ドラマ『JIN-仁-』でペニシリンのありがたさが描かれていたが、現実にペニシリンの開発が進んだのは第二次世界大戦中だった。
1929年、英国人フレミングが偶然に導かれて発見したペニシリンは、長らく誰にも注目されることがなかった。だが第二次世界大戦が勃発し、傷病兵を治療する必要性から一気に開発が進み、米国において大量生産・実用化に至った。(英国人フローリーらの尽力による)
つまり軍事力を高めるために開発されたもので、“戦争が世に生み出した薬”と言っても過言ではない。
偉大な薬さえ戦争が生んだという事実に私は複雑な思いを覚えたが、ともかく以降ペニシリンは多くの人命を救い、人類の平均寿命を延ばしたのだった。
そのペニシリンが、実は日本でも戦時中に開発されていた。
しかも日本オリジナルの“碧素”として――。
ペニシリンの歴史について知っている人でも、この事実を知らない人は多いと思う。
角田房子の『碧素・日本ペニシリン物語』によれば、第二次世界大戦末期、激しい空襲下でペニシリンを開発した人々がいた。
「敵国でペニシリンが開発されたらしい」
という情報が日本にもたらされたのは昭和十八年末。ドイツからの潜水艦が日本に持ち込んだ『臨床週報(クリーニッシェ・ボッヘンシュリフト)』が陸軍軍医少佐稲垣克彦に手渡される。
その後、チャーチルの肺炎がペニシリンで治ったという報道(誤報)に接した陸軍は軍医学校に
「昭和十九年八月までにペニシリン研究を完成するよう」
との命を降した。
稲垣の主導で第一回ペニシリン委員会が開かれたのは、昭和十九年二月。
まだペニシリンを作り出すカビの株さえ見つけてはいなかった。
英米でさえフレミングがペニシリンを作る青カビ(ペニシリウム・ノターツム)を発見してから、生産までに長い年月をかけている。
「ペニシリンという薬があるらしい」
という報道以外に具体的な情報は何も得られない日本で、株の発見から薬品の開発までをやるということは、英米の辿った道を始めから歩むということ。それを半年や一年でやれというのは無茶な命令だった。
しかし、日本の研究者たちはその無茶をやってのける。
日本中の学者が一つの目的に向かい、個人としての名誉や利益を捨てて協力し合った結果、たったの一年半でペニシリンの生産にこぎつけたのだ。
物資の揃う米国で生産されたペニシリンに比べれば混ざり物の多い薬だったが、それでも立派に人の命を救う抗生物質だった。
しかも国内で発見された株の、国内で開発された“日本オリジナル”ペニシリンだ。
この日本産ペニシリンは、「碧素(へきそ)」と名付けられた。
※碧素:軍によってペニシリンが敵性語とみなされたので、日本独自の名前が付けられた。「碧素」は当時の一高生が名付けたもの。青いカビの美しさから。
自分の弁当を実験用マウスに与え続け、栄養失調で倒れかけた相沢憲。
東京の委員会には始め参加しなかったが、東北帝大での秘密の研究でペニシリン株を発見した近藤師家治、その師である黒屋政彦。
空襲さえ恐れずに実験に没頭する多くの研究者たち。……
彼らが何故そうしたかというと、戦争に勝つためというよりも
「やはり命を救いたいという使命感だった」
と言う。
私欲を捨て、使命へ身を捧げた人々の存在に心が震えた。
戦後、アメリカ軍がペニシリンを持って来るのだがその場面には耐えられず号泣してしまった。
自分より優れた人を妬んで足を引っ張るか、劣等に見える人を蔑み嘲笑することしか能のない現代日本人。くだらない。
かつてはこんな日本人たちが存在したというのに。
この本の締め括りとして掲げられた相沢憲の言葉を私もメモしておきたい。
(絶版のため、内容の解説や引用を多めにしました)
***
この一ヶ月、仕事上の資料を読む必要があったので趣味の読書はほとんど出来ませんでした。
合間を縫って唯一読んでいたのがこの『碧素・日本ペニシリン物語』。
ペニシリンについて知りたい、と言った私に、その道の専門家(後に書いたように浜田雅先生)が直々に貸してくださった本です。
お借りしたのがちょうど一ヶ月前。
数日後、著者の角田先生が亡くなられたという報道がされました。
読んでいる最中での報道だったため驚きました。
借りた時はご存命と伺ったので、いつかこの本の復刊についてお話が出来ないかと淡い夢を抱いてしまった……。
ご冥福をお祈りします。
素晴らしい本を世に残していただき、ありがとうございました。
※2010年筆
この本に関していただいたメール:
読まれた方から、メールをいただきました。
この本に登場される近藤師家治先生をご存知の方からです。(仮にT様とします)
ありがとうございます。
個人が特定されるような具体的な話は伏せますが、近藤先生が所長をされていた研究所にT様のご家族がお勤めで、その関係から子供の頃に近藤先生と交流を持たれたそうです。
大変貴重なお話だったので、以下ご本人の承諾のもと、メール文から引用させていただきます。
(「フィクション寄りに再構成を」、というご依頼だったのですが、私は本人による衷心からの言葉以上に気持ちが伝わるものはない、と信じる者です。おそらく問題ないだろうと思われる個所のみ抜粋します)
