カテゴリを整理する際にこの記事は削除したんですが、もしかしたら需要あるかなと思って復活させておきます。
批判的な感想というだけで嫌悪する人がいるいっぽうで、同じ感覚を持っている方も必ずいるだろうから、そういう方を孤独にしないためにも必要かな。なんて。
まず、美しい映画ではある。
サンテグジュペリが好きで、あの時代の飛行機に憧れ、『紅の豚』に共鳴した者としては少年が飛行機の夢を見る冒頭映像だけで惹き込まれる。
風景も美しい。
薫り立つ緑に淡い霧、高原を這う雲、歩く男の白いスーツに落ちる葉影、青や赤や橙に変化する空。見惚れてしまう。
日本の緑とドイツの緑で微妙に色合いが違うところも驚嘆する。
でも全体にストーリーは、どうだろう。
薄くぼんやりした焦点の合わないものを見せられた気がするのは私だけだろうか?
と言うのは、どうしても原作や現実のことを考えてしまうからであるが。
個人的には小説も好きだし、零戦の設計者も尊敬するので、どうしてこの二つを半端に組み合わせて滲ませたものを作ってしまったのだろう? と首を傾げてしまう。
病に向き合う苦悩も、零戦を作った男の苦悩も「あえて」飛ばして終わった。
「苦悩を書かない奥ゆかしさ」
という芸術性を狙ったのかもしれない。
しかし奥ゆかしさと「逃げ」は紙一重なものだね。
知っている人だけ理解してね、という芸術スタンスは理解するが、私はむしろ少し知っているほうだからこそ「そこ」をもっと味わいたかったのだが。
書かない、書けないなら、創作をする意味がないのではないかとさえ思った。
それにしても昔からこういう薄くぼんやりした創作は、賛否が極端に出るから不思議だ。
(誰かが「難解すぎて理解できない」と言うと、何故か「俺は分かる。なんでこんな簡単なことが分からないんだ?」と言い出す人が続出する。村上春樹の読まれ方に似ている、あるいは『裸の王様』現象とも言う)
ヤフーレビューを見て、
「生涯最高の映画」「すばらしいなんてもんじゃない」「真っ直ぐな愛に感動した」
等々という称賛が寄せられていて唖然とした。
http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC/344584/review/
本当にそうかなぁ、堀辰雄の『風立ちぬ』を読んだことあって言っているのか?
こちらのレビューは参考になるかもしれない。
⇒『風立ちぬ』を見て驚いたこと by横岩良太
彼は堀辰雄の小説には触れていないけど、宮崎版『風立ちぬ』の主人公を残酷で薄情だ、と言い切っている。
堀辰雄の原作(原作と呼んでいいのか謎だが)は、このアニメの堀越二郎とは真逆だ。
主人公は父親から「娘と一緒に行ってくれるね?」と頼まれて当然に承諾し、全ての仕事を断ち切って、高原のサナトリウムに婚約者と二人で閉じ籠もるのだ。
そして死にゆく者に最後まで寄り添う。
彼女の美しいところも、醜いところも、全てを受け入れて向き合う。向き合い尽くす。
死という暗い淵へ、一歩ずつ二人で落ちて行く。(結局は二人では行けないという残酷さも描かれる)
その様子は、高原の美しく寒々しい景色描写と相俟って、悲鳴を上げてしまいそうになるほど心に痛く突き刺さる。
純愛に泣くのではなく息を詰めて痛みを堪えるしかない、そんな小説だ。
おそらく、宮崎駿はそういう二人で死を見つめる時間をむしろ「残酷」と思ったのではないかな。
どうせ何も出来ず一緒に死ぬわけにもいかないのに、寄り添うのはエゴイズムだと。
それで、菜穂子を生者の場所に引っ張り出し、キラキラと生気を発して仕事をしている二郎を眺めさせた。
もしかしたらそのほうが死んでいく人は幸せなのかもしれない、と考えた。
二郎が、菜穂子を山の病院へ帰せと言う妹に対し、
「それは出来ない。僕達には時間がないから、一日一日を大事に過ごしているのだ」
と答える。
でも実際は二郎は毎朝早くに仕事へ向かい、遅くに帰ってくる。
「いってらっしゃい」「いってきます」
だけの関係である。
なんだそれ、と私もそこで突っ込みたくなった。
でも考えようによっては、それこそ菜穂子が望んでいた生活なのではないか? とも想像してしまう。
彼女は病人ではない、ごく普通の新妻としての生活を送りたかったのではないか。
そして二郎としては、精一杯仕事をしている普段の姿を妻に見せることが、「時間を大事にする」ということだったのかもしれない。
