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谷崎潤一郎『春琴抄』紹介と感想


物語は二つの墓の描写から始まる。
「鵙屋(もずや)」という名家一族の墓から少し離れた空き地に建つ、通称春琴(しゅんきん)の墓。
その隣にひっそりと寄り添うように建つ小さな墓には「門人」と刻まれている。
小さなほうは「温井佐助(ぬくいさすけ)検校」の墓だった。検校(けんぎょう)とは尊敬される高位の音曲家のことだが、その地位にも関わらず何故に小さな墓であるのか。何故に「門人」と刻まれているのか。

語り手は、
此の墓が春琴の墓にくらべて小さく且(かつ)その墓石に門人である旨を記して死後にも師弟の礼を守っているところに検校の意志がある。
と説く。
さらに
奇しき因縁に纏われた二人の師弟は夕闇の底に大ビルディングが数知れず屹立する東洋一の工業都市(大阪)を見下しながら、永久に此処に眠っているのである。それにしても今日の大阪は検校が在りし日の俤(おもかげ)をとどめぬ迄に変ってしまったが此の二つの墓石のみは今も浅からぬ師弟の契りを語り合っているように見える。
と描写される。
美しくミステリアスな描写で始まる師弟の物語は、二人の出会いへ遡り紐解かれていく。
裕福な商家に生まれ、類まれな音曲の才能と美貌に恵まれた春琴は不幸にも九歳の時に眼の病で視力を失った。
盲目となった彼女の世話をしていた丁稚(でっち)の少年が佐助だった。佐助は彼女の付き添いで琴や三味線の稽古へ通ううち、彼自身も音曲に魅了され、夜中に押入れに隠れて三味線の稽古をするようになる。
やがて佐助も音曲の稽古を許されて春琴の弟子となる。ここから春琴とは主従だけではなく師弟ともなり、絶対的な上下関係のもとサディスティックな愛の日々が始まる。

どれほど折檻を受けても我がままを言われても、甲斐甲斐しく春琴に仕え続ける佐助。
佐助はひたすらに春琴の美貌を崇め平伏すばかりだ。 
結婚もしないまま二人の関係は続いていくが、ある日再びの不幸が春琴を襲う。
その時、佐助がとった行動は衝撃的なものだった――。


美しい者に支配され尽くしきる者だけが到達する「悦び」。
佐助は、虐げられ振り回されることで燃えるマゾヒストの標本のような人だ。ただし尽くす主人は美しくなければならないと仰る、笑い。実は最高の我がままさんだ。

この小説のストーリーを大真面目に受け取り、
「究極の純愛!」
「素晴らしい! これこそが愛!」
と本気で思える人は中学二年生と同じくらい純情と言える。
普通の大人は、
「はいはい。そういうの、お好きなんですね」
と苦笑して受け流す。
あるいは、好きな側の人なら大歓迎してこのシチュエーションを受け取るだろう。

おふざけに怒ってはいけない。作者も「分かっている」年代の「分かっている」人向けに書いているのだ。
「好きな人はどうぞ、はまってください。こういうの苦手な人は、お互い大人なのだから笑って許してね」
とニヤつきながら書いている姿が目に浮かんで愉しい。

しかしそんなマニアックな趣味を、大衆受けする下品な表現ではなく超絶に優れた文章技法で描いていることに痺れる。
「耽美小説」
と呼ばれるのだが、真に耽美なのは内容ではなくて文章そのものだ。
「官能」
も、エロティックな物語の設定ではなく文章にこそある。

これは性表現によらず、純然たる文章技術で「官能」を提供できるという遥か高みのお手本と言える。
「官能」は「感応」だ。
この文章によって刺激された脳のどこかが確かに反応する。精神を愛撫する究極のエロスである。
繊細な菓子を口に含んだ時に似ているか。さほどの栄養はないのだが、仄かな舌触りと香りは記憶に残り永く精神を刺激し続ける。
句読点や段落を省いた実験的な文章であるのも、文章そのものに感じてもらいたかったからだろう。
もしかしたら設定からエロティックさを抜いて、ストーリーとは無縁の「文章官能」を創られていれば学者に正しく伝わったかもしれない。
でもそれでは小説として「耽美」や「官能」の看板が立てられない。事実、ただの実験小説になってしまって、一般読者を得ることは難しかったのだろう。

それに計算かどうか分からないが、実は設定も入れ子構造で「感応」となっている。
佐助は春琴を眺め崇拝しているうちに春琴そのものになりたいと願う。春琴との一体化を夢見ている。
文章と読者の関係と同じく、佐助も春琴に「感応」しているのだ。

また作者自身がこのような趣味をお持ちだった、ということも事実らしい。
私生活で彼は美しい名家のお嬢様と
「春琴ごっこ」(厳しい女師匠に仕える下僕ごっこ)
を愉しんでいて、後に彼女と結婚している。
要するに自分の趣味全開で設定を愉しみながら書いたのか。だから読んでいて佐助が幸せそうにも感じられるのだな。
「ご馳走様」
と言いたくなる。

他の耽美小説は後味の悪さが残るのに、谷崎の小説には爽やかさすら感じる。それは作者の私生活にほのぼのした愛があったからだろう。
一歩引いたところから眺める冷静な語り手の視点には、「ごっこ」を「ごっこ」として愉しんだ、作者の大人な人格が感じられる。
耽美に溺れているだけのお子様小説とは違う高等な大人の「耽美小説」である。