後のメールより追記
最後に、
感動的なメールでした。
私は拙いながら感想を書かせていただき、ご縁をいただいてこのようなお言葉に接する機会を得たこと、深く感謝致します。
---この本をお借りした方について詳細をカット致します---
私も実は代々医師の家系に生まれながら、全く別の道を行き医学には完全なる「門外漢」となってしまった身です。
今回このようなメールをいただき、無為に生きている身を恥じるものです。
微力ながら、何かできることはないかと思い、いただいたお言葉を公開させていただきました。
1929年、英国人フレミングが偶然に導かれて発見したペニシリンは、長らく誰にも注目されることがなかった。だが第二次世界大戦が勃発し、傷病兵を治療する必要性から一気に開発が進み、米国において大量生産・実用化に至った。(英国人フローリーらの尽力による)
つまり軍事力を高めるために開発されたもので、“戦争が世に生み出した薬”と言っても過言ではない。
偉大な薬さえ戦争が生んだという事実に私は複雑な思いを覚えたが、ともかく以降ペニシリンは多くの人命を救い、人類の平均寿命を延ばしたのだった。
そのペニシリンが、実は日本でも戦時中に開発されていた。
しかも日本オリジナルの“碧素”として――。
ペニシリンの歴史について知っている人でも、この事実を知らない人は多いと思う。
角田房子の『碧素・日本ペニシリン物語』によれば、第二次世界大戦末期、激しい空襲下でペニシリンを開発した人々がいた。
「敵国でペニシリンが開発されたらしい」
という情報が日本にもたらされたのは昭和十八年末。ドイツからの潜水艦が日本に持ち込んだ『臨床週報(クリーニッシェ・ボッヘンシュリフト)』が陸軍軍医少佐稲垣克彦に手渡される。
その後、チャーチルの肺炎がペニシリンで治ったという報道(誤報)に接した陸軍は軍医学校に
「昭和十九年八月までにペニシリン研究を完成するよう」
との命を降した。
稲垣の主導で第一回ペニシリン委員会が開かれたのは、昭和十九年二月。
まだペニシリンを作り出すカビの株さえ見つけてはいなかった。
英米でさえフレミングがペニシリンを作る青カビ(ペニシリウム・ノターツム)を発見してから、生産までに長い年月をかけている。
「ペニシリンという薬があるらしい」
という報道以外に具体的な情報は何も得られない日本で、株の発見から薬品の開発までをやるということは、英米の辿った道を始めから歩むということ。それを半年や一年でやれというのは無茶な命令だった。
しかし、日本の研究者たちはその無茶をやってのける。
日本中の学者が一つの目的に向かい、個人としての名誉や利益を捨てて協力し合った結果、たったの一年半でペニシリンの生産にこぎつけたのだ。
物資の揃う米国で生産されたペニシリンに比べれば混ざり物の多い薬だったが、それでも立派に人の命を救う抗生物質だった。
しかも国内で発見された株の、国内で開発された“日本オリジナル”ペニシリンだ。
この日本産ペニシリンは、「碧素(へきそ)」と名付けられた。
※碧素:軍によってペニシリンが敵性語とみなされたので、日本独自の名前が付けられた。「碧素」は当時の一高生が名付けたもの。青いカビの美しさから。
自分の弁当を実験用マウスに与え続け、栄養失調で倒れかけた相沢憲。
東京の委員会には始め参加しなかったが、東北帝大での秘密の研究でペニシリン株を発見した近藤師家治、その師である黒屋政彦。
空襲さえ恐れずに実験に没頭する多くの研究者たち。……
彼らが何故そうしたかというと、戦争に勝つためというよりも
「やはり命を救いたいという使命感だった」
と言う。
私欲を捨て、使命へ身を捧げた人々の存在に心が震えた。
戦後、アメリカ軍がペニシリンを持って来るのだがその場面には耐えられず号泣してしまった。
P215
…ペニシリン入りの瓶は、すでに秋の色を帯びた日ざしを受けて、キラキラと光った。やがて出月が、「白いね」とポツリといった。…
小出は、「ほとんど白色に近いきれいなペニシリンを見た時は、ただもう“恐れ入りました”の一語でした。これでは、戦争も日本が負けるわけだ……とつくづく思いましたよ」と語る。
自分より優れた人を妬んで足を引っ張るか、劣等に見える人を蔑み嘲笑することしか能のない現代日本人。くだらない。
かつてはこんな日本人たちが存在したというのに。
この本の締め括りとして掲げられた相沢憲の言葉を私もメモしておきたい。
P229
「戦後の抗生物質研究のめざましい発展に、戦中のペニシリン研究はその基礎となったという意味で、非常に役立ったと思います。もう三十年余り前の昔話になりましたが、空襲下の極度に貧しい条件の下で、みなが自分の名誉など問題にせず、一致協力してあそこまで研究をやりとげたことは、高く評価されていいと思います。
その後、二度とあれだけの研究体制がとられないのは残念です。その理由はいくつか挙げられましょうが、私はそれを承知の上でなお、なぜ出来ないのかと問いかけたい気持ちです。
