先日、片頭痛の話『歯車』にて芥川龍之介について書いたらむしょうに芥川を読み直したくなって、kindleで芥川ばかり読んでいる。
読み直して改めて感動の落雷に打たれているのは、『杜子春』。
ラストのこの一節は、大人になった今になって触れると涙が出るではないか。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/170_15144.html
深く共鳴する。
この「人間らしい正直な暮らし」というものの、なんという得難さ……。仙人になるより遥かに難しい。
それを身に染みて知っていた芥川だからこそ絞り出されたこの台詞。
そう思うとたまらず涙が出てくる。
ところで『杜子春』には中国古典の同じタイトルの原作があるが、この際読み比べてみたくなり、取り寄せてみた。
芥川よりグロテスクだの利己主義だの、「意味ワカラン」だのと評判の悪い原作。
芥川との違いをまとめるとこうなる。
(完全ネタバレなのでこれから読みたいと思う人は読まないように注意してください)
・物語の舞台は洛陽ではなく長安。
・「仙人」である鉄冠子は、「道士」。
・杜子春は人間に絶望して仙人になりたいと望むわけではない。お金をくれた道士へ報いるため言うことをきく。
・鉄冠子が起こす超能力(地中に金が埋まっている、空を飛ぶ)などの派手な描写はない。
・杜子春の親ではなく妻が責め苦に遭い、杜子春へ救いを求める。が、杜子春は妻には冷たく無言を貫く。妻は切り刻まれる。
・次に杜子春が地獄へ落とされ全ての拷問を受ける。地獄の責め苦でも声を出さなかった杜子春は罰として女に生まれ変わる。
・女に生まれ変わった杜子春が、夫に我が子を殺され初めて「ああ!」と声を出してしまう。
・褒めた鉄冠子と違って、道士は声を出した杜子春を激しく罵倒。
・杜子春は仕方なく人間の生活へ戻る。
・未練が残り、かつて道士がいた場所へ行ってみたりするがそこに道士はいない。
・杜子春は声を出した自分を恥じて後悔して生きていく。
細かい違いも興味深い。
芥川が、長安ではなく洛陽に変えたり、道士を鉄冠子に変えたりしたのは単にそのほうが日本の読者に馴染みがあると思ったからか? (鉄冠子は『三国志』に登場する左慈のこと、洛陽はその左慈が同作品中で出没する都市。当時の日本人にも馴染みがあった。芥川自身も『三国志』の愛読者だったらしい)
原作の杜子春が妻には冷たく、妻が切り刻まれるのを見ても無視するのに、女として生まれ変わった時に子が殺されて初めて声を上げるのにはツッコミたくなる。唐人には女性の我が子に対する愛情しか「愛情」というものがなかったのか?(唐の男は平気で妻子を殺せたのか?) これが芥川版の杜子春なら、親であれ子であれ妻であれ、自分以外の親しい人が責め苦に遭ったら声を上げてしまうはずと思うのだが。
ラストの道士の態度と杜子春の心持は芥川版と真逆と言えるだろう。
この結末がやはり最も大きな違い。
評判は悪いが、私は原作は原作で筋の通った物語だと思う。
そもそもこれは釈迦の輪廻伝説と似た系統の宗教説法と考えられる。
目を差し出して潰され憤慨した前世の釈迦が、輪廻から解脱する卒業試験に落ちたように、「全ての人間としての感情を捨てなければレベルアップして人間以上の者になることは無理」という当然のことを教えている。※もっと正確に言えばこの世は全て幻であり、幻に心を動かしているようでは人間レベルを脱することは不可能ということ
その代わり原作では声を出してしまった杜子春を否定も肯定もしていない(道士の罵倒は決して人間の否定ではない)。ただ「杜子春は人間レベルである」という事実認定だけ。この点、公平な説教と言える。
いっぽうの芥川版『杜子春』は人間肯定の物語だ。
芥川の『杜子春』が、芥川の独自作品として強い輝きを放っているのは、最後の一言(上の引用部分太字)に芥川自身の心の叫びが乗っているから。
「桃の花の咲く畑のある一軒家」はまさに人として生きていく幸福の頂点にある。
ラストの描写でその究極の桃源郷が鮮やかに脳裏に浮かぶ瞬間、あまりの幸福な光景に涙が滲む。
あの景色を描いた芥川は、なんという真っ当な人なんだろうか。
上でもなく下でもなく真ん中を望んだ。健全健康な精神の持ち主。
しかしその健全な人がついに桃源郷に留まることが出来なかった。
遠く、桃の咲く一軒家が明るい陽射しに照らされて見える時、そこへ憧れた人の切ない嘆きの声が私には聴こえる。
読み直して改めて感動の落雷に打たれているのは、『杜子春』。
ラストのこの一節は、大人になった今になって触れると涙が出るではないか。
