このブログ向きの話かもしれないので上げ。2011年、読み始め時のメモです。
※下画像のリンク先は電子書籍です
まだ読み始めだけど面白いです。
守屋先生の本は解説本などでお世話になったことがありましたが、今回は純粋な読書としてはまりました。ちょっと燃えています。
「孫子をビジネスに活かそう」、というタイトルのマニュアル本は世に山ほど出ていて、私も昔何冊か読んだことはあるが一度も納得出来たことがなかった。
どれも詐欺、と言うのは言い過ぎかもしれないけど、孫子の言葉を漫然となぞってビジネスに置き換えているだけで内容がない。
古代の偉大なる戦略家の神秘性を借りて、「この法則を実行していれば必ず成功する」などと暗示をかける宗教みたいなものか。あんなもの何冊読んでも役には立たないだろうにと思う。(中には素晴らしく役に立つ本もあるかと思いますが、運が悪いのか私は今まで巡り会ったことがありませんでした)
この本も始めそういう類の本かと思い、期待はしていなかった。
でも読み始めてすぐ良い意味で裏切られた。
この本は大真面目に『孫子』と西洋戦略論・現代ビジネス戦略論を比較し、『孫子』を現代に活かすにはどうしたら良いか検討してみようと書かれた本である。
要するに上から目線で
「こうしなさい」「ああしなさい」
と説教してくるマニュアル本ではなくて、学者的な公平な態度で『孫子』という素材を真摯に分析、他と比較して論じている。だから面白い。
論に同意したり違う視点から考えたり、読者として好奇心を掻き立てられる。
特に、ふんだんに散りばめられた西洋ビジネス戦略論からの引用と、孫子との対比が面白いですね。
細かい主張に関しては色々と首を傾げたりする部分もあるのだけど、こうして考えが浮かぶこと自体が奇跡的。他の孫子本はそこまでに至らなかったので、これは嬉しい。
以下、思ったことをメモしていきます。
メモなので、ばらばらに。読みながらまた追加するかもしれません。
※反対意見っぽいものも「批判」ではありませんから悪しからず。単に一読者としての所感になります※
(現場=何度も失敗して可。試行錯誤が許される。
経営=戦争と同じく失敗が許されず試行錯誤が出来ない。
故に、「現場では本田氏の言葉が当てはまり、経営では孫子が当てはまる」との守屋氏の主張)
が、本田宗一郎の言葉は現場だけに当てはまるものではないのではないか?
本田氏が言いたかったのは、
「古代の指南書から学ぶのは時間の無駄。現在の経験から、現在の状況を見極め、現在において理念(戦略)を立てていけば足りる」
ということではないかと私は思う。
確かに古今東西の経営論の知識は大切だし、その知識を補足するプロのアドバイザーたちが本田氏の周りには存在しただろう。だが経営判断において最も重要なのは、「今」に関する感覚。「今」を的確に判断する目さえあれば無理に千年も前の知識を掘り起こす必要はないだろう。
温故知新と言っても限度があるということ。直近の過去でも足りるはず。
そもそもこんなことを言っては元も子もないけど、私は本当に『孫子』がビジネスに役立つのかどうか疑問を抱いている。
『孫子』はあくまでも戦争の指南書だ。
戦争の指南書を無理やりビジネスに置き換えようと、たくさんの人が苦心しているが、苦心している暇があるなら現代ビジネスを直接勉強したほうが早いのでは? と思ってしまう。
言わずもがなの真実を書いてしまうと、戦争は戦争。
ビジネスはビジネス。
「人殺しもありの奪い合い」と「共存共栄の利益追求」だ。
本質が違うと割り切って専門は専門の道を学んだほうがいいのでは。
いくら『孫子』に詳しくても金計算や法律を知らなければ、現代で会社の一つも起こせない。ということで、ビジネスの極意を知りたかったらビジネス論を学んだほうが圧倒的に近道かと。
きちんと現代ビジネスを学んだ後で『孫子』に置き換えて考えるなら、思考整理の方法として良いと思う。
例、
人生をマラソンに喩えることは可能だけれども、マラソンの達人だからと言って人生全てうまくわたっていけるわけではない
(※マラソン=孫子 人生=ビジネス)
孫子は「多数との競争の中での生き残り」、
を書いているのだと。
鮮やかな対比。分かりやすいしその通りだなと感じた。
