読書備忘録 “いつも傍に本があった。”

反グローバリズムの本流『グローバリズムが世界を滅ぼす』(中野剛志、エマニュエル・トッド他)

トランプ米前大統領の登場により多くの人が感化された反グローバリズム。

その遥か以前にグローバリズムへの懸念を唱えていた学者たちによる、国際シンポジウムでの対談を収録したのが本書。

2014年第一刷。「トランプ前」の古い本だからこそ有用と思う。

陰謀論ではない反グローバリズムの主張”を学ぶためにとても分かりやすい一般書だった。“新自由主義”って何だったのか? など、ここ二十年の政治経済の疑問に答える入門書としても良いと思う。

 

本の紹介(Amazonより):

国内外の気鋭の論者が徹底討論

世界的なデフレ不況下での自由貿易と規制緩和は、解決策となるどころか、経済危機をさらに悪化させるだけであることを明らかにする!

長びく世界的不況を前にして、各国では「規制緩和」「改革」「自由貿易」といった経済のグローバリズムが、解決策として唱えられています。「雇用を守り、産業を保護するのは間違いで、規制撤廃こそ唯一の成長戦略であり、経済のグローバル化は歴史の必然だ」。しかし本当にそうでしょうか。グローバリズムこそ、世界的な需要不足(供給過剰)を引き起こし、世界的不況の「原因」となっているのではないか。「打開策」であるどころか、各国に、経済危機、格差拡大、社会崩壊をもたらしているのではないか――これが本書の執筆者たちの共通認識です。もしこれが正しければ、グローバリズムのさらなる推進は、愚策でしかありません。さらなる経済危機、格差拡大、社会崩壊をもたらし、世界の現状をさらに悪化させるだけだからです。にもかかわらず、政界、官界、財界、そしてジャーナリズムやアカデミズムの世界でも、「グローバリズムは正しく、また必然である」といまだ根強く信じられています。それはなぜなのか。グローバリズムによる世界の破滅を防ぐには、「政策」を実行する以前に、エリート層の強固なグローバリズム「信仰」を破壊しなければなりません。本書では、歴史人口学者、エマニュエル・トッド氏、経済学者のハジュン・チャン氏を始めとする国内外を代表する六人の識者が、それぞれの視点から、グローバリズム信仰の誤謬を明らかにし、こうした信仰の原因にまで切り込みます。


 「反グロ」はもともと左翼の主張

良い機会だからここで自分が近年眺めてきたグローバリズムの流れをメモしておく。

 

まず基本から振り返ると、本来「反グローバリズム」とは左翼すなわち共産主義者たちの主張だった。

2000年代~2015年頃までは国際的な会議場の前で左翼集団が「反グロ」を叫ぶデモをし、暴れていたことを記憶しているだろう。

たとえばこの対談で主要な意見を述べているフランスの学者エマニュエル・トッド氏も元“極左”。 

(ゆえに、トッド氏は歴史学者でありながら共産主義勢力について注意深く触れないように話をしている。現代の左翼は共産主義者が歴史上存在しなかったかのように話をしたがる。隠れて事を成すべきとの方針なのだろう)

 

左翼が反グローバリズムを掲げてきたのは共産主義の表向きの構造上当然のことだ。自由経済と個人主義は共産主義の目標、「共産党による私財吸い上げ・絶対的な独裁統治による再分配」に対立するのだから。

反ナチス=アンティファにせよ、反ユダヤ(陰謀論)および反アングロサクソンにせよ、反資本主義にせよ、何らかの大きな権力に世界が支配されているという妄想を起点として「反」を掲げるのが左翼というもの。

馬渕睦夫氏などもおそらくその界隈の旗手だから、彼のユダヤ陰謀論を鵜呑みにしてはいけない。虚7割・実3割くらい(たいてい導入部だけ事実を述べ後半で大きな嘘へ誘導するパターン)として聞き流すように。

 

保守が「反グロ」を叫ぶ捻じれ現象…

この流れが逆転し、保守が反グロを叫んで左翼がグロ礼賛を叫ぶという捻じれ現象が見え始めたのが2016年のこと。

トランプ氏という保守党から出馬し当選した大統領が、反グローバリズムの旗を掲げたためだ。

以降、トランプ氏を熱狂的に支持する米国の保守派が一気に反グロ主義者へと転向した。そして対立する左翼は平然と宗旨替えしてグローバリストになった。

 

