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『マルクス主義の正体 人類を破滅させる妄想体系』ミーゼス 伝説的講義と、秀逸な解説

世界が今どうしてこれほど混乱し分断が進んでいるのか。何故テレビは堂々と嘘をつくのか。

日本では見当違いな陰謀論が流布されており、存在しない敵、あるいは正反対の味方を憎悪するよう誘導されている。そのため真の犯罪者を見逃し、目の前で堂々と行われている犯罪すら抑え込むことができずにいる。

 

今一度、基本に立ち返って世界を勉強し直してみよう。

視線を上げて外国と近代史を眺めてみることが必要。

本物の世界には陰謀論で説かれるワクワクするような(?)悪の秘密結社は存在しない。いたって退屈で陳腐な犯罪集団がうごめいているだけだ。

悪の本質とは陳腐なもの。

呆れるくらいレベルの低い馬鹿たちが欲望にとり憑かれて狂乱しているのが真相。

このくだらない現実を受け入れられなければ永久に踊らされることになるだろう。

 

外国ではとっくに気付いている人が多い。故に近年古典が掘り出され読者を増やしている。

ミーゼスという偉大な経済学者による1952年の講義『Maruxism Unmasuked(マルクス主義の仮面をはがす)』も掘り出された古典の一つ。

最近翻訳された邦題は『マルクス主義の正体 人類を破滅させる妄想体系』 という陰謀論っぽいタイトルで釣っているのだが、陰謀論好きな日本人へ真実を伝えるためには良い手段と思う。

 


当記事では貴重なこの翻訳書籍から重要なポイントを引用しておく。

 

翻訳者の解説

まず冒頭、翻訳者が現代人へ向けて分かりやすくミーゼスを解説している。

この解説文が秀逸で一読の価値あり。

(引用文中、太字は当ブログ筆者による)

 

 ここ最近、特に2008年から2023年までの情勢を鑑みたとき、本書のもととなった講義が70年以上前のものであるにもかかわらず、まるで現代の出来事に向けて書かれたかのようで驚きを禁じ得ない。しかし、この原因は極めて単純である。現在、世界的にマルクス主義が復活しているのだ。

――赤塚一範(翻訳者) 解説 Px

 

 翻訳者によれば2008年のリーマンショックがもたらした資本主義への失望によって、マルクス主義(共産主義)が復活し暴れ始めたという。

なるほど確かにリーマンショックの頃から黴臭いカルト思想が蘇り、LGBT・BLMなど別の名を看板に掲げて信者を集めるようになったようだ。

あれ以来、LGBTやBLMの思想背景を知らない現代人は騙され取り込まれてしまった。
 

ただ私は計画が先にあったと思う。リーマンショック自体も資本主義崩壊という理想を実現すべく計画実行されたものだったろう。

「世界大恐慌からの第二次世界大戦、からの戦争革命! 世界支配!!」

という夢をもう一度というところかな。


ちなみにマルクス主義とケインズ主義が時を同じくして流行するのは、大戦後のアメリカや日本を見てもわかる通り歴史的事実であるし、ある意味当然の帰結でもある。資本主義を攻撃するマルクス主義に対抗しようとして、政府はバラマキ型のケインズ主義を採用し、大衆を取り込もうとするのだ。