でもなんでこの違いが生まれたのかと考えると、私が思うにクラウゼヴィッツ『戦争論』は戦争状態を写生したもので、孫子兵法は“戦争のやり方”を初学者も含めて一から説く目的で書かれたものだから。
まず書かれた目的が違う。
そして書いている視点の時間軸が違う。
クラウゼヴィッツは既に「一対一」の戦争状態が起こった後を観察してメモしているのであり、孫子はまだ戦争が起こっていない状態の視点から説き始めている。
当然、孫子は「まだ戦争が起きていない」のだから防ぐことも可能なのである。
よく孫子は平和主義から戦争回避を説き、クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長」とまで述べて戦争を肯定したと言われる。
確かに、孫子は内心では戦争を嫌悪していたのではないかと私も感じる。この矛盾が私も孫子を好きな理由。
ただし戦争の本質に関しては、実は両者とも同じ真実を書いているだけに過ぎない。
戦争が始まる前の視点から見れば
「外交・政治その他の暴力以外の力を用いて敵国を圧するのが最善だ。戦争するのは最悪のこと」(孫子)。
同じことを戦争が始まってしまった後からの視点で言い換えれば、
「戦争とは外交と異なる手段を用いてする政治の延長」(クラウゼヴィッツ)
ということになる。
孫子も逆から見れば「戦争とは政治の延長における“最悪な”形」と書いているわけだ。
クラウゼヴィッツの「戦争は政治の延長」も、言葉を裏返せば政治の段階で留まることも可能だったはずという意味になる。
クラウゼヴィッツは少し言葉足らずだったということになるか。
言葉足らずでもたぶん専門家同士なら阿吽で通用する話なのだろうが、一般的な感覚からは戦争と政治をイコールで並べたようで違和感のある文に見えてしま う。現に、クラウゼヴィッツの言葉を「戦争は政治の延長に過ぎないんだからやっても構わないんだ! やるべきだ!」と過激な意味に誤読する素人がいたため大惨事が起きてしまった。
クラウゼヴィッツの『戦争論』は“論”と言いながらも、学習のためにきちんとまとめた指南書のつもりではないと本人が言っている。また未完成のメモの状態のまま発見されたことは有名。
『孫子』とは次元が違うと言うか、戦争について書かれた書物としてはジャンルが違うとさえ言って良いのではと私は思う。
この二つを同列に置いて話すのがそもそも誤読のもとだし、未完のクラウゼヴィッツには酷だなと思う。
守屋氏の著書に戻り。
一点だけ、孫子とクラウゼヴィッツとの対比で正確ではないのではと感じた部分。
進撃する段階においては、「手薄な所から」入って行く。
そして決戦においては、クラウゼヴィッツの言うように敵戦闘力の主力を撃滅しなければならない。
「主力撃滅」は孫子で言うと、
「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」
等が近いかな。
“奪取する”と“叩く(撃滅する)”では表現も実際行動も違って来るが、要するに戦闘行為の目的として「大切な主力や要所を叩き潰したり奪ったりして相手に不利を自覚させ、こちらの要求をのませる」ということで同じ。
どちらにしろ、えげつないな。えげつなくて残酷なのが戦争の本質だ。
クラウゼヴィッツと孫子と比べれば私も孫子のほうに共感する。
だからと言って孫子を素晴らしい善人とは思わない。
数さえ少なければ人殺しをしていいという論は、それもまた違う。
戦争は戦争。両者の表現の過激さの違いは、状況が異なっていたというだけのこと。戦争のやり方など状況が変われば必然で変わってしまう。
『孫子』ばかりを永久絶対の指南書と崇めるのもどうかと思うね。
一部だけ見ればどんな行動もどんな主張も当てはまってしまうだろう。
たとえば、太平洋戦争で日本軍は
「短期決戦」と
「早期での講和」を
結末のシナリオとして描き戦争を始めた。
この部分だけ考えれば、短期決戦と戦闘回避の講和を最善とする『孫子』を実行した、お手本のような戦争だったと言えてしまう。
ところが日本軍は、戦争の基本中の基本である兵站をおろそかにした。
全体で見れば『孫子』のお手本どころか、『孫子』さえ知らないようなド素人以下の戦争をやってしまったわけだ。
イラク戦争の際、アメリカ軍が『孫子』を参考にして戦略を立てたと主張したことは記憶に新しい。
曰く、
