読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

異端と正統の興亡史『グノーシス~古代キリスト教の異端思想』より引用

『グノーシス~古代キリスト教の異端思想』(筒井賢治著,講談社選書メチエ)

より引用

 

 にもかかわらず、正統多数派教会は、正典の内容的な統一性には目をつぶり、ひいては教義の一貫性を犠牲にしてまでも、伝統にしたがって現行の二七文書をそっくり飲み込んだ。マルキオンは、福音の純粋性にこだわって伝承を選別し、なおかつテキストのレベルでも取捨選択をおこなった。それによってマルキオン聖書が成立し、マルキオン派教会が立ち上がった。しかし、この運動は長続きせず、西方ではおそらく五〇年程度しかもたなかった。他の二世紀のキリスト教流派、ウァレンティノス派やバシレイデ―ス派も、規範的な文書集を決めるということはしなかったけれども、やはりそれぞれの仕方で哲学的・理論的な一貫性や妥当性にこだわり、文書生産活動も積極的におこなった。しかし、その活動が世界の歴史に目に見える足跡を残すような規模まで発展することはなかった。結局、それぞれ、対極的に見れば、突発的で短期間の運動、つまり「異端」にとどまった。

 これに対して多数派正教会はあくまで伝統を墨守した。もっとはっきりいえば、既成事実をそのまま追認していった。こうして、いわば、正統多数派教会は正統多数派でありつづけたのである。

P175


 「正統」と「異端」の関係だが、歴史研究においてよくいわれるのは、この区別は事後的に成立するもの、つまり闘争に勝った側が「正統」を名乗って相手方に「異端」の烙印を押すのだということである。つまり、争いがおこなわれている現場においては、どちらが勝つかまだ決まっていなかったのだから、正統も異端もなかったのだということになる。もちろん、これはこれで正しい。しかし、少なくとも初期キリスト教史における正統と異端に絞って考えるなら、右に述べたように、もうひとつ別のアスペクトが浮かび上がってくる。つまり、多数派主義と純粋主義、もしくは伝統遵守派と理論優先派という対立関係が、(もちろん事後的な意味における)「正統」対「異端」の関係とかなり重なってくるのである。

P176

 

 

 

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『権利のための闘争』 冒頭メモ


 権利=法(レヒト)の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならない限り――世界が滅びるまでその必要はなくならないのだが――権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
 世界中のすべての権利=法は戦い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。…


イェーリング『権利のための闘争』(村上淳一訳/岩波文庫)、力強く惹き込まれる冒頭文。
平和のための闘争※が必要だという宣言に我々は衝撃を受ける。

※〔2023/1/8追記〕なお、この矛盾した表現が後に「革命」を言い訳とした暴力主義者たちの蛮行を正当化し、「暴力ふるったけど非暴力」「僕たちは人を殺すのが大好きだけど平和主義者」と平気で言える狂気のカルト信者(アカ)を生んだことは付け加えておく。イェーリングの頃は現実に抑圧があり、闘争で法=権利を勝ち取るしかなかったのではあろうが。

 
この権利感覚、“法治”とはどういう意味なのか――法的精神が東洋人には確かに理解し難いものだったようだ。

東洋には市民が闘争して自由・権利を獲得した歴史が無い。
正しく法を用いた法家の為政者を除き、ほとんどの時代で法は権力者が民を虐げるための鎖として用いられたようだ。
このため東洋で自由を目指す者は全ての法を憎む。決して、自らが正しい法を得ようなどとは考えない。法の全否定。
法が権力であり憎き敵である限り、「法に殺されるか。それとも法を殺して自分が権力を得るか」の二択しかない。だから革命が終わらず永久に正しい法治国家が打ち立てられない。

法は権力者のためにある道具ではない。
法が権力を縛る鎖ともなることを、(本来の法とは権力からも盗賊からも善良な民を守るためのものであることを)東洋人はそろそろ理解しなければならない。


追記

東洋でもほんとうの大昔、たとえば『史記』の時代から漢代までは“法治”が現代と同じ意味で用いられたことがあった。不法行為から民を保護するための法、権力を縛るための法として。それがいつしか忘れられてしまったのは、“民のための政治”という概念が失われてしまったからか。免疫となる文化思想が失われたのだ。

私は必ずしも一般民という弱者が権力者と戦って権利=法を得なければならないとは思わない。血はそこまで大量に流されなくても良い。
 “民による民のための完全自由な愚民政治”が近現代のような地獄を招くことがあるのだから、我が侭のために法を倒していいと誤解しないようにしたい。

東洋人がもっと権利感覚と法への理解を深めるべきことは確か。東洋には東洋のやり方があるのではないだろうか。それにはかつて存在した「民のための法治」を蘇らせること、最強の文化教養の免疫システムを再起動させることだ。


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「沈潜」という言葉に共鳴。『「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差』

 


ネットにしてはめずらしく共感できる、秀逸な記事だなと思って読んでいたら齋藤孝氏だった。

⇒「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差

昔、この人の『読書力』という本がとても偏った内容で、全く共感するところがないと思ったのだがこの記事はいい。

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『ガラス玉演戯』より、神様の言葉





『ガラス玉演戯』ヘッセ著、高橋健二訳。復刊ドットコム版より。

久しぶりのヘッセで、まだ冒頭ながら衝撃を受けた箇所。

「ああ、ものごとがわかるようになればいいんですが!」とクネヒトは叫んだ。「何か信じられるような教えがあればいいんですが! 何もかもが互いに矛盾し、互いにかけちがい、どこにも確実さがありません。すべてがこうも解釈できれば、また逆にも解釈できます。世界史全体を発展として、進歩として説明することもでき、同様に世界史の中に衰退と不合理だけを見ることもできます。いったい、真理はないのでしょうか。真に価値ある教えはないのでしょうか」
彼がそんなにはげしく話すのを、名人はまだ聞いたことがなかった。名人は少し歩いてから言った。「真理はあるよ、君。だが、君の求める『教え』、完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え、そんなものはない。君も完全な教えにあこがれてはならない。友よ、それより、君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない。戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる」
P66

全く同感だ。クネヒトの気持ちも分かるし、名人の言葉こそ本当(真実)だと思う。

>それより、君自身の完成にあこがれなさい

これはまるで神(先輩方)からのメッセージのよう。
仰る通り、我々は誰もが個々に、自ずから完成を目指さなければならない。
先を歩く者は道案内の手助けはできるが、ショートカットの救いを与えることはできない。
教本教義、宗教のテキストなどを知識として詰め込めばゴールへ飛べるわけでもなく、まして地上の金で贖えるものは何一つない。

>戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる

この言葉、涙が出て来るな……。
何故だろうな。
自分も今、戦いに臨む気持ちでいるのだろうか。

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哲学書より? メモ



本棚の整理中に発見したメモ。
何の本を読んでいる時にメモしたのか忘れたが、たぶん哲学関連のガイド本。

西洋では、「神は自由」と定義したいために「一切は偶然」「個人は自由」という思想が生まれた。

※神は普遍に縛られない。だから人間個人と神を切り離し、人間の知覚から「普遍」を創り出さなければならない。そのような考えから形而上との決別――「オッカムの剃刀」が生まれた。近世哲学の源流。

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