――――解説 Pxi

ミーゼスの講義でも語られている通り、マルクス主義は絶対ダメだがバラマキ型のケインズ主義一辺倒もまずい。

現在の日本では財務省が「日本弱体化計画の黒幕」だと断じる、財務省陰謀論が流行している。何故か財務省は秘密結社の傀儡だと信じている人もいる…。

緊縮財政をやり過ぎた財務省のせいで長期デフレに見舞われたのは事実だろうが、積極財政信者もどうなのか? 何でも偏り過ぎはまずいだろう。


では、唯物主義の何が問題なのか。その問題とは、唯物主義が反自由主義、反市場経済と結び付き、圧制を生み出すことである。誤解を恐れず簡単に言うとするならば、唯物主義とは、階級や物的生産諸力など物質的諸環境によって人間の思想は支配されるという思想であり、本書でミーゼスも指摘するようにマルクスの「手挽臼が封建主義を生み出し、蒸気挽臼が資本主義を生み出す」という言葉に集約されている。
 ミーゼスに従えば、市場経済で生じるあらゆる出来事は、個々人の自発的な行動から生じる。つまり、現在の自分自身の境遇の改善に決定的に重要なのは、自らの行動であり、その行動を導く思想なのだ。ミーゼスは、「思想こそが人間と動物を分け、これが人間の本質である」とする。

――解説 Pxviii

 

思想こそが人間の本質。

私もまったく同感。

 ※ここで私が述べている「思想」とは個々人自身の意思のことで、イデオロギーや宗教などの教義・教条のことではない。教条の奴隷となることは「意思を持つ」ことと正反対。


    しかし、唯物主義の観点に立てば、自らの不遇は、自らの思想や行動に原因があるのではなく、市場経済や邪悪な資本家や資本主義制度が悪いのだ。自らの境遇は、階級や物的生産力など諸環境によって決まるのであり、境遇を改善するために、自らの思いや行いを変える必要などない。…(略)…  このような、個々人の責任を問わない考え方は、一見すると人に優しく、人道的に見えるかもしれない。しかし、政府が人々の人生の責任を持つということは、人々の生活全般への政府介入を認めるということであり、人々はあらゆる細目にわたって政府の命令に従わなくてはならないということをも意味する。つまり、唯物主義の行き着く先は圧政や暴政なのだ

――解説 xix
太字箇所、完全同意。


資本主義=完全自己責任論(因果律)→自由

共産主義=完全依存他責論(一神教)→独裁


 

もともと資本主義はキリスト教支配から個人を解放した。

資本主義が奴隷制を崩壊させたのだ。

ところが奴隷解放に納得できない支配者たちは、新たな奴隷制度として共産主義を生み出したのか……「生殺与奪の権」を奪って再び家畜を囲うために。

正反対の方向へ導かれているのに、騙されて「資本主義という奴隷制からの解放を!」と唱えるマルクス主義信者たち。どこまで馬鹿なのか。

 さらにマルクス主義は、劣等感や嫉妬心という人の心に付け入る際に、ヒューマニズムという言葉で粉飾する。彼らによれば、資本主義は、強きものが弱きものを搾取する非人道的な体制であり、社会主義は、「弱気を助け強きを挫く」体制なのだ。たとえば、二〇一六年にある歴史家のエンゲルスの伝記が邦訳された際、作家の佐藤優氏は、「新自由主義的な弱肉強食の嵐が日本社会を席巻しつつある状況で、エンゲルスのヒューマニズムから学ぶべきことがたくさんある」と評した。誰しも、自分の責任を認めたくはないし、自らの弱さや欠点を正当化したくなるものである。しかし、そのような正当化をヒューマニズムと呼ぶべきではない。というのも、それで人間が成長することはないからだ。

――解説 xxii

西洋で「ヒューマニズム」とは「人間中心主義」すなわち「神を殺した末の完全独善」という意味。神はおろか道徳も善も否定し、人を食らう悪事を奨励する。

これを「人道主義」という漢語に訳したのは許せない犯罪。悪魔の反転。

自分たちのことを「弱気を助け強きを挫く」と定義しながら、勧善懲悪を憎む。彼らが願うのは勧悪懲善、善悪反転の世。つまり「弱き=悪」で「強き=善」だと言っているようなものだ。


本編講義より 嫉妬と妄想、マルクス主義の正体

次に本編より現代人必読の箇所を引用していく。

 