そう考えれば、薄情に見えてむしろ愛が深いのは堀辰雄ではなく、二郎のほうなのではないかとも思えてくる。
(あくまでも、ものすごく良く理解すれば)
だとしても、だ。
原作に描かれたあの痛み、死の残酷さを「空白」のまま終わらせるのは原作者に失礼だ。
原作を批判するために反対の作品を書きたかったのなら、タイトルは変えるべきではなかったか。あるいは、タイトルだけ拝借することは良しとして中身は全く別物の話、たとえば完全に堀越二郎の話に徹するべきだったのでは。
この描き方ではただ女性支持が欲しくて、脈絡もなく不治の病設定の悲恋をねじ込んだように見えてしまう。
それが「愛がない」し、「リスペクトがない」。
堀越二郎さんについても、ご遺族の方はどう思われたのかな。
遺族のお気持ちは分からないけど、私だったら自分の歴史についてこのように「空白」として描かれることは、悪口を言われるよりも遥かに傷付き耐え難いことと思う。
闇を掘り下げて描いてもらうことこそ、何より魂の慰めになるというのに。
どちらにしても、半端だったなと思ってしまう。
どちらかの話にまとめて掘り下げてくれたら良かった。
堀辰雄原作の部分も、戦争の部分も楽しみにしていただけに、残念。
ジブリ作品全般について。
やはり私の中では、『ナウシカ』に始まり『紅の豚』が頂点だったなと感じる。
豚だから良くて人間だったら駄目、ということでは絶対にないし、「子供向けでなければ駄目」ということでもない。(そもそも『ナウシカ』は大人向けアニメというコンセプトではなかったか?)
昔のジブリに比べて今のこれは、ファンタジー性などではなくもっと大切なことが失われてしまった気がする。
それはおそらく単純なこと。情熱や、愛。
『ナウシカ』には志への情熱があったし、『紅の豚』には飛行機乗りへの愛があった。
多くの人が『風立ちぬ』に愛がない、という感想を書いているのは、恋愛物として女性への愛が足りないというだけではなくてその他のものにも愛が感じられないからなのでは。
誰もが『ナウシカ』のような完璧な物語は書けない、自分にもそんな能力がないので永久の憧れ。
これからのジブリの人たちも昔のジブリに憧れて欲しい。一ファンとしてそう願う。
だいたい昨今のアニメは芸術を装い、複雑さを気取り過ぎる。
完璧な創作とは、もっとシンプルなものではないのか。
(時間がないと言いつつ、思いがけず夜更かしして長々と書いてしまった。やはり昔のジブリが好きだったもので熱くなります)
アマゾンレビューのほうを見ると、この映画を観て皆さん主人公および宮崎駿がエゴイズムの塊であることに気付いている。その上で、「エゴ」を絶賛する。
確かに、科学者や技術者はエゴイストで、そうでなければ良い物は造れない。
妻の命が目の前で消えていく時であっても一心不乱に仕事に向かうような、「鬼」であることは必要な時がある。
自分の造った物が国家を滅ぼしたとしても、造り出したこと自体に快感を覚える「鬼」、それがある種の天才。
アインシュタイン含め、原爆を造った科学者たちはただそれを生み出したいというエゴの塊であって、結果として大量の人が死んだとしても満足する純然たる悪魔なのだ。
しかし、この『風立ちぬ』という映画はそんな現実を描いた作品では決してない、と思う。
そんな素晴らしいものではない。そこまで行っていない。
思うに誰も原作など読んでいないし、堀越二郎のことも知らないのだ。
事実として堀越二郎という人が死にゆく妻を見捨てたのなら私も感じるものがあるが、事実そんなことはない。ということさえ知らずに事実と勘違いして絶賛している。
(仮に知らずにこのアニメだけ観たのだとしても、私はこれでは真に迫るものを感じられず感動出来なかっただろう)
何にせよ、中途半端な仕事で原作や現実の人が踏みにじられたことは確かで、そのことにさえ気付けない大衆のお気楽さに唖然とする。
こういう人たちが歴史人物を踏みにじってバカな嘘話を作り上げていくんだな。
宮崎駿先生も、こうして「自分が好きだった」というだけで他人の作品やら名前やら借りて半端に自己投影するくらいなら、自分自身の伝記を描いていただきたかった。
しかし自伝を描くのはタブーだと彼らは思っている。いったい、日本ではいつからそれが絶対タブーということになったんだ?