「孫子に習って我々は最小限の攻撃――ピンポイント爆撃だけで戦争遂行する。(だからこの戦争はやっていいんだ)」
失笑しましたね。
全体に『孫子』的な解釈から見れば、あの戦争は「やることが最悪」の戦争だったはずだ。
本気で孫子に習う気があるなら、泥沼となるのが目に見えている広い戦場に踏み込んではならなかったし、踏み込んだとしても早期で撤退すべきだった。何より、人心を踏みにじって反感を買っては敗北必至だ。孫子もそう言っている。
このように自分勝手な都合の良い解釈で、自らの穴だらけの戦略を補うために『孫子』など古典を一部引用して看板に掲げる事例が後を絶たない。
どんなに素晴らしい指南書でも一部だけの利用では必ず誤ってしまい、危険だろうと思う。
まして孫子をビジネスに応用するのは至難の業と思われます。古い戦争指南書の言葉をビジネスに置き換えることばかりにこだわり、考え込んでいる時間があるなら、現代ビジネスを直接に学んだほうが圧倒的に早いと私は思うのでここではそう書きました。
ただ全く応用出来ないと考えているわけではありません。
否定ばかりしていても無意味なので戦争指南書の活用法をご提案してみます。
特に学者先生や歴史マニアの方々の中には古典しか学ばず現在を学ぼうとしない、現代について学ぶ必要など一切ないと考えている人が存在します(そのため中学生でも知っているような法律や社会常識を知らない人もいて、幼稚さに唖然とさせられることがよくあります)。
戦争指南書は現在現実について学んだ後で、自己の経験を投影させて検討するのが良い活用法ではないでしょうか。状況違いの理論はこのように遠方の鏡として活用することで、現在を客観的に眺めることが出来、行動パターンを良き方に変えていけるのではと思います。
ただ状況の差にはくれぐれも注意すべきです。場合によってはビジネスと戦争では明らかに対応が異なることもあり、戦争指南書をそのまま当てはめて考えては危険なこともあるでしょう。
もし現実に戦闘的な状況下で戦略論を活用するなら、一部のみ抜粋して自分の主張の拠り所とするのではなく全面的に従わなければなりません。
特に『孫子』などは一から十まで順を追って丁寧に手ほどきされた戦争指南書なはずです。一つでも欠ければそれは『孫子』を活用したとは言えないでしょう。
もちろん現代と古代の戦争では細部が違うのでここは変換する。
たとえば土煙が上がっている方向を見て敵が来ていることを知る→ 当然ながら衛星など現代技術を駆使して敵の所在を知ることになる。
あるいは、ゲリラ戦などでGPSなどが使えない状況では『孫子』がそのまま活かせるかもしれませんね。
なんでもそうだと私は思うのですが、理論はトータルに活用して初めてその真価が発揮されるもの。よく出来た理論であればあるほど一部のみの偏った利用では危険な場合もあります。
(だからこそビジネスにおいて『孫子』を信奉し過ぎてはならないと思うわけです。ビジネスという違う状況では一部の利用しか出来ないため、必ず偏った解釈となります。ですからあまり孫子を深遠で絶対的なものと思い込み過ぎず、冷静に「自己の経験の投影」程度として眺めるべきと申しております)
『孫子』は現在のような偏った利用の仕方が想定された書物ではないと思います。
奇妙にアレンジされた抜粋しか利用されないのは少々、気の毒です。
※下画像のリンク先は電子書籍です
まだ読み始めだけど面白いです。
守屋先生の本は解説本などでお世話になったことがありましたが、今回は純粋な読書としてはまりました。ちょっと燃えています。
「孫子をビジネスに活かそう」、というタイトルのマニュアル本は世に山ほど出ていて、私も昔何冊か読んだことはあるが一度も納得出来たことがなかった。
どれも詐欺、と言うのは言い過ぎかもしれないけど、孫子の言葉を漫然となぞってビジネスに置き換えているだけで内容がない。
古代の偉大なる戦略家の神秘性を借りて、「この法則を実行していれば必ず成功する」などと暗示をかける宗教みたいなものか。あんなもの何冊読んでも役には立たないだろうにと思う。(中には素晴らしく役に立つ本もあるかと思いますが、運が悪いのか私は今まで巡り会ったことがありませんでした)
この本も始めそういう類の本かと思い、期待はしていなかった。
でも読み始めてすぐ良い意味で裏切られた。
