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『三島由紀夫とは何者だったのか』感想

 三島由紀夫の小説も一時期よく読んだが、一度たりとも「好き」と思えたことがなかった。

文章は嫌いではない。華美な表現も面白みがあり私には楽しめる。
ストーリー展開も現代のコミックの原型と言えるので、ある意味で“馴染み深い”もの。
 退屈なストーリーで溢れる小説世界にこの人は救世主として表れたのだろう。

けど、な。
三島の小説を読むと必ずと言って良いほど落ち込むんだよな。
 今度こそ大丈夫と覚悟して読むも、読後は鬱を覚えるのを避けられない。

それはたぶん小説から一切何も学ぶべきところがなく虚しいからだ。
作者の人柄そのまま、人としての深みがなく成長がなく無意味である。
 激烈に文章の巧い中学生の書いた小説を読むような気分なんだな。
美しく形作られた砂糖菓子のようなもの。
眺めるなら綺麗でも、口に入れれば甘いだけで他の味がしない。だからこんなの食べてどうしたかったんだろうと食べた後に落ち込むのだ。

 ただ三島小説が現代作家の「空っぽの箱」と違うのは、この砂糖菓子たる形が作者自身の人生であるところだ。
「空っぽの箱」
を作ろうと狙って、気取った技巧のみにこだわっている。読者を簡単に騙すことが出来るそのような技巧に長けてしまった、腐った大人作家たちとは大いに異なる。
 三島はこれしか出来なかった。
自分に出来る最大限を素直に表現したら結果こうなっただけのこと。

中学生のように正直過ぎる人なのだと思う。
 そのままを小説に写し取っただけに過ぎないのだから、小説家としては誠実だったのだと言える。

三島の小説を読んで妙に落ち込むのと、現代の「空っぽ」小説を読んで時間を無駄にしたと怒りを覚えるのとでは比較にならないほど前者のほうが気分が良い。
 未熟だが正直な中学生の話のほうが、嘘つきな大人の話よりも遥かにマシと思う。

そんな三島由紀夫という人はやはりどうしても気になってしまう存在だ。
以下はタイトルが同感で手に取った評伝。



内容(「BOOK」データベースより) “同性愛”を書いた作家ではなく、“同性愛”を書かなかった作家。恋ではなく、「恋の不可能」にしか欲望を機能させることが出来ない人―。諸作品の驚嘆すべき精緻な読み込みから浮かび上がる、天才作家への新しい視点。「私の中で、三島由紀夫はとうの昔に終わっている」と語って憚らない著者が、「それなのになぜ、私は三島が気になるのか?」と自問を重ね綴る。小林秀雄賞受賞作。

凄い言葉だ。「欲望媒介物」、フェティッシュ。
橋本治は、これにただ 「物」 という字をあてた。
<引用>
…だから、妄想の外に出てしまった人間は、一時的に戸惑うのである。妄想と共にあることに慣れてしまった欲望は、妄想という動機付けがないと、欲望として機能しない。だから、一時的な機能停止に陥って、その欲望を現実の基準に合わせた形で再構成する。「相手かまわずやり放題だった人間が、本当に好きな相手と巡り会って、やり放題が不可能になる」というのが、卑近な一列である。  …ところがこの「私」は違うのだ。「欲望は妄想と共にあり、妄想がなければ欲望は成り立たない」ということを知って、現実の上に妄想を覆いかぶせようとするのである。  …「私」にとっての近江は、「肉体だけを持つ生きた物語」になった。近江に「人格」はいらない。「知性において自分は近江より遥かに上だ」と規定してしまった「私」は、近江を「好みの物語を連想させる、肉体だけの人間」として見る。近江は、「私」の欲望を成り立たせる「物(フェティッシュ)」にされたのである。より現代的な表現を使うなら、「妄想の中にいた“私”は、妄想から抜け出し、ストーカーになった」である。 【『三島由紀夫はなにものだったのか』橋本治著 165-167】
 引用文ラストの太字、
「妄想の中にいた“私”は、妄想から抜け出し、ストーカーになった」
には納得。

そういうこと。
ストーカーなのだ。現実の恋愛に不能な、三島的なる彼らは。

彼らは自分の妄想を現実に合わせることが出来ない。たとえば好きになった現実の人間から、“イメージと違う”部分を見せ付けられると自分のイメージを修正するのではなく、違う部分を無視する。
“なかったこと”、つまり、現実を殺してしまう。

 行き過ぎると、実際に相手を自分の妄想に合わせて作り変えようとする。
たとえば脅迫して言うなりにしたり、縛ったり、監禁したり。
それでも駄目なら殺す。
イメージに合わないのなら、消えてもらうしかないからだ。

それは相手が単なる
「物 : 欲望媒介物」
でしかないため。

これがストーカー。
 ストーカー行為をしたからストーカーなのではなく、現実の相手を欲望媒介物にしてしまう心理を持った時点でストーカーだとするなら。三島由紀夫は、正真正銘ストーカーだった。
昭和初期に比べると、変態を表すうまい言葉がものすごく増えたのだろうなと思う。
たとえば三島を、
「ショタ萌え」 (byアマゾンレビュアー)
と言ってしまえるとか。
ということはそれだけ、恋愛不能の人口が増えたということだな……。

現代なら三島由紀夫は特殊ではなく、むしろ、“その他大勢”。
 よくいる変態萌えオタクだから、現代に生きていれば確かにラクだったかもしれない。特別視されて絶賛されることはなかっただろうけど、多くのオタクさんがそうであるように、同じ趣味の仲間を見つけて大人しく妄想の世界で生きていけたのかも。
自殺なんかする必要、なかったかもな。

それにしても橋本治先生は現代変態用語への変換がうまいです。
この本は最初うんざりして投げ出していたけど、再チャレンジしたら途中から面白くなってきた。
もうレビューは諦めた(語りつくせないので)ものの、抜書きしておきたい文章がたくさんある。

最も面白かったアマゾンレビュー
「電波男」に感銘を受けた人に勧めたい。, 2005/11/06 レビュアー: "インド一反木綿"
女性不信なのに女なんて要らない、と言えなかった男の子たちの背中を押したのが「電波男」なら、この本は「自意識と深く絡み合った性癖のせいで恋愛ができなかった男の子が、自分を肯定しようと四苦八苦したあげくに滅びていった」ことを「作家橋本治」の目線で述べている。この解釈が正しいのかどうかは知らない。三島自身が生きていれば当たっていようが間違っていようがきっと「違う」と言い切るであろう。が、この本を読んだあとには三島が40年遅く生まれていれば、「隠れショタ萌えのオタ官僚」として、死なずにすんだような気がしてしまう。その代わりに文豪にも時代の寵児にもなることはなかっただろうが。