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坂の上の雲(感想メモ2)

前記事より続き。

・日本に優秀な戦略家がいないと書いたが、日露戦争の時にはそうではなかった。秋山参謀のような職人から、児玉源太郎のような俯瞰脳を持つ政治戦略家まで粒揃い。現代から見れば羨ましい、明治政府の教育方針ゆえか。
またこの明治の当時、滅私奉公の精神を政治家が当たり前にもっていたことにも頭が下がる。日露戦争の戦略を担当した参謀本部次長たち(田村い与造、川上操六)が過労で死んでいった。この後、児玉源太郎は大臣から参謀本部次長へと降格してまでこの激務の後を継いだ。その児玉は日露戦争の後に死んだ。
国のため降格し、命を削ってまで任務をまっとうする。…偉い人がいたもの。泣いた。

・ところで司馬先生が「児玉源太郎は読書家ではない故に天才」と言い、読書家へさんざん嫌味を書いているのには参った。
自分の本を読んでいるお客様のほぼ全てが“読書家”であることに気付いているのかいないのか?(笑)
うっかりミスなのか、それとも冗談なのかなと思ってちょっと笑いました。


・引用、三巻P196
「ちなみに、すぐれた戦略戦術というものはいわば算術ていどのもので、素人が十分に理解できるような簡明さをもっている。逆にいえば玄人だけに理解できるような哲学じみた晦渋な戦略戦術はまれにしか存在しないし、まれに存在しえたとしても、それは敗北側のそれでしかない。」

>すぐれた戦略戦術というものはいわば算術ていどのもので、素人が十分に理解できるような簡明さをもっている
全くそのとおりだと思う。
戦闘の勝敗というのは純粋に力の合計のみで決まるから、本来なら小学生でも計算可能なはずだ。たとえば敵の兵数が6万、こちらが4万とすると、同等の能力を持つ兵だった場合に必ず6万の敵が勝つ。子供でも分かる。
しかし実は、その単純さを受け入れることこそ素人には最も難しいのではないでしょうか、司馬先生。

シンプルな定理を見抜けないのが、素人が素人たる所以なのでは。
基本をとらえられないから、少し複雑な結果になると分かりにくい。たとえば小が大に勝つという結果は、複雑で不可解なゆえに素人目には「天才が起こした奇跡」に見える。(この小が大に勝つという場合、素人目には見えにくい兵力以外の要素が力学的に勝っていたという単純な事実があったからに過ぎないのだが)
つまり素人のほうが神秘的で哲学的で、難解な非合理に飛びつきがちだ。

>逆にいえば玄人だけに理解できるような哲学じみた晦渋な戦略戦術は…敗北側のそれでしかない
第二次世界大戦時の日本国の戦略のことを仰っているのだと思うが、「玄人だけに理解できる」は逆でしょう。
その時の戦略は玄人向けに作られたものではなく、むしろ素人向けに作られた宣伝。プロパガンダ。
非合理な戦略は一般大衆が素人だからこそ受け入れることが出来るもの。あれが意図的に国民の協力を目的として考えられた計略なら、(宣伝効果という点で)至上稀に見る成功に終わったと言えるだろうし、戦略としても決して大きなはずれではなかったと思う。
司馬先生は愛国心のことを「戦略の非合理」と呼ぶけれども、その合理、総合戦闘力とは経済力と兵数のみで量れるものではない。兵士・国民の士気、忠誠心というものも戦闘力の重大な要素。
というのは、先に日清戦争の結末を眺めていて大いに分かるはず。巨大な戦艦を持っていて、物理の戦闘力では日本を上回っていた清が敗北したのは何故か? 愛国心、忠誠心(統制力)という要素が欠乏していたからだ。この点で日本国は清国より勝っていたためにトータルな、つまり「総合戦闘力」の数値が上昇し勝利することが出来た。日露戦争でも最終的には、敵国ロシアの統制力のなさのおかげで日本が優ることが出来たと言えるだろう。どれほど強い戦艦を持っていたとしても、使う者たちの戦闘力が弱ければ役には立たないのだ。
確かに経済力や兵数と比べて、愛国心に基づく統制力は数値に置き換えることが難しい。しかし、難しいからといって、「存在しない」ものではない。司馬先生のように「あいまいな神秘」などと断言してこの重大要素を排除してしまっては、清国や露国と同様に滅亡の道へまっしぐらだろう。

