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プラトン『ソクラテスの弁明』感想と紹介

法とは何か、民主主義の行く末は? 2016年末の旬なテーマに二千年以上前の古典が応えてくれる。今こそ読むべき「人類の教科書」。





法律の初学者に与えられる小論文の課題に代表的なものが二つある。
一つは、「ソクラテスが自ら死刑を受け入れたことについて理由を述べよ」というもの。
現代の法学が西洋由来のものである以上、西における法的問題の原点とも言えるこの事件を避けて通ることは出来ない。従って初学者へ課題として出されるのは当然だろう。
もう一つは、「諸葛亮(孔明)が泣いて馬謖を斬ったことについて是非を述べよ」。こちらは少し違和感がある。
上に書いた通り現代の法学は西洋由来のものであるから、東洋の事件が課題として扱われること自体が不自然と言えるはずだ。だいいち世界的に見れば上と並べるほどの大事件でもあるまいに。しかし私は現にこの二つのうちどちらかを選択せよという課題を出しているテキストを目撃したことがあり、少なからず驚いた。確かに視点を引いて眺めてみればこの無名な東洋の事件も不思議と西洋的な法学論で読み解ける。

この二つのうち小論文として書きやすいのは後者のほうではないだろうか。
何故なら判決と処分については現代の西洋的な法律感覚から見れば答えは明白であり(刑罰は既にある法に基づき公平に処されねばならない/裁きの女神は目隠しで剣を振るう)、是か非かが問題になるのは「身近な者が裁いて良いのか」という問題(現代裁判に置き換えれば手続上の瑕疵)のみであるからだ。
これが百年前の東洋なら判決についても大議論が巻き起こるのだから不思議である。証拠に歴史学の世界では未だに批判論も多い。それだけ西洋と東洋の法律感覚は違うということだ。

しかし前者について書くのは遥かに難しい。
何故なら判決そのものが不当であると考えられるからだ。それにも関わらずソクラテスが死を受け入れたのは何故なのか、と問う。
陪審員裁判の本質的な欠陥を考えさせられ、果ては民主主義という政治体制そのものが孕む問題点も考えさせられる。
プラトンが「衆愚政治」と罵倒した政治システムの欠陥はまさに現代に通じる問題であり、この問題を考えずに今を過ごすことはあまりに危険と言える。課題として選ぶなら私はこちらをお薦めする。

ちなみに諸葛亮がもしソクラテスを裁いたならば、ソクラテスは間違いなく無罪である。
(何故なら訴追された罪とソクラテスの言動との因果関係は明白ではないので。諸葛亮は過ちの責任を無関係な当人の家族や友人にまで負わせることはなかった)
そのようにシンプルな判決が出ていたとしたら法学的な混乱は生まれなかっただろうし、哲学も現在の形では存在しなかっただろう。


西洋哲学の歴史を大きく変え、法律を学ぶ人々の悩みの種を作り出したこの大事件の発端は紀元前400年に遡る。
ペロポネソス戦争においてスパルタに敗れたアテナイの市民たちは、敗北の責任を「青年を堕落させた」とするソクラテスに押し付け裁判で吊るし上げたのだ。

ソクラテスは法廷にて自分が無罪であると言葉を尽くして弁明するけれども、彼の巧みな弁舌なしでも客観的に見て罪は無かったのである。
仮に青年等を誘導して積極的に暴動を引き起こしたとするなら扇動罪が適用されることもあるのだろう。しかし「堕落させた」というだけで(そのことも事実ではないが仮に事実だったとしても)罪が生じることはあり得ない。
ただ敗戦を招くなどしてアテナイ市民に憎まれていた政治家たちがソクラテスにかつて教えを受けたことがあるというだけだった。そんなことで死刑になるなら、世界中の犯罪者の教師たちはみな死刑にならなければならない。
ところが“愚民”たる民衆はソクラテスを憎み、陪審員たちは多数決でソクラテスを有罪とし告発者の望み通り死刑とした。

不当判決に怒り狂ったのはソクラテスの弟子たちだった。当然だ。
弟子たちはソクラテスを救うべく獄中に乗り込む。
しかしソクラテスは逃亡を断固拒否する。
曰く、
「自分は国家の法律に従わねばならない。何故ならこの国で生まれこの国に養われたのだから」。
そして彼は翌日、刑を受け入れて毒をあおる。……

ソクラテスが死をもって教えたこととは何であるのか。
法への忠誠か(法的安定性のため)、国家への報恩か。
それともよく言われるように愚民たちに自分たちの愚かさを悟らせるための懲罰だったのか?