こうして2000年代までの

 

右派=自由主義・個人主義・多様性尊重・グローバリズムに賛同

左翼=共産主義・全体主義・多様性否定・反グローバリズム


という構図が捻じれ破壊されてしまい、それぞれ

 

右派=反個人主義・反多様性・反グローバリズム・ナショナリズム

左翼=自由主義(偽装)・多様性尊重(偽装)・グローバリズム


を標ぼうする流れができた。

なお左翼は「偽装」であること注意。あくまでも反トランプのために(そして反キリスト教の工作のために)自由主義や多様性という嘘の看板を掲げているだけだ。ただし後で書くようにグローバリズムだけは、深層の本性を現したことになる。


おそらくこの辺りから多くの一般人は右往左往して訳ワカメになっていることだろう。

特に日本で、過激なナショナリストというイメージだけでトランプ氏に憧れ熱狂しただけの自称“保守”などは、訳が分からなくなり過ぎて左翼に誘導され、ユダヤ・ロスチャイルド陰謀論に走った。

(以下、強権者のイメージに熱狂しがちな日本人は恥ずかしい…という話は別件なのでカット)

 

保守が保護主義を掲げるのは、実は正常化

ともかくもトランプ氏の登場時期から、日本人だけではなく世界の保守が「自由主義」という共通目標を失い空中分解したのは確か。

トランプ氏を批判する人々のうち、左翼ではない識者たちはこの点を責めているのだと思われる。

(トランプ氏を嫌っていた2018年までの私もそう。また彼の民族ヘイト発言は生理的に嫌悪した)

このようにトランプ氏が保守を混乱させ、足並みを崩させた責任は重いと言える。


ただし思えば保守がナショナリズム、保護主義を掲げるのは本来当然のこと。国を守る意識がある故にこそ“保守”なのだから。

これまでの保守は反共の都合から自由主義経済を掲げてきた側面があることを否定できないだろう。

つまりトランプ氏のイデオロギーは、単に保守が正しい位置へ戻ることを手助けしたに過ぎないとも言える。

 

いっぽうの左翼側にしても、グローバリズムによって実現される「一つの世界・一つの価値観」は彼らの本性が求めるユートピアだと言える。

共産主義(社会主義)は表面的には財産分配をするための平等思想を装うが、深層の構造においては世界人類を一つの思想に従わせることを目的とした全体主義プログラム

であるのだから、本質的な意味で共産主義はグローバリズムとしか言えない。プログラムの原型であるキリスト教がそうであったように。

これまでは保守が推進してきた自由主義経済へのアンチテーゼのため、やむなく「反グロ」を掲げてきた共産主義者たちであった。だがここへ来てようやく本来の位置に戻ることができ「グローバリズムばんざい」を叫ぶことができるようになったのでは?


まとめると、右派は本来の伝統保守ナショナリストへ戻り、左翼はいよいよ全体主義グローバリストの本性を顕した

これが「トランプ後」の状況。


本書の感想と引用

まだこんな未来が訪れるようには見えなかった2013年に、本書収録の対談が行われたことが興味深い。

特に面白いのは、エマニュエル・トッド氏ではなく日本人の官僚などが保守的な発想からグローバリズムを批判していたことだ。

これはしごくまっとうな話。

 

さらに本書の中心となる主張、グローバリズムの本質は全体主義であり民主主義を衰退させ、国家を破壊し、世界平和を招くどころか戦争を起こす元凶となる――これは多くの人の常識を覆す発想だろう。

あくまでも直感的・体感的な話なのではあるが、私はこれを正論と思う。

 

特に瞠目した主張を引用しておく。

 

 お金で何もかも片を付けようとする社会では、民主主義の力が弱まります。国家の価値、家族の価値が溶けていき、文化や伝統、美徳や倫理が蒸発していくのです。結果として文明の低俗化が進んでいくのは物の道理です。

P32 本書中、藤井聡『トータリズム(全体主義)としてのグローバリズム』


 では、一%(支配者)の「外部(全体主義に抗って崩壊させる者)」はどこかというと、九九%です。九九%の弱者たち、ならびにエリートの中でも「体制外」 にいる心ある人たちです。その九九%の人たちは、グローバル化全体主義の存在を知った上で何をすればいいのでしょうか。