 社会主義計画を立案する際、誰もが暗黙のうちに仮定することがあります。その仮定とは、自分自身が計画者や独裁者であるか、もしくはその計画者や独裁者は知的な側面で自分に完全に依存しており、計画者や独裁者は自分の雑用人であるというものです。他人の計画の一部になりたいと思う人など存在しないのです。
  計画についてのこれらの思想は、共同体の形態に関するプラトンの論説にまで遡ります。プラトンはとても率直に語っています。彼は、哲学者によってのみ支配される体制を構想し、あらゆる個々人の権利や判断は取り除かれるべきだと考えました。そうするように指示されない限り、誰もが、どこかへ行ったり、休んだり、寝たり、食べたり、飲んだり、入浴したりすべきではないのです。プラトンは、自らの計画の中で、人間をチェスの駒に替えようとしました。必要とされるのは独裁者であり、彼が哲学者を生産管理中央委員会におけるある種の首相や大統領に任命するのです。そのような一貫した社会主義者は誰であれ――たとえば、プラトンやヒトラー――未来の社会主義者を作るために、未来の社会構成員の繁殖や教育をも計画したのです。
  プラトン以来二三〇〇年もの間、彼の思想に反対が示されたことなどほとんどなかったのです。カントでさえ反対しませんでした。社会主義を支持する哲学的傾向は、マルクス主義思想を議論する際に考慮に入れられなければなりません。そして、このことは、自らをマルクス主義者と呼ぶ人々だけに限られたものではないのです。

――本編 P41-42

 

マルクス主義者の本質を突いている。

彼らは民衆虐殺を称賛し、「支配者は民を殺すべきだ。虐殺はいいことだ」と言う。しかし彼らが夢想しているのは自分が好き放題に民を殺すことができるユートピア(彼ら曰く)であり、自分自身が殺されることは何故か想定していないのだ。

そのようなディストピアを願えば自分も必ず殺される側となるだろうに。そんな簡単な理屈も理解できないということは、たぶん恐ろしいほど馬鹿なのだろう。

 >自分自身が計画者や独裁者であるか、もしくはその計画者や独裁者は知的な側面で自分に完全に依存しており、計画者や独裁者は自分の雑用人であるというものです。

なるほどマルクス主義者たちの傲慢な態度はこういった自惚れ心理の現れか。

しかしこういう愚かな勘違い信者は現代人に多いなと思った。特に東アジアでは『三国志』などが好きで、自分が諸葛孔明というフィクションキャラになりたいと望む欲深い者が多い(史実の諸葛亮は社会計画のために劉備を雑用係としていないのだが。むしろ自分が雑用担当だと思っていた)。

そのイメージがあったから東アジアでは即座にマルクス主義へ飛びついた者も多かったのではないか? マルクス主義は自分が軍師になれる魔法書だと思い込んだのか。自分では計画していないくせに(笑)。

フィクション上の諸葛孔明イメージはその意味でやはり有害。東アジア人には史実をインストールして卑しい考え方を改めて欲しいと願う。 



 >プラトンは、自らの計画の中で、人間をチェスの駒に替えようとしました。

こういった指摘を読むにつれ、プラトン哲学も大いに問題あるとの考えを深める。

ギリシャ哲学らしく真善美を建前にするなどプラトンには良い思想も多いが、『国家』は良くない。全体主義の祖と言われるだけある。

プラトン『国家』はキリスト教徒が書き変えた偽書ではないかと私は直感するが、今後『国家』に反旗を翻す必要がありそうだ。
(この件はまた他で書く)


