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角田光代『八日目の蝉』 読書感想とドラマの感想

 泣けて、泣けて仕方がなかった。ドラマのほう。
最終回だけ観たのだが予想外に感動的な仕上がりで、泣きのツボを突かれた。
久しぶりに胸の底から気持ちが込み上げて来て息もつけずに泣いた。
※2010年 壇れい主演で気になっていたドラマです。最後だけ観ても彼女の演技は情緒あり、そしてやはり美しい。全部観れば良かった。
小説のほうでも少し泣きかけたのだが、泣くことの罪を意識させられて涙は寸止めとなった。
決して悪くはない小説。本物の深みがある。けれど感動はさせてくれない。
“愛も情けも、見せびらかしながらすんでのところで逸らされる”
そんな消化不良を起こしそうな辛い小説だった。

誘拐の話である。
不倫相手の子をさらって育てる女の話。
憎むべき犯罪者であり、やってはいけないこと。
それが不思議なことに、母が子を愛しく思う気持ちが切々と伝わって来る描写なのだ。
擬似母子の生活は貧しくても明るく、暖かい。
愛と友情に包まれた生活。
人の子として生まれたらこんなふうに育てられるのが理想と思える。

さらわれた子は“偽の母”が警察に捕まるまで本当に幸福に過ごす。
捕まってからは一転、愛のない冷たい家庭に放り込まれすさんだ生活を強いられる。

「偽者の母親のほうが良かったのではないか。かつての生活のほうが幸せだったのではないか」
とうっかり思ってしまいそうになる。
だがそう思う読者を糾弾するのが、被害者の怨み。
感動している自分がおかしいのかと迷わされる。
最後まで決して気持ちに解決はない。
親子の情に心を震わせかける読者をせせら笑うような、
「愛なんてしょせん幻想。犯罪者でも作り出せる張りぼて」
と言われているような。気のせいだろうか。背後にうっすら背筋の寒くなる怨念も感じられた、と言うのは少し言いがかり気味かな。
もともと女流作家の小説が苦手なだけかもしれない。
(角田光代では他に『三面記事小説』という作品があって、実際にあった犯罪をきっかけに構想し物語を展開させていくという手法が得意らしい。『八日目の蝉』も実際にあった事件がモデルのようだが、事件を描く目的ではなく単に構想のきっかけに過ぎないと思われる。そのきっかけから、ここまで同調して深い物語を書けることは天才的と思う。たぶん自分自身の経験か何かと同調させていると感じられるので、ここまで描けばオリジナルと言って良い。……しかし実際にあった事件の犯人に共感し過ぎな傾向はいかがなものかと思った。『三面記事小説』では、あまりに犯人寄りの、深読みし過ぎな描き方が気になった。現実の事件にはそこまで深い理由がない。だからこそ理不尽で、なお怒りに震えるのだ)

だがしかし――
ドラマは最終回だけ観たからか素直に感動出来た。

脚本もドラマ的に、感動重視で仕上げられていたせいでもあった。一歩間違えばメロドラマふうであまり文学的とは言えないが、個人的にこちらのほうが好きだし、こちらのほうが実は現実的。つまり「リアル」と言えるように思う。
人はそれほどクールにはなれない。
愛の中にどっぷり心を浸したいと思うものだし、愛を信じたいと願う。
たとえ偽者の母子だろうと、愛情が生まれることがある。
生まれた愛は確信となり本物となる。
確かに“そこにある”と自分でも周りから見ても思えるようなものへ。
だから、このドラマのように「あの人は犯罪者ではない。あの人たちは普通の親子だった」と言ってくれる人が出て来るほうが、現実的で完成された世界に見える。
(現実のほうが小説よりよほどメロドラマなのである)
小説を読んで以来のモヤモヤが一気に流された。
“いけないこと”・“おかしいこと”なのかもしれないが、今宵は素直に母子の情に浸りたい。
安っぽくていい、会わせて抱き締めさせてやりたかった。

***
個人的な話。
こういう「母から引き離される子」のテーマは弱い、昔から。
そう言えば『一休さん』もそうだし、『母を訪ねて三千里』もそう。笑
誰もがこのテーマには弱いのかもしれないけど、私は何故か隣に母がいるのに別れたつもりになって共感して泣いていた。
何故だか今生(でも?)、母と別れた錯覚に陥ることがある。
“遠くの母”を想う切なさはちょっと半端ではない。実際に八歳の時に別れるはずではあったので、そのせいかどうか。

「別れずに済んで良かった」と言いたいところだが、別れておけば良かったかもしれないと考えるような辛い片想いを味わうはめになった。
考えてみれば母としての愛情があれば手放すはずの経緯だった。
生みの母よりも他人のほうが愛を注いでくれるということがままあるかもしれない、実際。
(ああそう言えばもうすぐ母の日です。どんな仕打ちを受けても私は彼女を大切にします。これが“対等ではない”関係、永遠の片想いというもの)