この本は大真面目に『孫子』と西洋戦略論・現代ビジネス戦略論を比較し、『孫子』を現代に活かすにはどうしたら良いか検討してみようと書かれた本である。
要するに上から目線で
「こうしなさい」「ああしなさい」
と説教してくるマニュアル本ではなくて、学者的な公平な態度で『孫子』という素材を真摯に分析、他と比較して論じている。だから面白い。
論に同意したり違う視点から考えたり、読者として好奇心を掻き立てられる。
特に、ふんだんに散りばめられた西洋ビジネス戦略論からの引用と、孫子との対比が面白いですね。
細かい主張に関しては色々と首を傾げたりする部分もあるのだけど、こうして考えが浮かぶこと自体が奇跡的。他の孫子本はそこまでに至らなかったので、これは嬉しい。
以下、思ったことをメモしていきます。
メモなので、ばらばらに。読みながらまた追加するかもしれません。
※反対意見っぽいものも「批判」ではありませんから悪しからず。単に一読者としての所感になります※
■本田宗一郎氏の言葉に深く納得
孫子の兵法とか旧軍隊の作戦要務令とかが、その(経営学の)経典だときいて、私もいささか面くらった。いまどき、こんなものが何かの役に立つだろうか。…私の社の社是の第一条はこうだ、「常に夢と若さを保つこと」。徳川家康も、孫子の兵法もまったく無縁なのである。守屋氏は、「本田氏は経営に携わっておらず失敗してもやり直しが出来る現場にいたからこのようなことを言って良かった」と解釈、いっぽうで「失敗の許されない経営(財務やマネジメント)においては『孫子』が当てはまりやすい」としている。
P17,引用の引用/原文:『俺の考え』本田宗一郎
(現場=何度も失敗して可。試行錯誤が許される。
経営=戦争と同じく失敗が許されず試行錯誤が出来ない。
故に、「現場では本田氏の言葉が当てはまり、経営では孫子が当てはまる」との守屋氏の主張)
が、本田宗一郎の言葉は現場だけに当てはまるものではないのではないか?
本田氏が言いたかったのは、
「古代の指南書から学ぶのは時間の無駄。現在の経験から、現在の状況を見極め、現在において理念(戦略)を立てていけば足りる」
ということではないかと私は思う。
確かに古今東西の経営論の知識は大切だし、その知識を補足するプロのアドバイザーたちが本田氏の周りには存在しただろう。だが経営判断において最も重要なのは、「今」に関する感覚。「今」を的確に判断する目さえあれば無理に千年も前の知識を掘り起こす必要はないだろう。
温故知新と言っても限度があるということ。直近の過去でも足りるはず。
そもそもこんなことを言っては元も子もないけど、私は本当に『孫子』がビジネスに役立つのかどうか疑問を抱いている。
『孫子』はあくまでも戦争の指南書だ。
戦争の指南書を無理やりビジネスに置き換えようと、たくさんの人が苦心しているが、苦心している暇があるなら現代ビジネスを直接勉強したほうが早いのでは? と思ってしまう。
言わずもがなの真実を書いてしまうと、戦争は戦争。
ビジネスはビジネス。
「人殺しもありの奪い合い」と「共存共栄の利益追求」だ。
本質が違うと割り切って専門は専門の道を学んだほうがいいのでは。
いくら『孫子』に詳しくても金計算や法律を知らなければ、現代で会社の一つも起こせない。ということで、ビジネスの極意を知りたかったらビジネス論を学んだほうが圧倒的に近道かと。
きちんと現代ビジネスを学んだ後で『孫子』に置き換えて考えるなら、思考整理の方法として良いと思う。
例、
人生をマラソンに喩えることは可能だけれども、マラソンの達人だからと言って人生全てうまくわたっていけるわけではない
(※マラソン=孫子 人生=ビジネス)
■クラウゼヴィッツと孫子の比較が面白かった。
クラウゼヴィッツは「一対一の対決」、孫子は「多数との競争の中での生き残り」、
を書いているのだと。
鮮やかな対比。分かりやすいしその通りだなと感じた。
でもなんでこの違いが生まれたのかと考えると、私が思うにクラウゼヴィッツ『戦争論』は戦争状態を写生したもので、孫子兵法は“戦争のやり方”を初学者も含めて一から説く目的で書かれたものだから。
まず書かれた目的が違う。
そして書いている視点の時間軸が違う。
クラウゼヴィッツは既に「一対一」の戦争状態が起こった後を観察してメモしているのであり、孫子はまだ戦争が起こっていない状態の視点から説き始めている。