  マルクスが資本主義に反対する理由  

  資本主義制度は、出世と功績とが正確に一致する制度です。もし成功しなければ、人々は苦しみを感じます。彼らは、知恵が不足しているために出世しないということを受け入れられず、社会のせいにするのです。その多くが社会を批判し、社会主義に転向するのです。この傾向は、特に知識人に強く表れます。能力の低い専門家は、専門家でない人たちよりも自分の方が「優れている」と考えます。というのも、専門家はお互いを平等と見なすからです。そして、彼らは自らが実際に得ているよりも多くの評価を得るに値すると思うのです。嫉妬心は重要な役割を果たします。現在の状態に不満足な人々には、ある哲学的傾向があるのです。政治的条件への不満もあるでしょう。満足していなければ、人は誰であれ、考え得る他の状況を求めるものなのです。
     マルクスは「アンチタレント」でした。才能が欠如していたのです。

 

…彼(マルクス)は、ヘーゲルとフォイエルバッハに影響を受けましたが、特にフォイエルバッハのキリスト教批判に影響を受けました。搾取の理論は、一八二〇年代に出版された誰が書いたかわからないようなパンフレットから借用したことを、マルクスは認めています。彼の経済学は、デヴィット・リカードの経済学を歪めたものでした。  経済に関して、マルクスは無知そのものでした。

 ――本編 P44

マルクス主義者たちの本性が的確に捉えられている。

「モテない、才能ない。ゆえに嫉妬にとり憑かれた嫉妬オバケ」

「自分の悪事を指摘されても絶対に謝らない、一切反省はしない」

「自分の犯罪を他人になすりつけ攻撃する」

…等々

確かにこれが日本でもよく見かける左翼、自称リベラリストの暴力活動家に共通する姿ではないだろうか? 70年前から全く変わらない姿だったことになる。


 サンディカリズムと国粋主義  (ジョルジュ・)ソレルは、労働組合に新しい戦略、すなわち直接行動(アクシオン・ジレクト)――攻撃、破壊、サボタージュ――を要求しました。彼の考えでは、これら攻撃的諸政策は、組合が「ゼネラル・ストライキ」を宣言するであろう最後の審判当日の前哨戦にすぎないのです。その日、組合は「では、我々はまったく働かない。我々は、国家の生命を完全に消し去りたいのだ」と宣言するのです。ゼネラル・ストライキとは、本物の革命というような意味にすぎませんが、直接行動の思想は、「サンディカリズム」と呼ばれます。 …

 フランスのサンディカリズムの思想こそが、二〇世紀の最も重要な運動に影響を与えたのです。ソレルによって、もしくは、行動思想や対話の代わりに殺戮を用いるという思想によって、レーニン、ムッソリーニ、ヒトラーは完璧なまでに影響を受けました。

――本編 P52-53
 ここは資料。

  マルクス主義がどのように現代の主要哲学になったかを明らかにするなら、実証主義とオーギュスト・コントの学派について触れなければなりません。コントはマルクスとよく似た社会主義者でした。若い頃、オーギュスト・コントはサン=シモンの秘書でした。サン=シモンは全体主義者であり、世界評議会を用いて全世界を支配したいと考えたのです。もちろん、彼は自分自身がそのせかい評議会の議長であると信じていました。世界史についてのコントの考えによれば、過去の時代には真理の探究が必要でした。「しかし今や、私、オーギュスト・コントが真理を発見したのだ。だから、もはや思想の自由や出版の自由などまったく必要ないのである。私は国家全体を支配、組織したいのだ」。

 ――本編 P78

全体主義の祖、サンシモンとOコント。

「自分が真理を発見したから自由は必要ない」この狂った自己中心、独善独裁思考が世界を地獄化した。

どうして欧米にはこれほど狂った独裁者が生まれるのか?