 ここでは結論だけ述べますが、九九%の人々の足元にある地域の文化、あるいは家族の構造、こういうものをしっかり見据えた上でコミュニティを大事にしていかねばならない。

 そして、コミュニティの一番大きなサイズはネーション(国家)ですから、ナショナリズムを重視する必要があります。また冒頭でグローバリズムとインターナショナリズムは一見似てはいるが全く違うものだと述べましたが、ナショナリズムが互いに協力し合うインターナショナリズムを重視しなければなりません。

 P68 同上


引用箇所の感想…

P32について。

これは共産主義が目指し行っている、文化伝統破壊と同じ。人の文化と倫理観を破壊し思考を奪うことで抵抗力を奪い、家畜化する。

共産主義もグローバル資本主義も、本質構造が同じという証だろう。

なお、藤井聡氏は右派、保守論客とされる。自民党のグローバリズム政策に呆れ反自民ではある。

 

P68、激しく同意。

 

一点この本のなかで個人主義を「アトム化」と決めつけ否定しているのはいかがなものかと思った。核家族化や共通文化を失ったことによる孤立感はかえって全体主義を招く、ということは確かにあるが。

個人性を否定すればやはり全体主義ディストピアとなる。個人が独立した考えを持ち、他者と絆で結び付き合うのが健全な社会だろう。

個人も国と同じ。各国が独立国家として健全なナショナリズムを持ち、文化伝統を保護しながら他国と協調し合う世界を構築していかなければならない。

これこそ個と個が自由意志を保って友情を結び合う、“水瓶座時代”らしい未来と言えるのではないだろうか。


 

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『よみがえる古代思想』プラトンの目指した政治術とは

 

『よみがえる古代思想』佐々木毅著(講談社)より引用。感想は記事下。
 

引用文

 アテナイの有名な政治家のペリクレス、ペルシャ戦争の英雄テミストクレスなどは、プラトンによれば、どうにもならない迎合屋になります。アテナイのもっとも誇りとする政治家たちを、プラトンはそれこそぼろくそに批判するわけです。彼らは人々に一時的な快楽を与えることや、欲望を一時的に満足させることにこれ努めて、本当の政治とは何をなすべきかをまったく知らなかったというのが、プラトンの見方です。なぜかというと、彼らは哲学をしなかったからである。単純化していえば、ソクラテス流の哲学をしなかったという点をプラトンは指摘します。

 それでは、本当の政治家とは何か。人々の魂を正しい方向へ導くのが政治家というものだというわけです。確かに船をつくったり、橋をつくったり、道をつくったりしても、魂

――P80

 

を正しい方向へ導かないだろうということは想像がつくわけで、これは戦後の日本においては広く知られた真理になっています。

 プラトンは、政治術という言葉を使っています。政治は技術であるというのが彼の信念です。民主制のように、だれもがみんな平等に政治に参加するが、だれも決定的な術(アート)をマスターしておらず、平等な中でいろいろと討論しながら政治をするという議論に対して、彼は技術(テクネー)というカテゴリーで対決するわけです。政治も技術である、と。

 彼が好んで用いるのは医者との対比で、医術は非常に専門的な術ですが、政治にも専門的な術があるというわけです。その専門的な術としての政治術の核心こそ、ソクラテス流にいえば「人間の魂に配慮する」こと、つまり人間の魂をよりよくするということを目標にした活動であるわけです。先ほどの言葉でいえば、人間の魂の中にある神聖なる要素を養い育てて、人間が本来あるべき姿になるようにする術ということになります。

―― P81

 しかしながら、プラトンは、ちょうど医術が人間の身体を正しい状態に持っていくように、人間の魂を正しい状態に持っていくのが政治術だとし、医術と政治術とを並列的に考えている。片方は肉体、片方は魂が対象というふうに考えており、これが政治を考えるときの彼の議論の基本となっています。

 ペリクレスその他がだめだったのは、…(略)…哲学的にいえば、一種の仮象の世界、真理の世界とは異なる見せかけの世界に人々をまどろませておいて、人々の支持を獲得するということです。それは政治の世界ではよく行われることであって、だから迎合してはいけないという話がすぐ出てくるわけです。

