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ジョージ・オーウェル『1984年』感想と紹介(本)



『1984年』の現実化へ真っ直ぐ突き進む現代。消えかけている人間性を失わないために語彙を盾とせよ。


内容紹介:
第三次世界大戦後、世界は三つの大国に分かれて統治されていた。その中の一つ、オセアニア国では「偉大な兄弟(ビック・ブラザー)」の率いる党によって人民が管理されている。
勤務先でも街中でも、自宅の部屋でさえ、「テレスクリーン」と呼ばれる放送受信機を兼ねた監視カメラが人民の一挙手一投足を眺めている。
言語は党が決めた「新語(ニュースピーク)」を用いるよう求められ、結婚や性交渉も党によって管理されている。自由な恋愛や日記を書くなどの行為は許されない。それらは明文化された法律で禁じられているわけではないが、党が意図しない振る舞いをした者は"存在を消される"ことになる。逮捕され行方不明となるだけではなく、全ての文書においてその人物が生まれた時に遡り記録を抹消されるのだった。
真理省に勤めるウィンストンは歴史を改ざんする仕事をしていた。新聞・雑誌、ありとあらゆる文書から存在を消されることになった人物の名前を消し、変更となった戦争相手を書き換える日々を送っている。
密かに自分の仕事へ疑問を持ち、「ビック・ブラザー」に反感を抱いていたウィンストンはある日、骨董屋で白紙の日記帳を見つけた。誘惑にかられて日記帳を買って帰ったウィンストンは"推定"1984年4月、ついに禁断の日記をつけ始める……。

いつか見た光景である。
1984年頃の社会主義国を「過去の歴史」として曖昧に知っている我々は、寒々と聳え立つ無機質な省庁のビル群と、対照的にみすぼらしく荒んだプロレ地区との退廃的な街並みに既視感を覚える。この小説は1984年の現実の国を描写したものではないか、と錯覚さえする。
けれどこれは1948年に書かれた小説であり、著者は1950年に亡くなっているのだと思い出すと寒気がする。
世界がナチスを経験した後で、社会主義の欠陥は既に見えていた時代とは言え、ここまである意味リアルに未来の国家を描写できるものだろうか?


『1984年』は1948年の過去から近未来を描いた、イギリスで最も有名なSF小説。
SFと言っても現代人が「サイエンス・フィクション」として読むのは少々辛いものがある。監視カメラには死角があり、思想的に管理されているのは省庁に勤める党員だけでその他の大衆(プロレ)は野放しにされている。また「歴史改ざん」の作業は全ての新聞や雑誌を集めて書き換えるという、何とも手間のかかるアナログ作業。
この小説の設定より遥かに進んだハイテクを知る現代人の目には、オセアニア国の管理システムは穴だらけに思える。70年近く昔に書かれた小説であることを差し引いても、SFとしてはもう少し空想科学を駆使した設定が欲しいところ。
「これのどこがSF?」と、まずそこに引っ掛かって先に読み進めることが出来なくなる現代人は多いだろう。SFに奇抜な設定だけを求める人は「駄作」「退屈」と罵倒して放り出すに違いない。
しかし私は、2000年代の現代から見て「既視感」を覚える設定であることこそにこの小説の凄味を感じた。
抑えた空想で描写されている国家システムが、ちょうど30年ほど昔の過去のようである。このため実際の1984年を描写したのではないかと錯覚させるリアリティを持つことに成功している。
さらに言えば現代は『1984年』の設定が生温いと思えるほどの進んだ監視社会となった。核心的な意味で、『1984年』に描かれた通りの絶望が実現しつつある。

もしかしたらオーウェルは、真面目に未来を予言しようと企んでこの小説を書いたのかもしれない。
娯楽SFとして設定を愉しもうと迂闊にこの小説に手を出せば、現実の生々しさに遭遇して打ちのめされるだろう。
(この小説を嫌悪する人の嫌悪感の原因は、まさにこの現実らしさにあると思う)

冷戦時代の欧米で、この小説は反社会主義国・反共産主義の象徴として読まれたという。
作者が社会主義国を意識して書いたことは明らかなので、反共小説として読むのも間違いではないのだろう。
しかし作者の意図は反共「だけ」ではなかったと思う。個人の人間性を踏みにじり自由意思を押しつぶし、強制的に全体へ取り込む、全体主義的なるものの全てを描写したかったのではないだろうか。

かつて近代人は権力による抑圧という絶望に対抗する希望として、民主主義を信仰していた。
だが気付けば現代、民主主義が個人の人間性を脅かしている。
我々は民主主義的な同意契約のもと、『1984年』の設定よりも遥かに進んだハイテク監視システムに見張られている――個人情報はネットを通じて一瞬で吸い上げられ、監視カメラは日常の隅々まで死角なく設置され、歴史の改ざんも瞬時にネットの情報を書き換えることで行われている。近々、人間は拷問するまでもなく脳内にチップを埋め込まれ心までコントロールされるかもしれない。
いずれ我々は個としての言葉を失いそうだ。
既にかなり前から「新語」を浴びせられ語彙を奪われつつある。
「肉体は拘束されても、心までは縛られることがない。心だけは完全に自由だ」
高潔な精神の持ち主がこう述べることすら不可能となる未来が訪れる、のか。