ところで明治政府の為政者たちが「国民精神の高揚などというとりとめない発言をしなかった」というのは信じがたい。
“富国強兵”という小学校の社会で習ったあのスローガンは気のせいだったのか? まさか。
明治時代ほど日本人が国民精神を高揚させ、一致団結して国を高めていった時代はなかったろうと思う。だからこその日清・日露の勝利があったことは見逃せないだろう。
少し戦争を齧れば、過去の日本を勝利へ導いた重大要素が「国民の統制力」にあったことは見抜ける。太平洋戦争開戦時において、為政者たちはこの過去を見習い、足りない戦闘力を補おうとしたのではないか。
だからあの曖昧で哲学的なスローガンは、全体の戦闘力を底上げするプロパガンダとして、戦略を考える側から見れば“有用であった”と言える。
ただし太平洋戦争の不幸なところは、物理的に圧倒的に不利だったゆえに「国民精神の高揚」という要素を足しても敵国に戦闘力が追いつかなかったことだ。(このため「国民精神の高揚」が神秘的な妄想に過ぎなくなってしまったのだ)
さらに全体的な戦略シナリオの欠陥。というよりはシナリオの欠乏。
参謀という戦術家の寄せ集めだけで、行き当たりばったりに戦争をしたという感が否めない。戦争の結末を方向づける戦略家の存在が見当たらない。
そもそも勝利が妄想と言えるほど総合戦闘力が劣っているのなら、現実の戦闘に踏み切るべきではなかったのだが……。
「窮鼠 猫を噛む」か。
いたしかたなかったにしろ、もう少し無謀ではないやり方があったように思う。
太平洋戦争の末期に至っては、素人だけが信奉するべき「神秘」を戦争のプロたる将軍たちまで信じるようになってしまったようだ。
伝統的な歴史小説ファンタジーに基づき、「現場ですべて何とか出来る」という妄想を現場に押し付けた。
(※これは歴史小説で描かれている、「天才たちが現場ですべて何とかした」かのような嘘っぱちな戦争フィクションを鵜呑みにしてしまったもの。だから歴史小説は現実に対して有害なのだ。プロは中華と日本の歴史小説を捨てろ)
当たり前だが物理を無視しての“戦闘力の底上げ”はあり得ない。物理あっての精神による戦闘力の底上げだ。太平洋戦争ではプロまで妄想にすがりつき、あまりにも精神に偏り過ぎた。偏ったから悲劇的な敗北を喫した。プロが妄想にすがってしまっては従う国民は妄想で溺れ死にするしかない。

現代について。
戦後史の流れとして、司馬先生の「愛国心=戦闘要素ゼロ」という偏った結論が現代日本のスタンダードな考え方になってしまったとするとまずいなと思う。偏れば滅ぶ。

司馬先生もそうだけど戦争を体験した先輩たちは、過去の反省から「愛国心」を過剰に排除しようとしてきた。
神経質なまでに愛国心を漂白する現代教育。私自身もこの教育を受けて来たので、同世代の多くの人々と同じように「愛国心って何?」「国のため?馬鹿馬鹿しい」と思うほう。だから、分かる。今もし戦争が起きたら清国と似たような状態になるだろうこと。国が滅ぶのを憂えるよりも自分の身が傷付くのが嫌で、戦場から逃亡する人がきっと多い。

愛国心を漂白する教育が悪いと言っているのではなくて、事実としてこの国は弱いと考えられる。もし総合戦闘力を数値に置き換えることが出来るとしたら、今の日本の戦闘力(政治・経済含む)は先進国最低レベルの数値になるのだろう。


追記: 
細かいことを書いてしまったのは、、司馬作品が「つい語りたくなってしまうほど詳細で素晴らしい」小説だからです。
興奮を抑えられず物語の中に唐突に登場してしまう「私」と、熱い語り口が私は好きです。この情熱に導かれて目が止まらず、読み進んでしまう。
情熱溢れる創作。素晴らしいです。