小説の感想
ようやく読むことが叶った。『天地明察』。もうずっと、何年も前からこれだけは読みたいと思い続けていたのだが、しばらく“読書断ち”していたので読めなかったのだ。
読書断ちしている間に文庫も出ていたらしい。
ありがたく文庫を購入して読んだ。
まず書いておきたい、素晴らしい!!
こんなにストレートに「素晴らしい」と叫びたくなる、気持ちの良い小説を読むのは何年ぶりだろう。
もしかしたら日本の現代作家の小説では初めてかもしれないな。
一点、強調しておきたいのだが歴史小説好きにはこれは受け入れられないと思う。
この小説には「歴史小説らしさ」がないからだ。
歴史小説独特の、歴史臭(講談臭)がしない。
SF作家さんが書いたということだったのでもしかしたら、と期待したが当たりだった。正直思ったよりは歴史小説らしさを装っていたが、視点と心理描写が明らかに現代小説のもので、歴史アレルギー持ちの私でもアレルギーを発症せず読むことが出来た。
※「歴史臭」とは何か? カビの生えた講談調の言い回し、同じく講談調の定番過ぎる展開(あるいは“新説”と称して定番の逆でしかない展開)、三人称にしても視点が遠過ぎて表面的な心理描写。登場人物が全て人形劇の人形のよう。
『天地明察』という小説の素晴らしさは挙げるときりがない。
まず、切った張ったが出て来ないことが本当に素晴らしい。
今の世の中、「殺人」ありきのストーリーばかりでつくづくうんざりしている。物語の流れで人が死ぬのならまだしも、「殺人」から物語が始まるものばかり。現代作家たちは「殺人」から始めなければ物語が書けないらしい。バカなのだろうか?
『天地明察』では歴史物なのに人が殺されない。斬り合いシーンさえない。
ただ心の勝負があるだけだ。
これだけでも奇跡的に素晴らしいと思った。
殺人も殺し合いシーンもなしで、こんなにも手に汗握る面白い物語が生まれたことが嬉しい。
それから、登場人物が魅力的。
歴史作家たちが歴史上人物を描くときは「いかに我々と違って偉い人間なのか」をアピールしようとする。そのため主人公は高みに置かれ有能で重厚な人物として描かれる。(だからこそ歴史小説の地の文の視点は客観的で、遠い)
だが『天地明察』の描写は真逆。
主人公の春海(算哲)は一所懸命だが不器用、正直で朴訥、夢はあるが野心はないというピュアな人物として描かれている。この主人公がたまらなく魅力的だ。思わずふっと微笑んでしまう彼の失敗が身近に思え、応援したくなる。さらに居場所を探して苦しんでいた若き春海には、自分自身の経験を重ねて共鳴さえした。
関孝和や水戸光圀、保科正之なども、実在人物であるのに雲上の高みに置かれず生き生きとした人間らしい魅力を放っている。
えんや、村瀬とのやり取りにテンポの良い会話文が用いられているのは、「ライトノベルっぽい」と言って嫌う人も多いだろうが私は(この程度なら)好きだ。
そして何より、題材がいい。たまらなく、いい。
碁に算術から始まり、月星の観測へ流れていく。
空を見上げ、空へ手を伸ばす。ただひたすら真っ直ぐそれだけの世界。
私にはどうしようもなく好みの世界だった。
これを読んでいる間中、幸福な気持ちに浸ることが出来た。
作者に“ありがとう”と言いたい。こんな物語を世に出してくださって、ありがとうと。
上に「こんなに気持ちの良い小説を読むのは何年ぶりだろう」と書いたのだが、実を言えばこの小説は私の人生を変えてくれる気がした。それほどのインパクトがあった。
と言うのは個人的な事情による。
算術に浸って楽しげにしていた算哲を見て、自分もあそこに行きたいと思ってしまったとき、自分が疲れていることにはっきりと気付いてしまった。
実際、戦いの世界には飽きてしまったのかもしれない。
算哲が御城碁に飽きて求めた「戦い」などではなくて、義務として巻き込まれるくだらない社会の戦いに。
もういいんじゃないか。戦いを投げ出しても許されるんじゃないか。
これを読みながらずっとそんなことを考えていた。
可能なら、これからの人生は算哲のように空を見て幸福な心地で生きたいと思う。
(今さら算術や天文の道に行くという意味でなない。ただもう少し素直になり、楽しいことを求めて生きるべきだと悟った)
若い頃のような「文学に衝撃を受ける」ということとは違うが、この本は私の人生の節目に必要だった気がする。
運命の本だった。
以下は細かいことです。
■この小説の暦などの知識には難があるらしい
アマゾンレビューによれば、『天地明察』の暦や算術の知識には誤りがあるらしいから注意したい。小説なのだから、小説として面白ければそれで良いと私は思う。ファンタジーやSFなら設定は自由に出来るのだから。だが、知識にこだわるタイプの人には我慢ならないことかもしれないね。
まあ、確かに冲方さんは専門知識を突き詰めず早急に文を書いてしまう癖はあるのかも……と、先日の「二次創作論」を読んで思った。
■映画について
幸いにも、映画は小説を読むより先に観たので純粋に楽しめた。映画は省略が多くストーリーもかなり変更されていた。
しかしそんな映画でも2時間半、飽きずに見ることが出来、「ああー面白かった!」と呟いてしまうほど堪能した。
あの長編を2時間半という短い時間に収めたのだから、あちこち省いたり、ストーリーの変更があっても仕方がなかったと思う。
むしろラストのほう、小説では春海がロビー活動で策略を展開するのに対し、映画では真正面から再びの勝負に挑む。小説のほうが歴史的事実なのかもしれないが、ちょっと前半と後半で人物の性格が変わったかなという印象を持つ(それは大人としての成長という意味で悪印象はないものの、やや複雑な気分)。物語としては映画のほうが主人公の人格が変わらず、気持ちの良い展開となっている。
あと細かいことだが、映画で私が感銘を受けたのはタイトル画像の美しさ。
星空をバックに 「天 地 明 察」 の四字が表れた瞬間、そのあまりの美しさに涙が出た。
漢字というものは、なんて美しいのだろうかと思った。星空といい、この四字の語感といい、文字の形といい、完璧だ。
あの画像を見ても、自分にはもう一度帰りたい世界があると感じた。
※2014年8月31日筆