歴史上、多くの人がソクラテスの教えを読み解き理解しようと試みて来たが、何一つ完全に腑に落ちるものはないはずだ。
こんなことを書くのは恥ずかしいが、私自身未だにこの結末に納得出来ていない。
無罪の人が有罪となるのはやはり絶対に間違っている、とシンプルに言うべきだろう。
(何故そう言うべきか。感情として正義を通したいからだけではない。判決の正当性が保たれなければ現実社会においてひずみが生じ、国家と国民を守る技術たる法律は運営していかれないからだ。正当ではない判決は確実・迅速に国家崩壊を招く。現にアテナイがそうであったように)


現代の我々が遠く眺めても納得出来ないのだから、ソクラテスの直弟子たちは決して納得出来なかっただろう。
彼らの怒りはどれほどのものだったか。察するに余りある。

『ソクラテスの弁明』はソクラテスが法廷で語った言葉とされているが、書いたのは弟子のプラトンだ。
ここにはプラトンによるソクラテスへの愛情、彼の死に対する怒りと悲しみが溢れ迸っている。
そのため全体に少し詩情の気配もあると私は感じる。

もしかしたらこの記録には、
“ソクラテスに法廷で言わせたかった”
というプラトン自身によるソクラテス弁護が多分に含まれているのではないか。
本当は何もかもプラトンの願いでしかなかったのかもしれないという想像さえしてしまう。


「私は知らないことを知っている。故に私は智慧者と言える」
法廷でソクラテスが言ったとされるこの名言も、神秘的で詩的な響きによって少々誤解されている。
ここだけ引用すればいかにも哲学的で禅問答のよう。
けれど真の意味は、ソフィスト(詭弁家)たちが
「知らないことも知っているかのように嘘をついてごまかし、人生にとって本当に大切なものが何であるか分からなくさせている」
という現実的な批判をベースにした表現に過ぎない。
大雑把に言ってしまえば、「あの知ったか野郎たちに比べれば、私は知ったかしないで知ろうとしているのでまだ知恵者に近い」というほどのこと。
当たり前だが大切で現実に役立つ教えと言える。
嘘つきの言葉にだけ飛びついてしまう現代人も少しはソクラテスに学んだほうがいい。

この
「嘘の知識でごまかされるな。本当を見ろ」
とはソクラテスが普段から繰り返し説いていた教えだった。
つまり何が言いたいのかと言うと、この言葉を本に書かれている通り彼が最後の法廷で言ったのかどうかも疑わしい。
『ソクラテスの弁明』は事実の記録なのではなく、ソクラテスの教えの究極版アルバムと見れば妥当かもしれない。


いずれにしろこの名著にはソクラテスが生きた証だけでなく、弟子による師に対する愛情が篭められていると言える。
あまりにも真っ直ぐな愛情は二千年以上を経た現代の我々にも直接届き突き刺さる。

法学的、哲学的な書物として読むのは当然ながら、弟子たちの情熱を胸に響かせて読むのも間違ってはいないだろう。

(後にプラトンの著作とされるもので「詩を排除しろ」という主張があるが、私はこれをプラトンその人が語ったとはちょっと信じられない。仮に『ソクラテスの弁明』がプラトンの筆によるものなら、彼は真に詩人だ)


※このページは大学等において哲学の教育を正式に受けたことのない者が書いています。哲学的には誤解があるかもしれませんのでご注意ください。