当然、孫子は「まだ戦争が起きていない」のだから防ぐことも可能なのである。
よく孫子は平和主義から戦争回避を説き、クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長」とまで述べて戦争を肯定したと言われる。
確かに、孫子は内心では戦争を嫌悪していたのではないかと私も感じる。この矛盾が私も孫子を好きな理由。
ただし戦争の本質に関しては、実は両者とも同じ真実を書いているだけに過ぎない。
戦争が始まる前の視点から見れば
「外交・政治その他の暴力以外の力を用いて敵国を圧するのが最善だ。戦争するのは最悪のこと」(孫子)。
同じことを戦争が始まってしまった後からの視点で言い換えれば、
「戦争とは外交と異なる手段を用いてする政治の延長」(クラウゼヴィッツ)
ということになる。
孫子も逆から見れば「戦争とは政治の延長における“最悪な”形」と書いているわけだ。
クラウゼヴィッツの「戦争は政治の延長」も、言葉を裏返せば政治の段階で留まることも可能だったはずという意味になる。
クラウゼヴィッツは少し言葉足らずだったということになるか。
言葉足らずでもたぶん専門家同士なら阿吽で通用する話なのだろうが、一般的な感覚からは戦争と政治をイコールで並べたようで違和感のある文に見えてしま う。現に、クラウゼヴィッツの言葉を「戦争は政治の延長に過ぎないんだからやっても構わないんだ! やるべきだ!」と過激な意味に誤読する素人がいたため大惨事が起きてしまった。
クラウゼヴィッツの『戦争論』は“論”と言いながらも、学習のためにきちんとまとめた指南書のつもりではないと本人が言っている。また未完成のメモの状態のまま発見されたことは有名。
『孫子』とは次元が違うと言うか、戦争について書かれた書物としてはジャンルが違うとさえ言って良いのではと私は思う。
この二つを同列に置いて話すのがそもそも誤読のもとだし、未完のクラウゼヴィッツには酷だなと思う。
守屋氏の著書に戻り。
一点だけ、孫子とクラウゼヴィッツとの対比で正確ではないのではと感じた部分。
ニッチは,敵の手薄な所を突くという意味で,『孫子』にある「進撃するときは、敵の手薄を衝くことだ――進みてふせぐべからざるは、その虚を衝けばなり」という言葉そっくりの部分もある.どの企業もまだ参入していない空白部分が,まさに敵の手薄な部分となるわけだ.いやいやそれは対照ではなくて、説かれている戦闘の段階が異なるだけでは。
ちなみに,クラウゼヴィッツの『戦争論』には「相手の戦力の最も集中した所を叩け」という指摘があり,『孫子』の考え方とは好対照を成している.
P54
進撃する段階においては、「手薄な所から」入って行く。
そして決戦においては、クラウゼヴィッツの言うように敵戦闘力の主力を撃滅しなければならない。
「主力撃滅」は孫子で言うと、
「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」
等が近いかな。
“奪取する”と“叩く(撃滅する)”では表現も実際行動も違って来るが、要するに戦闘行為の目的として「大切な主力や要所を叩き潰したり奪ったりして相手に不利を自覚させ、こちらの要求をのませる」ということで同じ。
どちらにしろ、えげつないな。えげつなくて残酷なのが戦争の本質だ。
クラウゼヴィッツと孫子と比べれば私も孫子のほうに共感する。
だからと言って孫子を素晴らしい善人とは思わない。
数さえ少なければ人殺しをしていいという論は、それもまた違う。
戦争は戦争。両者の表現の過激さの違いは、状況が異なっていたというだけのこと。戦争のやり方など状況が変われば必然で変わってしまう。
『孫子』ばかりを永久絶対の指南書と崇めるのもどうかと思うね。
■最後に、世間話。
この本を読みながら改めて考えていたが、どうして皆、『孫子』などの指南書の一部だけしか見ようとしないのだろう?一部だけ見ればどんな行動もどんな主張も当てはまってしまうだろう。
たとえば、太平洋戦争で日本軍は
「短期決戦」と
「早期での講和」を
結末のシナリオとして描き戦争を始めた。
この部分だけ考えれば、短期決戦と戦闘回避の講和を最善とする『孫子』を実行した、お手本のような戦争だったと言えてしまう。
ところが日本軍は、戦争の基本中の基本である兵站をおろそかにした。