しかしこれこそ現代。

現代社会は発狂した者によって支配されていることになる。

   人類をいかに管理するか  社会主義が現れて間もない頃、社会主義を批判する人たちの一部は、人間性について無知であるという理由で、社会主義者たちを頻繁に非難していました。赤の他人の計画だけを遂行する人は、もはや私たちが人間と呼ぶような性質の人ではありません。この異議に対して、社会主義者から次のような反論がなされました。「人間性と社会主義とがぶつかるなら、人間性を変化させなければならない」と。何年も前から、カール・カウツキーはこのように言っていましたが、彼はそれについて何の具体案も述べませんでした。 …

  行動主義哲学に従えば、まるで人間には考えも誤りもないかのように一人ひとりを扱わなければなりません。行動主義において、人間行為のすべては刺激に対する反応だと考えられます。
    
   … 行動主義者やマルクス主義者は理解していませんでしたが、個人の刺激に対する意味づけを考察しないのであれば、そのような刺激の理論を疑うことさえできないのです。主婦がお目当てのものを値踏みする際、六ドルのときと五ドルのときでは反応は異なります。その意味を考察することなく、刺激を判定することなどできません。そして、その意味そのものが、思考なのです。

――本編 P80-81

人間性の否定。

これこそ共産マルクス主義の根幹。


 マルクス主義の嘘の力 この哲学は、すでに見てきた以上のものを与えてはくれません。この哲学思想そのものは、カール・マルクスは類まれなる才能を持っていたので、――彼は、神意、つまり物質的生産力から、歴史の発展法則の発見をゆだねられたので――彼が言ったことを受け入れなければならないというものにすぎないのです。彼は、歴史が人類を導いていく終点を知っているのです。結局のところ、これは次のような思想、すなわち軍事力で他のすべてを打ち負かした党派、派閥、徒党が「正しい支配者」であり、「正しい支配者」は物質的生産力によって他のすべての人々を「条件づける」ために召喚されるという思想を受け入れることを意味するのです。奇妙なことに、この哲学を発達させた学派は、自らを「リベラル」と呼んだり、その体系を「人民の民主主義」「真の民主主義」などと呼んだりします。これもまた、おかしなことですが、ある日、アメリカ合衆国の副大統領(ヘンリー・ウォレス)が「我々アメリカ合衆国には、公民権民主主義があるだけだが――しかしロシアには、経済的民主主義がある」と断言したのです。

――本編 P81-82

民主主義を滅ぼすために共産主義・社会主義者たちは自分たちを「リベラル」「民主主義者」と呼び始めた。

言葉を盗み、意味を反転させることによって対象を殺す。

 

   嘘つきマルクス主義との戦い方  今日、世界で最も力を持っている哲学は、弁証法的唯物主義――我々が社会主義へと前進するのは不可避であるという思想です。これまでに著された書物は、この見解を反証することに成功していません。私たちは、新しい書物を記さなければなりませんし、この問題について考えなければなりません。思想こそが、人間と動物を分けるのです。これこそが、人間の性質なのです。しかし、社会主義の考え方に従えば、考える機会は政治局(Politiburo)だけに保持されるべきであり、その他すべての人々は政治局が命令したことだけを実行すべきなのです。
 哲学の領域で戦わないのであれば、ある哲学を打ち負かすことなどできません。アメリカ的思考の大きな欠点の一つ――また、この問題に結論が下される場所は、モスクワではなくここアメリカであるという理由で、この国は世界で最も重要であります――は、これら哲学や本に記されていることのすべてはあまり重要ではなく価値がないと人々が思っていることなのです。つまり、彼らは思想の重要性やその力を過小評価しているのです。しかし、世界で思想以上に重要なものは存在しません。この大きな闘争の結果を左右するのは、思想の他にはないのです。思想以外のものがこの戦いの結果を左右すると信じるのは、大きな間違いなのです。

――本編 P83

> 世界で思想以上に重要なものは存在しません。この大きな闘争の結果を左右するのは、思想の他にはない

力強い言葉に震えた。

やはりこの道しか無いのか……。とても遠い回り道に感じるけれども。

 

