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『危険な読書』(BRUTUS 2019年 1/15号)に今年も手を出してしまった

今年も抗えずに買ってしまった、BRUTUSの『危険な読書』。
去年の黒に続き、今年は赤! 
コンビニの棚で光る赤が眩しかった。これは抵抗できないでしょう。



去年は『危険な読書(黒)』の名リード文に痺れて涙まで浮かべてしまった私だったが、今年は期待し過ぎたせいかそれほどでもなかった、かな。
でも流行本を追わないコンセプトは健在で、そこにこそ私は共鳴を覚えているので嬉しく思う。

今回のリード文引用:
世の中には2種類の本しかないという。読まなくていい本と読んでもロクなことにならない本。「危険な読書」とは書かれた中身のことばかりを言っているのではない。たとえ国を乱すような、悪徳の書であっても、読み手次第では毒にすらならないこともある。逆にこうも言えるはずだ。どんな本であっても、読み方次第では人生を変え得る危険性をはらんでいると。読書は未知なる世界との遭遇であり、思いもしなかった自分自身に出会う旅でなければならない。黒いインクが滲む紙束を、激しい劇物にすることができるかどうか。世の中にはまだこんな本があったのか! そんな驚きを求め、凝り固まった己の殻を穿つ、“弾丸”となり得る読書を楽しもうではないか。
本を「劇物」と呼ぶ感性、やはり好きだし同感。
今どきのお洒落な子たちが群がる文学カフェの、本ソムリエが並べる「人畜無害でフワフワとした綿菓子のような」本など見かけが本の形をしているだけのレプリカ。
本はやはり、昔も今も「劇物」だ。「劇物」でなければ。


ただ去年もそうだったけど、肝心の、この雑誌内で紹介されている書籍リストは若干「書かれた中身」が関係している気がした。
つまり分かりやすくエロティシズムだったり暗黒だったりタブーを描く小説が多い。今年は政治も入ってきたかな。
まあ、「危険」と言って一般の方々がイメージするのはそういった現実的な刺激だろうから、コンセプトに応えるリストとして仕方ないのだろうが。

たとえば、今回掲載された本タイトルを抜粋してみると
『ジェット・セックス――スチュワーデスの歴史とアメリカ的「女性らしさ」の形成』(明石書店)
『女たちの王国――「結婚のない母系社会」中国秘境のモソ人と暮らす』(草思社)
『安楽死を遂げるまで』(小学館)
『ゲッペルスと私――ナチ宣伝相秘書の独白』(紀伊國谷書店)
『アメリカ死にかけ物語』(河出書房新社)
『大江健三郎全小説3 「政治少年死す」他』(講談社)
『ロリータ』ウラジミールナボコフ(新潮文庫)
…等々。

社会の闇に斬り込むノンフィクションやタブーのエロスを描いた小説が「危険な臭い」を漂わせているのは、当たり前。
読めば刺激的だろうし、影響を受けて人生を変えるための行動を起こす人もいるだろうが、どうもそれは我々の思う『危険』というニュアンスとは違う気がする。
刺激的な出来事を描いただけの字面は、その時は衝撃を受けても実は短期で忘れてしまうことが多い。
それよりも、たった一度読んだだけなのに印象が心の奥深くに根付いて、(特に行動を起こさず人生を変えなかったとしても)体験として宿る読書こそ「危険な読書」と呼ぶにふさわしい気がする。

その意味で、私は個人的にメジャーな文学のほうが「劇物」ではないかと思う。
いや実は歴史に残る文学のほうが危険値が高い。何らか見えない力を持つからこそ歴史に残っているわけだから。
たとえば、太宰治の小説でいったいどれだけたくさんの若者が自殺したと思っている? 「虐殺構文」ならぬ「自殺構文」を含む危険書だ。
あと夏目漱石の恋愛小説。中学生の課題図書に指定する教育者たちの気が知れない。R指定でしょう、普通。
三島由紀夫もかなりヤバイ。美しい装いの彼の小説も、実は変態による変態のためのフェチシズム文学。
これらの劇物を「小難しくて賢そうな、お洒落なブンガク」としか思わず、ファッションとして読めてしまう現代人の感性はどれだけ鈍いのだろうと嗤う。

もう一つ、高潔な精神性を持ち、滋養があって心を豊かにする良書であっても、
「はまり過ぎて危険」
という中毒性を持つことがあればそれも劇物と言える。


正月休み最後となる今日、体調が良くなってきたのでヘッセ著『ガラス玉演戯』を紐解いた。
ノーベル賞を受賞したこの大作は、昔に買ったものの読んでしまうのがもったいなくて読めず、本棚の奥にしまい込んでいた。
先日、読書好きの方がこの本のタイトルに触れてくださったおかげで思い出し、掘り出すことになった。「もったいない」からとしまい込んでいたら、読む前に死んでしまうかもしれない。そのことに気付かせてくださった。
しかし読み始めてすぐ、危険を感じた。
「やばい……抜けられないかも」という危険。
懐かしい高橋健二氏の文体だけではなく、哲学の薫りの漂う単語と世界観に眩暈を覚えてしまう。

本当の『危険な読書』とは、エロティシズムでもタブーでもなくて、この種の文学の底知れない深みにはまることだろう。