自伝を書いたら法律で罰せられるのか。だとしてもタブーを冒してやるのが「鬼」ではないのか。
たとえ日本の庶民から処刑されても、「アニメの鬼」として生きた人生を正面から描いてくれたなら、「ほほう」と感動したかもしれない。
まあ、観客の目を意識して正面から自伝も書けない時点で「エゴの塊」・「技術者の鬼」とは言えないか。
2015年2月25日筆
批判的な感想というだけで嫌悪する人がいるいっぽうで、同じ感覚を持っている方も必ずいるだろうから、そういう方を孤独にしないためにも必要かな。なんて。
まず、美しい映画ではある。
サンテグジュペリが好きで、あの時代の飛行機に憧れ、『紅の豚』に共鳴した者としては少年が飛行機の夢を見る冒頭映像だけで惹き込まれる。
風景も美しい。
薫り立つ緑に淡い霧、高原を這う雲、歩く男の白いスーツに落ちる葉影、青や赤や橙に変化する空。見惚れてしまう。
日本の緑とドイツの緑で微妙に色合いが違うところも驚嘆する。
でも全体にストーリーは、どうだろう。
薄くぼんやりした焦点の合わないものを見せられた気がするのは私だけだろうか?
と言うのは、どうしても原作や現実のことを考えてしまうからであるが。
個人的には小説も好きだし、零戦の設計者も尊敬するので、どうしてこの二つを半端に組み合わせて滲ませたものを作ってしまったのだろう? と首を傾げてしまう。
病に向き合う苦悩も、零戦を作った男の苦悩も「あえて」飛ばして終わった。
「苦悩を書かない奥ゆかしさ」
という芸術性を狙ったのかもしれない。
しかし奥ゆかしさと「逃げ」は紙一重なものだね。
知っている人だけ理解してね、という芸術スタンスは理解するが、私はむしろ少し知っているほうだからこそ「そこ」をもっと味わいたかったのだが。
書かない、書けないなら、創作をする意味がないのではないかとさえ思った。
それにしても昔からこういう薄くぼんやりした創作は、賛否が極端に出るから不思議だ。
(誰かが「難解すぎて理解できない」と言うと、何故か「俺は分かる。なんでこんな簡単なことが分からないんだ?」と言い出す人が続出する。村上春樹の読まれ方に似ている、あるいは『裸の王様』現象とも言う)
ヤフーレビューを見て、
「生涯最高の映画」「すばらしいなんてもんじゃない」「真っ直ぐな愛に感動した」
等々という称賛が寄せられていて唖然とした。
http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC/344584/review/
本当にそうかなぁ、堀辰雄の『風立ちぬ』を読んだことあって言っているのか?
こちらのレビューは参考になるかもしれない。
⇒『風立ちぬ』を見て驚いたこと by横岩良太
彼は堀辰雄の小説には触れていないけど、宮崎版『風立ちぬ』の主人公を残酷で薄情だ、と言い切っている。
堀辰雄の原作(原作と呼んでいいのか謎だが)は、このアニメの堀越二郎とは真逆だ。
主人公は父親から「娘と一緒に行ってくれるね?」と頼まれて当然に承諾し、全ての仕事を断ち切って、高原のサナトリウムに婚約者と二人で閉じ籠もるのだ。
そして死にゆく者に最後まで寄り添う。
彼女の美しいところも、醜いところも、全てを受け入れて向き合う。向き合い尽くす。
死という暗い淵へ、一歩ずつ二人で落ちて行く。(結局は二人では行けないという残酷さも描かれる)
その様子は、高原の美しく寒々しい景色描写と相俟って、悲鳴を上げてしまいそうになるほど心に痛く突き刺さる。
純愛に泣くのではなく息を詰めて痛みを堪えるしかない、そんな小説だ。
おそらく、宮崎駿はそういう二人で死を見つめる時間をむしろ「残酷」と思ったのではないかな。
どうせ何も出来ず一緒に死ぬわけにもいかないのに、寄り添うのはエゴイズムだと。
それで、菜穂子を生者の場所に引っ張り出し、キラキラと生気を発して仕事をしている二郎を眺めさせた。
もしかしたらそのほうが死んでいく人は幸せなのかもしれない、と考えた。
二郎が、菜穂子を山の病院へ帰せと言う妹に対し、
「それは出来ない。僕達には時間がないから、一日一日を大事に過ごしているのだ」
と答える。
でも実際は二郎は毎朝早くに仕事へ向かい、遅くに帰ってくる。
「いってらっしゃい」「いってきます」
だけの関係である。
なんだそれ、と私もそこで突っ込みたくなった。
でも考えようによっては、それこそ菜穂子が望んでいた生活なのではないか? とも想像してしまう。
彼女は病人ではない、ごく普通の新妻としての生活を送りたかったのではないか。
そして二郎としては、精一杯仕事をしている普段の姿を妻に見せることが、「時間を大事にする」ということだったのかもしれない。