抗ガン剤の研究も、それぞれが自分の城にたてこもってやっていますが、戦中のペニシリン研究のように、互いに研究内容を知らせ合い、助け合って進めてゆけば、アメリカのように大金を投じなくても立派な成果が挙がるはずです。あのころは、今にも日本が負けるというギリギリの状況だったから共同研究も出来たが、今のような豊か平和な時代には出来ない……ということでは、研究者として情けない話です。
確かに、学問は非常に進みましたが、人間もまた進歩した……といえないのが、実に残念です」
(絶版のため、内容の解説や引用を多めにしました)
***
この一ヶ月、仕事上の資料を読む必要があったので趣味の読書はほとんど出来ませんでした。
合間を縫って唯一読んでいたのがこの『碧素・日本ペニシリン物語』。
ペニシリンについて知りたい、と言った私に、その道の専門家(後に書いたように浜田雅先生)が直々に貸してくださった本です。
お借りしたのがちょうど一ヶ月前。
数日後、著者の角田先生が亡くなられたという報道がされました。
読んでいる最中での報道だったため驚きました。
借りた時はご存命と伺ったので、いつかこの本の復刊についてお話が出来ないかと淡い夢を抱いてしまった……。
ご冥福をお祈りします。
素晴らしい本を世に残していただき、ありがとうございました。
※2010年筆
この本に関していただいたメール:
読まれた方から、メールをいただきました。
この本に登場される近藤師家治先生をご存知の方からです。(仮にT様とします)
ありがとうございます。
個人が特定されるような具体的な話は伏せますが、近藤先生が所長をされていた研究所にT様のご家族がお勤めで、その関係から子供の頃に近藤先生と交流を持たれたそうです。
大変貴重なお話だったので、以下ご本人の承諾のもと、メール文から引用させていただきます。
(「フィクション寄りに再構成を」、というご依頼だったのですが、私は本人による衷心からの言葉以上に気持ちが伝わるものはない、と信じる者です。おそらく問題ないだろうと思われる個所のみ抜粋します)
(個人情報略)……ですので私が小さい頃はしょっちゅう所長先生(近藤所長の呼び名)のお宅に連れて行ってもらい、遊んでもらい子供の如く可愛がってもらいました。
所長先生にはお子さんがいらっしゃらなかったのですが、大変子供好きで部下の子供を大変可愛がっていたと思います。
まさに親戚のおじさんでした。
また権威と名声の対極にいる方で、ご自宅は患者さんに手作りで作って貰った家でした。
晩年のお仕事は抗ガン剤の研究でしたが、残念ながら市販化間近で予算が足りず世に日の目を見ることはありませんでした。
(詳細略: その抗がん剤はエビデンスがあり、とても予後が良かったとのこと)
つくづくこの有効な薬が世に出なかったことが残念でなりません。
私はこのような環境にいたにも関わらず、注射をされるのが世の中で一番嫌いだったので医者になろうと子供の時から一度も思いませんでした。
物心ついたころから他の生物学に魅了され一心に勉強していましたが、紆余曲折があって遠回りをしてから獣医師になりました。
病気は理不尽です。病気があることが患者の全てを制限してしまいます。
それをどうにかしたい!というのは医学をする上で根本だと思います。
仙台に帰省するたびに所長先生のお墓参りをします。
墓碑には日本で初めてペニシリンを発見したと刻まれています。
ただご家族も亡くなってしまい、もう所長先生に近い人は誰もいません。
以前はお花が一杯手向けられていましたが、最近は私たちだけになる時もあります。
悲しいですが、仕方がありません。
私は医療者としてこの先見果てぬ高みを目指しますが、やっぱり所長先生の意志を継ぎたいと思っています。
生まれた時から先生が亡くなるまで、我が子のように目を掛けて下さいました。
同じ道(人と動物に違いはありますが)を人生として選んだ以上、この偉大な医学者に恥じない生き方をしなければと思います。
見ず知らずの人間が突然メールをして失礼しました。
ただ近藤先生を1人でも多くの人が知ってくれると、やっぱり嬉しいです。
後のメールより追記
最後に、
個人的に申し上げれば、ひたすらに命に真摯に向き合うという医学の根本を最後まで実践された方だと思います。
我々は学ぶことが多々あり、忘れてしまうにはあまりに惜しい人間だと思います。
そういう事実は忘れてはいけないもの、その精神は継承し続けないとならないものかもしれません・・・・
感動的なメールでした。
私は拙いながら感想を書かせていただき、ご縁をいただいてこのようなお言葉に接する機会を得たこと、深く感謝致します。
---この本をお借りした方について詳細をカット致します---
私も実は代々医師の家系に生まれながら、全く別の道を行き医学には完全なる「門外漢」となってしまった身です。
今回このようなメールをいただき、無為に生きている身を恥じるものです。
微力ながら、何かできることはないかと思い、いただいたお言葉を公開させていただきました。