あまりにも有名なこの小説は古今東西、専門家から素人までたくさんの人が書評や感想を書いており、様々な解釈がされている。私もその中の素人の一人となったわけだが。
村上春樹の『1Q84』もタイトルから分かる通りこの小説を意識したものであるらしい。私は読まないので推測だが、彼のことだからありきたりな反応へ疑問を投げかけているのだろう。

ナチスやソ連のシステムを恐怖政治と呼んで嫌悪する、言わば「ありきたり」な反応を斜に構えて眺める人は一定数存在する。
ありきたりな反応はそんなにダサいのか?
あたかも自分だけが真実に気付いているスタイリッシュな超人類であるかのように、
「全体主義をどうして不幸と呼ぶ?」
「全体主義を受け入れることは生きる意義を見つけ幸福になることだ」
などと、オブライエンと同じ主張をする。
私もこの小説を読みながら、オブライエンの理論は仏教のようだと感じていた。

個が全体に溶け込み、個としての意識を失うことを「悟り」と呼び、究極の幸福であると説く。
個は全体の一つに過ぎず、実はどこにも個の思想など存在していないというのがこの世の真理であるなら、人間社会も全体主義に落ち着くことが幸福と言えるのかもしれない……、

と、待て待て。
これは独裁者が好む詭弁に過ぎない。騙されてはならない。

一見真実に思えるこの勘違いは肝心の前提を無視している(無視させられている)から起こる。
社会において「全体」の反対語は確かに「個」である。
だけど「権力」の反対語は、生きる意義や価値観を失うという意味の「自由」ではない。
全体主義の思想で故意に黙殺されているのは「人間性」。たとえば愛してもいない人を愛していると思わされることや、言葉を奪われ日記を禁じられること、歴史を改ざんされること、2+2=5と信じさせられること、暴力を受けざるを得ないことなどは「人間性」の蹂躙だ。
「人間性」とはごく大雑把に定義すれば「互いに心地よく生存していくための本能?」、かな(仮)。
暴力を受けたり与えたりしない、意に反したことを強制されないしない。「人権」と呼ばれる言葉が掲げるあらゆる権利を、集団内でお互いに尊重し合い守り合うこと。
何故に人権という言葉に「他者の権利を侵害しない限りにおいて」という制約がついているのかと言うと、お互いの人間性を守る必要があるからだ。
最もダサい西洋語で表現すれば、「Love」と言い換えられるか。他者を独占しようとする恋愛の愛ではなく、「思いやり」という日本語で表現される種類の本能。
人は(広い意味では人間に近い動物たちも)「人間性」を持つ生き物。人間性を侵されないことを結論的に「精神の自由」と呼ぶ。
「人間性」があることが「自由」の前提だ。他者の人間性を踏みにじり、責任を放棄して個々の欲望を貪ることが「自由」ではない。
逆に言えば「人間性」が守護されているなら政府の存在を過激に全否定しなくとも良い。集団で生きることもまた「人間性」を前提とすれば決して悪とはならない(政府が完全に人間性を守護することが可能か不可能かはともかく)。だから、全体か・個かという極端な二者択一をする必要もない。
仏教で言うところの「悟り」も強制で個の意思を奪われる服従を指すのではない。
この「精神の自由」へ至る大前提の「人間性」は人類の歴史上、小説や文書であまり書かれて来なかったように思う。何故なら書かなくとも自明のことであったから。たとえば「道義心」は自他の人間性を守ろうとする本能。「道義に悖る」行動を目撃した際の怒りの感情は猛スピードで発現するから、前提の「人間性」が言及されることはあまりない。

ところが現実には書かれていること以外、認識できない人たちが存在する。彼らは認識できないことを無いものとして振る舞うことができる。
だから彼らはAIのように書かれていないことを黙殺して思考し、奇妙な主張を始める。たとえば「全体主義によって強制的にお役目を押し付けられたなら、幸福でしょ?」と言う。
オブライエンや、この小説に対するオーソドックスな反応を嗤うのはこの種の人だと思う。

今さらだがあえて言おう、オーソドックスな反応で何が悪い、と。
「人間性」を失いたくない、と大声で叫んで何が悪い。

著者のオーウェルが自分の体験から、人間性を踏みにじる権力に反抗していたことは事実だ。
『1984年』は絶望に満ちた物語だが、決してこのような未来は避けられないのだと説くための小説ではない。
彼自身の主張は確かに明文で書かれていない。
しかし付録として収録された『ニュースピークの諸原理』の過去形からも、「人類はこうなってはならない」の叫びが感じ取れるはずだ。
『1984年』の感想として、
「怖いわぁ。こんな国に住みたくないなー」
と述べるのはダサくとも妥当なり。

人間性に基づくオーソドックスな感想を抱いたなら、既に始まっている現実の『1984年』化を阻止すべく人間性に踏みとどまろう。
古典の本を読み理解しようと努めることも、豊富な語彙を失うまいとする反抗活動の一つではないだろうか。

【おまけの話】
ピンチョンの解説が凄いという噂を聞きつけて新訳を電子書籍で購入したのだが、電子書籍版にはこの解説は付いていなかった(ピンチョン解説収録は紙書籍のみ)。
残念過ぎる、涙。これから購入する人は注意してください。