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ガルシア・マルケス『百年の孤独』感想と紹介




読み終わり頁を閉じた瞬間、熱風が体の中を吹き抜けて去ったことを感じた。
生命は終わる。魂も去る。
物語は読み終われば目の前から消えてしまう。
けれど確かに読んでいる間、生命の風は熱をもって胸の中に渦巻いていた。

濃厚な生命の営み、魂の脈動を体感する小説だ。
人も動物も生まれ死に再生し、やがて消え去る。生と死のダイナミックな営みが巻き起こす一時の風こそが、世界の求める力。
この世界観は東洋の輪廻思想にも通じる。

不思議と生命力は文章からも伝染するようで、読書中も読み終わってからもしばらく体の底から湧き上がるエネルギーを感じ続けた。
“生命の水”、まさにウィスキー的な小説と言える。
最高の酩酊体験だった。

作品について紹介


ノーベル文学賞受賞作、南米文学の最高峰と言われるガルシア=マルケスの傑作。
「死ぬまでに一度は読むべき本」として世界中の読書人がこのタイトルを挙げる。
しかし昨今の日本において小説技巧に囚われている人たちがこの物語に入り込むことは困難かと思う。
ミステリ等のエンタメに慣れ、「起承転結があって」「伏線がきっちり消化されていて」「現実的で辻褄が合う」小説以外は小説と呼べないと思い込んでいる人たちにとってこれは小説ですらないかもしれない。理解不能な異端文書だろうか。

物語の舞台は南米のある架空の町。
この町に生きるある一族の人生を、百年生き続けた母なる女性を中心として綴っていく、というのが一応のストーリー。
しかしストーリーが現実の時系列に従って真面目に展開されることはない。
設定は飛びまくる。現実的な革命の話などを書いていたかと思えば、魔法や呪術が割り込み、突飛なファンタジーへ浮遊する。
大量のエピソードが投入される。渦を巻く熱風が何もかも巻き込んで吹き上げるように、エピソード群は空へ放り上げられ、くるくる 廻りながら落下し物語へ落とし込められていく。
魔法あり呪術あり、それでいてファンタジーではないカオス小説である。
日本の読者が最も苦手な「ジャンル分けされない小説」と言える。
「なに、このつまんない小説……。意味分かんない。ダメな小説」。
そんな友人らの声が聞こえてきそうだ。
だがストーリーや技巧に囚われず、純粋に物語を受け取れば、全てのエピソードに濃い味が仕込まれていることに気付くのではないかと思う。

実は『百年の孤独』という小説、全エピソードにおいて現実的な構想のもと、打ち崩して再構築するという高度な技術が用いられていると思われる。
背景には作者の執筆に対する激しい情熱が渦巻いている。作者自身がエピソードを全身全霊で味わい、崩して弄ぶことを楽しみながら書いたことが感じられる。
決して読者を煙に巻き文学風を装う目的で書かれた小説ではない。
「空っぽ」とは違う。魂が吹き込まれた生きた小説だ。
それ故、理屈は無用。
素直に感性に身を委ねたなら退屈を感じることなく物語を最後まで味わい尽くすことが出来るだろう。

小説は体感せよ。
「ストーリーがなきゃダメ」だの
「私小説や文学は敵。排除せよ!」だの、
ごたくを並べている暇があったら傑作を味わおう。
せっかく天才が残してくれた絶妙なるご馳走、味わわなきゃ損、損。



2024/6/30 現在視点からの解説


実はガルシア=マルケスも一時期は共産主義に傾倒した左翼。
ただしお仲間から「お前は完全な共産主義者ではない」と批判され疎外されたらしい。故に伝記では“社会主義者”と定義されています。

この記事を書いた当時、私はそのことを知りませんでした。知識がある今読み直せば印象も違うのかもしれませんが、村上春樹など魂が取り除かれた「空っぽ」な左翼文学とは違い、『百年の孤独』には魂と精神の豊かさを感じたのは確かです。
(なお村上春樹の“幻想”系作品はマルケスなどを模倣したものと思われますが、心も魂も取り除いた粗悪なコピー品と私は感じます。心無い者たちは春樹作品の、魂をないがしろにしている点こそに共鳴しているのでしょうが)

マルケスは幼い頃に祖父からファンタジックな昔話を浴びるように聴かされ育ったとか。
お爺さんが語る古代回帰的な伝承は確かにキリスト教圏では“アンチ(異端)”に属しており、左翼と呼ばれる人々が革命の武器として掲げる「リベラル文化」です。
しかし我々多神教の文化圏においては、リベラルではなくむしろコンサバ。このごちゃっとした精神エネルギー渦巻く世界観こそが、東洋では伝統側に属するわけです。
多神教の我々に対し「多様性を認めろー」とスローガンを叫ぶのがいかに筋違いで滑稽か、という話。

このように欧米圏と東洋圏ではもとから文化が左右逆転している※ため、リベラルの書いた小説だからといって「毒書」となるとは限りません。ギリシャ文化やスピリチュアル的ファンタジーのように、むしろ東洋圏においては本来の文化を強め高める作用をもたらす可能性さえあります。

ミスリードの危険はゼロではありませんが、日本人にとって文学作品としての『百年の孤独』に触れることはきっと良い体験となるはず。
そう考え、今回この記事を復帰して本を紹介致しました。

※欧米圏と東洋圏では文化が左右逆転、とは: あくまでも一神教か、多神教かの違いを指す。「善悪」という天地(上下)の道徳観においては概ね人類共通している。たとえば無実の民を虐殺するのは悪いこと、子供を食い物にするのは悪いこと、…といった人として当たり前に持つ道徳観のこと。この道徳観を転覆させる(善悪反転・上下を逆さにする)目的で行われる歴史修正や文化破壊が最も悪質。