 人間の肉体や金銭、名誉といった価値に人々が関心を向けて、そこに快楽を見出すような世界から、本来ある魂に人間の価値を転倒させていくのが政治の仕事であるといっても

―― P82

いいわけで、これはソクラテスが既にいったことを新しい形で翻訳したものです。ですから、その意味で、放埓ではなく秩序ある魂の持ち主へと人間を導いていくのが、政治活動の重要なキーポイントということになります。これを除いては政治という活動は考えられない。大衆の欲望に召使のように奉仕することがあってはならないし、ましてや、人を傷つけることをもって誇りとするような専制君主などの魂は最悪の状態にあり、もっとも堕落している。そういう専制君主の更生の道は、まず人によって処罰されることであるといっています。ですから、処罰というか、一種の権力による統制、規制は、人間の魂を正しい方向へ導いていくための重要な手段になっていくとも考えられるわけです。 

――P83

ただ、彼にとってポリスは決して不滅ではなくて、不滅なのは人間の魂だけなのだという点は決定的に重要です。ポリスに魂はないわけです。確かに個人は国家によっていろいろと規制は受けるだろうけれども、国家が不滅であって、個人はあたかもそれに対してか弱い虫のようなものだという議論ではない。ここに二十世紀におけるプラトン理解の基本的な問題があった。その意味ではプラトンを国家主義者や民族至上主義者に仕立て上げたり、そういう前提で彼を批判するのは基本的に間違っているのです。

―― P94


 ブログ筆者の感想

やはりプラトン思想は東洋で言うところの儒家+法家という感じ。

哲人王≒徳王。(ただし東洋の徳王は教育さえあれば誰でもなれるものではなく資質こそ重要となるが)

 

プラトンの目指した“政治術”は東洋にあった。

私もおそらくそれ故に東洋思想に共鳴したのだと思う。無意識では、「探していた術がここにあった」と感じていたようだ。

プラトンが医術と政治術を同等に考えていたという解釈も面白い。共鳴する。ただし私はプラトン先生より、もう少し人々の本来備わった自然治癒力を信じるが。 治療は最小限、手術のあとは生活習慣を改善するアドバイス程度で良いと考える。それでもプロの医術を完全否定し、民間療法だけを正義と唱える極端な人たちとは対立するのかもしれない。

 

人々のため、誰もが幸せに生きていける社会体制とはどのようなものか考え続けたプラトン。

それなのにキリスト教徒や近現代の反哲学者など、権力欲の塊である悪魔たちによって捻じ曲げられ全体主義の教科書として悪用されたのは不幸極まる。

悪い者たちに名を利用されたのはプラトンが西欧において圧倒の人気があったからなのだろうが。

「だから思想は書いてはならないのだ」とソクラテスが苦笑いしていそう。

ところが、書かずに行動だけで示そうと考えた諸葛亮はこれだけ悪用されている。書かなければ誤解されたまま、未来の賢い人たちにも本心が届かず「実際はどうだったのだろう?」と首を傾げられて終わり。…もちろん最もレベルの高いマニアは本心を見抜いている(だから「見ている人はいる」と言える)のだが、本人の書いた文で裏付ける手段がないのは気の毒なことだと思う。

書いても書かなくても悪魔たちは自分の欲望のために思想を捻じ曲げ、悪用するのだ。

だとすればせめて賢い人たちの推測が裏付けられるように、本心を文として残しておくべきではないだろうか。

今ここでプラトン本心の推測を私が裏付けられるのも、彼が文を残してくれたからだ。

(上の引用文は佐々木毅氏の解釈であって本人の言葉ではないけれども。個人的にはかなり正解に近いと思う。裏付けはプラトン著書原典/後世キリスト教徒による改変と思われる箇所を除く)


 

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『権利のための闘争』 冒頭メモ


 権利=法(レヒト)の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならない限り――世界が滅びるまでその必要はなくならないのだが――権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
 世界中のすべての権利=法は戦い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。…


