る生きものである人間の根幹にかかわるからこそ批判しているのです。
P160-161
「平安女流文学」における「生き霊」の物語機能は、なによりも、その女性の抑圧された「精神」を言語化してつきつけるところにあります…(略)… 夢幻能における死霊の言葉もやはり生きているときに口にすることのできなかった、あるいは不条理な死を強いられたことに対する恨みと告発の言葉を運んできます。
けれども『海辺のカフカ』における佐伯さんの「生き霊」は、一切言葉を発しません。カフカ少年が「佐伯さん」と三度呼びかけても答えることはありません。そして言葉を交わすことをしないで、…(略、何だか分からないまま恋に堕ちる)…
このカフカ少年の「恋」の在り方そのものが佐伯さんという「女を風景の一部に還元」していくプロセスなのです。
P142-143
私たち生き延びた者たちには、この呼びかけと問いかけへの応答責任があります。精神的外傷を<解離>によってなかったことにする記憶の消去は、死者に対する応答責任の放棄でしかありません。言葉を操る生きものとしての人間は、神話、伝承、昔話、物語、そして小説によって、死者との応答をしてきたのです。『海辺のカフカ』は、その歴史全体に対する裏切りなのです。
逆に、言葉を操る生きものとして、他者への共感を創り出していきたいと思うのなら、私たちは怯えることなく、精神的外傷と繰り返し向かい合いながら、死者たちとの対話を持続していくべきでしょう。死者と十分に対話してきた者であれば、生きている他者と向かい合って交わすことのできる、豊かな言葉を持ちうるはずです。豊かな言葉は、死者と対話しつづけてきた記憶の総体から産まれ出てくるのです。漢字文化圏における「文学」という二字熟語は、漢字で書かれた死者たちの言葉すべてについての学問のことです。二一世紀こそ、「文学」の時代として開いていくべきなのだと思います。
P276-7
「文学」に対する情熱を感じる点で素晴らしい文なので、長くなってしまったが引用させていただきました。
その通りだと思う。
ただ“村上春樹の罪”の指摘に関しては、極端だなという印象を否めなかった。
何故に極端かというと、村上春樹自身はここまでの罪を自分が犯していることを自覚していないだろうからだ。
つまり、村上春樹は確信犯ではない。(小森先生が訴追する罪において)
小森氏の指摘は、「村上春樹の小説が及ぼす影響」として非常に的確であり正しいと思う。 私も同意・共感する。
村上春樹の小説を読みモヤモヤしていた腹立たしさを、よくここまで明解に示してくださったと感謝している。批判しようとしてもここまでの頭脳がないことが悔しい。
が、小森氏の指摘はあくまでも結果を見てのものと言える。
結果としてとんでもない化学反応を起こさせた物質の責任が、その物質を生み出した者にあるかと言えば疑問だ。
その者は結果を予想していなかっただろうからだ。
村上春樹が「確信犯」であるのは、ハーメルンの笛吹きを気取った時点までのことだろうと思う。
村上氏の狙いはただひたすら、「小説(文学)の死」であり、「表現として言葉を選ぶことの否定」だけだったのではないか。
たとえばレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』を村上氏は繰り返し読み、「小説はこうであるべきだ」と思ったという。
「こうであるべきだ」と彼が言うのは、チャンドラーのやった情景描写の少ない簡素な表現だったり、感情を抑えた乾いた表現だったりのこと。
これを模倣したかった。
と仰っていた。
どちらの作家も村上氏が青少年時代に深く傾倒していたはずで、何度も読んでいたはずなのだから、この発言には心底驚いてしまった。チャンドラーの小説を一読すれば、もうその始めの時点で、フィッツジェラルドへの愛が(うっとおしいほど)匂い立っていることに気付くだろうに。
※2024/9/16注 この記事は遥か昔(2010年頃)に書いた。この時点で私はまだ村上春樹が共産主義者として文化破壊を目指したのだという真相を理解していない。参照→文化的マルクス主義という破壊プログラム
ただ春樹が小森氏が言うほどの確信犯であったのかどうかは未だに疑問。上に書いた通り春樹は文学的不感症だから、自身が信奉する思想が導く最終地点まで想像できなかったと考えられる。おそらく若い頃に流行に乗って学生運動にはまった左翼老人たちのほとんどが、自分が手伝った活動の最終目的を理解していないだろう。理解する能力があったなら空虚な思想に騙されることはなかったはず。
アサッテの文学
言わばその小説に対する不感症なところが、村上氏の小説信念を形成し、「表現を逸らす」等の独特の小説スタイルを作り上げていったのでは、と私は勝手に推測している。
たとえば諏訪哲史『アサッテの人』などは村上春樹になぞらえて読むとはまる。
ではこのアサッテの人、村上春樹はどういう流れから産まれたのだろう。
かつて文学は
「面白くあってはならないもの」だった。
ストーリーがあってはならない、落ち(伏線解消)すらあってはならない。
小説とは「落ちなし」の「読者にとって不可解な」ものだけが崇められるべきではない。
今、太宰や三島の系譜はアニメ・コミックの世界で花開いている、と思う。
太宰や三島の死後、彼らの小説は「華美な表現に走った」下等な俗物、とただ蔑む傾向が強まった。
その流れが産んだ作家がまさに村上春樹、ではないかと私は考えるのだが。
終わりの始まり
村上春樹の思惑は実現し、文学は死んだ。
代わりに本はもっとマニアックな文化になっていくのではないかと期待する。
真性の本好きなんか物好きの変態だ。本コレクションは一部のマニアの悪趣味であるはずだ。
追記 春樹ファンは本を読まないというオカルト
彼の小説は苦手と言いながらほとんど読んでいる。いつも表現を堪能させてもらっている。(初期の作品は心震えるところもある、よくハルキストが言う「ホメオパシー的に」)
参照/村上春樹に関して、よく遭遇する会話例 (実際に筆者が遭遇したもの。Bは筆者)
例1) A:女子大生19歳
A 「あたし、村上春樹が大好きなんだ~。好きで好きで仕方ないのぉ」
B 「へえ? 作品の中で何が一番好き?」
例2) A:主婦55歳
A 「1Q84って、あれ、すごい小説だわね」
B 「……(慣れているのであえて突っ込まない)。じゃあ何で、すごい小説って思ったんです?」
例3) A:会社員40歳(ラジオで耳に入って来た話)
A 「僕は村上春樹の小説を人生の手本として生きてきました」
なんだかつまり彼のファンは日ごろ小説なんか読まない人たちが多いようです。
本来、村上春樹はほんの少数の人たちに受け入れられるタイプの小説。
文学とはそういうもの。
(書き忘れていたけど太宰治の小説などは多くの自殺者を出している。公害レベルだ。半端な気持ちで読むと有害な小説、というものが現実にある)
無意識のうちに、(この場合は小説を生み出した作家自身まで無意識なのだが)「思考停止」「暴力の容認」「異性の風景化」が世界中に浸透していくのだとしたら空恐ろしさを感じる。