  資本主義制度とそれ以前の制度との間には、ある特徴的な違いが一つあります。その違いとは、資本主義制度では、それほど裕福でない人たちでさえ預金を所有しており、少額投資をしているということです。多くの人々はこの違いを認識していません。今日でさえ、利子の問題を議論する際、世論だけでなく指導者や政治家までも、債権者は裕福で、債務者は貧しいと信じています。だから、彼らは、金融緩和政策、つまり、政府介入によって利子率を人為的に引き下げる政策は、貧しい人に味方し豊かな人に不利益を与えると考えるのです。実際のところ、貧しい人々は、貯蓄銀行に預金し、債権や保険証券を所有し、年金受給資格も持っています。
   … それが意味するのは、国民の大部分は債務者ではなく債権者だということなのです。この人たちは皆、債権者です。他方で、企業は社債を発行したり銀行から借り入れたりしますが、そのような企業の普通株式の所有者は、債権者ではありません。債務者なのです。同様に、巨額の担保付融資を受けている大規模不動産業者も債務者です。だから、裕福な人たちが債権者だというのはもはや真実ではないのです。このように、状況は大きく変化したのです。
  ヒトラーの有名なスローガンの一つに「利子奴隷制を廃止せよ。永遠なれ債務者。罰せよ債権者。」というものがありました。しかし、あるドイツの新聞は、この間違いを認識しており、「諸君らは、君自らが債権者であることを知っているか」という見出しの記事を書きました。おそらくヒトラーは、この記事を正しく理解していないでしょう。

――本編 P98-99

 利子についての致命的な過ちは、前時代から受け継がれたと、前に指摘しました。古代では、裕福な人が債権者であり貧しい人が債務者であるというのは、状況の正しい説明でした。この結果として、高い利子率は非道であるという考えが支配的となりました。人々は、政府が介入できない市場現象として、利子率を受け入れる心づもりができていなかったのです。人々は、ただ利子率を経済発展や進歩の障害であると考えたのです。それどころか、大部分の人々は、利子率とは利己的な貨幣の貸手の欲望によって作られるものであり、それと戦うことが政府の義務である、とさえ信じていました。何世紀にもわたって過ちを犯した後、市場価格、賃金率などに介入すべきという考えを、政府は最終的に放棄しました。この事実こそが、近代資本主義の発展の原因なのです。価格や賃金への政府介入が一八世紀に放棄されなかったとすれば、資本主義は発展しなかったことでしょう。この新しい事態によって、現代の経済発展へと向かう道筋が整えられたのです。

――本編 P112

ここは経済学として最重要、ミーゼスの本領。らしい。


債権者=貧者・社会的弱者

債務者=資産家・社会的強者

のパラドクス。

産業革命以前の時代とは反転しているというのに、現代まだほとんどの人が気付かずに自分を債務者だと思い込み、債権者として勘違いされた金持ち(←債務者)を憎悪している。

利下げで貧しくなるのは債権者=社会的弱者のほうであり、 資産家はさらに富む。
「金持ちが肥えて経済が回れば結果的に皆が豊かになるじゃん」理論もあって、短期的に見れば確かにその側面もある(アベノミクス)。だが決して長期には続けるべきではないという。
まあ今の日本の状況では利上げに転換するのは早過ぎたようだが。
要検証。

 

 また愚かにも、貨幣や貨幣代用物の総量を増加させれば、利子率のさらなる漸進的下落傾向が生じ、最終的に利子は完全に消滅すると断じる人たちもいました。これが豊かさをもたらし、すべての人々に十分なものを生み出し、すべての人々をお金持ちにするための正しい方法である、と信じる社会主義者たちが実際にいたのです。 …(この人たちは)「貨幣偏執狂(monetary cranks)」と呼ばれていました。

――本編 P110-114

 

MMTとか、三橋貴明氏とか?笑

現代の怪しいインフルエンサーの名がすでに70年前の書物に書かれていたことは驚いた。ここにも書かれている通り彼ら彼女らは社会主義者の亜種であり、高等共産主義者でもあると思う。
 

〔続く。またいずれ関連本を読んだときに触れると思う〕