「戦争をなくすために戦争を学ぶ」という発想は私も同じだった。が、「どうしたら戦争がなくなるのか」を知るために「人は何故戦争をするのか」から考えることは絶望に繋がる。人間の本性に悪を発見するからだ。そしてその完治出来ない悪を延々と責め続け、結果、永久に目の前の戦争をなくすことは出来ない。
“うーん。熱い。同感だ。…でも偏ってる”
この本はずっと昔に読んだので内容の詳細は忘れてしまった。上は当時の読後の感想。
延々と、戦争の悪と人間の悪を嘆き続ける内容だったように記憶している。(今読めばまた違った印象を持つのかもしれない)
とにかく現実の戦争という“非常事態”を解決するには、実務力しかないと私は思う。
根本的な人間の戦争癖を矯正できたらそれに越したことはないが、人の本質を嘆いているうちに目の前の人たちは次々と死んでいってしまう。
現実に対処するためには、決して「悪」をターゲットにしてはならない。正義を振りかざしてはならない。人道を説くより先に、より多くの命を救うためあらゆる手段を駆使したい。
この本で特に引っかかったのは、クラウゼヴィッツを現代戦争の「悪」を生み出した魔王であるかのように描いていることだった。たかが軍事の実態をメモしただけの人に、全ての「悪」を背負わせるのはいかがなものか。
クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長だ」と書いたのであって、「延長として必ず戦争をしなければならない」と言ったわけではない。むしろ現実の戦闘の前に政治があること、戦闘は戦争の一部に過ぎない(つまり必ずしも現実戦闘をする必要はない)ことを、実務のままにメモしただけ。「敵戦闘力の撃滅」という言い方は確かに絨毯爆撃の論拠となったが、国家全体が力であると書くのは単なる真実でしかない。結論、孫子と同じことを書いているはずだが、孫子に比べて足りなかったのは「目的さえ達成すれば戦闘は要らない」と説かなかったことだ。本人が言っているように『戦争論』は実務メモに過ぎないのであり、後進の者のための指南書ではないからだろう。
実務の半端なメモをヒトラーみたいな単純な素人が手にすれば読み間違えてしまうのは、当然といえば当然かもしれない。悪いのは読み間違えて暴走した素人、そして誰でも手に届く場所にこの本を置いた人々。
今となって嘆いても仕方がないが、軍事本は兵器と同じと見て危険物扱いにしたほうが良い。
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