そう考えれば、薄情に見えてむしろ愛が深いのは堀辰雄ではなく、二郎のほうなのではないかとも思えてくる。
(あくまでも、ものすごく良く理解すれば)
だとしても、だ。
原作に描かれたあの痛み、死の残酷さを「空白」のまま終わらせるのは原作者に失礼だ。
原作を批判するために反対の作品を書きたかったのなら、タイトルは変えるべきではなかったか。あるいは、タイトルだけ拝借することは良しとして中身は全く別物の話、たとえば完全に堀越二郎の話に徹するべきだったのでは。
この描き方ではただ女性支持が欲しくて、脈絡もなく不治の病設定の悲恋をねじ込んだように見えてしまう。
それが「愛がない」し、「リスペクトがない」。
堀越二郎さんについても、ご遺族の方はどう思われたのかな。
遺族のお気持ちは分からないけど、私だったら自分の歴史についてこのように「空白」として描かれることは、悪口を言われるよりも遥かに傷付き耐え難いことと思う。
闇を掘り下げて描いてもらうことこそ、何より魂の慰めになるというのに。
どちらにしても、半端だったなと思ってしまう。
どちらかの話にまとめて掘り下げてくれたら良かった。
堀辰雄原作の部分も、戦争の部分も楽しみにしていただけに、残念。
ジブリ作品全般について。
やはり私の中では、『ナウシカ』に始まり『紅の豚』が頂点だったなと感じる。
豚だから良くて人間だったら駄目、ということでは絶対にないし、「子供向けでなければ駄目」ということでもない。(そもそも『ナウシカ』は大人向けアニメというコンセプトではなかったか?)
昔のジブリに比べて今のこれは、ファンタジー性などではなくもっと大切なことが失われてしまった気がする。
それはおそらく単純なこと。情熱や、愛。
『ナウシカ』には志への情熱があったし、『紅の豚』には飛行機乗りへの愛があった。
多くの人が『風立ちぬ』に愛がない、という感想を書いているのは、恋愛物として女性への愛が足りないというだけではなくてその他のものにも愛が感じられないからなのでは。
誰もが『ナウシカ』のような完璧な物語は書けない、自分にもそんな能力がないので永久の憧れ。
これからのジブリの人たちも昔のジブリに憧れて欲しい。一ファンとしてそう願う。
だいたい昨今のアニメは芸術を装い、複雑さを気取り過ぎる。
完璧な創作とは、もっとシンプルなものではないのか。
(時間がないと言いつつ、思いがけず夜更かしして長々と書いてしまった。やはり昔のジブリが好きだったもので熱くなります)
追記
“エゴ”について。アマゾンレビューのほうを見ると、この映画を観て皆さん主人公および宮崎駿がエゴイズムの塊であることに気付いている。その上で、「エゴ」を絶賛する。
確かに、科学者や技術者はエゴイストで、そうでなければ良い物は造れない。
妻の命が目の前で消えていく時であっても一心不乱に仕事に向かうような、「鬼」であることは必要な時がある。
自分の造った物が国家を滅ぼしたとしても、造り出したこと自体に快感を覚える「鬼」、それがある種の天才。
アインシュタイン含め、原爆を造った科学者たちはただそれを生み出したいというエゴの塊であって、結果として大量の人が死んだとしても満足する純然たる悪魔なのだ。
しかし、この『風立ちぬ』という映画はそんな現実を描いた作品では決してない、と思う。
そんな素晴らしいものではない。そこまで行っていない。
思うに誰も原作など読んでいないし、堀越二郎のことも知らないのだ。
事実として堀越二郎という人が死にゆく妻を見捨てたのなら私も感じるものがあるが、事実そんなことはない。ということさえ知らずに事実と勘違いして絶賛している。
(仮に知らずにこのアニメだけ観たのだとしても、私はこれでは真に迫るものを感じられず感動出来なかっただろう)
何にせよ、中途半端な仕事で原作や現実の人が踏みにじられたことは確かで、そのことにさえ気付けない大衆のお気楽さに唖然とする。
こういう人たちが歴史人物を踏みにじってバカな嘘話を作り上げていくんだな。
宮崎駿先生も、こうして「自分が好きだった」というだけで他人の作品やら名前やら借りて半端に自己投影するくらいなら、自分自身の伝記を描いていただきたかった。
しかし自伝を描くのはタブーだと彼らは思っている。いったい、日本ではいつからそれが絶対タブーということになったんだ?
自伝を書いたら法律で罰せられるのか。だとしてもタブーを冒してやるのが「鬼」ではないのか。
たとえ日本の庶民から処刑されても、「アニメの鬼」として生きた人生を正面から描いてくれたなら、「ほほう」と感動したかもしれない。
まあ、観客の目を意識して正面から自伝も書けない時点で「エゴの塊」・「技術者の鬼」とは言えないか。
2015年2月25日筆