イェーリング『権利のための闘争』(村上淳一訳/岩波文庫)、力強く惹き込まれる冒頭文。
平和のための闘争※が必要だという宣言に我々は衝撃を受ける。

※〔2023/1/8追記〕なお、この矛盾した表現が後に「革命」を言い訳とした暴力主義者たちの蛮行を正当化し、「暴力ふるったけど非暴力」「僕たちは人を殺すのが大好きだけど平和主義者」と平気で言える狂気のカルト信者(アカ)を生んだことは付け加えておく。イェーリングの頃は現実に抑圧があり、闘争で法=権利を勝ち取るしかなかったのではあろうが。

 
この権利感覚、“法治”とはどういう意味なのか――法的精神が東洋人には確かに理解し難いものだったようだ。

東洋には市民が闘争して自由・権利を獲得した歴史が無い。
正しく法を用いた法家の為政者を除き、ほとんどの時代で法は権力者が民を虐げるための鎖として用いられたようだ。
このため東洋で自由を目指す者は全ての法を憎む。決して、自らが正しい法を得ようなどとは考えない。法の全否定。
法が権力であり憎き敵である限り、「法に殺されるか。それとも法を殺して自分が権力を得るか」の二択しかない。だから革命が終わらず永久に正しい法治国家が打ち立てられない。

法は権力者のためにある道具ではない。
法が権力を縛る鎖ともなることを、(本来の法とは権力からも盗賊からも善良な民を守るためのものであることを)東洋人はそろそろ理解しなければならない。


追記

東洋でもほんとうの大昔、たとえば『史記』の時代から漢代までは“法治”が現代と同じ意味で用いられたことがあった。不法行為から民を保護するための法、権力を縛るための法として。それがいつしか忘れられてしまったのは、“民のための政治”という概念が失われてしまったからか。免疫となる文化思想が失われたのだ。

私は必ずしも一般民という弱者が権力者と戦って権利=法を得なければならないとは思わない。血はそこまで大量に流されなくても良い。
 “民による民のための完全自由な愚民政治”が近現代のような地獄を招くことがあるのだから、我が侭のために法を倒していいと誤解しないようにしたい。

東洋人がもっと権利感覚と法への理解を深めるべきことは確か。東洋には東洋のやり方があるのではないだろうか。それにはかつて存在した「民のための法治」を蘇らせること、最強の文化教養の免疫システムを再起動させることだ。


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「沈潜」という言葉に共鳴。『「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差』

 


ネットにしてはめずらしく共感できる、秀逸な記事だなと思って読んでいたら齋藤孝氏だった。

⇒「本から学ばない人」と「読書家」の致命的な差

昔、この人の『読書力』という本がとても偏った内容で、全く共感するところがないと思ったのだがこの記事はいい。

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『ガラス玉演戯』より、神様の言葉





『ガラス玉演戯』ヘッセ著、高橋健二訳。復刊ドットコム版より。

久しぶりのヘッセで、まだ冒頭ながら衝撃を受けた箇所。

「ああ、ものごとがわかるようになればいいんですが!」とクネヒトは叫んだ。「何か信じられるような教えがあればいいんですが! 何もかもが互いに矛盾し、互いにかけちがい、どこにも確実さがありません。すべてがこうも解釈できれば、また逆にも解釈できます。世界史全体を発展として、進歩として説明することもでき、同様に世界史の中に衰退と不合理だけを見ることもできます。いったい、真理はないのでしょうか。真に価値ある教えはないのでしょうか」
彼がそんなにはげしく話すのを、名人はまだ聞いたことがなかった。名人は少し歩いてから言った。「真理はあるよ、君。だが、君の求める『教え』、完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え、そんなものはない。君も完全な教えにあこがれてはならない。友よ、それより、君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない。戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる」
P66

全く同感だ。クネヒトの気持ちも分かるし、名人の言葉こそ本当(真実)だと思う。

>それより、君自身の完成にあこがれなさい

これはまるで神(先輩方)からのメッセージのよう。
仰る通り、我々は誰もが個々に、自ずから完成を目指さなければならない。
先を歩く者は道案内の手助けはできるが、ショートカットの救いを与えることはできない。
教本教義、宗教のテキストなどを知識として詰め込めばゴールへ飛べるわけでもなく、まして地上の金で贖えるものは何一つない。

>戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる

この言葉、涙が出て来るな……。
何故だろうな。
自分も今、戦いに臨む気持ちでいるのだろうか。

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