十代の頃の自分の背中を見た。反抗などとは呼べない、ただ壊れそうなだけの背中。
『ライ麦畑でつかまえて』は子供の頃から何度もトライし続けたのだが、ほとんど最初の辺りで挫折してしまっていた。
だから自分にはこの小説が理解出来ないのだ、永久に縁がないのだと思っていた。
だが新訳で読んだら縁がないどころか、がんがん響いた。
かつての自分がここに描き出されているのを知って痛々しくも懐かしかった。
旧訳がいけないというのではない。
ただ自分の育った時代において、あの時代の人々の喋り口調はほとんど外国語に等しいものであったということだ。
それに日本がいちばん元気だった時代の口調はどうもこの小説の主人公に合わない。
どうしても高度経済成長期を連想してしまう会話文からは、あっけらかんと明るく、無秩序だけれども力強く前向きだった時代の人々しか私はイメージ出来ないのだ。そのイメージがあまりに強いものだから、主人公の繊細さを感じ取るまでに至らず挫折してしまったわけだ。
たぶん当時の日本においては『ライ麦畑』は新しい時代の象徴として読まれていたのだろう。それ故に絶大な支持を得たのだろうと想像する。ただ作品内の背景を日本に置き換えれば、この主人公の生きている時代は高度経済成長期よりむしろ80年代から90年代以降に近いのでは、と感じる。
社会全体が上昇気流に乗り、善も悪も混じり合いながら力強く脈動していた時代なのではなく、文化経済が頂点に極まり衰退の陰が見え始めた時代。
十代の若者たちは目標とすべきものを見失い、反抗する対象すら失った。
どこへ行けばいいのか。
何に対して戦えばいいのか。
もやもやと不満は湧いて来るのに、ぶつける壁すら存在しない。
世の中は何もない、空っぽなのだ。
いくら反抗心をぶつけてみても虚空へ吸い込まれるだけ。逃避してもどこにも逃げられない。
ただ痛いだけの季節が絶望として横たわっている。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で描かれているのはそういう十代にとっての危機的な状況、まさに村上春樹が描いてきたところの失われた世界観に近いと思う。
ずっとこの小説は「反抗の旗印」という地位に置かれていたが、実は主人公は反抗など出来てはおらずただ周囲から浮いているだけ。
反抗の衝動も逃避への憧れも、全てが空回り。
それで向かうところを失った不満を棘として全身から出してみるも、その棘はサクサクと自分の心に突き刺さるだけなのだ。
仕方がないことに時代による違いというものはやはりある。
この小説が反抗の旗印として何やら具体的な社会活動に利用された時代は終わり、社会が成熟し衰退しきった今、ようやく個人の思い出に語り掛け始めている。
そしてそうなって初めて小説は不朽なるものになる。
『ライ麦畑でつかまえて』は子供の頃から何度もトライし続けたのだが、ほとんど最初の辺りで挫折してしまっていた。
だから自分にはこの小説が理解出来ないのだ、永久に縁がないのだと思っていた。
だが新訳で読んだら縁がないどころか、がんがん響いた。
かつての自分がここに描き出されているのを知って痛々しくも懐かしかった。
旧訳がいけないというのではない。
ただ自分の育った時代において、あの時代の人々の喋り口調はほとんど外国語に等しいものであったということだ。
それに日本がいちばん元気だった時代の口調はどうもこの小説の主人公に合わない。
どうしても高度経済成長期を連想してしまう会話文からは、あっけらかんと明るく、無秩序だけれども力強く前向きだった時代の人々しか私はイメージ出来ないのだ。そのイメージがあまりに強いものだから、主人公の繊細さを感じ取るまでに至らず挫折してしまったわけだ。
たぶん当時の日本においては『ライ麦畑』は新しい時代の象徴として読まれていたのだろう。それ故に絶大な支持を得たのだろうと想像する。ただ作品内の背景を日本に置き換えれば、この主人公の生きている時代は高度経済成長期よりむしろ80年代から90年代以降に近いのでは、と感じる。
社会全体が上昇気流に乗り、善も悪も混じり合いながら力強く脈動していた時代なのではなく、文化経済が頂点に極まり衰退の陰が見え始めた時代。
十代の若者たちは目標とすべきものを見失い、反抗する対象すら失った。
どこへ行けばいいのか。
何に対して戦えばいいのか。
もやもやと不満は湧いて来るのに、ぶつける壁すら存在しない。
世の中は何もない、空っぽなのだ。
いくら反抗心をぶつけてみても虚空へ吸い込まれるだけ。逃避してもどこにも逃げられない。
ただ痛いだけの季節が絶望として横たわっている。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で描かれているのはそういう十代にとっての危機的な状況、まさに村上春樹が描いてきたところの失われた世界観に近いと思う。
ずっとこの小説は「反抗の旗印」という地位に置かれていたが、実は主人公は反抗など出来てはおらずただ周囲から浮いているだけ。
反抗の衝動も逃避への憧れも、全てが空回り。
それで向かうところを失った不満を棘として全身から出してみるも、その棘はサクサクと自分の心に突き刺さるだけなのだ。
仕方がないことに時代による違いというものはやはりある。
この小説が反抗の旗印として何やら具体的な社会活動に利用された時代は終わり、社会が成熟し衰退しきった今、ようやく個人の思い出に語り掛け始めている。
そしてそうなって初めて小説は不朽なるものになる。