全体で見れば『孫子』のお手本どころか、『孫子』さえ知らないようなド素人以下の戦争をやってしまったわけだ。
イラク戦争の際、アメリカ軍が『孫子』を参考にして戦略を立てたと主張したことは記憶に新しい。
曰く、
「孫子に習って我々は最小限の攻撃――ピンポイント爆撃だけで戦争遂行する。(だからこの戦争はやっていいんだ)」
失笑しましたね。
全体に『孫子』的な解釈から見れば、あの戦争は「やることが最悪」の戦争だったはずだ。
本気で孫子に習う気があるなら、泥沼となるのが目に見えている広い戦場に踏み込んではならなかったし、踏み込んだとしても早期で撤退すべきだった。何より、人心を踏みにじって反感を買っては敗北必至だ。孫子もそう言っている。
このように自分勝手な都合の良い解釈で、自らの穴だらけの戦略を補うために『孫子』など古典を一部引用して看板に掲げる事例が後を絶たない。
どんなに素晴らしい指南書でも一部だけの利用では必ず誤ってしまい、危険だろうと思う。
まとめ(提案)
最もビジネスに活かしやすく有用と考えられるランチェスター戦略でさえ、「本当にビジネスに活かすことが出来るのか?」と疑問視する声が増えているらしい。まして孫子をビジネスに応用するのは至難の業と思われます。古い戦争指南書の言葉をビジネスに置き換えることばかりにこだわり、考え込んでいる時間があるなら、現代ビジネスを直接に学んだほうが圧倒的に早いと私は思うのでここではそう書きました。
ただ全く応用出来ないと考えているわけではありません。
否定ばかりしていても無意味なので戦争指南書の活用法をご提案してみます。
◎戦争指南書は現在の経験の“整理”に使うべし
まず先に現在行うべきことの基礎を学ぶ。ビジネスならビジネスについて学ぶのが先。当たり前のことなのだが「裏ワザ」を手に入れたくて戦争指南書を先に学びたがる人が多いように感じます。そして古典のみ信奉してすがりつき、現在現実についてあまり学ぼうとしない。だから口を開けば「孫子いわく~」と教訓を周りに押し付けるのみという最悪のパターンに陥る。特に学者先生や歴史マニアの方々の中には古典しか学ばず現在を学ぼうとしない、現代について学ぶ必要など一切ないと考えている人が存在します(そのため中学生でも知っているような法律や社会常識を知らない人もいて、幼稚さに唖然とさせられることがよくあります)。
戦争指南書は現在現実について学んだ後で、自己の経験を投影させて検討するのが良い活用法ではないでしょうか。状況違いの理論はこのように遠方の鏡として活用することで、現在を客観的に眺めることが出来、行動パターンを良き方に変えていけるのではと思います。
ただ状況の差にはくれぐれも注意すべきです。場合によってはビジネスと戦争では明らかに対応が異なることもあり、戦争指南書をそのまま当てはめて考えては危険なこともあるでしょう。
◎使うなら、もれなく使うべし
次にビジネスではなく戦争の場合です。もし現実に戦闘的な状況下で戦略論を活用するなら、一部のみ抜粋して自分の主張の拠り所とするのではなく全面的に従わなければなりません。
特に『孫子』などは一から十まで順を追って丁寧に手ほどきされた戦争指南書なはずです。一つでも欠ければそれは『孫子』を活用したとは言えないでしょう。
もちろん現代と古代の戦争では細部が違うのでここは変換する。
たとえば土煙が上がっている方向を見て敵が来ていることを知る→ 当然ながら衛星など現代技術を駆使して敵の所在を知ることになる。
あるいは、ゲリラ戦などでGPSなどが使えない状況では『孫子』がそのまま活かせるかもしれませんね。
なんでもそうだと私は思うのですが、理論はトータルに活用して初めてその真価が発揮されるもの。よく出来た理論であればあるほど一部のみの偏った利用では危険な場合もあります。
(だからこそビジネスにおいて『孫子』を信奉し過ぎてはならないと思うわけです。ビジネスという違う状況では一部の利用しか出来ないため、必ず偏った解釈となります。ですからあまり孫子を深遠で絶対的なものと思い込み過ぎず、冷静に「自己の経験の投影」程度として眺めるべきと申しております)
『孫子』は現在のような偏った利用の仕方が想定された書物ではないと思います。
奇妙にアレンジされた抜粋しか利用されないのは少々、気の毒です。