読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

『権利のための闘争』 冒頭メモ


 権利=法(レヒト)の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならない限り――世界が滅びるまでその必要はなくならないのだが――権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
 世界中のすべての権利=法は戦い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。…

イェーリング『権利のための闘争』(村上淳一訳/岩波文庫)、力強く惹き込まれる冒頭文。
平和のための闘争が必要だという目覚ましの宣言に我々は衝撃を受ける。

この権利感覚、“法治”とはどういう意味なのか――法的精神が東洋人には確かに理解し難いものだったようだ。

東洋には市民が闘争して自由・権利を獲得した歴史が無い。
正しく法を用いた法家の為政者を除き、ほとんどの時代で法は権力者が民を虐げるための鎖として用いられたようだ。
このため東洋で自由を目指す者は全ての法を憎む。決して、自らが正しい法を得ようなどとは考えない。法の全否定。
法が権力であり憎き敵である限り、「法に殺されるか。それとも法を殺して自分が権力を得るか」の二択しかない。だから革命が終わらず永久に正しい法治国家が打ち立てられない。

法は権力者のためにある道具ではない。
法が権力を縛る鎖ともなることを、(本来の法とは権力からも盗賊からも善良な民を守るためのものであることを)東洋人はそろそろ理解しなければならない。


追記

東洋でもほんとうの大昔、たとえば『史記』の時代から漢代までは“法治”が現代と同じ意味で用いられたことがあった。不法行為から民を保護するための法、権力を縛るための法として。それがいつしか忘れられてしまったのは、“民のための政治”という概念が失われてしまったからか。免疫となる文化思想が失われたのだ。

私は必ずしも一般民という弱者が権力者と戦って権利=法を得なければならないとは思わない。血はそこまで大量に流されなくても良い。
 “民による民のための完全自由な愚民政治”が近現代のような地獄を招くことがあるのだから、我が侭のために法を倒していいと誤解しないようにしたい。

東洋人がもっと権利感覚と法への理解を深めるべきことは確か。東洋には東洋のやり方があるのではないだろうか。それにはかつて存在した「民のための法治」を蘇らせること、最強の文化教養の免疫システムを再起動させることだ。


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「沈潜」という言葉に共鳴。『「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差』



ネットにしてはめずらしく共感できる、秀逸な記事だなと思って読んでいたら齋藤孝氏だった。

⇒「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差

昔、この人の『読書力』という本がとても偏った内容で、全く共感するところがないと思ったのだがこの記事はいい。
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『ガラス玉演戯』より、神様の言葉





『ガラス玉演戯』ヘッセ著、高橋健二訳。復刊ドットコム版より。

久しぶりのヘッセで、まだ冒頭ながら衝撃を受けた箇所。

「ああ、ものごとがわかるようになればいいんですが!」とクネヒトは叫んだ。「何か信じられるような教えがあればいいんですが! 何もかもが互いに矛盾し、互いにかけちがい、どこにも確実さがありません。すべてがこうも解釈できれば、また逆にも解釈できます。世界史全体を発展として、進歩として説明することもでき、同様に世界史の中に衰退と不合理だけを見ることもできます。いったい、真理はないのでしょうか。真に価値ある教えはないのでしょうか」
彼がそんなにはげしく話すのを、名人はまだ聞いたことがなかった。名人は少し歩いてから言った。「真理はあるよ、君。だが、君の求める『教え』、完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え、そんなものはない。君も完全な教えにあこがれてはならない。友よ、それより、君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない。戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる」
P66

全く同感だ。クネヒトの気持ちも分かるし、名人の言葉こそ本当(真実)だと思う。

>それより、君自身の完成にあこがれなさい

これはまるで神(先輩方)からのメッセージのよう。
仰る通り、我々は誰もが個々に、自ずから完成を目指さなければならない。
先を歩く者は道案内の手助けはできるが、ショートカットの救いを与えることはできない。
教本教義、宗教のテキストなどを知識として詰め込めばゴールへ飛べるわけでもなく、まして地上の金で贖えるものは何一つない。

>戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる

この言葉、涙が出て来るな……。
何故だろうな。
自分も今、戦いに臨む気持ちでいるのだろうか。

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哲学書より? メモ



本棚の整理中に発見したメモ。
何の本を読んでいる時にメモしたのか忘れたが、たぶん哲学関連のガイド本。

西洋では、「神は自由」と定義したいために「一切は偶然」「個人は自由」という思想が生まれた。

※神は普遍に縛られない。だから人間個人と神を切り離し、人間の知覚から「普遍」を創り出さなければならない。そのような考えから形而上との決別――「オッカムの剃刀」が生まれた。近世哲学の源流。