「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇(すがめ)の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反(かへ)つて嬉しい気がするのです。」
――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」以上、『杜子春』より
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/170_15144.html
深く共鳴する。
この「人間らしい正直な暮らし」というものの、なんという得難さ……。仙人になるより遥かに難しい。
それを身に染みて知っていた芥川だからこそ絞り出されたこの台詞。
そう思うとたまらず涙が出てくる。
ところで『杜子春』には中国古典の同じタイトルの原作があるが、この際読み比べてみたくなり、取り寄せてみた。
芥川よりグロテスクだの利己主義だの、「意味ワカラン」だのと評判の悪い原作。
芥川との違いをまとめるとこうなる。
(完全ネタバレなのでこれから読みたいと思う人は読まないように注意してください)
・物語の舞台は洛陽ではなく長安。
・「仙人」である鉄冠子は、「道士」。
・杜子春は人間に絶望して仙人になりたいと望むわけではない。お金をくれた道士へ報いるため言うことをきく。
・鉄冠子が起こす超能力(地中に金が埋まっている、空を飛ぶ)などの派手な描写はない。
・杜子春の親ではなく妻が責め苦に遭い、杜子春へ救いを求める。が、杜子春は妻には冷たく無言を貫く。妻は切り刻まれる。
・次に杜子春が地獄へ落とされ全ての拷問を受ける。地獄の責め苦でも声を出さなかった杜子春は罰として女に生まれ変わる。
・女に生まれ変わった杜子春が、夫に我が子を殺され初めて「ああ!」と声を出してしまう。
・褒めた鉄冠子と違って、道士は声を出した杜子春を激しく罵倒。
・杜子春は仕方なく人間の生活へ戻る。
・未練が残り、かつて道士がいた場所へ行ってみたりするがそこに道士はいない。
・杜子春は声を出した自分を恥じて後悔して生きていく。
細かい違いも興味深い。
芥川が、長安ではなく洛陽に変えたり、道士を鉄冠子に変えたりしたのは単にそのほうが日本の読者に馴染みがあると思ったからか? (鉄冠子は『三国志』に登場する左慈のこと、洛陽はその左慈が同作品中で出没する都市。当時の日本人にも馴染みがあった。芥川自身も『三国志』の愛読者だったらしい)
原作の杜子春が妻には冷たく、妻が切り刻まれるのを見ても無視するのに、女として生まれ変わった時に子が殺されて初めて声を上げるのにはツッコミたくなる。唐人には女性の我が子に対する愛情しか「愛情」というものがなかったのか?(唐の男は平気で妻子を殺せたのか?) これが芥川版の杜子春なら、親であれ子であれ妻であれ、自分以外の親しい人が責め苦に遭ったら声を上げてしまうはずと思うのだが。
ラストの道士の態度と杜子春の心持は芥川版と真逆と言えるだろう。
この結末がやはり最も大きな違い。
評判は悪いが、私は原作は原作で筋の通った物語だと思う。
そもそもこれは釈迦の輪廻伝説と似た系統の宗教説法と考えられる。
目を差し出して潰され憤慨した前世の釈迦が、輪廻から解脱する卒業試験に落ちたように、「全ての人間としての感情を捨てなければレベルアップして人間以上の者になることは無理」という当然のことを教えている。※もっと正確に言えばこの世は全て幻であり、幻に心を動かしているようでは人間レベルを脱することは不可能ということ
その代わり原作では声を出してしまった杜子春を否定も肯定もしていない(道士の罵倒は決して人間の否定ではない)。ただ「杜子春は人間レベルである」という事実認定だけ。この点、公平な説教と言える。
いっぽうの芥川版『杜子春』は人間肯定の物語だ。
芥川の『杜子春』が、芥川の独自作品として強い輝きを放っているのは、最後の一言(上の引用部分太字)に芥川自身の心の叫びが乗っているから。
「桃の花の咲く畑のある一軒家」はまさに人として生きていく幸福の頂点にある。
ラストの描写でその究極の桃源郷が鮮やかに脳裏に浮かぶ瞬間、あまりの幸福な光景に涙が滲む。
あの景色を描いた芥川は、なんという真っ当な人なんだろうか。
上でもなく下でもなく真ん中を望んだ。健全健康な精神の持ち主。
しかしその健全な人がついに桃源郷に留まることが出来なかった。
遠く、桃の咲く一軒家が明るい陽射しに照らされて見える時、そこへ憧れた人の切ない嘆きの声が私には聴こえる。