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『虐殺器官』より引用

伊藤計劃『虐殺器官』より、気になった箇所を引用。


 ぼくは、ことばそのものがイメージとして感じられる。ことばそのものを情景として思い描く。この感覚を他人に説明するのはむつかしい。要するにこれは、ぼくの現実を感じる感覚がどこに付着しているかという問題だからだ。何をリアルと感じるかは、実は個々の脳によってかなり違う。ローマ人は味と色彩を論じない、という言葉があるのは、そういうわけだ。
 ぼくがことばを実体としてイメージできるように、「国家」や「民族」という抽象を現実としてイメージできる人々がいる。
P42-43
ことばに対する感覚、面白い。我々も言葉を見たり聞いたりした瞬間にイメージしているし、小説などではその世界を感じることができるけど、あえて強調して書くということはきっとイメージとは違うのだろうな。
おそらく自分と似たような、「共感覚」の一種なのだろう。
きっとこの感覚から作者は『虐殺器官』のアイディアを得たのだと思った。

忘却というものがいかに頼りないか、誰でもそれを知っている。夜、寝入りばなに突如遅いくる恥の記憶。完璧に思い出さずにいられるような忘却を、ぼくらの脳は持ち合わせていない。ひとは完璧に憶えていることも、完璧に忘れることもできない。
P71
本当に本当に、その通り。

「彼がよく言っていたわ……虐殺には、独特の匂いがある、って」
「匂い……」
「ホロコーストにも、カチンの森にも、クメール・ルージュにも、ぜんぶそれが張り付いてる、って。虐殺が行われる場所、意図された大量死が発生する国……そういうところには、いつも『匂い』があるんですって」
 虐殺の匂い。
 ジョン・ポールは過去の虐殺を調べているうちに、その匂いにたどり着いた。
「死体の匂い、とかそういうものじゃなさそうだね」
「そうね。彼なりの詩的表現なのだと思うわ。
P168-169
匂いか。分かる気がするな。

「眠りと覚醒のあいだにも、約二十の亜段階が存在します。意識、ここにいるわたしという自我は、常に一定のレベルを保っているわけではないのです。あるモジュールが機能し、あるモジュールはスリープする。スリープしたモジュールがうっかり呼び出しに応答しない場合だってある。物忘れや記憶の混乱はそのわかりやすい例ですし、アルコールやドラッグによる酩酊状態もまた、その一種です。こうして話しているいまだって、わたしやあなたの意識というのは一定の……こう言ってよければ、クオリティを保っているわけではない。わたしやあなたは、たえず薄まったり濃くなったりしているのです」
「『わたし』が濃くなったり薄まったり、ですって……」
 言葉の問題なのです、と医者は要った。「わたし」とは要するに言葉の問題でしかないんです、いまとなっては。
 (略)  どれだけのモジュールが生きていれば「わたし」なのか、どれぐらいのモジュールが連合していれば「意識」なのか。それをまだ社会は決めていないのだ、と。
P261-262
「わたし」を物の集合体として喩える。表現が面白いが、実存は絶望を呼ぶな。

 人間とは、ときに自分の命よりも、愛やモラルを優先させてしまうことができる、歪んだ生き物なのだ。利他精神で身を滅ぼしてしまうことのできる、そんな種族なのだ。
P290  
そうね歪んでるね。自分はその典型か。

 つまり、ここでは裏切りゲームがまだ有効なのだ。ゲーム理論的なシミュレーション・モデルの初期は確かに、愛他行為や利他行為といった特性を備えた個体よりも、いつも裏切って目先の利益を優先する個体のほうが生き延びやすい。モデルが複雑化するにつれ、そうした個体は淘汰されて、互いに協力関係にあり、互いを利する性格の個体による集合が増加し始めるが、この大地では複雑性がそこまで進行していないのだ。
 かつてはそうではなかったかもしれない。だが、この大地の倫理コードは、どこかの時点で一旦リセットされてしまって、シミュレーション・モデルはまだ充分な複雑さを獲得できない状態にとどまっているのだ。
P356
まさに現代はそういう状況。完全にリセットされてしまっている。しかも人口が増えているので大規模な悲劇が繰り返される。
我々が「古代」と呼ぶ世界は本当に古いのか、今いる時代のほうが野蛮へ逆行しているのではないか?

 われ地に平和を興(あた)えんために来ると思ふか。われ汝らに告ぐ、然らず、反(かえ)って分争うなり。
P359
聖書の一節を引用。
ジョン・ポールをキリストに喩える場面。

 世界はたぶん、よくなっているのだろう。たまにカオスにとらわれて、後退することもあるけれど、長い目で見れば、相対主義者が言うような、人間の文明はその時々の独立した価値観に支配され、それぞれの時代はいいも悪いもない、というような状態では決してない。文明は、良心は、殺したり犯したり盗んだり裏切ったりする本能と争いながらも、それでもより他愛的に、より利他的になるよう進んでいるのだろう。
 だが、まだ充分にぼくらは道徳的ではない。まだ完全に倫理的ではない。
 ぼくらはまだまだ、いろいろなものに目をつむることができる。
P382
ここで終わればリアリズムを保つことができたのだが、終わり方は陳腐だった。
わざとなのか文学に走る勇気がなかったのか、陳腐な商業エンタ-テイメントに逃げた。
でも陳腐なラストをこそ多くの現代人は「リアリズム!」と称賛するのだろう。そんな現実にこそこの物語の本当の結末が描かれていると思う。

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